カメラが回る?

 新製品のカメラがショーケースの中のターンテーブルの上でクルクル回っているのか?いや、違うだろう。体育会系のごつい男がカメラを掴んだ腕をぐるぐる回しているのか?何かにぶつかったらカメラが壊れる。三脚のテーブル(雲台)の上で回っているのか。これは回すんじゃなくて「パンする」だ。あるいは回転寿司屋のベルトコンベアの上の皿にカメラが乗せられているのか。そんなことをしても何の意味も無い(いや、客の視点から寿司が載った皿を見るのではなく、寿司の視点から見た客の姿は、結構面白いかも知れない)。「カメラが回る」って、いったい何なんだ。

 きっと今日当たりはネタ切れだろうと、神奈川新聞は今日も郷秋<Gauche>のblogのネタを提供してくれた。有り難や有り難や、神奈川新聞様。

 今日の神奈川新聞19面にこんな記事があったのだ。「『戦争と食』を追って―捜真女学校の番組制作(上)」。ページの半分を占める大きな記事だが、記事に添えられた写真のキャプションが「カメラが回る中で、江藤さんにインタビューする番組班の玉木さん」。

 郷秋<Gauche>の学生時代だから大昔の話だが、コンパ(もはや私語?)の席に数年前に卒業した先輩(関係者向け注:N氏だ)がやって来て、頼みもしないのに宴会芸を始めたことがあった。仔細は忘れたがその「芸」の中に映画を撮影する仕草があった。彼は耳の辺りに持っていった右手をクルクル回して撮影しているゼスチャーを疲労披露したのだった。そのカメラ(の想定)が8mmなのか16mmなのかは知らないが、電池とモーターでフィルムを送るのではなく、ゼンマイ仕掛けのフィルム送りで、そのネジを巻いている仕草なのだろうと郷秋<Gauche>は理解した。

 ゼンマイ仕掛けの蓄音機のネジを巻く話は辛うじて知っている郷秋<Gauche>だが、映画のカメラのフィルム送りがゼンマイ仕掛けで、ホントにそんな風にゼンマイを巻きながら撮影したのかどうか郷秋<Gauche>は知らないが、神奈川新聞か書いた「カメラが回る」は、きっとこのことなんだろうと想像した。あるいはもっと単純にフィルムが回っているという意味かも知れないが。

 フィルム送りが電動式だろうがゼンマイ式だろうが、フィルムが回らなければ映画(動画)は撮影できない。だから撮影時には必ずフィルムは回る。でも、カメラは回らない。もし、件のOBがやった仕草が本当だとしても、それはカメラが回るのではなく「ネジを回す(巻く)」だ。フィルムの時代からテープの時代になっても確かにテープは回っていた。HDDの時代になっても確かにHDDのディスクは回っていた(しつこい!)でもカメラは回らない。

 しかしだ、ついにシリコンチップにデータを記録する時代になった今、撮影中のカメラの中で回っているものは無い。強いてあげればフォーカスする時、ズームする時には確かにそれ用のモーターは回るが、フォーカスもズームも固定なら、撮影中でも回るものは何も無いのが今のビデオカメラだ。そんな時代だと云うのに、神奈川新聞は「カメラが回る」と書く。ちょっとアナクロニズムが甚だしいのではないか。

 しかしだ、今でも教員として勤めることを「教鞭(きょうべん)をとる」と云う。「鞭」とは字の如く(と云うか)「むち」(そのもの)である。今どき教員が児童・生徒に鞭を振るっていたらすぐさま警察のお出ましだ。警察沙汰にならないようにするためには「教壇に立つ」と表現すればいいだろう。

 下駄なんか入っていないのに下駄箱、筆なんか入っていないのに筆箱と、市井の私たちは今でも云うが、そこは言葉のプロである新聞社としては時代に合った表現、言い回しを考えて積極的に使って欲しいものである。フィルムを使うカメラさえも知らない子どもが増えてきている今、フィルムどころか「カメラが回る」は無いだろう、神奈川新聞。


 と云う訳で(と云うのは枕詞みたいなもので何の意味もありません)今日の一枚は、例によって今日の記事本文とは何の関係もない(昨日の記事とはちょっと関係ある)、郷秋<Gauche>の庭に出てきた捩花(ねじばな、もじずり)。でも、全然捩れていない。郷秋<Gauche>の庭の捩花は郷秋<Gauche>に似てまっすぐ素直?なのだ。
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