日本の建物づくりを支えてきた技術-12・・・・古代の巨大建築と地震

2008-10-23 18:13:15 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加、訂正 10月24日 16.22]

平安時代、屋根裏に設ける「桔木(はねぎ)」で自由な小屋:屋根をつくる技術が進展する一方、古代工法による奈良時代を代表する大建築、東大寺大仏殿(金堂)は、軒先の沈下で悩んでいたようです。

   註 なお、先回紹介の「白水阿弥陀堂」の小屋では、
      小屋束相互が「貫」で結ばれていますが、
      これは、後世に付加されたものと考えてよいでしょう。

大仏殿(金堂)は、上掲の年表のように、751年(天平勝宝三年)に完成しています。この当初の建物は、1180年(治承四年)平家の焼き討ちで消失していますから、どのような姿であったかは、言い伝えや絵図などからうかがい知るだけです。
ただ、礎石は残っていましたから、当初の平面は推定できています。
礎石の配置といろいろな文書から、金堂は、梁行7間、梁行3間の「身舎(もや:母屋=上屋)」の四周に1間の「廂(ひさし)」が取付いた「寄棟造(よせむねづくり)」で、さらにその外周に1間幅の「裳階(もこし)」を回していた、とされています。

なお、図、年表とも「奈良六大寺大観 東大寺一」から転載・編集したものです。
また、諸種の記載事項も参考にさせていただいています。
なお、上掲の年表では、スペースの関係で、重源の再興以後を省いてあります。[文言追加]

   註 「裳階」で有名なのは、法隆寺・金堂です。
      建物本体の軒の下外周に差しかけた庇様の部分のこと。

上掲の図は、先に紹介した東大寺の伽藍周辺図から、大仏殿・金堂部分を拡大して、この「身舎」「廂」「裳階」を塗り分けてみた図です。
なお、図中の黒い線で描かれているのは現在の大仏殿・金堂で、この建物は、重源によって再建された建物が1567年(永禄十年)ふたたび戦火で消失、江戸時代にあらためて再建された建物ですが(上の年表以後です[文言訂正])、正面の幅が、当初の建物、重源再建の建物よりも、かなり狭くなっていることが分ります。

当初の建物の高さは、文書に書かれていることから判断するしかなく、しかも、文書によって数字が異なり、現在は15丈程度ではないか、と考えられています。
1丈は10尺、約3mですから、15丈というと、約45mです。
現在の南大門の高さは約25m、当初の大きさになぞらえたとされていますから、大仏殿・金堂は45mあってもおかしくありません。現在の建物で言えば、10数階のビルに相当します。

では、どういうつくりであったか。
その姿が「信貴山縁起絵巻」に描かれていて、「尾垂木(おだるき)」を設けた組物があることから、「三手先(みてさき)」以上の軒組物をもった建物で、いわば「唐招提寺」を拡大コピーしたようなつくりであった、と見てよいようです(下註記事参照)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-9・・・・古代寺院の屋根と軒・2」

しかし、このような度外れた大きさの建物は、奈良時代の工法では維持できなかったようです。つまり、「三手先」で軒をつくるには無理があったのです。
特に軒の出の沈下は著しく、建立の20年後の771年の項の「副柱(そえばしら)を立つ」というのは、長さ7丈4尺の柱で軒を支えるための工事で、工事はおよそ9ヶ月を要していますから、かなりの本数の「副柱」を立てたのだと思われます。現在ならば重機があるので何と言うこともないでしょうが、人力だけですから、おそらく、軒の高さを調整するだけでも大変な工事だったでしょう。

この他にも、消失までの300余年の間に、隅柱や隅木の取替えが、普通の建物ではありえない頻度で行なわれています。
簡単に言えば、建物の維持は容易ではなく、いわばお荷物だったのかもしれません。

1185年からはじまっている再建の活動の中心にあったのが、「重源(ちょうげん)」です。大仏殿・金堂の上棟が1190年、現存の南大門の上棟は1199年のことです。
そしてそこに、当初大仏殿・金堂の「弱点」克服のために、当時の最高の知恵が結集したのです。
それはまた、技術の転機、あるいは古代から中世への転機となる画期的なできごとでした。

上掲の年表は、重源再興以後を省いていますが、1197年に回廊が風で倒壊、の記録があります。そのはるか以前の989年には、「大仏殿後戸風に倒る」の記録があります。このときの建物は当初のものです。落雷の記録もあります。
しかし、地震に関する記録がまったくありません。平気だったのだろうか?

そこで、「理科年表」で、当時の地震の記録を調べてみました。
同書には、わが国の歴史に現れた416年の地震以降のマグニチュード6以上(と考えられる)の地震の記録が載っていますので、大仏殿・金堂の建立後、奈良近在で起きた地震を順に並べて見ます。

[重源の再建まで]
 東大寺にかかわる記載のある地震に◇マークを付けました。

827年(京都、M6.5~7.0)、856年(京都およびその南方、M6.0~6.5)、
868年(播磨・山城、M≧7.0)、881年(京都、M6.4)、
887年(五畿・七道、M8.0~8.5)、890年(京都、M≒6.0)、
938年(京都・紀伊、M≒7.0)、976年(山城・近江、M≧6.7)、
1038年(紀伊、M不明)、1041年(京都、M不明)、
◇1070年12月1日(山城・大和、M6.0~6.5、東大寺の鐘落ちる)、
1091年(山城・大和、M6.2~6.5)、1093年(京都、M6.0~6.3)、
◇1096年12月17日(畿内・東海道、M8.0~8.5、東大寺の鐘落ち、京都諸寺被害)、
1099年(南海道・畿内、M8.0~8.3、興福寺で被害)、
◇1177年11月26日(大和、M6.0~6.5、東大寺で鐘落ちる)、
1185年(近江・山城・大和、M≒7.4)

上掲年表中の修理等の記録には、対照してみても、上記地震が関係するものはありません。
梵鐘は頻繁に落ちているようです(釣っているロープが切れたようです)が、建物は平気だったのでしょうか。
少なくとも、記録に書かれていないようです。大変興味が湧きます。

ことによると、古代の工法の「遊び」の多い「継手・仕口」が、地震の建物に与える影響を逓減させる効果があったのかもしれません。
つまり、組物の「斗」「肘木」「斗」・・・と組み合わせてゆく各接点での「遊び」が、力を伝えるときに、伝える大きさ・量を減らしてしまう、のはないでしょうか。「ガタ」の効用です。
けれども、重力には、毎日加わり続ける重力には、堪えられなかった・・・のかもしれません。


次回

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