崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

公と私の区別

2012年04月23日 04時22分12秒 | エッセイ
下関では深夜風速26.6と風が強く、電車が止まった程であった。我が家のベランダの鉢は倒れ、葉が散らばって落ちていた。しかし昼からは最高の日和であった。大学のキャンパスに行ってみた。日曜日であったが守衛の方がきれいに片づけ作業をしていた。ある研究室には日曜日でも教員が在室している。その研究室の前に敷かれた足踏みマットがひっくりかえって、前夜の暴風の酷さを物語っている。私はそれを元に直した。他の建物の入り口にはスポーツ用ユニフォームを着た一人の学生が掃除をしていた。教員は気がつかなかったのか放置したままなのに、学生は隙間から入ったゴミを掃いてモップまでかけて掃除をしていたことが異様な風景としてイメージされた。その学生も歳をとるにつれてその教員のように目の前の他人ごとのようなことには関心がなくなるのだろうか。
 窓の外の花壇にも水やることもしないようになるのだろうか。それは許可をとらなければならない複雑な規制があるからだろう。「公と私」の区別がはっきりしている近代化された社会には公衆道徳を受け身的に一方的に守るだけで、積極的に「私」が「公」へ積極的に関与することはできないからである。そのためには申請、提案など複雑な規制や掟がある。規制を守るために、人は他人事に無関心な「孤人」にならざるを得ない。

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