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2つの初冬の詩

土曜日、。旧暦、9月21日。

昨日の仕事が難航して、今日は遅くまで寝ていた。朝方、大きな雷が鳴り、一日、雨だった。午後、録画していた「円空と木喰」を観る。やはりぼくは円空の方が好きである。木喰の仏像は笑いすぎる。ウィンクしているものまであって、今のキャラクターグッズみたいで笑いが安い。円空の微笑みはいい。顔が笑っているのではなく魂が笑っている。



初冬になると思い出す詩がある。幻の大詩人清水昶の「初冬に発つ」である。この詩は、以前、清水さんに頼まれて、生まれて初めて、詩の英訳なるものをした、思い出の作品でもある。ぼくの英訳は、さらにアラビア語に重訳されて、モロッコのどこかの雑誌に発表されたはずである。反響はどうだったのだろうか。



初冬に発つ            清水昶

あなたは
雪に燃えて出発する
完璧なしずけさのなか
ひえこむ都市の心臓部その昏い樹林を
息をのんで出発する
どんなに華麗な肉愛のなかでも
どんなに悲惨な夜でも
燃える外套につつまれ
孤独な本能に降りしきる雪に燃え
まぶしい顔をあげて出発する
ただ想起せよ
ときにおれたちは
劣悪な家系の鎖をひきずる
きつい目をした犬であり
アジアの辺境にひっそり巣喰う
どぶねずみのようないのちであったりすることを
そこから
ひたすらに出発する
雪の樹林で身ぶるいする夕映えを吸い
肉体の深い淵に向かって
最初にして最後の
出発を決意する



Leaving in early winter  translated by TOHGETSU     

You
Leave, glowing for snow.
In perfect silence
From the heart of a cooling city, the dark silva
You leave, taking a breath.
In whatever splendid sexual love,
In whatever miserable night,
Wearing a burning coat,
Glowing for snow that falls heavily into lonely instinct,
You leave, raising your shining face.
However recall
That we are sometimes dogs with cruel eyes,
Dragging the chain of our inferior family tree,
And are life as if rats that build nests quietly in Asian frontier.
From such a place
We leave intently.
Sucking the sunset glow that quakes through snow silva,
We decide to leave for the depths of our body
For the first time and the last time.


■この詩はいくつか謎がある。それは、訳すはめになって、改めて熟読してみて気がついた謎だと言っていい。レトリックは華麗だが、コンセプトは、明確である。その意味では、わかりやすい詩だと言っていいだろう。一つの謎は、この詩の<場所>に係わる。この詩は、いったいどこで詠まれたのだろうか。いや、どこを想定しているのだろうか。というのも、初冬にあって、すでに烈しい降雪あるいは積雪があるのだ。詩だから、時間的に厳密な整合性を問うのは野暮なのだが、あえて、論理的に考えると、かなりの北方地域が、この詩の舞台なのである。北海道北部、あるいは千島列島、樺太。あるいはシベリアの白い大地の面影までもが映し出されているのである。

この詩は、清水さんが30代の頃に作ったと聞いたことがある。とすれば、70年代の作品ということになる。もう一つの謎は、「出発はついに訪れない」というところにある。この詩は、出発を決意するところで終わっている。決意は実現していないのである。その意味で、詩人は、まだ降りしきる雪の中にいる。これは、なぜだろうか。これは、ぼくの推測であるが、ここには、清水さんの学生運動の挫折が大きな影を落としているのだと思う。強固な意志と決意、しかし、実現を見なかった革命。運動のためなら、命を落としてもいい、本気でそう思ったし、ぼくだけじゃなく、みんなそう思っていたんだよ。清水さんの言葉である。

この詩には、シベリアの白い大地に幽閉された石原吉郎の姿と実現しなかった革命の影が刻まれているように、ぼくには思えるのである。

ところで、この詩が書かれる35年前(この時間は、清水さんの詩と、今との時間差にも等しいのだが)、「初冬」と題された詩が雑誌「四季」の1月号に発表された。



初冬             立原道造

けふ 私のなかで
ひとつの意志が死に絶えた……
孤独な大きい風景が
弱々しい陽ざしにあたためられようとする

しかし寂寥(せきれう)が風のやうに
私の眼の裏にうづたかく灰色の雲を積んで行く
やがてすべては諦めといふ絵のなかで
私を拒み 私の魂はひびわれるであらう

すべては 今 真昼に住む
薄明(うすらあかり)の時間のなかでまどろんだ人びとが見るものを
私の眼のまへに 粗々(あらあら)しく 投げ出して

……煙よりもかすかな雲が煙つた空を過ぎるときに
嗄(しはが)れた鳥の声がくりかへされるときに
私のなかで けふ 遠く帰つて行くものがあるだらう

■この詩を読んでどう感じるだろうか。ぼくは、立原の詩に多く共感を覚える者である。とくに最後の一行「私のなかで けふ 遠く帰つて行くものがあるだらう」に。この詩は、1935年(昭和10年)に書かれたものだが、2006年の今に触れるものがあるように感じないだろうか。清水さんの「意志」が死に絶えたところから、この詩は書かれているように思えてくるのである。いったい、私のなかで<何>が<どこへ>帰っていくのか。そのことは問われなければならないにしても。
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