カントクがなくなった。
上田利治さん、80歳。
東京から、自分が初めて関西に転勤して、プロ野球担当を命じられたときの、阪急が身売りして二年目のオリックスの監督。
以来、担当が変わったり、リタイアしたり、ユニフォームを脱いだりしても年賀状だけは25年、四半世紀も続いたなぁ。
ウエサンの年賀状の宛名は、ほとんど万年筆の手書きだった。
写真は、大震災を経て再び東京へ帰り、5年後くらいに神戸へ再転勤したときにもらった年賀状。
和して同ぜず
カントクの好きな言葉だ。
豊中の昔の屋敷には、デカい番犬がいて怖かった。監督を退く間際は遠征先の東京のホテルのバーで何度も呑んだけど、
芳賀くん!わしゃあウソつかんぞ!
と、言いながら、本心とは違うことを言うのだ(^。^;)
核心を突くような質問をすると、
芳賀くん!まだ呑み足りんみたいやなぁ!
で、ニッコリしながら、ボトルウイスキーをドボドボ注がれてしまう。
取材する側としては難敵!タヌキ親父やった。
長年、デイリーの評論家を務めてもらった。
オイラは、ある祝賀パーティーへ行けなかったが、
先輩に託した「監督!おめでとう!」とゆふメモ書きに、ウエサンは大変喜ばれ、懐かしがっていたとか。自分にとっては最初に監督と呼んだ人だったから、ずっとカントクだった。
ええでええで!
カントク、お疲れさま。あの世で村山さんとバッテリー組んで野球を楽しんでくださいね。
合掌
上田利治さん、80歳。
東京から、自分が初めて関西に転勤して、プロ野球担当を命じられたときの、阪急が身売りして二年目のオリックスの監督。
以来、担当が変わったり、リタイアしたり、ユニフォームを脱いだりしても年賀状だけは25年、四半世紀も続いたなぁ。
ウエサンの年賀状の宛名は、ほとんど万年筆の手書きだった。
写真は、大震災を経て再び東京へ帰り、5年後くらいに神戸へ再転勤したときにもらった年賀状。
和して同ぜず
カントクの好きな言葉だ。
豊中の昔の屋敷には、デカい番犬がいて怖かった。監督を退く間際は遠征先の東京のホテルのバーで何度も呑んだけど、
芳賀くん!わしゃあウソつかんぞ!
と、言いながら、本心とは違うことを言うのだ(^。^;)
核心を突くような質問をすると、
芳賀くん!まだ呑み足りんみたいやなぁ!
で、ニッコリしながら、ボトルウイスキーをドボドボ注がれてしまう。
取材する側としては難敵!タヌキ親父やった。
長年、デイリーの評論家を務めてもらった。
オイラは、ある祝賀パーティーへ行けなかったが、
先輩に託した「監督!おめでとう!」とゆふメモ書きに、ウエサンは大変喜ばれ、懐かしがっていたとか。自分にとっては最初に監督と呼んだ人だったから、ずっとカントクだった。
ええでええで!
カントク、お疲れさま。あの世で村山さんとバッテリー組んで野球を楽しんでくださいね。
合掌
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます