「お前は既に死んでいる」
BizPlus:コラム:斎藤 精一郎氏「斎藤教授のホンネの景気論」第71回「経済学は死んだか(1)――経済政策失敗の教訓」
というのは冗談です。
(ケンシロウじゃないんだから!昔の流行語>疑問に思う方は昔の現代用語の基礎知識でも繰ってみては)
が、少々思うところがあるので、書いておきたいと思います。上記斉藤先生の論説の中身については、次回以降も読んでみてから、ということで。
「~学は死んだ」というのはよくある話かと思いますが、何かの定説みたいなものが否定されたからといって、その分析手法とか道具とか全てが否定されるわけではないと思うのですよ。何かの考え方や理論なんかが元々間違っているかどうかではなくて、それらへの理解が間違っているとか適用の仕方が間違っていることが大部分なのではなかろうか、と。つまり、受け手側の問題ですわな。
例えば、人間の体については長い年月をかけて色々と研究されてきたし、現代科学の様々な分野で研究されていますが、まだまだ判らないことだらけです。今の研究成果が得られたからといっても、昔の成果が台無しになるわけでもなければ、昔の研究結果を無闇に非難する必要性もないと思います。あくまで人類の「知の蓄積過程」を辿るようなものなので、今から見ても十分価値のあるものだと思えます。先人の研究が無駄であるとか役に立たないとか、そういうことではないと思いますし、そのような受け止め方や理解しかできないのは「先人のせい」ではなく、自らに原因があるのではないかと思えます。自分の能力が足りないがゆえに、先人のレベルには到達できないのだろうと思います。
昔の生体研究というのは、大雑把にいえば肉眼的な解剖学みたいなものでした。正確な地図を作るのと同じで、どこにどんなものがあるのか、ということを知るまでには多大な時間がかかりました。何の為にあるのか、どんな役割があるのか、ということまで知るには更に研究が必要でした。顕微鏡ができて、もっと詳しく調べられるようになって、より細かく調べるようになっていきました。心臓の機能ということについても、昔でいえば「血を送り出すポンプ」という程度だったものが、より精密な生理機能が研究されてきました。今では、分子レベルでの研究というものが当たり前となりました。はじめは肉眼的な研究だったものが、より小さな部分に絞って調べることができるようになった、ということですね。病気の研究も随分と変わり、疫学的研究とか観察による記述だったものが、遺伝子レベルとかで研究するようになってきました。
つまり、マクロ的な研究から、もっと正確で細かいミクロ的な研究へと移ってきた、ということです。昔は、大雑把な記述であったものが、今では分子レベルとか遺伝子レベルでの記述が可能になってきたのだ、ということです。病因や治療薬剤なんかも、それと同じくミクロ的な説明がなされるようになっています。正確性は増した、ということは言えるでしょう。けれども、全ての医師が診察する時にメガネの代わりに顕微鏡や電顕を装備したりはしていません(笑、実際、装備できないんだけど)。ある現象が分子レベル、遺伝子レベルで研究、解析されているとしても、やはり患者を見ているのは医師なのだ、ということです。
ある細胞Aにある分子Bを作用させるとどうなるか、みたいな研究があるとします。濃度を変えたり、条件をいくつか変えたりするかもしれませんが、しつこく研究をするんですね。全世界中の科学者たちが、そういうのをやるわけです。すると、細胞Aには分子Bのレセプターbが存在し、作用としては細胞Aから分子Cが放出される、ということが判ったとしましょう。この現象は再現性があり、誰がやっても同じ結果が得られるのです。なので、確からしいな、と判るわけですが、このことが判明したとしても、必ずしも何かの病気が治せるようになる、というような話ではありません。正常細胞ではこうなる、みたいなことが判るだけなのですね。正確に。それだけです。
今度は、病気の場合ではどうなろうかと調べてみると、実は病因にはあまり影響がなかった、とか、病気の場合はCの濃度が低下する、とか、色々とあるかもしれませんが、そうやって細かく調べていくしかない。普通の状態というものを知るまでがまず大変で、病的状態と比較となると、もっと大変なんですね。そういう積み重ねをひたすらやっていくわけですね。
そういう風に正確な知見が積み重ねられても、これが一つの病気の全体像を知るまでとなれば、もっと大変なんですね。一般化できる知識の時もあれば、そうでもなくて特異的であるかもしれない。実は細胞Aの役割は小さく、ずっとずっと多種類の細胞が関係していて、物質BやCというのは病気の本態とは関係性がそれほどでもないかもしれない。別な細胞Xの出す物質Yによって、本当は打ち消されてしまっているかもしれない。要するに、細かい部分が正確に記述できたとしても、それが病気の全体像を理解できるようになることを意味するわけではない、ということはたくさんあるのです。「血管内皮細胞がNO(一酸化窒素)を放出すると、血管は拡張する」ということは一般的な現象であると判っても、そのことを知るだけでは人体の反応の多くを説明できないし、血管の拡張現象の全てではないし、病気の時にどういう関係・影響なのかも判らない。「血圧が下がる」と断言することもできない。
つまり、より正確に細かい部分まで論理的に説明できる成果を得ても、これが人体全体ということになると、中々難しいのです。観察者が常に同じ現象を観察できるかどうかを確かめることそのものが、難しい部分はたくさんあるわけです。前にも触れたことがありますが、「in vitro」と「in vivo」は違うことも多いのです。そういうことを考慮した上で、研究成果に向き合えばいいだけなんでしょうけど。普通の研究者たちにはそれが当たり前になっていると思いますが、それら研究分野にあまり関係のない人たちにとってはそういう発想が困難であるので、「~が観察された、だから、○○だ」みたいに結論にすぐ直結させてしまうことがあるかもしれません。現実に起こることというのは、それほど単純でもなければ簡単なものでもないように思うのです。
動物実験などで確認することができる場合には再現性を確かめられますが、これが経済学の世界となると、難しいのですよね。大抵のことは「確かめようがない」(笑)。だからこそ、適当な解説や毎回異なる言説なんかが通用してしまうのかもしれません。その多くは誤った適用とか、他の要因の見落としであるとか、そういう根本的な誤りではないかと思えますね。
仮に、ある人に観察された現象が
・意識消失
・血圧低下
であるとします。
また、実験の成果などで
①血管が拡張すると血圧は低下する
②血管内皮細胞にはNOを産生するeNOSが存在する
③NOは血管に直接作用して血管を拡張する
という知見が得られているとします。
すると、とある解説をする人がいて、
《血管拡張が起こると血圧低下が観察される(①)、つまり意識消失は脳血管の拡張が原因だ。では、何故血管が拡張したかといえば、②と③から「NO産生が多くなり、その結果血管が拡張」したんだ。つまり、NO増加が原因だ!》
みたいに言うわけです。
本当にそうなのかな、と疑問を述べると、「血圧は下がったじゃないか」「血管にはeNOSがあるのは事実だ」「NOは血管を拡張するのは事実だ」とか、強硬に言い張るわけです。いや、それらは確かに事実なんだけれども、それが理由で意識消失したかどうかは判らないよね、という風に考えたりできないんですね。
「NO増加をもたらすような、供与体は特になかったみたいですよ」とかいうと、「NOには血管拡張作用がない、っていうのか!」だの「血管にはNOSが存在しない、っていうのか!」だの、見当ハズレなことを言い出すわけです。誰も、そういう細かいモデルでの事実を否定したりはしていないんですよね。そうじゃなくて、普通は「ある人」全体の外見を観察しているんですから、そこに何らかの要因みたいなものがなかったのか、検討してみることは必要なんじゃないですか、って話ですね。
別にNOのせいにしなくたって、例えば「丁度点滴しようとしているところで、刺入直後だった」というような要因とかがあれば、「ひょっとしてVVRによる反応かもしれませんね」と別な解釈を考えることだって可能なわけです。
(VVR:血管迷走神経反射、針刺しなどをキッカケに起こることがある)
結局、ある事実や知見があるとしても、それが説明として適切でなければ「間違っている」ということになるだけですね。これは別に分子生物学が悪いわけでもなければ、生理学や生化学のせいでもありませんね。「生化学は死んだ」といったことには無関係ですね(笑)。どんな知識とか知見であっても、その組み合わせや適用の仕方に誤りがあれば、やはり役立たないのであって、だからといって「分子生物学は実生活で役に立たない」「生理学は昔の知識だから(以下略)」「生化学は…(以下略)」ということにはならないでしょう、と。
これらは先人が現代に通用しない知識を残したのが悪いのでもなく、先人の知識に欠陥があったからでも、間違っていたからでもありません。受け継いだ私たちの理解が不十分であり、意図や解釈を誤解しているだけなのではないでしょうか。
ある人物全体を観察して、その人に適切な診断や処置を施すということと、実験的な知見を得ることでは、若干異なった部分みたいなものがあるということを知った上で、研究するなり治療するなりをやればいいのではないかな、と。何となく両方を見ながら、でも本当に集中して見るべきは「ある人」なのであり、自分の全能力を傾けて観察してみる・考えてみる、ということ以外にはないのではないでしょうか。
知識が役立たないのではありません。役立てられない自分が悪いのです。
答えは既にそこにあります。現象はすでに起こっているのですから、自分が見落としている条件や症状や要因みたいなものがあるのだ、ということです。着眼点が間違っているのか、見えてない要因があるのか、調べていない項目があるのか、それが何なのかは判りませんけれども、「何か」が多分あるのでしょう。
参考までに、全然関係のないエピソードを。
ある電車内での会話
女学生A 「来週から試験ね」
女学生B 「うん、あたし化学苦手なのよね」
女学生A 「化学は終わりの方だったから、まだ余裕はあるわよ」
女学生B 「けど、自信ないのよねえ…」
女学生A 「ああーっ、『生理』っていつだった?」
女学生B 「月曜じゃない?」
女学生A 「ヤバ、早速ヤラないと。すぐ来ちゃう」
女学生B 「慌ててもどうせ無駄。案ずるより産むが易し、よ」
これを聞いていたオバサンは、心の中でこう思った。
…
な、何ー?『生理』だって?
全く、イマドキの若いモンは、電車の中で堂々と『生理』の話をするなんて!
親の躾がなってないわ。や、や、「ヤラないと」、ですって!?
一体、な、何をしようっていうのよ。恥というものを知らないのかしら…
う、う、「産む」ですってーー!?
言うに事欠いて、「産む」ってどういうことよ。
ちょ、ちょっと、産むって、アナタねえ…
若い子には呆れるわ。全く今の時代はホントにもう…
一応解説しますと、
いや、そうじゃなくて、ただ単に生理学の試験の話でしょう、と。
けど、一般人には生理学なる分野は知られていないだろうし、学生が単に「生理」と呼んでることも知る由もないでしょうから、オバサンが勘違いするのも無理はない。恐らく、女学生の方をジロジロと怪訝な顔で見ていたに違いない。って、本当はそんな現場に立ち会ったことはないんだけどー!全くの創作なので。
もしこの記事を読んでいる女学生諸君がおられた場合には、電車内でこの会話を試してみることを強くお勧めする。周囲の注目を引くのではなかろうか、というのが私の予想。こういう時の、人々の反応を見たりするのは結構楽しいよ。どう?
えっ?普通は楽しくない?
そうかな~私はかなり楽しみなんですけど。