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往還日誌(118)






■12月30日、土曜日、快晴。

朝8時前に起きて、久しぶりに、近所を散歩した。寿広場では、5、6人の小学生がサッカーをしていた。この秋に伐採された青桐の奥には、ベンチが2つ置かれて、そこに座って中学生が、おにぎりを食べていた。

11月19日の市議会選挙でトップ当選したMちゃんの実家が和菓子屋さんなので、ふらりと立ち寄り、お母さんと立ち話をした。票を入れたひとは、みな、彼女の活動的な若さに期待してくれている、とお母さんは語っていた。私もその一人である。

日誌第125番の見直しをしつつ、未着手の作業をスマホにメモしている。以前は、行っていて、あまりにも、作業が多くなるので、止めてしまった年末の習慣を、往還生活を始めたことをきっかけに、復活させた。意外に重要な情報がフォローされていなかったり、仕事のヒントになるようなことが書かれていたりする。

しかし、見直すべき日誌は、7冊ある。しかも、1冊100頁である。全部はできないだろうが、過去を発掘する作業はとても面白いのは確かだ。日誌は、あくまで私的な記録にすぎないので、過去に書いた事柄に、現在から、色を変えたペンで、応答したりしている。それもまた、面白い。

午後、窓拭き、トイレと風呂の換気扇の掃除。

夜、村上靖彦さんと宮地尚子さんの対談『とまる、はずす、きえる』を読む。このふたりには、関心を持っている。とくに、村上さんの現象学を応用したインタビューの方法論に関心がある。

私は25歳ころ、シリコンウエハーの研磨工場に、参与観察を目的に、1年間アルバイトで入り、同時に、大学院のゼミに出て、その成果を指導教授に報告していた時期があった。この方法は、指導教授には評判が悪かった。アンケート調査など、数値化できる研究を主に行っていたからだ。

このとき、私がよく読んだのが、シモーヌ・ヴェイユの『工場日記』だった。村上さんの方法は、対象との役割が、<研究者―研究対象>として固定している、インタビューだが、私は、身体ごと、現場に参加した。同じ資格で、いや、最下位の資格で、参加した。そこから見えてきた世界は、けっして「きれいな世界」ではなかった。それは、実は、だれしも経験している「現実」と呼ばれているものにほかならない。

このとき以来、現象学的な方法論と、シモーヌ・ヴェイユには関心を持っている。

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一日一句(3134)







家じゅうの鏡磨くや大掃除






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一日一句(3133)







数へ日の月を東に我そうじ






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