崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

墓の観光とは

2014年02月23日 04時18分14秒 | エッセイ
 私は大きい研究テーマの「帝国日本」が頭から離れることなく、現地調査に臨んでいる。戦前台湾と石垣島は国境はなく人とモノが往来したが、戦後国境を挟んで人々は巧みに国境貿易を行なってきたことを知った。しかし沖縄と言えば戦争や米軍の話になるが、意外に戦争の話が少なく、まさに民俗調査であった。
 昨日は違った。まずわがグループは西海岸にある「慶来慶田城翁之墓」を訪ねた。錦芳氏一門が立てた「頌碑」であるが、その横に2002年建てた「尖閣戦時遭難死没者慰霊之碑」がある。2011年八重山農林高等学校緑地土木科がその基壇の土木工事をしたとのことである。慰霊碑の「尖閣」と今、国境問題の「尖閣」とがは異なるがダブっていて、ナショナリズム現象も伺われる。
 また海沿いの道の北西には唐人墓がある。中国福建省出身者128人の霊が祀られている。参拝客ではない観光客が手を合わせる光景がある。世界各地の墓を多く見たが日本では墓を観光とすることは珍しい。案内板に「琉球王朝は人道的に食糧や水を運び、中国人側の被害が少なくなるよう配慮した」という。日本と台湾の友好親善の宣伝のようである。また数個の記念碑がある。一つは太平洋戦争末期、石垣島に来襲した爆撃機が撃墜され、3名の米軍兵士は日本海軍に逮捕され捕虜となり刺殺、斬首により殺害された。戦争の悲惨さ、日本軍の残酷さを訴えるのだろうか。平和について考えさせられる場所である。
 そこから北へ走って製糖工場見学を申し込んだが硬く断られた。サトウキビを積んで出入りする車、煙突の煙を見るだけで残念であった。大金を使ってCMを出すのに見学を認めない事情はいろいろあるだろうが戦前の軍事工場ような雰囲気を感じた。
 歩いて会場へ行く途中、数か所の御嶽を見つけた。イビ(石)を祭っている御嶽でも堂を建てて、神社化したものが多い。沖縄の日本化が進んでいる。誰かが言った。南では戦前一等国民は日本、二等国民は沖縄、三等国民は台湾だと、そして北では日本、朝鮮、中国(満州)のようである。古代中国は周辺民族を北の戎、東の夷、南の蠻、西の狄と言った中華思想の面子が日本に逆転された時があった。
 午後の総合討論では石垣と台湾の関係について発表と議論が行われた。島袋綾野氏の「考古学から見た石垣と台湾」では洗骨葬の甕の写真をもって語った。続いて王滝氏の親善交流会、華僑会などの関係者が発表した。みな見捨てられたような危機感、不満を日本政府に向けているように感じた。中華料理屋で最後の懇親会ではその発言者の一人の画家であり石垣市文化財審議委員の石垣博孝氏(75歳)と同席した。彼は私の生まれ故郷の楊州の仮面劇を見てきたという。さらにその案内者が李杜鉉先生だったという。私の驚きは言うまでもない。去年亡くなられた私の恩師であるからである。また先生が40年前この島に来て墓や洗骨葬を調査した時には石垣氏が案内した話で二人で、私は彼と乾杯を繰り返した。にぎやかな宴席の隣部屋では太鼓と三味線の音がして覗いてみた。結婚して初出産の幼児を祝うパーティだという。この祝いの気持ちで全調査日程が終わった。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿