波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

城主は名乗り出なさい!加納城

2021-02-06 02:27:54 | お城

こんばんは、白黒茶々です。

今回も昨年の11月22日の話です。念願だったとの金華山登頂を果たした私は、今度は次の目的地を目指して岐阜市内を南下していきました。 岐阜駅を過ぎていった先の、かつて中山道の宿場町だった加納地区には………

加納城というお城がありました。 険しい金華山の岐阜城とはうって変わって、こちらは平地に築かれた平城であります。 珪岩(チャート)の石垣が立派ですね。

「あら~、2匹とも大人しく座っていてエライね。 年賀状の写真にでも使うのかしら?」
というおばさんの声を受けつつ、本丸の北側の石垣をバックにして、記念撮影をしました。 それから、年賀状の写真は西尾城に決めていてすでに印刷に出しているので、こちらはブログなどで使うようにします。 といったトコで、改めてこのお城の説明をさせていただきます。

加納城は、15世紀中頃に斎藤利永によって築かれた沓井城があった場所に造られました。 関ヶ原の戦いの後に岐阜城を廃し、その代わりの城として慶長7(1602年)に徳川家康が娘婿の奥平信昌に造営させました。

その縄張りは家康がおこない、本多忠勝を普請奉行として、諸大名に工事を分担させる天下普請で築かれました。 その際に岐阜城の石垣や建物が転用され………

私たちは、本丸跡の北側にある加納小学校のところまでやって来ました。 このあたりはかつて三の丸だったところで、正面に見える石垣は………

天守に相当する御三階櫓の土台であります。 ちなみにそれは本丸ではなく、二の丸に位置しています。 現在、岐阜地方気象台となっているその場所には………

金華山の山頂にあった天守を移築&改変したと云わる、三層の櫓がありました。 それにしても、かなり低い場所に持ってこられましたね。 しかも、享保13年(1728年)に落雷による大火で焼失したままなんて、なんか気の毒な運命です。

そして私たちは、再び本丸の南側に行きました。 こちらは本丸の搦手(裏口)とされていたところで………

かつては水堀に架かる木橋を渡ったところに臆病門があったそうです。それにしても、強烈なネーミングですね。 現在、その入口には………

このような高札(?)が。こちらは、夕方から朝にかけて封鎖されるみたいですね。 それよりも、「加納城主」って誰ですか? それはさておき、気になるその本丸の内側は………

このようになっています。 加納城は明治以降に建物が撤去され、本丸跡は師範学校の運動場となっていたのですけど、戦時中は陸軍第51航空師団司令部という軍の施設が置かれました。 その流れで、その地は昭和50年(1975年)まで自衛隊の駐屯地として使われていたそうです。
現在はだだっ広い広場で、遊具やトイレなどの施設はありません。 それでも、子供やお年寄りの憩いの場となっていました。

波狛日記では以前にも「人物伝」で採り挙げたことがあるのですけど、加納城の初代城主の奥平信昌の正妻は、あの亀姫です。 なんか、可愛らしく描かれていますけど、加納御前とも呼ばれていた彼女は、徳川家康と築山御前(瀬名)の間に生まれた子でもあります。 しかしとても嫉妬深くて、信昌に近付く女性はことごとく惨殺したそうです。 さらに孫の忠昌の面目を保つために、「宇都宮城釣天井事件」で本多正純を陥れたとも云われています。 彼女のエピソードにはゾッとさせられますけど、加納城がそのような歴史の舞台となったと思うと、より興味が湧いてきます。

私たちはそんな加納城をあとにして、その日の最終目的地に向かいました。 そこは波がお散歩デビューしたところであり、さらにロックに目覚めたことで再ブレークしたことでも知られています。 愛知県江南市にある高さ18mの構造物なのですけど、その正体は次回の日記で明かさせていただきます。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 「まさか『ナニコレ珍百景』に出てきたアレでは!?」と、感付かれた方は、こちらに投票してやってください。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 金華山での白ふわの目撃情報 | トップ | サングラス大仏 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

お城」カテゴリの最新記事