verse, prose, and translation
Delfini Workshop
Cioranを読む(1)

■旧暦12月5日、土曜日、

(写真)ラボー地区
今日は哲学塾だった。シオラン(1911-1995)の話を聴く。シオランは、ルーマニア生まれのフランス語の文学者。少し前から、ぼくも、この人を調べていて、非常に興味を持った。シオランは、24歳のとき、母親から「こんなにお前が不幸になるなら堕胎すればよかった」と言われたという。この言葉が思索の一つの源泉になり、本質や実体は世界にはなく、あるのは、偶然性のみだという思想を抱くにいたったらしい。実をいえば、ぼくも母親から同じことを言われたのであるw。30歳の頃だったろうか。こちらの方がシオランより強烈で、「お前は堕胎するはずだった」という。そうなるにはやはりわけがあり、母親と祖母の関係が異常に対立していたことから、長男であるぼくを堕胎して離婚するつもりだったというわけである。続けて、こう母親は言った。「お父さんが、せっかく宿った命だから産みなさいと言ったのよ」と。これは、人生における最大級の衝撃の一つで、このときは、自分が立っている大地が足元から崩れ落ちるような気がしたものである。この言葉は、父親が亡くなってから出て来た言葉で、生きていれば、出てこなかったろうと思う。人が死ぬというのは、真理が開示されるということでもある。
シオランは、この母親の言葉で、存在の偶然性を強く意識したが、ぼくは、このとき、存在の偶然性を感じただけでなく、その中には、必然性が存在すると感じざるを得なかった。ぼくを確かに呼んでくれた父親の存在である。存在は、元をただせば、偶然的なものだが、それが集合して社会集団になると、必然性を構成する。偶然の必然性は、社会諸制度や商品、貨幣などの社会的な存在を考えてみるとよくわかる。このときの必然性は、むろん、両義的である。
父親に、命を救われたのは、二度ある。最初は、生誕そのものを救われたのであり、二度目が、狂気から正気に戻るときの通路になってくれたということがある。このときには、「確実性」が、ともかく、必要だった。そもそも、現存社会が狂っている中で、いったん失われた「確実性」を再度調達することが、どれだけ困難かは、いったん、狂気に陥ると、なかなか、こちら側の世界に戻れないことでわかる。この「確実性」の再構築という問題は、実は、必然性の両義性とも、偶然の必然性とも深く関連するイデオロギー論の問題と言っていいと思う。
言葉は危険でもあり救済でもある……。
☆
シオランは、24歳ときの母親の言葉だけでなく、さまざまな精神的な苦悩を経験している。そうであるから、次のような言葉で、自他にクギを刺すのを忘れない。なかなかのオヤジである。
何か苦難に堪えたことのある者は、苦難に遭わずにすんだ者たちを、尊大に見下ろす。手術体験者たちの、あの我慢ならない思いあがり…… 『告白と呪詛』(出口裕裕訳 紀伊国屋書店 1994)
次の言葉もなかなか強烈。
古代人たちは、成功というものに不信を抱いていた。それも単に、神々の嫉妬を怖れたというだけのことではない。どんな類のものにせよ、成功は、かならず内的な均衡喪失を伴なうと考え、その危険をこそ怖れたのである。成功の脅威を知っていたとは、現代人に比べて、なんという優越ぶりであろうか。 『同書』
近いうちに、原著を取り寄せて読みたいと考えているが、当面、翻訳で読んでみる。シオランの好んだアフォリズムやエッセイ、断章という形式には、大変興味を覚える。また、シオランが音や響きに関心を持っていたという、今日の哲学塾の話にも、アファナシエフとの関連で、非常に興味を覚えた。
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Sound and Vision
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