verse, prose, and translation
Delfini Workshop
往還日誌(42)
■きょうは、スケジュール調整の関係でぽっかり時間が空いた日だった。仕事を入れても良かったのだが、前から計画していた楽美術館と高麗美術館へ行くことにした。
ここからだと、楽美術館は、ほとんど近所の感覚になる。四代目一入の黒楽茶碗「嘉辰」、五代目宗入の黒楽茶碗「如月」そして、初代長次郎の黒楽茶碗「萬代」の3つの茶碗がとくに印象的だった。
展示室を3巡して、心に茶碗を刻み込んだ。
その後、一条戻り橋の晴明神社へ。京都へ来た挨拶。みくじを引くと「良薬口に苦し」小吉と出た。思い当たるふしがいくつもあって困った。
堀川今出川の鶴屋吉信へ立ち寄り、「花々」という春の菓子―最後のひと箱―を実家へ送る。
堀川をひたすら北上し、堀川北山のさらに先にある高麗美術館へ。
韓国のテレビクルーが取材に入っており、なかなか、受付できなかった。
この高麗美術館は、在日朝鮮人の鄭詔文さんという人が、自ら収集した朝鮮の文物を展示している。
この方には、お兄さんがいて、そのお兄さんが、大阪で司馬遼太郎さんの近所に住んでおって、あるとき、司馬さんと鄭さんが一緒に散歩していた時、鄭さんが「これじゃだめや!」と言ったというのである。
なにがダメかというと、この散歩じゃなくて、自分の人生について、そう述べたのである。
この時、鄭兄弟は、在日で差別を受けながら、商売をしていた。できる商売に差別で制限がかかる。
そうした金儲けは一切やめて、もっと文化学術的な仕事をしたいと鄭(兄)は言ったというのである。
1950年代のことである(確か)。
このお兄さんの発案でできたのが、「日本の中の朝鮮文化」という雑誌だった。
司馬さんは、鄭さんに、「まず3号まで出してみはったら」と言った。
つまり、初めから遠大な目標は立てずに、少しづつ遠くを目指しなはれ、ということだった。
その後、この雑誌は、日本の錚々たる文化人・学者の支援を得る。
この司馬遼太郎さん、歴史学者の林家辰三郎さん、同じく歴史学の上田正昭さん、民法学者の末川博さん、考古学の森浩一さん、物理学者の湯川秀樹さん、推理作家の松本清張さん、中国文学の竹内好さんなどなど。
この雑誌を母体に、中央公論社から、本『日本の中の朝鮮文化』も出ている。
弟の鄭詔文(1918~1989)さんの仕事は、日本の骨董品店で、朝鮮の文物を収集することだった。骨董品店で白磁壺との出会いがあり、これを機に朝鮮美術収集に傾注するようになったという。
この収集品をベースに創設されたのが、高麗美術館だった。高麗美術館の館蔵品はすべて朝鮮の考古美術品であり、その数は1700点にのぼる。
この美術館を訪れたひとは、4月だけで、京都市内だけでなく、遠く仙台、東京、千葉、埼玉などから来館している。日本人である。
兄弟の優れた仕事を多くの日本の文化人が支えたのは、美しい歴史の一コマだが、思うに、贖罪の気分が強くあったのではなかろうか。
朝鮮の植民地支配も、中国大陸での暴力三昧も、この日本の支援者たちは、自らの手で行った可能性があり、自らの目で目撃した可能性が高い。
戦争に巻き込まれた側面があるとは言え、彼らが戦争を止められなかったのは事実である。
今、ふたたび、新しい戦前が始まっている。
今度の戦争も、あの戦争と同じように、
だれもが、「正しい戦争」と言うはずである。
良い戦争はない。
アラートを鳴らし、一方的に「悪魔」を生み出す社会体制から、平和は生まれない。
ミサイルを撃つには、撃つ理由がある。
その理由こそ関係国でテーマ化して、問題解決の対象とすべきことがらである。
「悪魔」は存在しない、存在するのは、朝鮮の美しい文物に囲まれた人間である。
高麗美術館には興味をもったので、館報を定期購読することにした。
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