道・・・・つくばの道は....

2006-12-06 01:43:30 | 居住環境

 今から10年前の1996年、次のような一文をある刊行物に書いた。

 「1970年ごろ、・・私は造成中の(筑波研究)学園都市をしばしば訪れていた。東京から車で国道6号を走り、昔からの細い街道にのって北上する(注:筑波山を目指す)のが目的地へのルートであった。街道は近世以来受け継がれてきた道で、わずかに高い丘陵の尾根を走り、水田の広がる谷を渡ってはまた別の丘陵へと、うねうねと曲がりながら北へ進み、谷に沿う丘陵の斜面には、まだ茅葺の屋根を残す家々が樹林に囲まれひっそりとかたまり、そのたたずまいには心和むものがあった。しかし、街道は造成工事のために寸断され迂回を重ね、私の「頭の中の地図」は混乱するばかりであった。あらためて一帯を地図で眺めてみて、いかに《開発》が昔の街道をはじめ既存の居住環境を荒っぽく蹂躙しようとしているかがよく分かった。いまでも開発区域を一歩出れば、心和む既存の居住環境が残り、《開発計画》による居住環境との違いを如実に知ることができるのだが、この残されていた心和む既存の居住環境も、新たな《人と自然の調和した開発》によって、まもなく消えようとしている。・・・」

 それから10年経った今日、心和む居住環境は、もはや開発地域には見出せないほど様変わりした。人と自然の調和した開発、旧住民と新住民との調和ある開発・・、これらのうたい文句はすでに死語に近い。というより、もともとそれは単なる聞こえのよいうたい文句にすぎなかったのだ。
 第一、計画当初言われた、これまでのベッドタウン計画とは違い、新都市を中心とした圏域をつくるのだ、という意気ごみは、とっくの昔に消え去った。
 これは、成田に空港をつくる理由として言われた「羽田はこれ以上の拡幅が無理だから」、というのが方便にすぎなかったのとまったく同じ。今、羽田は新たな滑走路をつくり、国際線を発着させようとしている。そしてつくばは、常磐新線:TXの開通によって、今、ベッドタウンへの道を歩みだした。おそらく、東京からつくばまでの一帯は、いずれは、東京の西部と同じように、住宅で埋め尽くされるに違いない。それは、学園都市の計画に際しモデルとされたケンブリッヂのような街とはまったくかけ離れた姿である(ロンドンからちょうど同じような距離のケンブリッヂとロンドンとの間には、今でも広大な田園が広がっている)。

 東京の環状8号線、通称カンパチが、本来どういう意味を持っていたか、それを知る人は、今ではほとんどいないだろう。当初、環8の外側20キロ(数字は違うかも知れない)は、新たな住宅などは建てられないグリーンベルトとして、そこには公園や清掃工場などが計画されていた。現在の砧公園緑地はその名残りの一つ、そして、環8沿いにいくつかの清掃工場があるのもその名残り。しかし、東京への人口集中対策として、あっさりとこの計画は反故にされ、そして東京のはずれまでべったりと住宅で埋め尽くされたのである。
 日本の都市計画というのは、計画の名に値しない、まさにご都合主義そのものと言ってよい。

 さて、上に掲げたのは、1970年(昭和45年)当時の学園都市開発区域の地図と空中写真である。両者はほぼ同じ縮尺。また、地図上の点線は、学園都市の基幹道路である。そして、赤い線は、この地域に暮す人びとの生活道路であった。「あった」と書いたのは、先の文に書いたように、開発された新しい道に蹂躙され、今では地域と無関係な車が抜け道として疾走する道に変ってしまったからである。
 注 地図は国土地理院発行5万分の1地形図(1970年版)をもとに筆者作成
   空中写真は、1947年米軍撮影(国土地理院保管)

 この一帯は、わずかな「谷地」以外は地質の関係で(地下1~2mに粘土層があり、水はけが悪く、また飲用の井戸水も得にくい)耕作地に不向きで、壮大な赤松林が広がり、近在の集落の薪炭林、近世には江戸の薪炭の供給地、戦時中は松根油の採取用地として使われていた。
 開発当時、これらの林は、薪炭の需要がなくなったことにより、荒廃してはいたが、しかし、それを不要、無用な土地と見なしてしまったのは、計画者・都会人のひとりよがりであった。
 なぜなら、この地域も、他の地域と同じく、この地域の集落に暮す人たち、その先達たちが、農民として、この地に耕地となる土地を探し、居を構え、山林原野を切り開き使うことによって生きてきた、その営みの姿が、いかに荒れていようとも、刻まれているからである。
 一見雑然として見える集落・水田・道などすべては、生活を営む上であみだした彼らの環境とのとりくみの結果の姿なのだ。地図をよく見ると、道や集落は谷地に沿って並んでいることが分かる。実際、人びとは谷地を通してのまとまりがあったのである。

 ところが、開発道路は、こういった人びとの暮しの様、歴史をまったくかえりみることなく、ものの見事に分断していった。
 地図上、刈間集落から玉取集落へ向う道がある。これは取手から谷田部を抜け、筑波・北条へ向う地域の人たちにとっての重要な生活道路・街道である。しかし、今、刈間から玉取の間は、存在しない。開発で消えたのである。
 この点について、計画者に、なぜ元々の道を活かした計画ができないのか、と尋ねたことがある。答は、十分に、お釣りがくるほど交通量のある道路をつくった、だから問題ない、であった。この地域の人びとの間に厳然として存在していたはずの「空間感覚」は、完全に無視黙殺されたのである。これを「調和ある計画」などと言ってごまかしてはならない。

 つくばから西側、TXの沿線は、実はこの地域でも有数の農村地帯であった(徳川幕府が、伊奈備前守に命じて懸命に開拓したのが、谷和原、伊奈一帯、今のつくばみらい市である)。けれども、農村が農村として生きてゆけるかどうか、はなはだおぼつかない。農村は、一番食糧を必要とする都会によって、どんどん追い詰められる。これを「計画」「開発」と言って素直に喜んでいてよいのだろうか。

 つくばの道は、新たな環境破壊への道なのかもしれない。

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