こんばんは、白黒茶々です。
前回の日記の最後で、私と波は天平ロマンの「☆□〒※≒△%」なる場所を訪れることを予告したのですけど、名前を伏せたら我ながら怪しくなってしまいました。 それでも、これからの時季に需要が増える肝だめしとか怪談といった話ではないので、どうかご安心くださいませ。 すでに日記のタイトルからしてバレバレですけど、皆さまも学校の教科書で「国分寺」とか「国分尼寺」という名前は見られたことがあると思います。
奈良時代に聖武天皇が治めていた頃は、全国に天災や疫病、内乱が広がっていました。 そのような中、天皇は仏教を厚く信仰していて、国家の平和と繁栄を祈るためにも、天平13年(741年)に奈良の東大寺を総本山として、全国60ヵ所あまりの国に国分寺と国分尼寺を建立する詔を出しました。 そのうちの三河(愛知県の東部)の国分寺と国分尼寺は、現在の豊川市に設けられました。
………ということで、三河国分寺跡にやって来ましたよ 私と波がいるそのお寺の西側には、七重塔か五重塔が建っていたみたいで、近年になってその跡が発掘されました。
寺域は広く、原っぱの中に堂塔の跡を示す案内看板などが建てられています。
その南部には、お寺の正面入口となる南大門の跡も確認されました。大正11年(1922年)に三河国分寺跡は国の史跡に指定され、最近になってその国分寺が復元・整備される計画が持ち上がったこともあって、このあたりにあった民家は順次移転させられていったそうです。
その中心部には、16世紀に国分寺とは関係のない曹洞宗の国分寺が建立されたのですけど、今から2年ほど前に場所をズラして移転したそうです。
それらの位置関係は、このようになっています。中門、金堂、講堂が一直線に並んでいて、それらは回廊で囲まれていたのですね。 さらに西側には塔があって、南大門からお寺全体を築地塀がめぐる形となっていました。
第2国分寺の跡には、コンクリート製の鐘楼が残っていました。そこに吊るされている鐘は、天平時代の建立当時の国分寺のものと云われているのですけど、実際には平安時代に造られたものみたいです。
国分寺は律令制度が崩れていくなかで維持・管理が困難になり、平安時代の末には荒廃したと思われます。
全盛期には、朱色の柱に白壁の門や回廊、金堂などが建ち並んでいた国分寺。その壮観な姿は今は想像するしかないのですけど、近い将来にできるだけ多く再現されるといいですね。 といいつつも、その姿がなかなか思い浮かばないという方にも、近くにオススメの場所があるのですよ 国分寺跡からは細道を通っていくので、車での移動はちょっと大変なのですけど………
私たちはなんとかして、三河国分尼寺跡に行き着きました。 国分尼寺は国分寺の尼寺バージョンで、全国に国分寺とセットで設けられました。 しかし、私のパソコンで「こくぶんにじ」を変換すると「国分2時」となってしまうのですよ。 それはさておき、こちらの国分尼寺跡には、中門とその両脇の回廊が復元されていて、思わず愛犬をモデルにして写真を撮りたくなります。ちなみに波ちゃがいるあたりは、南大門の跡であります。
回廊の復元はほんの一部で、その断面を観察できるようになっていて………
それ以外のところは、発掘調査に基づいて土台が整備されています。 ちなみに回廊は、建物と建物をつなぐ渡り廊下のことです。それにしても、かなり幅広ですね。
お寺の中心となる金堂は、その基壇が復元・整備されていました。史実に基づいて、自然石をほぼ垂直に積み上げていますね。その中央の須弥壇の上には、かつては本尊の仏像が安置されていました。
さらに、その奥にあった講堂跡まで来ました。 基壇の上に建物の土台となる礎石まで再現されていて、遺跡感がありありとなっていますよ ちなみに講堂は、経典の講義などをおこなった建物であります。
そのまた奥のほうは、地形的にちょっと高くなっていて、国分尼寺跡の全体像を見渡すことができます。 ちなみに手前の丸太の柱が並んでいるところは、「北方建物跡表示施設」となっていました。それよりも、ここからの景観は広大な遺跡に復元された中門や回廊も相まって、天平ロマンを感じませんか?
先ほど見て廻ってきた国分尼寺跡の配置は、このようになっています。左右対称で、とてもよくまとまっていますね。
しかし、これだけで終わりではありません。三河国分尼寺跡には、こちらの三河天平の里資料館というガイダンスセンターが併設されているのですよ しかも、入場料は無料ときたもんだ
その内部には、三河国分寺跡や国分尼寺跡から出土した瓦などの歴史資料が展示されていて、古代の三河地方の概要を知ることができます。 それに加えて、学芸員さんが親切丁寧に説明してくれるので、まさに至れり尽くせりです。
そのうちの三河国分尼寺跡は、ワンコの撮影スポットしてもオススメの場所です。こちらはマナーを守ればワンコ連れでも気軽に入れるので、気になられた方はぜひ一度ご訪問くださいませ。
あ、それから今回の日記のタイトルの「来りん」は動物のキリンのことではなく、三河弁で「おいでよ」を意味しています。
「天平美人って、太い眉毛に二重あごでおちょぼ口だったような………」ということを思い出された方は、こちらに投票してやってください。
前回の日記の最後で、私と波は天平ロマンの「☆□〒※≒△%」なる場所を訪れることを予告したのですけど、名前を伏せたら我ながら怪しくなってしまいました。 それでも、これからの時季に需要が増える肝だめしとか怪談といった話ではないので、どうかご安心くださいませ。 すでに日記のタイトルからしてバレバレですけど、皆さまも学校の教科書で「国分寺」とか「国分尼寺」という名前は見られたことがあると思います。
奈良時代に聖武天皇が治めていた頃は、全国に天災や疫病、内乱が広がっていました。 そのような中、天皇は仏教を厚く信仰していて、国家の平和と繁栄を祈るためにも、天平13年(741年)に奈良の東大寺を総本山として、全国60ヵ所あまりの国に国分寺と国分尼寺を建立する詔を出しました。 そのうちの三河(愛知県の東部)の国分寺と国分尼寺は、現在の豊川市に設けられました。
………ということで、三河国分寺跡にやって来ましたよ 私と波がいるそのお寺の西側には、七重塔か五重塔が建っていたみたいで、近年になってその跡が発掘されました。
寺域は広く、原っぱの中に堂塔の跡を示す案内看板などが建てられています。
その南部には、お寺の正面入口となる南大門の跡も確認されました。大正11年(1922年)に三河国分寺跡は国の史跡に指定され、最近になってその国分寺が復元・整備される計画が持ち上がったこともあって、このあたりにあった民家は順次移転させられていったそうです。
その中心部には、16世紀に国分寺とは関係のない曹洞宗の国分寺が建立されたのですけど、今から2年ほど前に場所をズラして移転したそうです。
それらの位置関係は、このようになっています。中門、金堂、講堂が一直線に並んでいて、それらは回廊で囲まれていたのですね。 さらに西側には塔があって、南大門からお寺全体を築地塀がめぐる形となっていました。
第2国分寺の跡には、コンクリート製の鐘楼が残っていました。そこに吊るされている鐘は、天平時代の建立当時の国分寺のものと云われているのですけど、実際には平安時代に造られたものみたいです。
国分寺は律令制度が崩れていくなかで維持・管理が困難になり、平安時代の末には荒廃したと思われます。
全盛期には、朱色の柱に白壁の門や回廊、金堂などが建ち並んでいた国分寺。その壮観な姿は今は想像するしかないのですけど、近い将来にできるだけ多く再現されるといいですね。 といいつつも、その姿がなかなか思い浮かばないという方にも、近くにオススメの場所があるのですよ 国分寺跡からは細道を通っていくので、車での移動はちょっと大変なのですけど………
私たちはなんとかして、三河国分尼寺跡に行き着きました。 国分尼寺は国分寺の尼寺バージョンで、全国に国分寺とセットで設けられました。 しかし、私のパソコンで「こくぶんにじ」を変換すると「国分2時」となってしまうのですよ。 それはさておき、こちらの国分尼寺跡には、中門とその両脇の回廊が復元されていて、思わず愛犬をモデルにして写真を撮りたくなります。ちなみに波ちゃがいるあたりは、南大門の跡であります。
回廊の復元はほんの一部で、その断面を観察できるようになっていて………
それ以外のところは、発掘調査に基づいて土台が整備されています。 ちなみに回廊は、建物と建物をつなぐ渡り廊下のことです。それにしても、かなり幅広ですね。
お寺の中心となる金堂は、その基壇が復元・整備されていました。史実に基づいて、自然石をほぼ垂直に積み上げていますね。その中央の須弥壇の上には、かつては本尊の仏像が安置されていました。
さらに、その奥にあった講堂跡まで来ました。 基壇の上に建物の土台となる礎石まで再現されていて、遺跡感がありありとなっていますよ ちなみに講堂は、経典の講義などをおこなった建物であります。
そのまた奥のほうは、地形的にちょっと高くなっていて、国分尼寺跡の全体像を見渡すことができます。 ちなみに手前の丸太の柱が並んでいるところは、「北方建物跡表示施設」となっていました。それよりも、ここからの景観は広大な遺跡に復元された中門や回廊も相まって、天平ロマンを感じませんか?
先ほど見て廻ってきた国分尼寺跡の配置は、このようになっています。左右対称で、とてもよくまとまっていますね。
しかし、これだけで終わりではありません。三河国分尼寺跡には、こちらの三河天平の里資料館というガイダンスセンターが併設されているのですよ しかも、入場料は無料ときたもんだ
その内部には、三河国分寺跡や国分尼寺跡から出土した瓦などの歴史資料が展示されていて、古代の三河地方の概要を知ることができます。 それに加えて、学芸員さんが親切丁寧に説明してくれるので、まさに至れり尽くせりです。
そのうちの三河国分尼寺跡は、ワンコの撮影スポットしてもオススメの場所です。こちらはマナーを守ればワンコ連れでも気軽に入れるので、気になられた方はぜひ一度ご訪問くださいませ。
あ、それから今回の日記のタイトルの「来りん」は動物のキリンのことではなく、三河弁で「おいでよ」を意味しています。
「天平美人って、太い眉毛に二重あごでおちょぼ口だったような………」ということを思い出された方は、こちらに投票してやってください。
国府があったのよ。朝廷の県庁みたいなものね。だから近くに名鉄名古屋本線に国府という駅と国府町の地名があるのよ。
今度は豊川海軍工廠跡にも、行ってみたいです。