カメラは孫子の代まで使う?(その2)

 昨晩は、田中長徳氏が書いた「だいたい大昔はカメラって一家に1台、それを孫子の代にわたって使うというのが普通だった」を散々こき下ろした郷秋<Gauche>だが、氏が云わんとしていることは良く判る。つまり、氏は今のデジタルカメラが廉価でそのライフスパンが余りにも短すぎると同時に余りにも「薄っぺら」であると云いたいのである。

 昨晩書いたようにフィルム時代に名機と云われたカメラを実際に子供世代が使うことはあってもそれを孫の代まで実用にするのはまれである。戦前のライカは一軒が買えるほど高価であったと云うから、ライカにしてもローライにしても「孫子の代にわたって使う『覚悟』で」買うほど高価な買い物であったと田中氏は云いたかったのであろう。

 翻って現代のデジタルカメラはと云えば現役で使えるのはどんなに長くても4、5年。極まれに6、7年前のコンパクトタイプデジタルカメラを使っている方を見かけるが、その実用性はともかく、ボディの大きさや形状、モニターサイズを見ると博物館から借り出してきた物かと思う程である。

 さて、田中氏は「カメラは知的な遊びなのだ。」(アスキー新書)のなかで、デジタルカメラとクラシックなフィルムのカメラの併用を主張している。これはまさに郷秋<Gauche>の目指すところでもあるのだがフィルムで撮るための環境は、氏が「カメラは・・・」を書いた2008年3月時点から僅か2年数ヶ月の間で恐ろしい勢いで後退している。この早さはさすがの田中氏の予想をも上回るものであったことだろう。

 フィルムの選択肢が著しく狭くなってきている。価格がじわりじわりと上昇してきている。現像の取次ぎが毎日ではなく週2、3回と少なくなり、仕上がりまでの時間がかかるようになってきている。遠からず、大都市圏以外では取次店がなくなり現像所との往復は宅配便を利用するようになることだろう。そもそもフィルムで撮るためのカメラの選択肢がほとんどない。現在新品で買うことのできる一眼レフは事実上Nikon(ニコン)のF6とFM10、キヤノンのEOS-1Vの3機種しかないのである。

 そうは云っても、CDの時代になってもLPが完全になくならなかったように、楽しみの幅は狭くなってもフィルムで撮る事がまったくできない時代が来るとは郷秋<Gauche>は考えていない。大きな資本を投下しなくてもやっていけるのがアナログの良さでもあるはずだから。

 フィルムが今以上に改良され高性能になることはないとしても、今のレベルのものを作り続けることは可能なのではないかと、郷秋<Gauche>は思うんだな。まっ、少なくとも郷秋<Gauche>が生きている間はフィルムで撮る事を楽しむ事は出来るだろう。だから今のうちに撮るための道具も揃えておかねば(^^)。


 例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、蛍袋(ほたるぶくろ)。子どもがこの中に蛍を入れて遊んだのが名前の由来と書かれている物があるけれど、そうではなくて、たまたまこの中に入った蛍が光を発した様子が美しかったのがその名の由来と、郷秋<Gauche>は考えたい。
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