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往還日誌(126)






■2月18日、日曜日、京都マラソン。午前中は曇り、午後から晴れて終日温かった。

土曜日の昨日は、朝から、栂ノ尾の高山寺へ。59系統の市バスと9系統のJRバスを乗り継で栂ノ尾へ。

ここからだと、所用時間は、バスの乗り継ぎも入れると、1時間くらい。乗っている時間はさほどではない。

福王子からJRバスで高尾山へ上るのだが、日光のいろは坂のような急カーブが続き、どんどん、山の奥地へ入ってゆくバスに、えらいとところへ来てしまったなと、だんだん、不安になってきて、左右に大きく揺れるバスの中を、スタンションポールにつかまりながら、運転手さんのところへ行って、高山寺は栂ノ尾ですよね、などと確認するほど、狼狽してしまった。

ふと、後ろを見ると、涼しい顔をして欧州人らしい若い女性が一人で座っている。

高山寺に来る前、恒例の土曜日のパレスチナ連帯デモに出るか、高山寺か、かなり迷った。

130万人とも140万人とも言われるガザ市民が避難しているラファがひどいことになっているからだ。

高山寺は、観光目的ではなく、第5詩集として設定したテーマに沿った取材のために来た。デモは来週もまた機会があるので、今回は、高山寺に集中することとした。

高山寺は、ふもとに清滝川の清流が流れ、境内にも、細い川が流れ、水の音が絶えずしている。残念ながら、国道162号が清滝川に沿って通っているため、石水院――明恵上人樹上座禅像や白光観音像、鳥獣人物戯画などを蔵する――の西正面の広縁では、水の音も、クルマの走行音も聞こえる。

石水院では、広縁のさらに西の端に植えられていた藪椿が2、3開花しかかっており、無数のつぼみをつけていた。



石水院を出ると、裏参道からの急な石段沿いに流れ下る細い渓流がある。

そこで、不思議な人を見た。

その細い渓流を覗き込むようにして端に座ったまま動かない男性なのである。

何か水中の生物などを、きわめて熱心に観察しているようにも見えた。

鮮やかな赤いジャンパーに、裾の短めの青いジーンズで、白色に黒の横じまの入ったソックスでスニーカーを履いている。黒いリュックを背負って、旅行者に見える。

顔立ちは、40代半ばから後半といったところか。



なぜ、これほど、詳しく描写できるかと言えば、その先の開山堂(明恵上人の住房)の敷地に林立する石塔の前で、それと向き合う形で、彼は、靴をぬいで、両手を水平に伸ばし片足でバランスを取った姿勢でうなだれて立っていたからである。

少し離れた場所に黒いリュックと黒いショルダーバックが置かれていた。

この間、彼は一聲も発していない。こちらを向いたとき、表情を見ると、いたってまじめで、むしろ、深刻にさえ見える。

なにか、パフォーマンスの心得がある人が、習慣的になんらかの動作を行ったのか、とも最初は思ったが、水中の熱心な観察とあわせて考えると、それも自信がもてない。

今、思い返すと、石塔の前で彼が行っていたのは、キリストの磔刑を思わせるパフォーマンスだったのである。

その場で見たときは、意味がわからず混乱して、ただ首をかしげたが、今、思い返して、これが、キリスト磔刑の反復であることに思い至り、震えるほど深い衝撃を受けている。

明恵は、23歳で俗縁を絶って紀伊国有田郡白上に遁世し、こののち約3年にわたって白上山で修行をかさねた、この頃、人間を辞して少しでも如来の跡を踏まんと思い、右耳の外耳を剃刀で自ら切り落としている。

この明恵の人間を脱して如来(ある意味での理念)と一体化しようとする一人の若者の異様な激しい運動と、イエスが磔刑となり身体を失った後に、弟子たちによって理念として生き返る運動とが、ちょうど、この場で、すれ違ったように感じられたのである。

対照的なのは、明恵が、耳を失った後、彼は逆に身体化や身体性、生まれつきの天性や社会的役割など、現存在を大事にしていく方向に向かうのに対して、イエスはキリスト教となり、イエス教となることなく、宗教教義として理念化され、現実を理念よりも劣位なものとして、大教団となっていったということである。

明恵の生き方とキリスト教のあり方では、こと、権力志向という点で、真逆に向かう。

実は、キリスト教の中にも、明恵的なるものが現れる。それは、たとえば、アッシジのフランチェスコである。

1986年、イタリアのアッシジの聖フランチェスコ教会と高山寺は、世界で初めて、異宗教間で兄弟教会(ブラザーチャーチ)の約束が結ばれている。

いずれにしても、この高山寺訪問は、私には大きな衝撃となって、残った。

夜、詩のスケッチを行い、ニコの仕事を行う。




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