昨日は穏やかな春の日、「川野一郎展」を見てきた。油絵、パステル、水彩など20数点の個人展である。城下町長府の観光一番といえるところにある「梵天」画廊で行っている(写真中)。パステル絵がきを趣味としている石本弘之氏を誘って、家内と3人で行った。画廊に至る路の土垣と桜や椿の自然に案内されるような気分であった(写真上)。数日間、一歩も外に出ず執筆していたので足が重かった。画廊には約束はしていなかったのに川野氏がおられた。彼は千葉出身、東京芸大を卒業して若い時に東亜大学に来られて20年という年月を下関で暮らし、今は地元の人のように下関を生きている人である。椿のある庭にある展示室の見える店内でコーヒーを飲みながら、大学の中に展示空間を作ろうなどという話も出た。私が言う展示空間とは室内だけを指すものではない。展示だけならば倉庫でもよいが、広い展示環境を備えなければならないという思いがある。
数日前には曽田聡氏らの写真展を見てきた(写真下)。交通が便利な市内の西信用銀行のギャラリーで行われていた。そこは展示環境は自然ではない市街である。しかし人道橋などの市街の中の美的空間は市の文化生活に勢いを加える意味がある。人口が少なく、シャッターがダウンされ、悲鳴だけではなく、このような展示、音楽会など質高い文化生活が進展することを願う。このよう話は数年前拙著『下関を生きる』に詳しく書いた。
最近拙著に対する読者からのコメントが貯まっている。面白い、幅広いなど、礼儀的な言葉もあるかもしれないが嬉しく受け入れている。中には「日本語が上手い」というものがあり、その言葉が気になる。日本に来てから最初から聞いた言葉である。外人が一つの単語を言っても拍手や誉め言葉が出る。ある人は文章を公文書のように書き、私の日本語の間違いを指摘する。その点では私の日本語はまだまだ足りない。しかし考えて表現する文で日本語が上手いといわれたい。まだ細かいニュアンスを日本語でこなす力は足りない。「日本語が上手い」というコメントは本当は何を意味するのだろうか。
言葉は習慣性ですから、、、そんなに深刻に考えることはないと思います。