マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「安政の大地震」展を観る

2017年08月11日 | 映画・美術・芝居・落語

 巻機山登山から帰宅した翌々日の8月4日(金),「東洋文庫ミュージアム」で、”ナマズが暴れた!?”と副題の付いた「安政の大地震」展を観て来た。4月から始まった展示だが、徒歩5分強で行ける美術館、何時でも行けるとの思いが災いしたか、気が付けば8月6日の最終日は目の前に迫っていた。

 地震・津波・火山噴火・豪風雨・日照り・大火事・疫病・原爆・・・。私達の祖先は実に多くの災害に見舞われ、生き永らえ、時に復興を遂げて来たことが良く分かる。日本列島周辺では4つのプレートが鬩ぎ合い、大地震が多発し、台風の進路にも当たるため、その影響による大洪水が後を絶たない。地震に関しては、この30年に限っても、1995年の阪神淡路大地震、2011年の東日本大震災、そして昨年の熊本地震と、大きな地震が相次いだ。将来に目を向けても、南海トラフ大地震が30年以内に発生する確率は60~70%と言われている。
 
未来予測は兎も角、私は過去に日本で起こった地震をしっかりと調べておきたいと思っている。小説などを読んでいて登場することの多い安政の地震展を興味津々の思いで見て回った。

 幕末の1840年~50年代は、地震が多発した時期だった。1854(嘉永7)年には、マグニチュード8以上の巨大地震が2日連続で発生し、その翌年にも、大きな地震が江戸の町を襲った。この3つの地震をも含め「安政の大地震」と総称している。
 
1854年12月23日(旧暦嘉永7年11月4日)発生の地震は「東海地震」で、翌日起こったそれは「南海地震」。この2つは、駿河湾内と四国海底の深い溝「トラフ」が連動して起きたと考えられている。
 地震による津波は関東から九州に広範囲に発生し、伊豆から熊野に至る沿岸部では10メートル以上の大津波に見舞われた。伊豆下田を襲った大津波では、通商交渉のために来日していたロシア使節プチャーチンの船が沈没。多数の乗組員の死傷者を出した。その後、西伊豆でロシア人技術師と日本の大工たちの手により新たな船が建造されたという、美談めいた話も展示されていた。(写真:下田港で大破したディアナ号)
  
   
 (写真:『プチャーチン来航図』より、ヘダ号の進水式)

 江戸に関しては、翌年に起こった地震に直撃された。東京湾北部を震央とするマグニチュード7(推定)の直下型地震により、江戸の下町を中心に建物が倒壊。吉原をはじめ30ヵ所以上で火災も発生したため被害が拡大した。一説によれば死傷者は7000人以上とされる。
その頃には既に出回っていた瓦版では、増上寺・吉原・本所・深川、不忍池付近などで大きな炎が上がっている。
 展示はその地震がもたらした被害状況よりも、その後の江戸の復興や、災害を吹き飛ばすような庶民の心意気が展示の中心だった。
 安政江戸大地震の発生直後から2ヶ月間、「鯰絵」と呼ばれる浮世絵が沢山刊行されたそうな。当時地震の原因と考えられていた大ナマズを題材にしたもので、会場には様々な浮世絵が展示されていた。その中には、右の図に見られる如く、タケミカヅチとナマズを歌舞伎の演目に見立てた図もあった。庶民が一丸となってナマズを懲らしめている図はポスターに使われている。




 広重『名所図会』は江戸地震発生から4ヶ月後に始まり、完成までに3年を要したそうな。
 その中の「上野広小路」は、焼けた上野白木屋(現在の上野松坂屋。右の図)が復旧された図。「浅草金龍山」では地震によって曲がってしまった五重の塔の九輪が真っすぐに立ち、震災後の姿が描かれている、と解説されていた。

 
                    (雪中の浅草寺。右端に真っ直ぐな五重塔)


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