波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

フジヤマのトビウオ・古橋廣之進

2021-08-28 02:33:14 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

東京2020オリンピックが終わって、今度は東京2020パラリンピックが開幕しました。 コロナ禍ということもあり、トレーニングや渡航などで選手たちは厳しい条件の中で競い合うことになるのですけど、ベストを尽くして無事に帰国できることを願っています。 コロナの疫病の蔓延とは違うのですけど、日本が戦後間もない苦境だった頃に、水泳で大活躍して国民的ヒーローになった人物が、私の地元にいたのですよ それは誰かと言いますと……… って、すでに日記のタイトルに出ていました。 その名前をご存知の方もいらっしゃるかも知れませんけど………

古橋廣之進氏にございます。 彼は数々のスポーツ関連の役職を歴任していたこともあって、その姿に見覚えのある方もいらっしゃると思います。

平成21年(2009年)2月に、浜松市西区篠原町に彼の名前を冠した屋内プールの古橋廣之進記念浜松市総合水泳場(通称ToBiO)がオープンしました。 そのプールが出来たばかりの頃に「トビオ」で検索したら、どうやっても「鉄腕アトム」天馬博士の息子のトビオが出てきてしまって……… それはさておき、先ほどの廣之進氏の胸像はToBiOの入口を入ってすぐのところのミニ展示スペースに置かれています。 ということで、今回は波&狛とともに廣之進氏にゆかりのある場所を巡りながら、彼の軌跡をたどっていきます。

古橋廣之進君は昭和3年(1928年)9月16日に、静岡県浜名郡雄踏町山崎(現在の浜松市西区)で9人きょうだいの3人目の長男として生まれました。 普段から弟や妹たちの面倒をよく見ていたのですけど、食事の時にはおかずを取り合ったりしたそうです。 やがて彼は地元の雄踏尋常小学校(現在の雄踏小学校)に入学しました。 現在、彼の生家は跡形もないのですけど、通り沿いのアパートの一角にその説明看板が設置されています。 さらにそこから西に160mほど行ったところには………

山宮神公園という小さな公園があり、さらにその公園の西側には………

かつては山崎プールがありました。親切なことに、こちらにも説明の看板が設けられていますね。

昭和13年(1938年)頃に地元の篤志家の江馬氏が私費を投じて、浜名湖を木の板で仕切り、湖岸にスタンドを有した50mプールを造り上げました。

現在はコンクリートのスタンドのみが残っていて、そこからプールのコースだったところを見てみたら………

舟溜となっていました。 山崎プールが完成した頃、当時小学4年生だった廣之進君は父に勧められ、このプールで泳ぎ始めました。 水泳の選手になることを誓った彼はメキメキと力をつけていき、6年生の時に100mと200mの自由形(クロール)で学童新記録を樹立するまでに それによって、新聞で「豆魚雷」という異名で報じられることになりました。
さらに浜松第二中学校(現在の浜松西高校)に進学してからも水泳を続けたのですけど、第二次世界大戦の激化によって断念せざるを得ませんでした。 やがて学徒勤労動員され、砲弾工場で働いていた際に旋盤で指を挟まれ、左手中指の第一関節から先を切断。水泳を続けるのが難しい状況となってしまいました。

先ほどの山宮神公園の入口には、「無事カエル」という石像が設置されています。なんかカワイイですね。 廣之進さんは終戦後に日本大学に進学し、水泳も再開しました。 指切断のハンデを負いながらも彼は飛躍していき、昭和22年(1947年)におこなわれた日本選手権では、400m自由形を4分38秒4で優勝 公式記録にはならなかったのですけど、当時の世界記録を上回るタイムとなりました。

翌年の1948年にはロンドンオリンピックが開催されたのですけど、日本は敗戦国ということもあって参加を認められませんでした。 それを受けて、日本水泳連盟は同じ日程で東京代々木の神宮プールを会場にして、日本選手権大会を開催することに。 廣之進選手はその1500m自由形で18分37秒0を。その2日後には、400m自由形で4分33秒4の世界記録を出したのです それらはオリンピックの優勝者のタイムを大幅に上回っていました。 日本は国際水泳連盟を除名されていたため、公式記録とは認められなかったのですけど、彼の活躍は敗戦でうちひしがれていた日本の威信を高め、国民に勇気を与えたのでした。

その翌年の昭和24年(1949年)に日本は国際水泳連盟に復帰を許され、8月のロサンゼルス全米選手権に参加。 その大会前までは、敗戦国というだけではなく「日本のプールは短いので、(廣之進選手の)記録は疑わしい」とまで言われていました。 廣之進選手、水泳で彼らをアッと言わせてください

………という私の願いが届いたのか、彼は400m自由形で4分33秒3、800m自由形で9分33秒5、1500m自由形で18分19秒0の世界新記録を樹立したのです アメリカの新聞は彼を「フジヤマのトビウオ」と絶賛し、それまで肩身の狭い思いをしていた西海岸の日系人にも勇気と自信をもたらしました。 その後も彼は、自らの記録を更新していきました。

1952年のヘルシンキで、廣之進選手は念願だったオリンピック出場を果たしたのですけど、すでに選手としてのピークは過ぎていて、400m自由形は8位に終わりました。 その様子をNHKの飯田次男アナウンサーは「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでください。古橋の活躍なくして戦後の日本の発展はあり得なかったのであります」と、涙ながらに実況しました。 なんか、私まで泣けてきました。 彼の訴えに激しく同意します。

選手引退後は、日本水泳連盟会長、日本オリンピック委員会(JOC)会長などを歴任。日本の水泳界やスポーツ界の発展に大きく貢献しました。 また、レーザーレーサーの水着の着用で物議を醸した際には「ワシのようにふんどしを履いて泳げばいいんだ」という名言(迷言?)を残したりもしました。

平成21年(2009年)8月に、廣之進氏は国際水泳連盟の副会長としてイタリアのローマでの総会に参加しました。 ところが同月2日の朝、現地のホテルの部屋で亡くなっているのが発見されました。享年80歳。死因は急性心不全だったそうです。

ToBiOのミニ展示スペースには、自分の胸像と対面している廣之進氏の写真も飾られていました。はにかんだ表情が、たまりませんね。 彼はスポーツ選手として文化勲章を受賞し、スポーツを文化というレベルにまで高めました。 スポーツには人の心を高揚させ、励ます力があります。 コロナ禍でオリンピックやパラリンピックがおこなわれることには賛否両論ありますけど、少しでも早くそのコロナを克服して、再び満員のスタンドでスポーツ観戦できる日が来るのを願っています。


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