回帰: re‐habilitation :の記・・・・療法士の方がたへの敬意と謝意を込めて-1

2013-06-22 09:16:24 | 回帰の記

梅雨のなか、ナツツバキ(沙羅の木)の花が盛りです。ハナアブがたくさん寄ってきていました。

私は、リハビリの結果、ほぼ9割がた従前の状態に戻ることができ、5月14日に退院、今は、自宅で、できるだけ以前の生活に戻るべく努めています。
比較的早く自宅に戻れたのは、ひとえに、医療スタッフ、リハビリスタッフの尽力に拠るものであることはもちろんですが、私の入院中の4ヶ月の間、家のこと一切をマネージし、支えてくれた家内の支援がなければ、私は治療・療養に専念できなかったことは言うまでもありません。どんなに感謝してもしきれない、これに応えるのに、これから私にいったい何ができるだろう、と考えつつ過ごしています。

この4ヶ月の入院暮しの間、特にリハビリの間、いろいろと省み、学び直す機会ががありました。
そこで感じたこと、思ったことを、「回帰の記」として記してみる気になりました。「回帰」という標題にしたのは、「復帰した」「回復した」というより「どこからか、戻ってきた」という思いの方が深かったからです。
   なお、文中のリハビリに関わる記述は、あくまでも、私の理解に拠るものです。

はじめに、発症・入院から退院までの経緯について簡単に触れます。
1月18日金曜日、その日は、年明け最初の山梨での現場打合せの予定があり、いつもより多少早めの7時過ぎに3頭の犬の運動のために外に出ました。数日前に降った雪がところどころに残っていて、気温も氷点下5度を割っていたかと思います。
2・30分ほど歩いて家に戻り、朝食をとりはじめたとき、異変に気付きました。
最初に家内が気付いたのですが、新聞を開いている私の左手がおかしい。ちゃんと新聞をめくれていない。私自身もいつものように新聞を捌けないので変だと気付きました。床に落ちてしまった新聞を拾うために立ち上がると、手も足も妙に重たい。喋り方もおかしかった、と家内は言っています(私は気付いていない)。
これはおかしい、病院に行こう、と思いました(脳梗塞か脳出血では?という思いが過ぎったからです)。
地域の中核・基幹病院に「救急外来」という部門があるのを知っていましたので、タクシーを呼んで行くことにしました。タクシーを待つ間、それ以上の「変化」はなく、タクシーまでも自力で歩いて乗り込みました。
   タクシーで行くことにしたのは、救急車だとどの病院に行くか分らないと聞いていたからです。

救急外来のDRの診断は脳出血。その後、このDRが私の主治医になります。
早速検査、ということになり、私はよく覚えていないのですが、それから症状が急変したようです。
10日ほど前、DRに、回復し退院できた旨、お礼の挨拶にうかがいました。
お忙しくお会いできずお礼の手紙を置いてきたのですが、夜DRからメールをいただきました。
メールには「・・・・・(ナースステーションまで)歩いていらしたとのことで、その姿を見ることができず残念であると同時に、下山さんの回復ぶりにスタッフ一同感銘を受けました。私も下山さんを最初に救急外来で診察したときのことを鮮明に覚えていて、検査をしている最中に徐々に麻痺が悪化して椅子に座ることも難しい状態となった所を直接見ているので、現在歩くことができるというだけでとてもうれしく思います。・・・」とありました。家内はそのとき、DRから、「回復しても、歩けなくなるかもしれない」との旨言われていたようです。
脳出血で倒れる、という話をよく聞きますが、おそらく私も、更に長く外に居たならば路上で、あるいは、現場に向っていたら車中で、倒れていたのかもしれません。不幸中の幸いでした。
 
CTとMRIの検査の結果、右脳の被殻(ひかく)という部位に3cm径ほどの血腫・浮腫があることが判明(脳出血の4割がこの場所で発生するそうです)。直ちにICUに入院。
尿管を付け、紙おむつをあてがい、点滴を受けていたようです(その段階で受けた介護認定では「要介護3」とされました。次回の認定では、もちろん、要介護、要支援のいずれにも該当しないはずです。)。
血腫・浮腫は、開頭手術で取除かなければならない場合もあるようですが、私の場合は手術せず、「自然治癒」に委ねることになったようです。
   「自然に・・・」というのはどういうことなのか、後にリハビリ担当のDRにきいたところ、
   脳の中にできた「タンコブ」と思えばいい、頭をぶつけてできたタンコブも、自然におさまる、
   それと同じで血流がちゃんとしていれば消えるのだ、という分ったような分らないような「説明」をいただきました。

ところで、私が緊急入院となった病院は、脳卒中の場合、「急性期病院」と呼ばれ、一定の治癒が進むと「回復期病院」への転院が求められる、という説明を入院時に受けました。
「回復期病院」というのは、いわゆる「リハビリ」を主とする病院のこと。そして、発症から6ヶ月は「急性期」「回復期」の病院に居られますが、そこで治療が終わらない場合は(6ヶ月を過ぎると)、「介護」施設に移らざるを得ないようです。
私の場合は、入院1ヵ月後の2月19日にリハビリ専門病棟のある病院に転院しました。

急性期病院での一日は、朝一番の看護師さんの次の問いかけから始まるのが恒例でした。
1)「お変わりありませんか。」
2)「お名前と生年月日を言ってください。」
3)「今日は何年何月何日で何曜日ですか。」
4)「今居るのは何処ですか(何階か、まで訊ねられることもありました)。」
5)「左足を上げて、そのままにしてみてください。」
6)「左手をまっすぐ挙げて(または、万歳して)、そのままにしてみてください。」
7)「左手を握ってみてください。次に開いてみてください。」(「グー、パーをしてみてください」の場合もありました)。
8)「指折り数えてみてください。」(「チョキを出してください、Ⅴサインをしてみてください。」という場合もありました)。
これは、その日の病状を見究めるための簡易テストと考えてよさそうです。
1)から4)までは、認知能力・記憶力・注意力・言語能力の状態:「脳の状態」:を確認するとともに、顔の表情に「ゆがみ」:麻痺が起きていないかを観察するためのようです。
5)は、足の動作の状態を知るため、6)~8)は手の状態を知るためです。
私は、最初の頃から、足は持ち上げたまましばらく保持できましたが、左手は上げた手を維持することができず、グーパーはもちろん、指折り数えることもできませんでした。握れないし、完全に開くこともできず、人差し指を折ろうとすると、中指はおろか薬指まで一緒に動いてしまう、つまり、それぞれの指を独立に動かすことができない状況でした(現在も未だ完全ではありません)。
   退院後に見たTVで、脳梗塞の早期発見のためのFAST運動というのが紹介されていました。
   朝一番に、
   F:顔の表情に歪みがないか、
   A:手の掌を上向きに腕を前方に突き出し、その姿勢を維持できるか、
   S:話がちゃんとできるか、
     を観察し、少しでも異常に気付いたら、
   T:一時を争い病院へ行くこと、という「運動」。
   早ければ梗塞を取除く薬があるので、重篤化しないで済むからです。
   急性期病院の朝の看護師の問いかけと同じ趣旨だな、と思いました。
   FASTはイギリスで始まった運動で、その結果、イギリスの脳梗塞の発症が激減したそうです。

急性期病院では、毎週CTを撮り、その結果をみて、入院2週間後ぐらいからリハビリを開始しました。リハビリ室への移動は車椅子で搬送(急性期病院に入院中は、移動は完全に車椅子。ただ、左手が利かないので、自分で操作すると左へ左へと回ってしまうため、自走はできませんでした)。
血腫・浮腫がほぼ消えたため、先に触れたように、2月19日に、本格的にリハビリを行なうため、リハビリ専門病棟を備える病院に転院しました。
急性期病院では、一日60分のリハビリでしたが、回復期病院では、午前、午後合わせて120分以上がリハビリの時間でした。


キンシバイも今が盛りです。雨の中、結構華やかです。

専門病棟でのリハビリは、毎日が「目からうろこが落ちる発見」の連続であった、と言っても過言ではありませんでした。
人間の「動作」というのが、きわめて精緻かつ巧妙な「機構・構造」:「脳~神経~筋肉・腱~関節の連携」で成り立っていることを、毎日のように気付かされたからです
同時に、今まで、そのことについてまったく意識し、考えることなく安穏と暮してきた、ということにも気付かされました

足のリハビリでは、「歩くということがどういうことか」を根本から教わりました。
「歩く」というのは、単に左右の足を交互に前へ出すことではなく、出した足へ体重をスムーズに移動させることだ、スムーズとは、体重をスムーズに地面・床面に伝えることだ、そして、スムーズか否かの「判断」「判定」は自らの感覚に拠るのだ、ということをあらためて気付かされました。
力が地面・床面にスムーズに伝わらない、ということは、力学的な言い方をすれば、力のベクトルが、足の軸方向ではなく横方向にも働いてしまう、横方向への分力が生じてしまう、ということです。そうなるとどうなるか。自分の体重によってコケる、つまり、転倒することになるわけです。たとえば、膝がガクッと折れ、膝から崩れるのです。
健常な人ならば、膝のまわりの筋力で「崩れ」をある程度防止できます。しかし、高齢で筋力が衰えていたり、脳出血などで神経~筋の動きが麻痺していると、そうはゆかないのです。
多くの場合、そういう人は、「摺り足」に近い歩き方をしようとします。「摺り足」は、体重の移動が容易だからではないかと思います(足を上げると、ふらつくので、なるべく重心を低めようとするのだ、と考えると分りやすいかもしれません)。私もそうなっていました。今でも疲れてくるとそうなりがちです。
そして、これが高齢者や麻痺の生じた人が「躓きやすくなる」因ではないか、というのが、療法士さんから学んだ「歩行の理屈・原理」から想定して得た私の「結論」です。

バリアフリーという言葉があります。ごく普通には「段差解消」とほぼ同義語と言ってよいかもしれません。「段差をなくせば躓くことがなくなる」、と思われています。
しかし、段差をなくすために推奨されるスロープ・斜路でも、躓くのです。とりわけ、短いスロープで起きがちです。これは、私も実際に体験しました。結構怖い思いをするものです。療法士さんも、意外と転倒する方が多い、と語っておられました。
スロープも段差なのです。特に、短いスロープでは、スロープだ、という認識が遅れ、直前までの平坦路と同じ感覚で(平坦地での摺り足の要領で)歩いてしまい斜面につま先を擦ってしまうのです。    
こういう躓きやすい短いスロープでも、その脇に、手摺でなくても傍に何か、柱1本でも立っていれば、歩く側は安心です。
私がそういうスロープで躓きふらついたとき、思わず脇の植え込みの樹木の葉先を頼りにして体を支えました。枝が少し折れてしまいましたが・・・。
こうした療法士さんから授かった「歩行についての学習」に拠り、以前から何となく感じていた建築やデザインの世界で言われる「バリアフリー」「ユニバーサルデザイン」「人間工学や感性工学によるデザイン」等々の「概念」の「うさんくささ」が何であったのか、「分った」気がしました
それは、いずれも、「人の『動作』の実像・リアリティに拠っていない」から「うさんくさい」のです。 
偉そうなことは言えません。
私も身障者トイレを設計することがありますが、多くの場合、機器メーカーの推奨レイアウトを援用して済ませてきたように思います。そのとき、手摺をどういうように使うか、などとは考えず、「あれば、ないよりもよい」程度の認識で済ませていたように思います。
しかし、実際に身障者トイレを利用するようになって、私はいかに人間の「動き」について(人の「動き」が、精緻かつ巧妙な「機構・構造」:「脳~神経~筋肉・腱~関節の連携」で成り立っているということについて)学習不足であったか、学習しようとする意識に欠けていたかを痛感し、恥かしくなりました
そして、この大事なことを教えてくださった療法士さんたちに畏敬の念を抱いたのでした
なぜなら、彼らは20代~30代です。その年代の頃に、私はそこまでの認識をもち得ていなかった、と思ったからです。 
実際に車椅子でトイレに入り、立ち上がる。立ち上がるときは、たいてい車椅子の手摺に手をつきます。立ち上がった後、衣服を脱ぐためふらつく体を支えようとして思わず手が出ます。そのとき、用意されている手摺を摑むとは限らないのです。相手は壁でもよい。手摺を握るという動作ができない人もいます。手摺の位置が、その人には不都合な場合もあります。垂直のバーは摑めても、水平のバーはだめ、という人もいるのです。実に多様です。用意されている手摺の「適宜な場所」を掴んでいる(「触れている」という方があたっているかもしれません)、というのが実際のようです。
また、人には、その人の「利き勝手」があります。それゆえ、利き勝手の都合で、反対側に壁や手摺があればよいのに、と思う人もいます。このことを考慮したのだと思いますが、私のいた専門病棟には、勝手の異なるトイレが廊下を挟んで向かい合わせに(あたかも鏡像のように)用意されていました。これは正解だ、と思いました(もっとも、「利き勝手」が麻痺の方もおられます。そういう方が一番苦労しているようです)。
ユニバーサルデザインなんて、口で言うほど簡単ではありません
 
階段の歩行練習でも、これまで気付いてこなかったことを気付かされました。
階段については、建築法規に「基準」が示されていて、一般には「踏面(ふみづら:足の裏あるいは履物の載る面)」の奥行が26cm以上、蹴上げ(けあげ:立ち上がりの部分=段差)」の高さが18cm以下であればよいとされています。私のいた病棟の階段は、おそらく、この基準ぎりぎりの寸法ではなかったかと思います。普段、患者はエレベーターを使い、階段は使いませんから特に問題はありません。
しかし、この階段での昇降訓練では、私はよく躓きかけました。登るときにはつま先が前方の「蹴上げ」を、降りるときには踵が後方の「蹴上げ」を擦るのです。そのたびに体には反力がかかるわけですから一瞬コケそうになります。
なぜつま先、踵を擦るのか?療法士さんから教えていただいた「歩行」についてのいろいろな「示唆」を総合してたどりついた結論は以下の通りです。
人は誰でも階段を踏みはずさないように歩を進めます。具体的には、足の裏あるいは履物が「踏面」にまともに載るように心します。これは、エスカレーターに最初の一歩を載せるときに気にすることと同じだと思います。  
階段を目の前にして、足が自在でない人は、段を踏み外さないように特に気を遣います。それゆえ、足:履物が「踏面」にちゃんと全部載るように、登るときはなるべく奥の方に、降りるときはなるべく手前側に、足を置こうという気持ちが自然に働きます。その結果、登るときにはつま先を、降りるときには踵を「蹴上げ」部分に擦ってしまうのです。
概して、かかとを擦ること、つまり降りるときによく起きるようです。降りる方が「怖い」からだと思います。
「踏面」の奥行が履物の長さより大きい場合には、あまり気を遣わないで済みます。
   自宅の外階段に、「蹴上げ」は15cm、「踏面」が30cmと26cmの階段があります。
   段数は両方とも同じ。
   25cmの方でよく踵を擦ります。その階段の方が怖く感じられるからのようです。
   「踏面」の奥行が履物の長さより多少でも長めだと、怖さが生じないのです。 
   多分これは、健常な人がコケないだけですべての人が経験していることです。
つまり、「法規の階段の基準を充たす」=「階段の設計OK」と考えてはならない、ということです。 
階段の設計の要点は、階段を目の前にして、「ここなら登れる」、あるいは「降りられる」、という気持ちを「持ってもらえるようにすること」なのではないでしょうか。この判断も、「感覚」が拠りどころとなります。多くの設計では、このことが見過されているのです。
   たとえば、踊り場の位置。
   登るとき、次の踊り場の床面が見える場合(目線より下に床面がある)は、
   安心して、楽に登れます。
   そういう階段では、降りるときも、怖さを感じません。
   目的地は直ぐそこだ、あそこまで行けばいいのだ、と思えるからだと思います。
   私はこれまで、階段の設計では、できるだけそうなるようにしてきました。
   このコツを最初に教えてくれたのは、アルバー・アアルトの設計事例でした。
   アアルトは、
   人は環境を全感覚で受容し、人体の精緻・巧妙な機構を駆使し動作にうつす、
   このことを正確に認識していたのだと思います。
   だからこそ彼は、いろいろな機器、建具の取っ手、食器、家具、照明など、
   人が使うもの一切を「デザイン」できたのだ、と今になって気付きました。
   知らない方が多いかもしれませんが、アアルトの初期の設計のパイミオのサナトリウム(1933年)は、その好例で、
   細部まで目の行き届いた「凄い」設計です。いずれ紹介させていただきます。
   1933年は、私の生まれる4年も前。これを観ると、最近の建物は一体何だ、と思われる方が多いはずです。
      

ムクゲも咲きだしました。もうすぐ7月。これから夏中咲き続けます。

一日合計120分のリハビリは、時には疲れます。痛みをともなうこともあります。だから、入院されている方の中には、リハビリを嫌がる方もおられました。療法士の方が病棟までわざわざ迎えに来られるのですが、タヌキ寝入りをして起きない方も・・・。
たしかに、疲れるときもあり、痛みをともなうこともありますが、私には、中身の濃い貴重な「特別講義と実習」の時間に思えました。
そして、時間を重ねるごとに、リハビリの中身はもちろん、リハビリに携わる療法士さんたちの仕事、専門性について、世の中では正当に理解されていないのではないか、と思うようになりました
退院後、自宅でなるべく歩行の時間をとり、左手を使う作業をしている旨の私の近況を聞いたある知人が、次のような《アドバイス》をFAXで送ってきました。そこに、「グーパーをして指をそらす。まわりの景色を楽しみながら、楽しく足をあげて歩く。・・・とよい。」などと書かれていました。要は、健康な人が健康を維持するための運動の「処方」です。おそらく、リハビリは、これと同種のことと思われている、これが世の中のリハビリについての「常識」なのではないか、と思いました。
《やむを得ず》、私は「グーパーができない、うまく歩けない・・・ので、かつてはあたりまえにできたいろいろな『動作』、その『コツ』を、リハビリで、療法士さんの示唆の下で、一から学習し直すことに励んできました。」という「返事」を書きました。そういう状況というのはまったく想像することができない、とのことでした。
それで普通なのです。しかし、それでいいのだろうか?
私が今回この一文を書く気になったのは、リハビリとは何なのか、療法士の方々の仕事・専門とは何か、少なくともこのブログを読んでくださっている方々だけにでも、本当のところを知っていただきたい、そして、なるべく広く知ってもらうように努めることが、リハビリに拠って回帰できた私の「義務」ではないか、と思ったからなのです。
皆が知れば、高齢者、障碍者への「理解」も、少しは変るのではないだろうか。

次回では、リハビリとは何か、今回の体験で私なりに得た「理解」を書くことにします。

   退院後、たてつづけに脳卒中に関するTVを見ました。
   その一つ、NHKスペシャル「病の起源」によると、
   脳卒中は、人という生きものの宿命的な病、なのだそうです。
   限られた容積しかない人の頭の中には総延長600kmもの血管がつまっている。
   ゆえに血管は細く、管の壁はきわめて薄い。簡単に破れてあたりまえ。
   現に、日本では、2分に1人の割合で発症しているそうです。
   誰もが脳卒中予備軍だということです。

コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 続・「分ること」と「感じる... | トップ | 回帰: re‐habilitation :の... »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
順調な”回帰” 心からお喜び申し上げます (ARAI)
2013-06-23 00:03:36
 9割がた従前の状態に戻られたとのこと、心からお喜び申し上げます。体調を崩されてブログの更新がなかった時は心の拠り所を一つ失ったかのような思いでおりました。
 病気などなければそれに越したことはないと思いますが、病気の経験からも学び、周囲に感謝をする下山先生の姿勢に胸をうたれます。建築素人の私ですが、建築の話題のみならず、考え方、考える姿勢、生きる姿勢の手本としてこのブログを読ませていただいております。これからもよろしくお願いいたします。

 今回の記事を読んで、ある本を思い出しました。残念ながら、今回の記事の主題である「人の動作の実像」「リハビリとは何なのか」「療法士の方々の仕事・専門とは何か」という部分に関することではないのですけれど、書かせていただきます。思い出したのは「脳外科医になって見えてきたこと」という本です。自分はこの本を医師としての心の揺らぎや患者と医師の心の交流を描いたものとして読みました。助かる見込みのない赤ん坊との心の交流や、うまく治療できなくて患者を助けられなかった自責の念からくる無力感を乗り越えて医師を続ける描写など、読ませどころは色々ありますが、うまく治療できて回復した患者が謝意を医師に表し、医師が患者の回復を心から喜ぶ姿が自然に描かれたエピソードもいくつか出てきます。下山先生がDRに謝意を伝えたことと、DRから頂いた返事のメールの内容などが、本で読んだエピソードと重なり強く印象に残りました。
 コメント後半がブログの本筋から離れたことで申し訳ありません。
返信する
Unknown (筆者)
2013-06-23 09:20:10
コメント有難うございます。
自分自身の「動き」さえ、よく分っていないのに、偉そうなことを言ってきたな、というのが、リハビリで得た私の実感です。見直すことがいっぱいありそうです。
返信する
回復おめでとうございます。 (保立道久)
2013-06-23 16:16:59
回復おめでとうございます。専門職ということを考えさせられました。現代日本社会というのは、専門職のネットワークが分断されているというのが特徴だろうとながく考えてきました。
私なども衣食住ということをなかば無視して生きてきたので、医者と身体の専門性のネットワークのことを考える機会が増えるのだと思います。
建築ということと歴史学ということは、おそらく衣食住との関係では、その直接性が違うのだと思うのですが、もう職場を離れましたので、ゆっくりと別の形の歴史学を考えていきたいと感じている、このごろです。
さて、いちおう設計していただいた家の修補がすみました。もう一度、住み直しで、作り直しです。

それでもどうぞお気をつけて。保立道久拝
返信する
Unknown (筆者)
2013-06-23 18:14:32
保立 様 コメント有難うございます。
「専門」というのが、単なる「資格」の問題にすり替わっているように思います。似非科学者が横行するのも、そのせいかもしれません。私は、知っている範囲で、江戸期の「専門職」の方がたを尊敬しています。彼らは決して自分が専門家だとは言わない。周りの人びとが、「あの人なら・・・」と認めていたのです。遠い存在です。
返信する

回帰の記」カテゴリの最新記事