こんばんは、白黒茶々です。
本田宗一郎氏といえば、本田技研工業を創設し、バイクや自動車などを造ったことで知られています。また彼は、静岡県磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区)出身でもあります。
今の季節は、学生さんたちにとっては夏休みの真っ只中で、自由研究にも使えそうなので、今回は名をあげる前の少年時代に、宗一郎氏が残してきた武勇伝の数々を、彼のゆかりの地を箔とめぐりながら触れていこうと思います。
本田宗一郎氏は1906年(明治39年)に、旧磐田郡光明村で鍛冶屋の儀平とみかの長男として生まれました。その生誕地は、同地区の船明ともいわれています。
宗一郎少年が育った旧宅跡には、彼が縁日で買ってきて、儀平父さんと一緒に植えたという柏の木が、今でも街中に残っています。樹齢は90年以上で、立派な木ですね。
とはいっても、その木の脇にこのような案内板がなければ、つい見逃してしまうか、箔のシッコの標的になるところでした。あぶないあぶない。
彼は光明村立山東尋常小学校に通っていました。その学校跡は現在、幼稚園になっているのですけど、門柱は当時のまま残っています。そちらのほうに私たちは、今まさに入ろうとしているところです。
後ろ姿だけではナンですから、門柱をバックに、いや、この場合は左右にしてポーズを決めておきましょう。
「なんか、箔君の毛が長いような………」という声があるようですね。そうです 今ではすっかりもとの姿に戻って……… って、違います。 確かに、毛の量は増えつつあるのですけど、現在はせいぜい柴犬に毛がはえた程度です。いや、柴犬の皆さんにはたいへん失礼致しました。 脱線はここまでにしておいて、私たちが宗一郎氏の故郷に取材に行ったのは、箔がサマーカットをする前……… というよりは、実はそのお店に行く直前だったのです。
山東尋常小学校の形跡を伝えるものとしては、先ほどの門柱の他にもマキの木の切り株があります。こちらの木は、少年時代の宗一郎氏がよく登っていたそうです。しかし、3年前の台風で倒れてしまい、現在は切り株とその由来を伝える案内板があります。
宗一郎少年がその尋常小学校にいた頃のことです。お昼の弁当の時間まであと30分ほどとなったあたりで、彼はあまりの空腹に堪えきれなくて、早弁……… いや、それでは普通過ぎますよね。早弁ではなく、彼は学校を抜け出し、鐘楼のある清瀧寺に駆けていきました。
当時は学校や各家庭には時計のようなものはなく、お寺の鐘が時間を告げる唯一の手段でした。宗一郎少年はなんと、その鐘を無断で突き、まんまと弁当の時間を早めることに成功したのです。
しかしすぐにバレて、あとで先生や親から大目玉を喰らったことと思います。 現在その鐘楼には、その事件がきっかけとなって設置されたのでしょうか?「鐘突くべからず」の注意書きがあります。
それでも、その鐘突き事件のことは地元で語り継がれているみたいです。毎年時の記念日が近くなると、宗一郎少年に扮した近隣の小学生がその鐘を突くというイベントがおこなわれているのですよ。
また、宗一郎少年は尋常小学校で「ハンコ偽造事件」というのもおこしています。家に通信簿を持ち帰ったら、親が見せたという証明となるハンコを押してもらわなければならないのですけど、そのときの彼の成績はあまりに悪く、とても親には見せられるようなものではありませんでした。 さあ、どうする?そこで宗一郎少年は、自転車のペダルのゴムを削り、ハンコを作ってしまったのです。あとはそいつを通信簿にポンと押して、学校に提出するだけです。もともと彼は手先が器用ということもあって、その作戦は見事に成功しました。
しかし、そこでやめておけばよかったものを、「宗ちゃん、オレのも作ってよ」という友達の声に応え、偽造のハンコを増産。そうしたら、今回はすぐにバレてしまいました。なぜバレたのかというと………
ハンコは押した際に正しい文字になるように、左右逆に彫らなければなりません。しかし、宗一郎少年はそのことを全く気にしないで、偽ハンコを作っていたのでした。「本田」という名前がたまたま左右対称だったので、初犯のときはうまくいったのでしょう。
※見本に使ってみた「纐纈」という名字は、宗一郎氏の出身地近辺にはよくいるのですけど、何て読むのかお分かりでしょうか?正解はこの日記の最後に載せておきます。(編集部注)
あと宗一郎少年は、ナイルス・スミス号の飛行を観るために、学校をサボり家の自転車を三角乗りして、その会場となる浜松の練兵場まで走ったこともあります。 現地で入場料を払えなかった彼は、敷地近くの松の木に登り、なんとか観ることができたそうです。
宗一郎少年の鐘突き事件の現場となった清瀧寺のすぐ近くには、旧二俣町役場の建物を利用した「本田宗一郎ものづくり伝承館」があります。
こちらでは宗一郎氏の生い立ちや、彼が開発したバイクなどを観ることができます。それだけではなく、入場料が無料で、さらに館内は撮影可能というのも嬉しいですね。
今回は少年時代の本田宗一郎氏を採り挙げてみました。彼の型破りな考えや行動が、将来の躍進に繋がったのかも知れません。彼はその後自動車に興味を持ち、それに関わる仕事をするために上京していくのですけど、私のほうで機運が高まったら、また違った意味での彼の武勇伝を載せてみようと思います。
※先ほどのクイズの答え、「纐纈」は「こうけつ」と読みます。(編集部注)
早弁にあこがれている方は、こちらに投票してやってください。
本田宗一郎氏といえば、本田技研工業を創設し、バイクや自動車などを造ったことで知られています。また彼は、静岡県磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区)出身でもあります。
今の季節は、学生さんたちにとっては夏休みの真っ只中で、自由研究にも使えそうなので、今回は名をあげる前の少年時代に、宗一郎氏が残してきた武勇伝の数々を、彼のゆかりの地を箔とめぐりながら触れていこうと思います。
本田宗一郎氏は1906年(明治39年)に、旧磐田郡光明村で鍛冶屋の儀平とみかの長男として生まれました。その生誕地は、同地区の船明ともいわれています。
宗一郎少年が育った旧宅跡には、彼が縁日で買ってきて、儀平父さんと一緒に植えたという柏の木が、今でも街中に残っています。樹齢は90年以上で、立派な木ですね。
とはいっても、その木の脇にこのような案内板がなければ、つい見逃してしまうか、箔のシッコの標的になるところでした。あぶないあぶない。
彼は光明村立山東尋常小学校に通っていました。その学校跡は現在、幼稚園になっているのですけど、門柱は当時のまま残っています。そちらのほうに私たちは、今まさに入ろうとしているところです。
後ろ姿だけではナンですから、門柱をバックに、いや、この場合は左右にしてポーズを決めておきましょう。
「なんか、箔君の毛が長いような………」という声があるようですね。そうです 今ではすっかりもとの姿に戻って……… って、違います。 確かに、毛の量は増えつつあるのですけど、現在はせいぜい柴犬に毛がはえた程度です。いや、柴犬の皆さんにはたいへん失礼致しました。 脱線はここまでにしておいて、私たちが宗一郎氏の故郷に取材に行ったのは、箔がサマーカットをする前……… というよりは、実はそのお店に行く直前だったのです。
山東尋常小学校の形跡を伝えるものとしては、先ほどの門柱の他にもマキの木の切り株があります。こちらの木は、少年時代の宗一郎氏がよく登っていたそうです。しかし、3年前の台風で倒れてしまい、現在は切り株とその由来を伝える案内板があります。
宗一郎少年がその尋常小学校にいた頃のことです。お昼の弁当の時間まであと30分ほどとなったあたりで、彼はあまりの空腹に堪えきれなくて、早弁……… いや、それでは普通過ぎますよね。早弁ではなく、彼は学校を抜け出し、鐘楼のある清瀧寺に駆けていきました。
当時は学校や各家庭には時計のようなものはなく、お寺の鐘が時間を告げる唯一の手段でした。宗一郎少年はなんと、その鐘を無断で突き、まんまと弁当の時間を早めることに成功したのです。
しかしすぐにバレて、あとで先生や親から大目玉を喰らったことと思います。 現在その鐘楼には、その事件がきっかけとなって設置されたのでしょうか?「鐘突くべからず」の注意書きがあります。
それでも、その鐘突き事件のことは地元で語り継がれているみたいです。毎年時の記念日が近くなると、宗一郎少年に扮した近隣の小学生がその鐘を突くというイベントがおこなわれているのですよ。
また、宗一郎少年は尋常小学校で「ハンコ偽造事件」というのもおこしています。家に通信簿を持ち帰ったら、親が見せたという証明となるハンコを押してもらわなければならないのですけど、そのときの彼の成績はあまりに悪く、とても親には見せられるようなものではありませんでした。 さあ、どうする?そこで宗一郎少年は、自転車のペダルのゴムを削り、ハンコを作ってしまったのです。あとはそいつを通信簿にポンと押して、学校に提出するだけです。もともと彼は手先が器用ということもあって、その作戦は見事に成功しました。
しかし、そこでやめておけばよかったものを、「宗ちゃん、オレのも作ってよ」という友達の声に応え、偽造のハンコを増産。そうしたら、今回はすぐにバレてしまいました。なぜバレたのかというと………
ハンコは押した際に正しい文字になるように、左右逆に彫らなければなりません。しかし、宗一郎少年はそのことを全く気にしないで、偽ハンコを作っていたのでした。「本田」という名前がたまたま左右対称だったので、初犯のときはうまくいったのでしょう。
※見本に使ってみた「纐纈」という名字は、宗一郎氏の出身地近辺にはよくいるのですけど、何て読むのかお分かりでしょうか?正解はこの日記の最後に載せておきます。(編集部注)
あと宗一郎少年は、ナイルス・スミス号の飛行を観るために、学校をサボり家の自転車を三角乗りして、その会場となる浜松の練兵場まで走ったこともあります。 現地で入場料を払えなかった彼は、敷地近くの松の木に登り、なんとか観ることができたそうです。
宗一郎少年の鐘突き事件の現場となった清瀧寺のすぐ近くには、旧二俣町役場の建物を利用した「本田宗一郎ものづくり伝承館」があります。
こちらでは宗一郎氏の生い立ちや、彼が開発したバイクなどを観ることができます。それだけではなく、入場料が無料で、さらに館内は撮影可能というのも嬉しいですね。
今回は少年時代の本田宗一郎氏を採り挙げてみました。彼の型破りな考えや行動が、将来の躍進に繋がったのかも知れません。彼はその後自動車に興味を持ち、それに関わる仕事をするために上京していくのですけど、私のほうで機運が高まったら、また違った意味での彼の武勇伝を載せてみようと思います。
※先ほどのクイズの答え、「纐纈」は「こうけつ」と読みます。(編集部注)
早弁にあこがれている方は、こちらに投票してやってください。
再び本田宗一郎氏のようなカリスマが現れて、日本を明るい方へ導いてくれることはないでしょうか?
すっかり夏バテ+夏風邪の私で、みなさまの記事を読み逃げしてごめんなさい。
そうなんです、サマーカットすると「毛の長さ」で時系列に混乱が!笑
私も「うまく撮れたから記事に使おう。」と思ってるうちに
髪型?犬型?が変化してしまったものが~。
バイクレースのつなぎ修理を生業としている私としては、バイクがなければ仕事は成り立ちません。
ホンダ様様です。
今の日本に必要な人物として坂本龍馬がよく採り挙げられるのですけど、本田宗一郎さんにももう一活躍してもらいたいです。
ぐーで母さん、お体の具合はいかがでしょうか?炎天下の日はもうじき終わると思うので、それまでうまくしのいでくださいね。 その一方で、ぐーで君のほうはサマーカット効果も手伝って元気なことと思います。
しかし、そのサマーカットはゆっくりな時計の効果もあるので、その写真を使うのにごまかしが効きませんよね。
なので、今回はあえてカミングアウトして堂々と使っておきました。
バイクといえば、やっぱりホンダですよね。 そのバイクも、最初は自転車に小さいエンジンをくっつけただけだったみたいですよ。ちなみにそのような初期のバイクは、本田宗一郎ものづくり伝承館でも見ることができます。
それから纐纈の名前は、絞り染めからきているみたいです。