マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『私には山がある』(著:田部井淳子 出版:PHP研究所)を読んで

2019年02月08日 | 読書

 田部井さんが腹膜癌のため77歳で亡くなられてから2年あまり経つ。その闘病の様子については『再発!』に詳しいが、『私には山がある』は、彼女の自分史と言っていいだろう。病弱だった子ども時代から始まり、山に夢中になった日々や、夫との出会い、エベレスト登攀のこと、がんで亡くなられる数年前までが綴られている。
 その前半は、2011/01/15のブログに書いた事と重複するので省略するが、後半は初めて知って、びっくりしたことが幾つもあった。今日はそちらを綴っておきたい。





 男性のパートナーとのみ岩登りをしていた20代のころ、佐伯ルミエさんという、別の山岳会の女性から「一緒に登りませんか」との誘いを受けて行動を共にするようになった。彼女より2歳年上の親分肌の気持ちのやさしい方で、何度も一緒に登攀を繰り返すうちに、田部井さんにとって”腹心の友”にまでなっていった。難関と言われる冬の谷川岳も二人きりで登った。ところが、1967年、その佐伯さんから誘われていた谷川岳に田部井さんはお父さんの7回忌のため行けかれなかった。その山行時、佐伯さんは他のパートナーとの登攀中に滑落死。つらいつらい別れを経験した。

 1975年のエベレスト遠征時、標高6400メートルの、安全といわれる地に第二キャンプを張っていた。真夜中にそこへ雪崩が来た。何トンという氷の塊が落ちてきてテーブルくらいにの大きさに割れて粉々になり、彼女たちのテントを飲み込んで行った。隊員5人は氷の下敷き。雪下で死を覚悟したとき、間一髪雪崩に巻き込まれなかったシェルパたちに救出されるも田部井さんは重傷。下のキャンプ地にいた隊長からは登山中止命令が出たが、隊長を説得し、最終的にはシェルパと二人頂上を目指し、エベレスト女性初登頂を成し遂げた。(写真:エベレスト登頂の前日、シェルパのアン・ツェリンと食事をとる田部井さん)
 二人の子どもさんを育てるには相当苦労された。母親が超有名となり、度々新聞に登場したりするようになると周りから冷やかされることが度重なり、母親が重荷になっていったらしい。息子さんは親に無断で高校を退学。心底悩んだが、親に反抗するのはいつかは通る道と気持ちを切り替え乗り切ってきた。(その息子さんは過日の朝日新聞に登場し、アウトドア―に関する仕事をしていると紹介されていた。インターネット上「両親の偉大さを痛感する」との文章も載せている)
 雪崩・親友の死・子どもたちの反抗、癌発病などの危機・困難に遭遇しても登山をけして止めなかった。”その国の最高峰に登る”を目標にして、マッキンリーなどの山々にも登った。東日本大震災後は東北の高校生を富士登山に招待する活動を実行した。ネパール王国から最高勲章を受章するなど数々の賞を受賞した。
 謙虚だった人柄と、常に前向きだつた生涯から、私は多くのものを受け取っている。