日本の建築技術の展開-13・・・・多層の建物:その3-福井・丸岡城

2007-04-15 19:18:59 | 日本の建築技術の展開

 [締切まぎわの仕事に追われ、しばらく、書けない日が続いています!
  20日すぎに完全?復活の予定です]

 日本の多層建築として、しかもきわめて実用的な建物としては、いわゆる戦国時代、諸侯が競って建てた城郭建築がある。
 ただ、多くの城郭は、明治の廃藩置県策で壊されたものが多い。

 現存資料のある最も古い城郭は、福井県丸岡にある「丸岡城」のようである。
 この城郭は1576年(天正4年)、柴田勝豊により築かれたと考えられているが、明治維新後、建物はことごとく取り壊され、堀も埋められ、辛うじて天守だけが遺っていた。
 しかし、その天守も1951年(昭和26年)、福井地震で倒壊した。現在の建物は、その後の復興によるものである。
 なお、建物は1940~42年(昭和15~17年)に解体修理がなされている。
 私は実際に観ていないので、あくまでも書物による理解。
 
 天守は、高さ6mほどの野面積の石垣の上に建ち、外観は二重、内部は三層。
 石垣は、各面の上端が直線ではなく、中央部が内側に凹んだ曲線をなし、したがって平面で見ると「糸巻き」様の形になっている(一層平面参照)。

 この建物の架構は、大変興味深い。
 天守は三層。二・三層は同一平面で、柱位置も同じ。四隅の柱が「通し柱」で他は「管柱」。

 一層の柱位置は二層と一致せず、二層の柱は一層の柱の中間に位置し、一層の梁上に渡された繋梁上に立つ。
 また、一階の母屋部分の柱は、すべて掘立柱であること。地盤面より1mほど掘った位置に礎石を据え、柱を立て、厚板で寝巻きをして漆喰が塗ってあったという。従来から、一部の柱が掘立であることは分かっていたが、1951年の再建時の調査で発掘したところ、すべての柱位置に、径1尺ほどの礎石が出て、判明したという。
 復興された建物は、当然ながら掘立ではない(上掲図面も、掘立ではない)。

 石垣の素朴さ(荒っぽさ)、掘立柱・・、なんとなくあわただしく建てたような印象。このようなことから見て、この城郭は、後の世に権威の象徴として時間をかけてつくられた他の城郭とはちがい、本当に実戦用としてつくられたのかも知れない。

 写真・図ならびに解説は、「日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰ」による。
 ただ図面が小さいので分り辛く恐縮。「修理工事報告書」に詳細があるかもしれないのだが、見ていない。

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