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長谷川櫂著『新しい一茶』




■長谷川櫂先生の新著『新しい一茶』を読んだ。先生には、いつも驚かされる。今回も、この本には、驚いた。小著とご自分では言われているが、これを論じるのは、並大抵ではない。扱っている問題が大きいからである。この本は、一茶の再評価を表のモチーフとするなら、通奏低音のように、現代俳句を書くために、というモチーフがもうひとつ裏側に貫かれている。その意味で、この本は、芭蕉・蕪村・一茶の系譜の組み換えと近代俳句の見直しという文学史上の問題意識とともに、実践的な意図が隠されている。一茶を現代俳人の源流と見なし、一茶からいま何を学べるのか、そう問いかけているのである。

考えてみると、芭蕉の蕉風開眼を論じた『古池に蛙は飛び込んだか』にしても、世界的に有名な古池の句の新しい解釈を通じて、芭蕉の心の世界の広がりと、それを呼び起こす外部世界との二重構造を、一句の構造として、実践的に示したものだった。少なくとも、わたしは、そう受け止めた。

一茶を現代俳句の源流ではなく、現代俳人の源流と言ったのはわけがある。句だけを問題にしているのではなく、一茶という人間存在のありようの「新しさ」をこの本では問題にしているからである。近代という概念は、modernの翻訳語である。modernは、いまに近い時代というrecent ageという意味での近代ではなく、もともとは、「新しい時代」を意味していた。その内実は、model(範型・モデル)が大量にmode(流行)する社会のありかたを指すと言っていい。その始まりを家斉の治世と、先生は捉えている。わたしは、この時代の知識があまりないので、なんとも判断はできない。近代をどうとらえるか。これは、非常に大きな問題であるが、従来の時代区分を批判する形で、新しく近代の起源を措定したのは、ひとつの勇敢な試みだろう。

modernは言うまでもなく、欧州社会をモデルにして概念化されたものである。イマヌエル・ウォーラーシュタイン(1930-)の「世界システム論」以降、近代世界は16世紀の欧州に始まり世界化した、という理解が一般的になりつつある。そもそもmodernとはなにか。われわれにとってmodernとは何だったのか、われわれのmodernとはなんだったのか。こういった一連の問題が、問われてくるだろう。

一茶を再評価したのは、実は、先生がはじめて、というわけではない。戦前の荻原井泉水からはじまって、楸邨、兜太と、新興俳句系の流れの中で、一茶の評価・研究の蓄積がある。この俳人たちも、おなじように、一茶の現代性に気がついていたのだろうと思われる。そして、それぞれに、自分の俳句という形で、一茶に学んだ結果を出した。この系譜の評価・再検討が、必要になってくるのではないだろうか。

この問題は、次の大きな問題へとつながっている。われわれは、いまも近代社会に生きていると、漠然と前提しまいがちだが、実は、現存社会はすでに、質的に近代とは大きく異なっている。高度に情報化され、高度に消費社会化された、使用価値よりも交換価値が格段に優位した社会に生きている。この断絶は、ベトナム戦争や公民権運動など、一連の世界的な事件が起きた68年のパリ五月革命前後と見なされている。つまり、現代社会はポストモダンに移行しているのである。この点を踏まえると、源流の一茶に学ぶと同時に、一茶に学んだ人々の成果を、再検討してみる余地があると思えるのである。

『新しい一茶』では、歴史性を踏まえた、さえわたった鑑賞の数々を読むことができる。鑑賞にこれだけ、歴史を導入した例は、ほかに知らない。数々の卓見を含み、考えさせられる刺激的な好著である。





松尾芭蕉 おくのほそ道/与謝蕪村/小林一茶/とくとく歌仙 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 12)
クリエーター情報なし
河出書房新社



















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