マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

ハーヴェストクラブ山中湖マウント富士へ(その1)

2019年02月17日 | 

 東急ハーヴェストクラブの会員になって31年目になる。この間ホームグランドは勝浦・京都・天城高原と推移してきたが、2・3年の空白期間を除きほぼクラブの会員であり続けてきた。会員には毎月「ハーヴェスト便り」が送られてきて愛読している。その1月号にだったか、「マウント富士」のイベントに「ダイヤモンド富士と河口湖の冬花火」が紹介され、しかも飲み放題の日が掲載されていた。その3つ全てに参加できる日を調べ、2月16日(土)~18日(月)の滞在の予約をした。

 16日(土)バスタ新宿を12時15分にスタートすると「マウント富士入口」着が14時30分。ホテルの迎えのバスに乗り換え14時50分にはホテル着。幸運なことに富士急バスでの移動中に「朝日杯将棋オープン戦」の準決勝・行方八段対藤井七段戦を観戦出来た。藤井七段側からみると自分の”陣地”には相手の駒が殆ど入ってこないほどの圧勝だった。(藤井聡太七段は14時30分から行われた決勝戦渡辺棋王戦にも勝利して、朝日杯連覇の偉業達成)
 到着して直ぐに右掲示に気が付いた。ここ「マウント富士」のウリは富士の眺望だけでなく紅富士にもあった。翌朝の日の出12分前には、ベランダに出ようと考えた。






 ここは風呂を新設してもいた。露天風呂から富士山が眺められる造りになっているそうな。妻は入浴経験があったが、私は未経験だった。藤井七段の勝利を観終えたあと露天風呂に向った。コンパクトながらの綺麗な露天で、入浴しながら富士が見えるはずだが、この時は裾野しか見えなかった。



 夜のバイキングはこの日限りの飲み放題のプレミアがついていた。普通に注文
すると860円の生ビール一番しぼりを3杯、他の冷酒や赤ワインにも味わってしまった。(写真:レストランから外のイルミネーションを撮影)






 翌17日、朝は6時20分には露天風呂から上がり紅富士を待ったが、残念ながら薄い雲に遮られて満足のいく写真撮影は出来なかった。









 それでも高台にあるホテルからは旭日丘方面の日の出・山中湖・南アルプス北岳などが展望出来てカメラを向けた。(写真:南アルプの主峰北岳)
 ”はなれの湯”は12時から入浴可能で、今日も入浴すると貸し切り状態だった。
 「マウント富士」は露天風呂が2つに増え、プール利用も可能など滞在型リゾートとしての利用価値が増したように思える。
 
 今日は午後のダイヤモンド富士見学会と夜の河口湖花火鑑賞会に参加予定だが、果たして快晴となるか?
 以下撮影の写真4枚








 


 


ミートローフを作る

2019年02月15日 | 家事

 明日から「ハーヴェストクラブ山中湖マウント富士」へ2泊3日で出掛ける。夕食は、初日はレストランでバイキングで、2日目は部屋食にしようとなった。部屋食にはそれなりの準備をした方が豪華でしかも楽しい。それではと、ミートローフを調理して持参することにした。
 ミートローフのことはこのブログに2・3度は
書いたが、レシピやその工程写真は投稿していなかったので、今日のブログはレシピ等々。今までも妻と一緒に調理してきたが、全体状況を知っているのは妻で、私は力の要る下働き作業となる。

 ①用意するもの・・・豚の挽肉1・2Kg  醤油 100ml パン粉大匙10 片栗粉大匙5 胡椒少々 玉ねぎ2個 卵3個
 ここからが工程
 ②玉ねぎ2個を、ブツ切りにする








 ③ブツ切りにした玉ねぎをフードプロセッサーで微塵にする(写真は微塵にした状況)














 ④ボールに豚挽き1・2Kgを入れる










 ⑤④に③の微塵玉ねぎの他パン粉・醤油・卵・胡椒・片栗粉を加える










 ⑥⑤のものを掻き混ぜる(以下⑥と書く。写真は混ぜ終わった状況)










 ⑦別に用意した容器にクッキングシートを敷き、その上にハムを乗せる














 ⑧⑦の上に⑥・ウインナー・⑥を詰め、ハムを乗せる(写真はウインナーを詰め終わった状況)









 ⑨⑧2つをレンジ板に乗せ、レンジに入れる









 ⑩レンジの温度を220度に設定し1時間。後は待つ
 以上で1時間が経過すると完成。
 調理を始めてから2時間でミートローフは完成した。






文京区の区境を一回りしてみて(その2)

2019年02月13日 | 東京散歩

 区境を一周するに際しては、1:7000の『東京23区地図』のコピーを用意し、これを持ち歩いた。これは非常に便利で有効だったが、それでも区境を歩くのは予想した以上に難しかった。区境の上に白線が描かれているわけではない。そこが区境であることを知るには右写真の住居表示板しかない。時計回りの事を右回りというが、それは対象物が必ず右側に来るから。私は自分の右手側に文京の住居表示板が、左側に他区の住居表示板があることを手掛かりにし、それを確かめながら進んだ。(左右とも住所表示板が文京区ならそこは区境ではない)
 それに、前回のブログにも書いたが、区境が建物内部に来ていてそこを歩けないこともある一方、住居表示板が貼られていない処も多々あった。区境を歩くことはそんな難しさがあるが、推理力を働かせて考えねばならない面白さもあった。




 区境の道は概ね狭かったが、その路上傍には有名な庭園や神社仏閣などが存在していた。出発からゴールまでを、目にしたものを含めて改めて右地図(文の京観光地図)に書き入れてみた。(右地図参照。概ねの位置です)
 ①中居皮膚科→②田端銀座→③よみせ通り→④蛇道→⑤東大→(左手に⑥不忍池)→⑦旧岩崎庭園→⑧湯島天神→⑨神田明神→(左手に⑩茶ノ水駅)→⑪神田川→(右手に⑫東京ドームホテル)→(右手に⑬印刷博物館)→⑭肥後細川庭園→⑮日無坂→⑯清土鬼子母神→⑰護国寺→⑱巣鴨大鳥神社→⑲山手線→⑳六義園→①中居皮膚科

 区境は江戸時代には川だったところが多い。多くの人が知っている様に、藍染川は暗渠となり文京区と台東区の区境となっている。神田川は千代田区との区境で、更に上流では新宿区との区境となっている。
 今回初めて知ったことを付け加えておこう。神田川の南側の一部も文京区だった(上の地図でTの左上)。新宿区との区境線は神田川の南側にも及んでいた。その区境は道幅が1mに満たないほど極端に狭い道があった。ここは暗渠で、かつては小川が流れていたと確信し、帰宅して古地図で調べるとるとやはり江戸時代には神田川に注ぐ小川が流れていた。目白台側からだけではなく、豊島台側からの流れも神田川に注いでいた。(写真:「重ね地図」より安政年間の様子)
 かって歩いた暗渠にも”再会”した(地図上Wの辺り)。その時は気が付かなかったが鶴巻川の暗渠で、その一部は今は豊島区との区境だ。
 江戸時代の川が現在の区境の源になっていることを改めて知った区境散歩だった。(下の写真:蛇道とその下神田川)
 

 
 
 


文京区の区境を一回りしてみて(その1)

2019年02月11日 | 東京散歩

 この数年、区境に沿って文京区の周りを1周したいと考えていて、昨年10月に漸く実行してみた。1日で一気に1周してしまうのではなく10数日間に分けてやってみた。(写真:地図は「文京区山あり谷ありマップ」を用い、区境を赤く塗った。他の区は緑色。最下段に再掲)

 別に一回りしないで地図を見るだけで分かることも多々あるが、歩いて初めて発見することもあるだろうし、別の角度から文京区を見てみたかった。
 中山道行を間に挟んで、10月中旬から始め11月中旬に終了した。ラジオ体操の終了後6時40分にスタートして、徒歩と都バスを組み合わせて、8時少し過ぎに自宅に帰って来るという、約1時間20分の”時計回り”の散歩。 
 初日は本郷通りに面する「中居皮フ科クリニック」(以下中居皮膚科。地図上N)からスターし、その日は”やねせん”の藍染橋(地図上A)まで行って、そこから徒歩で引き返し帰宅した。次の日はバス利用で藍染橋まで行き、そこをスタート地点にして不忍池付近まで歩き、そこから都バス利用で帰宅、てな具合。
 必ず区と隣接する区との境を歩きたかったが、区境にマンション等の建物が建っていて歩行不可能なときもある。その事は豊島区と文京区の区境の上に建つマンションに住んでいたこともあり知っていた(玄関は豊島区側にありで、住所表示は豊島区)。区境を歩けない時は文京区側の道路を歩くことにした。(写真:ここが文京区と北区の区境。田端銀座で)


 下図に見るごとく、文京区とは6つの区が接っしている。時計回りに進むと、接する区は順に、(中居皮膚科 N)→
豊島区→北区→荒川区→台東区→千代田区→新宿区→豊島区→(中居皮膚科 N)と変化した。

 大まかな実感は、区の南側では神田川が区境となり、北側から西側にかけては不忍通を内部に取り囲みながら区境は2度不忍通りと交差していた。区境の骨格は神田川と不忍通りにあると思えた。JR巣鴨駅⇔駒込駅間の、僅かな一部が山手線の外側に来るがそれ以外は文京区はすっぽりと山手線の内側にあった(これは23区で文京区のみ)。外周の全長は測定していないが推定で25Kmくらいか?詳しくは次回に。
 
 

 


『私には山がある』(著:田部井淳子 出版:PHP研究所)を読んで

2019年02月08日 | 読書

 田部井さんが腹膜癌のため77歳で亡くなられてから2年あまり経つ。その闘病の様子については『再発!』に詳しいが、『私には山がある』は、彼女の自分史と言っていいだろう。病弱だった子ども時代から始まり、山に夢中になった日々や、夫との出会い、エベレスト登攀のこと、がんで亡くなられる数年前までが綴られている。
 その前半は、2011/01/15のブログに書いた事と重複するので省略するが、後半は初めて知って、びっくりしたことが幾つもあった。今日はそちらを綴っておきたい。





 男性のパートナーとのみ岩登りをしていた20代のころ、佐伯ルミエさんという、別の山岳会の女性から「一緒に登りませんか」との誘いを受けて行動を共にするようになった。彼女より2歳年上の親分肌の気持ちのやさしい方で、何度も一緒に登攀を繰り返すうちに、田部井さんにとって”腹心の友”にまでなっていった。難関と言われる冬の谷川岳も二人きりで登った。ところが、1967年、その佐伯さんから誘われていた谷川岳に田部井さんはお父さんの7回忌のため行けかれなかった。その山行時、佐伯さんは他のパートナーとの登攀中に滑落死。つらいつらい別れを経験した。

 1975年のエベレスト遠征時、標高6400メートルの、安全といわれる地に第二キャンプを張っていた。真夜中にそこへ雪崩が来た。何トンという氷の塊が落ちてきてテーブルくらいにの大きさに割れて粉々になり、彼女たちのテントを飲み込んで行った。隊員5人は氷の下敷き。雪下で死を覚悟したとき、間一髪雪崩に巻き込まれなかったシェルパたちに救出されるも田部井さんは重傷。下のキャンプ地にいた隊長からは登山中止命令が出たが、隊長を説得し、最終的にはシェルパと二人頂上を目指し、エベレスト女性初登頂を成し遂げた。(写真:エベレスト登頂の前日、シェルパのアン・ツェリンと食事をとる田部井さん)
 二人の子どもさんを育てるには相当苦労された。母親が超有名となり、度々新聞に登場したりするようになると周りから冷やかされることが度重なり、母親が重荷になっていったらしい。息子さんは親に無断で高校を退学。心底悩んだが、親に反抗するのはいつかは通る道と気持ちを切り替え乗り切ってきた。(その息子さんは過日の朝日新聞に登場し、アウトドア―に関する仕事をしていると紹介されていた。インターネット上「両親の偉大さを痛感する」との文章も載せている)
 雪崩・親友の死・子どもたちの反抗、癌発病などの危機・困難に遭遇しても登山をけして止めなかった。”その国の最高峰に登る”を目標にして、マッキンリーなどの山々にも登った。東日本大震災後は東北の高校生を富士登山に招待する活動を実行した。ネパール王国から最高勲章を受章するなど数々の賞を受賞した。
 謙虚だった人柄と、常に前向きだつた生涯から、私は多くのものを受け取っている。