goo

芭蕉の俳諧:猿蓑(38)

■旧暦8月25日、火曜日、

(写真)テツ

新米をどう食するか。これを考えるのが、楽しいのであるが、今年は、炊きたての新米を握り飯にして、中に大蒜焼き味噌を入れたり、周りに塗って焼いてみようと思っている。日本食は、結局は、飯との相性ですべて決まるのではなかろうか。飯を進ませる料理が良い料理で、おかずは、これをめざす。個人的な意見であるが。


新米や唐子のかほは神に似て

新米や食卓はいまわが楽土

新藁や握り飯てふ馳走あり




デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

scooping up the ocean
in my hands...
evening cool

dai umi wo te de sukui tsutsu yu^suzumi

大海を手ですくひつつ夕涼

by Issa, 1818

A whimsical hyperbole.

■ラヌーは、「A whimsical hyperbole」(普通と違う面白い誇張)と言っているが、ぼくは少し違うと思う。「大海」のニュアンスは、「大河」や「大空」と同じように、ある種の畏敬の念があるように思う。逆に言うと、人間の小ささが意識されている。この句の面白いところは、そうした小さい人間のさらに小さい手の中に、「大海」があるところだろう。人間の中にある海とも響き合っているような感じさえする。語源辞典を見ると、「the ocean」という言葉にも、「偉大さ」があるようだ。もともと、地中海に対する外洋を意味していたらしい。ただ、外洋を前にして、人間の小ささを感じたかどうかはわからない。




いちどきに二日の物も喰うて置
   凡兆

雪けにさむき嶋の北風
   史邦

■凡兆から史邦へ至る切れの呼吸がよくわからなかった。『風狂始末』を読むと、虚‐実の呼吸と書いてある。凡兆は、こういうことは、現実にあるまいととぼけたて出してきたという。「二日の物」の一日分は余り物と史邦は見極めて、「嶋」を出してきたという。嶋は本土の余りだというわけだ。そして、こういうことは現実にあるよと応えているという。こんなやりとり、わかる人はいるんだろうか。それとも、時代が、この種のコミュニケーションを失ってしまったのだろうか。



Sound and Vision

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« ドイツ語の散... ドイツ語の散... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。