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飴山實を読む(47)

■旧暦12月29日、火曜日、

ぼくの俳句や詩や、あるいは、ぼく自身に一番欠けているものは何か、と問うたとき(まあ、金は別にして)、「笑い」だろうと思う。そこで、「笑い」について、いろいろ調べているのだが、なかなか奥深く興味が尽きない。もともと、笑いは神様を笑わせるところから始まっている。「をかし」という言葉も平安朝の「趣深い」という意味から現在の「おかしい」という意味へと変わっていくのだが、この二つは二重らせん構造のように表裏一体みたいなところがある。それは、俳句が、もともと、風流と笑いを二重に備えていることと対応している。

噺家の柳家小さんは、お客さんを笑わせちゃダメだ、と常に弟子に語っていたという。小さんの落語を聴くと、客の笑いを取るという感じはまったくない。こっちが思わず笑ってしまうのである。俳句の笑いも、これに似たところがあるのではないだろうか。自然に読み手が笑ってしまう句が上等なのではないだろうか。ところで、噺家/客、俳人/読者という二元論を取っ払ったとき、笑いはどうなるのだろうか。笑いは一つの運動となり、苦悩や悲哀、辛さといったネガティブなもの総体を昇華する働きそのものになるのではないだろうか。

芭蕉の俳句に感じるのは、この種の笑いである。これは、静かな微笑となって、自らを救済すると同時に他者を救済する。

(写真)とある駅舎




たはやすく谺する山たうがらし


■「たはやすく」は「たは(接頭語)+易く」。この音のなんとも言えないやわらかさに惹かれる。「たうがらし」で秋。少しの声でも容易に谺する深山が想像される。この唐辛子は山家の軒先に干されているのだろうか。紅葉にはまだ早いが、確かな秋の気配が唐辛子の赤に感じられる。
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