閑居シニアの写真館

リタイヤして30年、いろいろと写真を写し続けています。最近は身近な風景を見たまま気ままに写真を楽しんでいます。

久しぶりの散歩

2021-03-11 13:57:20 | 都立武蔵国分寺公園

久しぶりの散歩

先週土曜日6日、久しぶりに散歩に出る。

例によって武蔵国分寺公園コースだ。

緊急事態宣言が21日まで再延長する事に決定された。

その直後の散歩はやはり気が引けるが、感染予防を確りとして出かけた。

この日は流石に人出は殆ど無く、公園内は閑散としていた。

ベンチに二は老人が二人、陽だまりを楽しんでいた。

こちらは御夫婦。

何時もは大勢の人たちが遊ぶグランドにも人影は殆ど無い。

散歩らしき二人ずれの他には人影は無い。

みんなの広場には全く人影は無かった。

みんなの広場でただ一組、満開の梅の下で一足早いお花見だろうか二家族らしき集まりがあった。

梅はこの日は満開だった。

梅の花見をする人もない淋しい公園だった。

不要不急の外出は自粛するように言われているのに公園を歩いている自分は良いのだろうかと疑問符が付く。

東京では毎日200~300人台の感染者が出て、一向にそれ以下にならず下げ止まりが続いている。

果たして21日までに感染者が100人台になるのだろうか。

土日の都内の人出は増える傾向にあると云う。

各人の自粛意識が高まる事を願うしかないのだろうか。

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1975年頃の新宿界隈

2021-03-08 09:53:06 | 昔の風景

1975年頃の新宿界隈

 

京王プラザ、三井ビル辺りには外国の観光客の姿などが見られるようになった。

車の横転事故が有り、白バイ警官が到着。

白バイも今の車種とは全く違う。

排気量も小さかったのではないかと思う。

 

西口公園に通ずる歩道だったと思うが・・・オフィスガールだろうか?

肩を組んで歩く若い人たちの姿をあちこちで見かけるようになった。

新宿駅西口広場の排気塔の近くのバス停でバスを待つ人達。

バス乗り場は現在のように整備されておらず、排気塔周辺にバス停が作られていた。

休日、若い人たちのデートの待ち合わせ場所だったのだろうか。

あるビルの前に置かれた車。

多分外車?だと思う。

この頃の車のバックミラーはすべてボンネットの両側についていた。

現在の歌舞伎町近辺だと思うが記憶が定かではない。

新宿高野フルーツパーラー。

新宿で果物を買うならば高野フルーツと云われたほど、おいてあるフルーツの種類の多さと高級品の品揃えで有名だった。

中には我々庶民の手の届かないほど高価なものもあった。

この並びに「帝都座」と云う映画館があった。

戦後すぐにオープン、最初に見たアメリカ映画はアカデミー賞受賞の「わが生涯の最良の年」だった。

当時老骨は16歳。

戦後20年位は娯楽と云えば映画だけだった。

昭和23年頃には「新宿武蔵野館」がオープンしていた。

客席は3階まであり、2階3階に至る階段は空爆を受けて崩れたままだった。

そんな中、映画は入れ替え制で、入館を待つ人々が映画館の周りを二回りも三周りもする位並んでいた。

老骨も休日ともなれば新宿に出かけ映画見物の梯子をして歩いたものだ。

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1975年頃の新宿西口

2021-03-06 09:42:35 | モノクロ写真

1975~1978年頃の新宿西口方面

1960年頃になると新宿西口方面にあった淀橋浄水場を取り壊し、新宿副都心計画が始まった。

跡地に最初に建設されたのが1971年京王プラザホテルだ。

続いて1974年3月、新宿住友ビル、1974年9月新宿三井ビル、1978年5月新宿野村ビルが完成した。

1974年にはまだ、京王、住友、三井、のビル3本のみだった。

京王プラザホテル前には、外国の旗がずらりと掲げられていた。

京王プラザホテル前の道路標識。

当時の都内の車の最高時速は40キロだった。

それ以前は32キロで、当時はようやく国産車が出来て普及し始めた頃で、車の性能も良くなかった。

32キロが妥当な所だったのかも知れない。

老骨が車に乗り始めた頃は外車だった。

社用車はルノーの小型車とジープの改良型の車だった。

道路は舗装された所が少なく、タイヤはのべつのパンク。修理に追われる日々だった。

制限速度32キロでも早く感じたものだ。

三つのビル以外の空き地はバラ線で囲われている所が多かった。

京王プラザホテルの駐車場の出口だろうか。

京王プラザホテルの南館はまだ出来ていない。

手前の広場は都庁が立つ前の空き地だ。

右奥のビルは野村ビルだろうか、建築中のようだ。

NSビル?京王プラザの南館?の建築風景。

記憶が定かではないのではっきりとは分からない。

新しいビルの建築現場を見る人々。

まだ都庁は無い。

京王プラザ、住友、三井、京王の後ろに野村ビル、三井の後ろにはアイランドドタワー?の遠望。

新宿西口公園の裸婦彫像から新宿駅方面を見る。

現在の風景とは全く違う。

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心臓の定期検診

2021-03-04 13:50:11 | 日常

心臓の定期検診

今日は定期検診の日で、新宿の病院まで出かけた。

コロナ感染拡大が始まって以来、昨年から数えて3回目だ。

本来ならば2か月に一回の検診だが、殆ど電話で済ませ、薬は処方箋を送ってもらうと云う状況だった。

今日は5か月ぶりの検診だ。

新宿と聞くとコロナ拡散の街と云うイメージがあり、新宿は怖いと云う思いが有り、恐る恐る病院に行く。

検診結果はOK。

早々に病院をを出る。

病院は新宿駅西口都庁近くのoffice街の中なので、コロナにはあまり気にしなくても良いかとは思うが、検診終了後、寄り道などせずわき目もふらず新宿駅から帰途に就いた。

地下道の動く歩道脇の柱にはパラリンピックのポスターが貼られていた。

昨年来た時には五輪マークのポスターだった。

オリンピックも外国人の観戦は無しと云う事になるらしい。

駅近くの円柱には普段は化粧品のポスターが貼られているのだが、今日はレンタルオフィスの電飾版がずらりと並んでいる。

テレワークのための物件だろうか。

5か月前に来た時には工事中だった東口と西口をつなぐ通路が出来上がっていた。

今迄の新宿駅のイメージは全く無くなってしまった。

ここに着いたのは12時頃だったが、人通りは意外と少なかった。

外出自粛が効いているのだろう。

次の検診日の5月には、またどのように変わっているのだろか、楽しみだ。

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1973年3月3日深大寺だるま市

2021-03-02 10:30:42 | イベント

1973年3月3日深大寺だるま市

モノクロネガをポジに変換する作業は続いている。

偶然にも1973年3月3日の深大寺だるま市の写真があった。

現在でも続いる昔懐かしいイベントだ。

深大寺門前通りから深大寺方面を見る。

道の両側には深大寺蕎麦の店が並んでいる。

深大寺門前階段前には「厄除元三大師大祭」の提灯が飾られている。

深大寺山門前から参道を見る。

大勢の参詣人たちが深大寺に向かって歩いてくる。

現在この祭りが行われているが、このような提灯が下げられているのだろうか。

 

だるま市は深大寺境内で行われている。

広い境内はだるまで埋め尽くされている感じだ。

親子でダルマの品定め。

だるまの値段を交渉する人の真剣な表情。

日本在住の外国の人もだるまを買うようだ。

値段の交渉もなかなか厳しいようだ。

こんなだるま市の情景をカメラに収める観光客。

女性の持つカメラは8ミリ映画撮影機で発売間もない富士フイルムのシングルエイト(シングル8)のようだ。

当時は8ミリ撮影機の黎明期ともいえる時代だった。

始めはダブルエイト(ダブル8)カメラから始まった。

ダブルエイトは最初にフイルムの半分に撮影し、撮影が終わるとそれを裏返してふたたび残り半分を撮影すると云う面倒なものだった。

撮影されたフィルムを現像後真ん中から二つに切り分けてそれをつないで一本のフイルムに仕上げたと云う面倒なものだったが、それを最初から一回で撮影が終了するようにしたのがシングルエイトだ。

老骨も使用した事が有る懐かしいカメラだ。

値段の交渉成立。

目的のだるまを手に入れる事が出来た。

社殿では破魔矢、おみくじ等が売られている。

おみくじを引いて読む女性、いい運勢に出会えただろうか。

明日は3月3日。

だるま市は今年も開かれるようだが、コロナの影響でもろもろの行事が縮小されるようだ。緊急事態宣言の中、不要不急の外出は控えるようにと云われてはいるが、一見の価値はあると思う。

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