日本の建物づくりを支えてきた技術-12・余録・・・・「記録」というもの

2008-10-27 18:16:30 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加 10月29日 0.42]

先回、「理科年表」から、東大寺の建物にも影響があったと考えられる奈良近在で起きた地震を、とりあえず東大寺鎌倉再建以前の1185年までについてリストアップしてみました。
1185年の近江・山城・大和のM7.4の地震は、「理科年表」では歴史上で37番目の地震として記載されています。そして、先回リストアップしたのは17件。
ということは、416年から1185年までの約770年に起きた地震の46%が京都・大和近在で起きていることになります。
だからといって、他の地域に比べ京都・奈良近在は地震が多いところなんだ、と思うとそれはもちろん間違い。

「理科年表」に載っているのは、「何らかの記録が残っている地震」。何らかの記録で確実とされるのは、何らかの形で文書に載っているもの。そうでないものは、記録はもとより記憶からも忘れ去られてしまっているのです。

では、「何らかの文書」というのは、どうした場合につくられるのでしょうか。
一番多いのは、時の政権の近辺でつくられるもの。つまり、時の政権の力の及ぶ場所では、何らかの記録が文書としても残る可能性が高いのです。

上記の37件の地震の起きた時期は、主として、奈良から平安時代にかけての期間です。つまり、時の政権が、奈良・京都地域にあった時期。それゆえに、京都近在の地震の記録が多いのです。

その他の地域の地震で、「理科年表」に載っているのは、紀伊・熊野方面と東山道沿線の地域、たとえば岐阜や長野の地震。そこは、時の政権の力が及んでいる地域。それに反し、征夷大将軍の派遣される東国の記録などは先ず存在しないのです。覇権が及んでいなかったからです。もちろん東国ではその間地震がなかったわけではありません。

「理科年表」では、鎌倉時代以後、政権の主たる所在地が関東に移ると、急に東国の地震が増えてきます。正確に言うと、「東国の地震の記録」が増えてきます。


「歴史」と「記録」「文書」。
日本や中国と西欧の「歴史学」は、根本的に違う、という話をきいたことがあります。
日本や中国には、「記録」が「紙」に残される場合:つまり「紙の文書」が多いのに対して、西欧では文書記録は「羊皮紙」に書かれることが多かったと言います。
「紙」と「羊皮紙」の違い、それは、「紙」の方が保存性がよいことだそうです。「羊皮紙」は腐って消えてしまうのに対して、「紙」は残る(燃えないかぎり・・)。そして、紙には「墨」で書かれた。「墨」はきわめて耐久性があります。最近よく発掘される「木簡」でも、「墨」で書かれた文字が消えずに残っています。[文言追加 10月29日 0.42]

その結果、日本の「歴史学」は主として「文書記録」に根ざすのに対して、西欧の「歴史学」は、残された「モノ」に根ざすのだそうです。

ところが、「文書記録」は得てして、とりわけ「公式文書」は、脚色・潤色が行なわれることが多い。しばしば、文書によって同一のことに対する記載内容が異なることが起きる。それでどっちが正しいか・・・などという「論争」が起きる。
西欧のそれは、「モノの解釈」。それゆえ、「解釈」の「合理性」が決め手になるようです。
本当は、「文書の内容」と「モノ」との照合で進めるのがよいのでしょうね。その点では「文書」の多数残されている日本の方が、「学」を進めるのは「条件」がいいはずなのに、そうではなかったようです。

「理科年表」に記載されている「地震記録」は、地震の記録ではあるけれども、それは、政権の変遷の記録である、ということになります。記録に「空白」がある、ということです。
おそらく、今後、何らかの方法で「空白」を埋める、つまり、各地域の「地震記録」を「発掘」する必要があるのでしょう。
「民俗学」の方々の手法、諸寺に残されている「過去帳」の検討なども、その方法の一つなのかもしれません。

次回

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする