建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

日本の建築技術の展開-21・・・・心象風景の造成・その6:孤篷庵-3

2007-05-14 21:30:12 | 日本の建築技術の展開

 上の平面図に記入の寸法について:[追記 5月15日9.20AM]
 先回、先々回の全体平面図に計算方法を記載してありますが、ここで再掲。
  例 130.69寸=63.0寸×2+4.69:畳2枚+柱幅4.69寸
    130.86寸=63.0寸×2+4.86:畳2枚+柱幅4.86寸

[註記ほか追加:5月14日11.17PM]

 「忘筌」の空間の構成を詳しくみてみるために、「日本建築史基礎資料集成」所載の展開図と写真を参考に、断面図をおこしてみたのが上図である。
 なお、原資料がメートル法の実測寸法で描かれているため、工人たちの考えを知るには尺貫法による数値併載がよいと考え(工人たちは当時のメジャーでつくっているはず)、1寸=30.3mmで換算した寸法(概数)を括弧内赤字で表示した。

 「忘筌」は、本堂の続きであるため、平面は6尺3寸×3尺1寸5分の畳を基準にした内法制によっている。凛とした雰囲気がつくられているのには、畳の納まり方によるところが多いように思える(平面図で、床柱の畳との取合いを参照。なお、床の間では、床柱は4寸角とし、床柱以外は5寸弱角の柱を、4寸角に見えるように、細工をしてあるのが図面でも分る)。

  註 最近流行の木造では、とかく、これでもかとばかりに木材の存在を
    強調しがちだが、ここでは、あくまでも、
    本当の意味で、「見た目」を考えていると言ってよい。
    以前に触れたが、「匠明」では柱径を柱間の1/10としているが、
    多くの建物が、4寸~5寸角としているのも(1/10以下)、
    同様のことと考えてよいだろう(2月26日記事参照)。
    なお、この建物でも、座敷まわりには、「光浄院」などと同様、
    「付樋端」が使われている(3月6日に図解)。
    
    「本当の意味」とは、柱なら柱が、柱だけ浮き出して見えるのではなく、
    その空間を構成する一部分として働くような見え方、ということ。
    そうなれば、「空間」が感じられるようになる。
    「部分」が目立つことに、何の意味もない。
    部分は、あくまでも「全体の部分」である。

 「忘筌」を最も特徴づけている西面の広縁上部に設けられた明り障子、この障子の敷居の位置は、断面で正確に調べてみると、正座したときの視線(目線)のほんの少し上かほとんど同じ位置に在ることが分る。
 寸法でいうと、畳面から2尺5寸強:75cm程度。身長により、視線の位置は変るが、その違いは僅少。だから、江戸期の人の身長は、多分、現代よりは低いと思われるが、それは大きく関係しないとみてよい。それは実際に、「忘筌」の室内に座れば実感できる。
 実際には敷居の位置は目線よりかなり上にあるように思えるが、多分それは、明り障子の下に見える露地に自然と目がゆくために生じるいわば「錯覚」ではなかろうか。

 床の間の天井を、ここでは回り縁一つ分程度高くしているが、それも目線の検討によるものと考えてよい(座っていて床の間の天井は見えない方がよい。ここでは鴨居・長押が他の箇所と同じ高さでまわっているが、床の間は一般に「落し掛け」を鴨居より上に設けるため、床の天井もこの例よりも高くするのが普通)。

  註 床の間部にある112という寸法は、床框の畳面からの上り寸法。

 広縁部分:露地からの入り口部分の天井を思い切り上げているのも、庭~露地~広縁~座敷の空間構成に「めりはり」をつけるのにきわめて効果的である(単に欄間からの明り採りであるならば、西面の欄間の設けられている位置から考えて、座敷の天井と同面でもよいはず:断面図参照)。

  註 先回掲載の写真は、座ったときの目線よりも高い位置で撮られている。
    これは、全貌を写すためにはやむを得ない。
    それゆえ、「建築写真」から実際を思い浮かべるには、
    それなりの「操作」が必要。

 つまり、詳しくみてみると、立ったり座ったり、そして動いたり、そのときどきの空間の見え方:それによる感じ方:に対しての気配り、心配りが並大抵ではないことが分ってくる。

 実は、こういう感覚は、たしかに遠州は並外れていたにちがいないが、当時は、工人はもちろん、一般の人たちも共通に持っていた感覚と言ってよいと思う。
 なぜなら、工人たちが、遠州の遠方からの指図を十分に理解することができたのは、彼らも「共通の感覚」を持っていたからであろうし、江戸期の商家や農家などでも、この「感覚」の存在を確認できるからである。
 ことによると、皆、現代人よりも数等鋭敏な感性の持ち主で、それを信じていた、と言ってよい。別の言い方をすれば、皆、自分の感覚に素直だったということ。
 そして、まわりからの《情報》に惑わされ、自分の感覚が何であったのか忘れ、自分の感覚に素直でいられなくなったのが現代、単に、他との《差別化》にだけ興味があるのかもしれない。

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