日本の建物づくりを支えてきた技術-11・・・・自由な展開

2008-10-10 18:54:58 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

9世紀以降になると(つまり、普通の時代区分の「平安時代」になると)、中国直伝の方法から言わば脱却し、自分たちの手慣れた工法での架構、すなわち、見えがかりは伝来の「形式・様式」で、架構は自分たちの方法で、という建物づくりが普通になってきます。
「寺院建築=瓦葺き」という「概念」も薄れ、神社のように「桧皮葺き(ひわだぶき)」の屋根の寺院も増えてきます。
言ってみれば、一定程度「形式・様式」を守りながら、「自由な」建物づくりが行なわれるようになった、と言えるでしょう。これを普通は「和様化」「国風化」などと呼んでいます。

◇ 「阿弥陀堂」の建物

平安時代も後期:11世紀ごろになると、「浄土教」が上流社会で流行します。
そのうち、上層の階級の建てた建物が、たとえば「平等院 鳳凰堂」(1053年)。地方の豪族たちがつくった一例が奥州平泉の「中尊寺 金色堂(ちゅうそんじ こんじきどう)」(1124年)です。
そして「中尊寺 金色堂」を建てた藤原氏の一族・関係者が建てたのが、上掲写真の「白水 阿弥陀堂(しらみず あみだどう)」(1160年)です。
「白水 阿弥陀堂」は、正式には「願成寺(がんじょうじ)阿弥陀堂」、福島県いわき市にあります。「白水」は、「平泉」の「泉」という字を上下に分けた読みです。

この「白水 阿弥陀堂」は低い山:丘陵に囲まれた南が開いた盆地状の土地に寺域が選ばれています。
20年ほど前の秋に訪れたときは、寺域では庭園遺構の調査が行われていて「阿弥陀堂」には近づくことができませんでしたが、周辺は住居もまばらで、寺域に入ったとき、その静謐で穏やかな雰囲気に、まるで別天地に入りこんだような感懐をいだいたことを覚えています。
おそらくその「雰囲気」こそが、「阿弥陀堂」を構えた人たちの夢見た「浄土」の姿だったのだ、と思います。

   註 近年「浄土庭園」が復元されました。

      アクセスは、常磐線「内郷(うちごう)」下車、
      または「常磐自動車道」「いわき湯本IC」から。


今回、秋の一日、久しぶりに訪ねてみました。写真はそのときの撮影です。
今は寺域近くまで家が建てこんできて、普通の都市内公園のようで、少し残念でした。

この「阿弥陀堂」は、屋根が桧皮葺き、当初は内外とも彩色が施されていた、と言います。
軒には「出組」の組物。
材の様子から、復元されたものと思われますが、先に紹介した「東大寺 法華堂」の「出組」のどちらかと言えば剛毅な形に比べ、非常に繊細で優美、洗練された穏やかな形です。

   註 1956年に「修理工事報告書」が刊行されていますので、
      その工事の際、復元製作されたものと思われます。

この「阿弥陀堂」は、堂内に入ることができます。
彩色はすでに消えてしまっていますが、その凝ったつくりの「折上 小組 格天井(おりあげ こぐみ ごうてんじょう)」の繊細さは、実に見事。残念ながら、堂内は撮影禁止のため、紹介できません。書物で探して後日補足します。

この天井の裏には「桔木(はねぎ)」が仕込まれ、束立てで小屋が組まれているはずですが、図面が手許にありません(目下、「修理工事報告書」を探索中です)。

次回へ続く
 

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