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Cioranを読む(33)


■旧暦3月6日、金曜日、、仏生会、虚子忌

(写真)ホームの道

午前中は、英訳、午後は、翻訳、夜は塾で国語を教える。介護関係の連絡。その合間に放射能の数値チェックと地震の心配。奇妙な忙しさの中にいる。3.11の日常とは、ぼくには、こういうものらしい。真の敵とは誰なのか、あるいは、何のか。消去法で消していくと浮かび上がって来るものとは…。地球的な共犯構造。それにしても、虚子はいい季節に死んだ。

ガウス(1777-1855)とヘーゲル(1770-1831)は同時代人ということに気が付いた。ガウスの理論的な業績は、ぼくには、理解できないが、一つ、面白いと感じるのは、ガウスが著作『アリトメチカ研究』(1801年 ガウス24歳)で、円周等分方程式論という幾何学の問題の本質を整数論に見ているところで、ここには、図形問題の本質が数論だという直観が働いている。こういう問題の「質的変換」のアイディアは、現代数学の分野では、たぶん、多いはずだが、門外漢には、実に新鮮に思える。

哲学的な議論では、こうしたアイディアは、一通り展開されたあと、次世代に引き継がれて、新しい展開を生むパターンが多と思うが、数学では、アイディアと「証明」は一体的に現れる。むしろ、質的変換のアイディアは証明のためにある。ガウスは、円周等分方程式の考察から、平方剰余相互法則の証明原理を取りだしてくるのである。ぼくの理解の浅さかもしれないが、数学という閉じた系が、無限に広がってゆく感じがして、どこに、社会や歴史との接点があるのか、見えにくい。その点を考察したのが、ヴィトゲンシュタインの『Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik』やブルアの『KNOWLEDGE AND SOCIAL IMAGERY』なのだろう。それにしても、数学のアクチャリティとは何だろうか。数理社会学など、社会や歴史に数学を応用しようとすると、底が浅く見えてしまう。このことも考え合わせると興味深い。



Perdre le sommeil et changer de langue. Deux épreuves, l'une indépendante de soi, l'autre délibérée. Seul, face à face avec les nuits et avec les mots. Cioran Aveux et Anathèmes p. 30 GALLIMARD 1987

眠りを失うことと言葉を変えること。二つとも試練である。一つは、自分の意志ではないが、もう一つは、自分の意志である。一人で、夜と向きあい、一人で言葉と向きあう。
  
■言葉を変えるという行為は、なかなか、面白いと思う。

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