こんばんは、白黒茶々です。
話は私と波が日本列島公園、伊奈城址、三河国分尼寺跡の豊川市の名所3点セットを訪れた、6月中旬にまでさかのぼります。 その中で、最後の最後に立ち寄った三河天平の里資料館というところで「ご自由にお持ち帰りください」状態だった同市内の他の施設のパンフレット類をあさっていったら………
このようなものがありました。 豊川の海軍工廠(こうしょう)跡の一部が公園として整備され、ほんの8日前(6月9日)にオープンしたというのです
海軍工廠とは、日本海軍の航空機や艦船などが使用する機銃やその弾丸などを製造していた海軍直営の軍需工場(工廠)のことで、第二次世界大戦を前にして全国各地に設けられました。豊川には昭和14年(1939年)12月15日に開庁し、約100万坪もの広大な敷地に作業場や研究施設、弾薬庫などが建ち並ぶ、全国最大級の規模となりました。
最盛期には、約5万6千人が交代で働いていたと推定され、職員や工員以外にも、徴用工員や動員学徒のように強制的に動員された人々もいました。
私は豊川に工廠があったことは以前から知っていたのですけど、その場所や現在の様子までは知らず、探究することもありませんでした。 終戦から73年も経ち、戦争の記憶や防空壕などの戦争遺跡が風化しつつある中で、豊川の工廠の跡がこのような形で見直されるなんて……… 私は近いうちにそこを訪れることを誓いました。
それから約2ヶ月後の、終戦記念日に近いとも言えなくもない8月19日に、私は豊川海軍工廠平和公園にやって来ました。 もちろん波も一緒に。
かつての広大な敷地跡は、現在は陸上自衛隊豊川駐屯地の他、日本車輌、トピー工業などの企業が工場群を形成しています。 その西北隅の名古屋大学の太陽地球環境研究所となっていた土地の一部を買い取ったところがこちらの公園で、面積は1万坪ほどあります。
そうしたら、その広い園内を散策していくことにしましょう お盆休みの後で暑さのピークは過ぎたとはいっても、ワンコにとってはまだキツいので、今回はワンコ用カートにも頼るようにしました。それでも、古くからあると思われる大木の下には、心地よい風が吹いていました。 それから、私たちの後方に見える土盛りは………
旧第一火薬庫にございます。海軍工廠時代に使用された火薬庫の建物で、頑丈なコンクリート製の構造物にさらに土をかぶせてあります。 安全と保存のために、普段は封鎖されているのですけど、ガイドツアーに付いていけば、特別に内部を見ることができます。
左側後方は、工廠時代からあった電柱です。それから、手前のドッグランのワンコトイレにも見えなくもない玉砂利が敷き詰められたところは、水槽跡とのことです。
こちらの土盛りにはトンネルが開けられていて、内側に入れるようになっていますね。 もちろん、入っていきますよ
その反対側には、土盛り(土塁)をまたいで内側に入れるように、階段が架けられていて、最頂部には全体を見渡せるように、展望デッキが設けられています。 下に見える建物は旧第三信管置場で、四方を土塁で厳重に囲まれていますね。そちらに、波ちゃのカートを置いてきてしまいました。 ちなみに、その本犬はというと………
こちらにいるのですけど、「一緒に園内を一望する」の絵は、私のイメージ通りにはいきませんでした。
それはさておき、信管置場の側に降り立ってみました。 こちらの建物も、ガイドツアー以外は内部に立ち入ることはできないのですけど………
外から覗き込むことはできるのですよ。 こちらの廊下には、白熱電球の照明があるのですけど………
部屋側にはありません。この建物は、弾丸の起爆装置である信管を保管した施設と考えられています。なので、電球の熱で引火したりしないように、こちらには直接的な照明は設けられていないのですよ。建物の壁は頑丈なコンクリート造りなのですけど、屋根を支える部分だけは木造となっています。これは、万が一爆発事故が起こったとしても、屋根だけを吹き飛ばして壁の部分を残すようにするためです。
こちらの穴は、防空壕の跡です。海軍工廠の敷地内には、たくさんの防空壕が造られたのですけど、地面を掘った上に木の板を渡し、そのまた上に土をかぶせただけの簡素な造りでした。なので、爆弾の直撃を受けたら、ひとたまりもありません。
平和交流館には、海軍工廠の歴史や戦争遺跡の解説がパネルなどで展示されているのですけど、撮影禁止となっていました。 その他にも、映像資料の視聴や講座などをおこなうガイダンス室も併設されています。
ちょうどその頃、平和公園から近いと言えなくもないところにある豊川市桜ヶ丘ミュージアムで豊川海軍工廠展をやっていたので、私はそちらも合わせて見ておくことにしました。この企画展は、7月末から9月初まで、毎年おこなわれているみたいです。
展示の内容は、豊川海軍工廠平和公園の平和交流館と重複しているところもあるのですけど、こちらは一部撮影可能となっていたので、私が撮ってきたそのまた一部を見ながら説明させていただきます。
広島に原爆が投下された翌日の昭和20年(1945年)8月7日に、豊川海軍工廠は米軍B29爆撃機124機とP51戦闘機による空襲を受けました。その時に使われた500ポンド爆撃が実物大で作られていたのですけど、近くの人と比べると、かなり大きいですね。この爆弾が、その日の午前10時13分からわずか26分の間に、3256発も落とされたのです。
今回の企画展には、その空襲を実際に目にした方が描いた絵も多数飾られていました。これは、赤塚山あたりから燃え上がる豊川海軍工廠を望んだものです。
工廠の敷地は、全体が水路と土塁に囲まれていて、避難してきた工員が数少ない出入口に殺到したこともあって、2500人以上もの尊い命が奪われ、さらに多くの負傷者も出してしまいました。
数字だけ見てもなかなか実感が湧かないのですけど、平和交流館や豊川海軍工廠展には、犠牲になった女学生が万が一の時のためにしたためた両親に宛てた遺書や、最後の日記も展示されていました。それぞれの人にはそれぞれの人生があり、すべて人に大切に想ってくれる人がいたに違いありません。なので、犠牲者の数の何倍もの悲しみがあったハズです。
今の平和は、彼らや彼女らのようなたくさんの犠牲の上に成り立っています。そんな人たちの死を無駄にしないためにも、私たちは歴史から学び、二度とこのような悲劇を起こさないようにしなければならない……… と、改めて思いました。
名古屋大学の研究施設が何をやっているのかということも気になる方は、こちらに投票してやってください。
話は私と波が日本列島公園、伊奈城址、三河国分尼寺跡の豊川市の名所3点セットを訪れた、6月中旬にまでさかのぼります。 その中で、最後の最後に立ち寄った三河天平の里資料館というところで「ご自由にお持ち帰りください」状態だった同市内の他の施設のパンフレット類をあさっていったら………
このようなものがありました。 豊川の海軍工廠(こうしょう)跡の一部が公園として整備され、ほんの8日前(6月9日)にオープンしたというのです
海軍工廠とは、日本海軍の航空機や艦船などが使用する機銃やその弾丸などを製造していた海軍直営の軍需工場(工廠)のことで、第二次世界大戦を前にして全国各地に設けられました。豊川には昭和14年(1939年)12月15日に開庁し、約100万坪もの広大な敷地に作業場や研究施設、弾薬庫などが建ち並ぶ、全国最大級の規模となりました。
最盛期には、約5万6千人が交代で働いていたと推定され、職員や工員以外にも、徴用工員や動員学徒のように強制的に動員された人々もいました。
私は豊川に工廠があったことは以前から知っていたのですけど、その場所や現在の様子までは知らず、探究することもありませんでした。 終戦から73年も経ち、戦争の記憶や防空壕などの戦争遺跡が風化しつつある中で、豊川の工廠の跡がこのような形で見直されるなんて……… 私は近いうちにそこを訪れることを誓いました。
それから約2ヶ月後の、終戦記念日に近いとも言えなくもない8月19日に、私は豊川海軍工廠平和公園にやって来ました。 もちろん波も一緒に。
かつての広大な敷地跡は、現在は陸上自衛隊豊川駐屯地の他、日本車輌、トピー工業などの企業が工場群を形成しています。 その西北隅の名古屋大学の太陽地球環境研究所となっていた土地の一部を買い取ったところがこちらの公園で、面積は1万坪ほどあります。
そうしたら、その広い園内を散策していくことにしましょう お盆休みの後で暑さのピークは過ぎたとはいっても、ワンコにとってはまだキツいので、今回はワンコ用カートにも頼るようにしました。それでも、古くからあると思われる大木の下には、心地よい風が吹いていました。 それから、私たちの後方に見える土盛りは………
旧第一火薬庫にございます。海軍工廠時代に使用された火薬庫の建物で、頑丈なコンクリート製の構造物にさらに土をかぶせてあります。 安全と保存のために、普段は封鎖されているのですけど、ガイドツアーに付いていけば、特別に内部を見ることができます。
左側後方は、工廠時代からあった電柱です。それから、手前のドッグランのワンコトイレにも見えなくもない玉砂利が敷き詰められたところは、水槽跡とのことです。
こちらの土盛りにはトンネルが開けられていて、内側に入れるようになっていますね。 もちろん、入っていきますよ
その反対側には、土盛り(土塁)をまたいで内側に入れるように、階段が架けられていて、最頂部には全体を見渡せるように、展望デッキが設けられています。 下に見える建物は旧第三信管置場で、四方を土塁で厳重に囲まれていますね。そちらに、波ちゃのカートを置いてきてしまいました。 ちなみに、その本犬はというと………
こちらにいるのですけど、「一緒に園内を一望する」の絵は、私のイメージ通りにはいきませんでした。
それはさておき、信管置場の側に降り立ってみました。 こちらの建物も、ガイドツアー以外は内部に立ち入ることはできないのですけど………
外から覗き込むことはできるのですよ。 こちらの廊下には、白熱電球の照明があるのですけど………
部屋側にはありません。この建物は、弾丸の起爆装置である信管を保管した施設と考えられています。なので、電球の熱で引火したりしないように、こちらには直接的な照明は設けられていないのですよ。建物の壁は頑丈なコンクリート造りなのですけど、屋根を支える部分だけは木造となっています。これは、万が一爆発事故が起こったとしても、屋根だけを吹き飛ばして壁の部分を残すようにするためです。
こちらの穴は、防空壕の跡です。海軍工廠の敷地内には、たくさんの防空壕が造られたのですけど、地面を掘った上に木の板を渡し、そのまた上に土をかぶせただけの簡素な造りでした。なので、爆弾の直撃を受けたら、ひとたまりもありません。
平和交流館には、海軍工廠の歴史や戦争遺跡の解説がパネルなどで展示されているのですけど、撮影禁止となっていました。 その他にも、映像資料の視聴や講座などをおこなうガイダンス室も併設されています。
ちょうどその頃、平和公園から近いと言えなくもないところにある豊川市桜ヶ丘ミュージアムで豊川海軍工廠展をやっていたので、私はそちらも合わせて見ておくことにしました。この企画展は、7月末から9月初まで、毎年おこなわれているみたいです。
展示の内容は、豊川海軍工廠平和公園の平和交流館と重複しているところもあるのですけど、こちらは一部撮影可能となっていたので、私が撮ってきたそのまた一部を見ながら説明させていただきます。
広島に原爆が投下された翌日の昭和20年(1945年)8月7日に、豊川海軍工廠は米軍B29爆撃機124機とP51戦闘機による空襲を受けました。その時に使われた500ポンド爆撃が実物大で作られていたのですけど、近くの人と比べると、かなり大きいですね。この爆弾が、その日の午前10時13分からわずか26分の間に、3256発も落とされたのです。
今回の企画展には、その空襲を実際に目にした方が描いた絵も多数飾られていました。これは、赤塚山あたりから燃え上がる豊川海軍工廠を望んだものです。
工廠の敷地は、全体が水路と土塁に囲まれていて、避難してきた工員が数少ない出入口に殺到したこともあって、2500人以上もの尊い命が奪われ、さらに多くの負傷者も出してしまいました。
数字だけ見てもなかなか実感が湧かないのですけど、平和交流館や豊川海軍工廠展には、犠牲になった女学生が万が一の時のためにしたためた両親に宛てた遺書や、最後の日記も展示されていました。それぞれの人にはそれぞれの人生があり、すべて人に大切に想ってくれる人がいたに違いありません。なので、犠牲者の数の何倍もの悲しみがあったハズです。
今の平和は、彼らや彼女らのようなたくさんの犠牲の上に成り立っています。そんな人たちの死を無駄にしないためにも、私たちは歴史から学び、二度とこのような悲劇を起こさないようにしなければならない……… と、改めて思いました。
名古屋大学の研究施設が何をやっているのかということも気になる方は、こちらに投票してやってください。