goo

往還日誌(109)







■11月20日月曜日、御茶ノ水駅前。

土曜日は、午前中、京都大学の基礎物理学研究所が主催する『学術変革領域A「極限宇宙」市民講演会(第二回)』というウェビナーに参加。かなり面白かった。夕方から、公開講座『ルカーチの存在論』31周年第5講「ケアされる身体と社会性の難問」へ。これもまた、非常に面白かった。

日曜朝は、朝からヘーゲル読書会『精神現象学』を原典で読む会。これもまた、いろいろ、実りあった。

今回の若宮滞在は、かなり成果があり、行きたいところに行き、会いたい人に会い、やるべきことをやった。ただ、ひとつ、ニコの仕事ができなかった。これを京都滞在の中心課題としたい。

また、両眼の緑内障ボーダーのセルフ・ケア方針がだいたい定まってきた。眼に対する気功・手当てを中心にして、眼のツボの指圧、ウォーキングなどを時間を計って行う。恐らく、眼科医は、エビデンスがない、と言うけれども、やれることはやってみるというのが最善の道だろう。100歳まで目は元気にもたせないといけない。



京都大学の基礎物理学研究所が主催する『学術変革領域A「極限宇宙」市民講演会(第二回)』というウェビナーに参加。かなり面白かった。

・前半は、中田芳史(京都大学基礎物理学研究所・准教授、専門:量子情報理論)さんが、「量子情報-量子の奇妙から情報へ、情報から物理へ-」というテーマで1時間程度講演。

・後半は、白水徹也(名古屋大学多元数理科学研究科・教授、専門:宇宙論)が、「2023年極限宇宙の旅-ホーキングが残した課題を道しるべに-」というテーマで1時間講演。

・中田さんの講演の前に、このプロジェクトのリーダーである高柳匡(京大基研)さんが、あいさつの中で、興味深いことを言っていた。

・これまで、時間や物質や空間といった物理学の概念で個別に宇宙や世界について、説明しようとしてきたことが、量子情報論で、統一的に正確に記述できるパラダム・シフトが起きているという。これをプロジェクトでは、「極限宇宙」と呼んでいる。

・これは、自然界の基本的な構成要素を「量子情報」と捉えることで、それが可能になる、という非常に面白いもので、これがこの市民講座の共通のコンセプトになっている。

・中田さんは、これを踏まえて、量子情報科学の最先端で起きていることを説明してくれた。

・量子情報科学=量子力学+情報科学と考えてよく、量子力学の基本的な考え方である「原子の位置は<測定>するまで決まっていない(知られていないのではなく、決まっていない)=原子は存在確率としてしかその位置は理解できない=いわゆる「トンネル効果」の出現」の説明から入り、素人にもよくわかる説明で面白かった。

・ただ、そもそも、「<測定>=位置の決定」が必要になるのは、人間の労働活動の文脈と切り離すことができない。この人間の「社会的実践モデルとしての労働」を、量子情報科学は、組み込めておらず、突如、<測定>に言及し始める点が理論的な不備のように思える。

・また、存在を分割していくと、全体システムが理解できるという要素還元主義を、量子力学は無意識に前提にしており、全体の理解の次元(創発特性や複雑系の問題が入る)と原子レベルの理解の次元は異なるのではないか、という質問を中田さんに行ったが、残念なことに、行き違いで、答えを得ることができなかった。

・中田さんの話でとくに、面白かったのは、量子コンピューターの話で、量子力学における、原子の重ね合わせの性質を利用して、スーパーコンピュータと違って、一度に、一挙に計算が量子コンピューターはできるので、計算が速いのだと思っていたが、それは、そうなんだが、量子コンピューターのアウトプットも、重ね合わせの形式で出てくる。

・この結果として、人間が答えを使用するには、答えを定めなくてはならない作業が入るために、普通のスーパーコンピューターと違わない速度になることも多い、という。

・ただし、問題によっては、スーパーコンピューターで数億年かかる問題が、量子コンピューターでは8時間で解けるケースもある(素因数分解など)という。

・やはり、ここでも、人間の労働形式による規定を、量子コンピューターの計算の答えが受けていることがわかる。

・中田さんは、量子現象はノイズに弱いと言っており、これを排除することが現在の研究者の最大の関心事の一つだと言っている。このノイズをキャンセルする技法に、「量子誤り訂正」というものがあり、この一連のノイズーノイズ・キャンセルという「技術的な考え方」を、なんと、ブラックホールなどの宇宙論の「自然認識」に応用しようという方向があるのだと言っていた。具体的には、私もよくわからない。

・後半の白水さんの話は、宇宙論で、これも大変面白かった。なかでも、ペンローズが1965年に発表した「特異点定理」では、時空は未来に「特異点」(時空の端)を持つという結論が導かれる。

・ホーキングは、この定理を拡張し、時空には「端」があり、過去に、この「端」が存在したことを、ホーキングは、理論的に証明している。

・ペンローズもホーキングも、時間が過去・現在・未来に一直接に進むと前提している(特異点定理では、これを「タイムマシーン」は存在しないと仮定している)。この理解で正しいかどうかわからないが、仮に正しいとすれば、この点の時間の定義と理解に疑問が残る。

・時間の社会的側面と自然的側面の弁証法的な関係が、この定義には欠けているからだ。この点が、TB-LB Theoryにおいて、思索の中心課題になると思っている。

・「特異点」(時空の端)の前と後には、なにがあるのか。その場合、「ある」とはどういう意味か、また、どのように「特異点」(時空の端)から時空が生じたのか。この点を白水さんに質問したが、時間の関係で答えを得ることができなかった。



・この現代物理学の最先端の話を、ヘーゲルの『精神現象学』における「法則」の議論と対照させると、非常に興味深い。

・『精神現象学』(1807)は、知識論として私は読んでいる。知識に進化の段階がある、というのがヘーゲルの基本的な議論の枠組みで、法則定立を行う知識は、知性(Verstand)と呼ばれている。

・ヘーゲルは、個別の法則を、統一する普遍的な法則を求めるのが知性(Verstand)の働きだと言っている。数多の法則は、統一されるという知性の志向性には、近代社会が、ちょうど、一つの民族国家(nation-state)として統合を始めた時期に対応している、と哲学者のNさんは言う。つまり、統一法則を求める知性の運動は、民族国家が社会統合を求める運動の理論的な表現だということができるのである。

・この統一法則の代表として、ヘーゲルはニュートンの「万有引力」の法則を提示する。

・これを読み替えると、ニュートンの「万有引力」の法則(「万有引力」という考え方は、ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』(1687年刊行)で表現されている)というのは、近代の社会統合の理論的な表現とも言えるのである。

・「時間や物質や空間といった物理学の概念で個別に宇宙や世界について、説明しようとしてきたことが、量子情報論で、統一的に正確に記述できるパラダム・シフト」という現代物理学の変革は、将に、この延長線上で起きている。

・ヘーゲルのニュートンの「万有引力」の法則に対するスタンスは、二重であり、批判と評価がある。

(これについては別途議論してみたい)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

一日一句(3109)







煮凝や前触れに似て夜の雨






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

往還日誌(108)






■11月17日、金曜日、さいたまの山茶花。

11月も下旬に入ってきた。今月と来月は、ライフワーク関連で、ルカーチの原稿の締め切り、ニコの仕事、TB-LB Theoryのアップデートと、3つの課題があり、週末はかなり忙しい。

日頃、散文で、ガザに関連する情報を調べたり書いたりしているが、ガザで、もう一回、詩の力をもう一度呼び出そうと、きのう、寝る前に決めて、おおよそのコンセプトをメモして、きょう、仕事が終わってから、一気に書き上げた。5、6回推敲してほぼ完成させた。「GAZA――ここに『ある』こと」。

第4詩集は、カバーの印刷で、壁にぶつかり、七月堂のCさんが、いろいろ、考えてくださっている。ちょっと、特異なカバー印刷になった。帯文は、詩人の野村喜和夫さんにお願いして、快く引き受けてくださった。

王朝の和歌は、西行や実朝など、一部の歌人を除いては、古今集と新古今集を読むくらいだが、先日、式子内親王の歌を、読み直してみて――知らない歌もずいぶんあったが、その深い孤独に改めて打たれた。式子内親王は、定家との逸話が能「定家」にもなっている。「定家葛」という植物の名前にも、2人の関係の痕跡、とくに定家の式子への執着の痕跡が、とどめられているが、どうも、この話は架空の物語であり、実際の式子内親王の心は、法然にあったようなのである。そういう学説が定まりつつあるらしい。

以前、定家の執着をモチーフに詩を書いた。




 Untitled           



 絡みつく

 白

 が絡みつく

 ――時が枝をこぼれる

 絡みつく

 死

 が絡みつく

 一回性の中の定家かずら

 渾身のその眼の光――

 遠ざかる遥かな時の
 寂しくて残酷な手のそよぎ

 

 白




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

一日一句(3108)






歳よりも若く見られて返り花






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

一日一句(3107)







ドーナツの話してゐる霜夜かな






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

一日一句(3106)






冬の星見てきた息の深さかな






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

往還日誌(107)







■11月14日、火曜日。大宮氷川参道の夜の木々。

週末、きちんと休めていなかったので、きのうの月曜日は、夕方から、身心がかなりきつくなった。昼休みに市議会選挙の期日前投票を済ませ、夕方、メガネの調整にメガネシティKへ行く。

ご主人のKさんと少し話すと、肺がんが再発して化学療法を受けているという。髪がすべて抜けていた。Kさんの奥さんもパーキンソン氏病が悪化している状況にあり、ショートステイに行っている。

お子さんは、長浜で生活していて、なかなか、こっちへもどれない。厳しい状況だが、死ぬまで元気に、この仕事をしたいと明るく話しておられる。あやかりたいものである。



なぜ、社会システムは、マイノリティを常に、再生産するのか。つまり、差別を受ける人々を一定程度、常に作り出すのか。差別の問題、あるいは人を劣った存在として決めつけて見下す問題は、100年前の関東大震災の朝鮮人らの虐殺から、100年後のウトロへの放火といったヘイトクライムなどに、2022年7月8日の安倍さん暗殺のときの、朝鮮人がやった、といったネットを中心としたデマと、その後の、社会の反応などに現れている。

これは、日本社会では、ロシアに好都合になる情報として、まったく問題にされないけれども、2004年から始まり、2014年以降激化した、ウクライナのロシア系住民に対するウクライナの親欧米政権の虐待や差別、ジェノサイドともつながり、今、目の前で行われている、イスラエルによるパレスチナ人へのジェノサイドと一直線に連なっている。イスラエル人は、少数の例外はあるものの、パレスチナ人を、humananimal(人獣)と呼ぶ、ヨアヴ・ガラント国防相と、同じ差別意識を持っている。

さらには、津久井やまゆり園の事件を引き起こした植村聖の障害者への勝手なラベリングも、同じ、線上に連なっている。

差別している側の個々人の視点や感情とは別に、社会システム全体の視点に立つと、それが人権問題や国際人道法違反などの法的な問題だけではないことが見えてくる。

社会システムは、なぜ、常に、マイノリティを必要とするのか。社会システムは、そのマジョリティとの区分を、民族や性差、年齢や身心の条件など、恣意的に作り出しながら、差別や見下しや虐待、殺人まで作り出していく。

これを、社会システムにおける、統治の観点と資本主義の観点で見直すと、「民衆の分断統治」と「搾取するための外部の産出」という2つの側面があることが見えてくる。

分断統治は、古代ローマ帝国まで、その起源をさかのぼり、15世紀から始まった欧州と米国による奴隷貿易と、その後に今に続く植民地経営における必須の統治技法となった。

現在の植民地主義は、外部に展開すると同時に、深く内部にも展開しており、これが、「民衆の分断統治」として現象している。

資本主義は、絶えず、採取するための「外部」を作り出す。それは、植民地主義と非常に親和性が高い。互いをエンジンとして互いを推進している。資源搾取や奴隷労働として、「外部」を作り出していたものを、同時に、メビウスの輪のように、内部にも作り出してきている。

それが、「マイノリティ」として、マイノリティを再生産し続けていることの背景にあるのだと思う。

このとき、2つ重要な観点がある。

それは、社会システムについて議論するとき、差別されている人々――私の概念で言うと、「歴史的被害存在」――の実存的な苦悩や感情的な痛みに定位することが前提となる、ということである。

もう一つは、社会システムがマイノリティを再生産するとき、「知識」や「理論」が、統治権力と、操作された民衆に使用されるということである。たとえば、優生思想や、社会ダーウィニズムが典型である。

問題は、内容妥当性に問題がある、知識や理論ばかりではない、という点がやっかいなところなんだと思う。また、内容的に問題があっても、社会的に支配的になってゆくメカニズムが、社会の側に存在するという点が、さらに問題を複雑にしている。現に、ナチスのT-4作戦は実施され、その木霊は、現在も至るところに聞くことができる。

こうした問題群こそ、社会哲学・知識社会学のテーマであろうと思っている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

往還日誌(106)





■11月12日、日曜日、曇り。大宮氷川参道。

若宮へ帰還して早くも1週間。若宮は鳥の聲が静かである。19日に市議会選挙があるので、選挙カーが毎日来ている。気になっているのは、極右の参政党の候補者の宣伝カーが、毎朝、巡っていることである。地方議会から浸透してゆこうとするのは、維新と同じである。

珈琲がまた毎日飲めなくなったので、四条烏丸の紅茶専門店でアッサムとダージリンを購入し、若宮にはアッサムだけ持ち込んだ。

金曜日の朝、医院から帰り道、右目にも飛蚊症が現れた。これで両眼とも飛蚊症となった。眼のケアを本格的に考えないといけない。

土曜日、京都にいるときから念願だったMELLOW BROWNのパンケーキを久しぶりに食した。UCCフードサービスシステムズ株式会社が運営主体で、神奈川や埼玉などに店舗展開している。関西では、今のところ、イオンモール京都桂川にだけある。

土曜日は、免疫学者で科学哲学者の矢倉英隆さんのセミナー「サイファイ・フォーラムFPSS」へ出席。
とくに英国の社会学者、ハリー・コリンズの「『専門知を再考する』を読む」に関心があった。発表を聴いた後、議論を行う。かなり活発な議論が行われた。

セミナーのあとに、矢倉さんに送った私のコメントは、今時点での「知識と操作性」に関する関心を反映しているので、記録しておきたい。このコメントは、サイファイ・フォーラムFPSSのHPにも掲載されている。

------------------------------------

コリンズの「専門知を再考する」がとくに興味深いものでした。

私は、知識そのものが、社会的意思決定と直接つながる時代は終わったと見ています。

基本的に、「知識が個人の自由な選択のために使える条件」を整えることが、
当該の知識の内容の妥当性とともに、問題となるべき時代になったと思っています。

現代でも、形式的には、知識は個人の選択の自由のためにありますが、事実上、
そこには、本来の意味で「自由」は存在しません。

原発問題にしても、ワクチン問題にしても、我々が気がついたときには、始まっていた、
というのが現実です。

現代において、知識は、意図的か否かは別として、
必ず何らかの操作性を帯びています。

これを回避するために、知識は、当該知識の知識社会学的な分析と一体で提示されるのが理想ですが、原理的にそれは難しいので、知識の操作性が抑制できないのだと思います。

たとえば、当該知識が、物事を進める統治権力の代行として「機能」しているのか、原発被害者やワクチン被害者の救済として「機能」しているのか、見極めるために、知識社会学的分析は必須です。

これは、「知識の機能性の問題」です。

さらに、民主主義は単独で存在していません。必ず、資本主義とセットです。物事を進める統治権力は、業界票や献金、あるいは、諸々の国の専門委員会を通じて、産業界から強い規定性を受けています。

この規定性が、統治権力が採用する知識の「使い方」をゆがませています。たとえば、原発推進政策において、数学の確率論が、原発のシビアアクシデントが現実的に起こりえないことの根拠とされました。

また、民主主義は、一国で完結していません。日本の場合、必ず、日米同盟あるいは西側同盟国との軍事・経済同盟の大枠があり、産業界による規定性以外に、統治権力が民意を反映しにくい要因の一つとなっています。

こうした国際関係の大枠も、統治権力が採用する知識の「使い方」に大きな影響を与えています。

これらは、「統治権力による知識の使い方」の問題です。

社会において、知識が問題となる場合、第一義的には、知識の内容の妥当性が問題となります。
しかし、知識の機能性(だれの、何のために機能しているのか)や使い方(たとえば、恣意的な時間区分や空間区分など)は、あとから、問題にされることが多く(場合によっては、後からわかることもあります)、こうした知識社会学的な知見が提供されるまでにタイムラグがあります。

提供された時には、社会には、別の新しい問題が起きており、古い問題解決は注目されないので、こうした知識社会学的な知見が、制度設計や政策になかなか反映されない、という現実があると思います。

こうした広い意味での知識批判は、主に社会学者やジャーナリストの仕事ですが、知識の生産者である科学者(社会科学者も含む)と知識の消費者である市民も、この作業に参加することで、「知識の知識」の重要性が社会的に認知されてゆくのではないでしょうか。

------------------------------------------

知識の問題について、土曜日のセミナーで、改めて、関心を深めた。矢倉さんから、来年の発表を打診されているので、ニコの仕事を早く仕上げて、知識の問題と操作論とをリンクさせてみたい。

きょうは、朝7時に起きて、ルソー読書会の準備と読書会。いくつかの読書会と、カード・システムをリンクさせる試みをしようと思っている。

午後から、松戸市へ。小説家の黄英治さんと2時間くらいカフェで話し込む。

夕方から、竜ケ崎へ墓参に向かう。竜ケ崎の夜は深い。

夜、8時前に帰宅。

夜、詩「ウトロ、あるいは燃える鳥」を黄さんとの会話を踏まえて、推敲してver.4を作る。

週末、ニコの仕事ができなかったので、明日朝に回すことに。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

一日一句(3105)


さいたまの道






落葉またわが身ひとつで生まればや






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

一日一句(3104)


さいたまの道






冬薔薇を代々としてテロリスト


国境をはさんだイスラエルとの戦闘で死去し今週ベイルートで埋葬されたヒズボラの戦闘員に。代々テロリストの一族で戦いで命を落としたのは彼で一族の5人目だという。







コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »