goo

西行全歌集ノート(38)




旧暦8月15日、中秋の名月、月曜日、

土曜日は、市川の文学ミュージアムで、隔年で実施されている「鳴海英吉研究会」で、「日蓮宗不受不施派」について講演を行う。4つのパートを考えていたが、半分しか、時間の関係上話せなかった。それは、1 不受不施派の起源 2 不受不施派の現在-千葉県香取郡多古町島の取材から- 3 近代国家官僚制と不受不施派(不受不施派の近代化) 4  不受布施派の俳人、相葉有流について 3と4は、今後、深めて、別の機会に、発表することになるだろう。

日曜日は、柏で文献整理。8日目。なかなか進まない。最後に、参加者で集まって第一回「わからずや会」を実施。この会は、前回の文献整理日に、先生のテキストをめぐって激論になったことから、じっくり議論を深める趣旨で始めたものである。「わからずや」の集団という意味と、簡単にわかった気にならない、という意味を込めている。今回は、ルカーチの『若きヘーゲル』から、positivismの起源になる節を議論した。翻訳では、却ってわからなくなることが多く、(とくに、重要概念「positivitaet」に関しては)ドイツ語原文が柏にあるはずなので、次回は探してみたいと思っている。



分けて入る庭しもやがて野辺なれば萩の盛りをわがものに見る  山家集 上 秋

※ 庭と野辺の境界がなく、住居から庭へ降りると、そのまま野辺になり、萩の花野になっている情景に惹かれた。花を「わがものに見る」という感性は、近代の所有の感覚ではなく、むしろ、萩の花野と自己との一体的な感情なのだろうと思う。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 一日一句(1188) 一日一句(1189) »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。