韓国の出版社の会長は1932年生まれ、中学生まで植民地教育を受けた人であり、「たばこ」という看板を見て懐かしく、歓声をあげた。何度も日本人は質素な生活をしている、小さくとも庭などをきれいにしているなど、印象を述べながら韓国と比較した。日本植民地との関係のある出版計画を議論した。私は多くの仕事を受けて喜んだ。それを多少無理でも積極的に引き受けているのを傍でみた家内が私の欲張りから若さを感じたという。彼らは私の作品の全集や記録院への保存などに触れていたが私は応じなかった。ただ楽しく仕事をして去っていけばそれでいいと返事した。まず1960年代から撮った写真、映像、そして日記から抜粋して本を書くことにした。また1000ページ近い日本語の書籍を翻訳する約束をした。ますます忙しくなる。「休むのは死んでから」という信条を貫く考えである。