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ケインズの『説得論集』を読む:「孫の世代の経済的可能性」(1930) (2)

(写真)無題

「孫の世代の経済的可能性」の後半は、ケインズの時代から100年後、2030年の世界のありようを予測している。マルクスの経済学哲学草稿にあるような革命後の社会を思わせる描写が繰り返し出てくる。

「結論として、大きな戦争がなく、人口の極端な増加がなければ、百年以内に経済的な問題が解決するか、少なくとも近く解決するとみられるようになるといえる。」(『同書』p.212)


「百年後の2030年には先進国の生活水準は現在の4倍から8倍になっていると予想される。」(『同書』p.211)

「天地創造以来はじめて、人類はまともな問題、永遠の問題に直面することになる。切迫した経済的な必要から自由になった状態をいかに使い、科学と複利の力で今後に獲得できるはずの余暇をいかに使って、賢明に、快適に、裕福に暮らしてゆくべきなのかという問題である。」(『同書』p.214)

「余暇が十分にある豊かな時代がくると考えたとき、恐怖心を抱かない国や人はないだろう。人はみな長年にわたって、懸命に努力するようにしつけられてきたのであり、楽しむようには育てられていない。」(『同書』p.214)

「富の蓄積がもはや、社会にとって重要ではなくなると、倫理の考え方が大きく変わるだろう。過去二百年にわたって人々を苦しめてきた偽りの道徳原則を捨てることができる。人間の性格のうち、もっとも不快な部分を最高の徳として崇める必要がなくなる。金銭動機の真の価値をようやくまともに評価できるようになる。」(『同書』pp.215-216)

「社会の習慣と経済の慣行のうち、富の分配や経済的な報酬と罰則の分配に影響を与える部分には、それ自体ではいかに不快で不公正であっても、資本の蓄積を促す点できわめて有益なために、どのような犠牲を払っても維持しているものがあるが、これをついに放棄できるようになる。」(『同書』p.216)

「しかし、注意すべきだ。その時期にはまだなっていない。少なくとも今後百年は、自分自身に対しても他人に対しても、きれいは汚く、汚いはきれであるかのように振る舞わなければならない。汚いものは役立つが、きれいなものは役立たないのだから。貪欲や高利や用心深さをもうしばらく、崇拝しなければならない。これらこそが、経済的な必要というトンネルから光の当たる場所へと、わたしたちを導いてくれるのだから。」(『同書』pp.218-219)

「経済的な至福の状態という目的地への歩みは、四つの要因によって決まる。人口の増加を抑制する能力、戦争と内戦を回避する決意、科学の世界で決めるのが適切な問題については科学の世界に任せる意思、資本蓄積のペースである。このうち資本蓄積のペースは生産と消費の差によって決まり、前の三つの要因があれば自然に解決される。…しかし、何よりも、経済的な問題の重要性を過大評価しないようにし、経済的な問題の解決に必要だとされる点のために、もっと重要でもっと恒久的な事項を犠牲にしないようにしようではないか。経済は、たとえば、歯学と同じように、専門家に任せておけばいい問題なのだ。」(『同書』p.219)

こうした文章を読むと、複雑な気分になるとともに、違和感を覚える。それは、ケインズが楽観的だから、というのではない。事態に対する両義的な感受性が欠如し、まなざしが、西欧、広くて、先進国内部にとどまっているせいである。たとえは、極端になるが、「良い戦争」という議論がある。ヒットラーやムッソリーニ、ヒロヒトといったファシストを排除し、民主主義を打ち立てる目的があるのだから、これは「良い戦争」だという議論がある。実態は、トップを排除するまで、何百万人もの人々を殺戮した。アフガン、イラク戦争でも、まったく同じ構図が繰り返されている。ケインズの議論は、全体として、この議論に似ているところがある。「光のあたる場所」へ出るまでに年間三万人以上もの、自殺者がでるような社会で、20年後には経済的な至福の状態になると言われても、なかなか、受け入れられないのではないだろうか。1930年当時の予測ということは考慮しなければならないだろう。しかし、上記の文章で、問題だと思うのは、第一に次の点である。「科学と複利の力で今後に獲得できるはずの余暇…」科学は、問題を解決するが、同時に新しい問題を引き起こす。原爆・原発問題が典型であり、環境問題が良い例である。また、複利は、あるいは、ひろく金利は、資本の蓄積に寄与するが、投資行動を前提とし、投資行動には、賭け的な要素がある。その要素が洗練されて暴走すれば、バブルでありサブプライムローンになる。第二に、1930年当時と違う状況が生まれている点がある。それは、社会主義が崩壊し、新自由主義とグローバリゼーションが世界中を席巻しているという事態である。経済的な相互関連の密度と危機の伝播の早さは、これまでに例がないほどになっている。しかも、危機は世界中の経済的な弱者が、そのダメージを吸収させられる構造になっている。

両義的な感受性を持つことは、現実的になることと同義だと思う。Lassez-Faireの諸前提の非現実性をあれだけ見事に批判したケインズが、百年後の世界の予測では、非現実的になってしまっているように思える。

また、まなざしが、西欧世界、広くて、先進国内部に向けられているように思える。貧富の問題を地球レベルで考えると、資本の蓄積が進むことを単純には喜べなくなるのではなかろうか。

「資本主義には普遍的なものは一つしかない。市場です。普遍的な国家が存在しないのは普遍的な市場が存在するからに他ならない。……そして市場とは普遍化や均質化を行うものではなく、富と貧困を生み出す途方もない工房なのです。……人類の貧困を生産する作業に加担して骨の髄まで腐っていないような民主主義国家は存在しないのです。」(ジル・ドゥルーズ)

いずれにせよ、本書は、さまざまなことを考えさせ、また、学ばせてくれるという点で良い本だと思う。


ケインズ 説得論集
クリエーター情報なし
日本経済新聞出版社









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