いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

地震被害より聖火リレー

2008年05月13日 17時13分07秒 | 外交問題
さすが中国。

中国大地震 聖火リレー、予定通り続行産経新聞 - goo ニュース

被災地域の救助活動とかより、聖火リレーの続行の方が大事なんだそうです。
普通は言えそうで言えないけど、そもそも中国人は大勢いるから、人海戦術は得意とするところなのかもしれない。


日本が警察官派遣だの、支援金を出すだの、余計な申し入れをしようとしているみたいだが、あんまり必要ないんじゃないの?
まあ、外交辞令というか、形だけでも必要ということなのであれば、「救助隊を出しますか?」って丁重にお伺いしてみるだけでいいと思うけど。多分、お前らイラネ、って答えが返ってくると思うよ(笑)。
余計な手出しは無用だ、聖火リレーが予定通りにできる程に「超余裕~」かましてるんだよ、と、やせ我慢だろうが何だろうが体面を保つに決まっているもの。


大体、中国は経済大国となったと認識されとるのに、日本が金を出す必然性がないであろう。媚中派が恰好をつけたいだけなんじゃないの?警察も、人を出す前に、中国側捜査当局から「中国国内での捜査を頑張ります」くらいの言質を取ってからにしたらいいんじゃないか?
向こうが元々何ら協力する気もないのに、日本の警察が行ったところで、何の意味もないだろう。都合よくこき使われて終わりだろう。しかも、手ぶらで来んなボケ、金もってこい、くらいは言われる(*)のを覚悟しておけってことだな。

*:いや、そのまんまは言わないよ、そりゃ。けど自分たちの活動費は自前で出せとか、日本人の指示は受けたくないとか、必要な情報を回すこともイヤだとか、義援金くらい手土産持ってくるのが礼儀だろ、この田舎者の礼儀知らず(=辺境野蛮民)め、という眼差しが向けられると思うけど。


日本であれば、自粛しましょう、とか、悲劇の傍らで浮かれているみたいで申し訳ない、とか、そういう雰囲気が広がるだろうからね。
ありがちな、「差し控えさせていただきます」精神、だな(笑)。これはちょっと違うけど。特に都合の悪い場合の答弁とか。
ま、日本人の気質的に「控えたい」=控える自分が美しい、みたいな美学っぽい、ということかな。控える、というのは、少し下がって後ろに引いている、(他人より)出過ぎない、というような含みもあるか。どうなのか知らんけど。


そういうわけで、中国、中国って、帰国した途端にまた首を突っ込む必要なし。この前の「歓迎キャンペーン」で十分だろ。



笑い事じゃない…韓国版電脳炎上(笑)

2008年05月13日 16時16分12秒 | 社会全般
はじめは小規模なデモから、次第に大規模デモへと発展…。

(リンク記事が抜けてました)
反米デモに中高生大挙 韓国「BSEパニック」…輸入解禁でデマ流布産経新聞 - goo ニュース


これって、どこかで見た図式だと思いませんか?
ええ、ええ、中国の反日デモですよね。あれと似ているわけです。ネット上の情報(当然デマも含む)が出回る、携帯電話(メール)で拡散される、そして現実世界での大規模デモへと繋がっていく、ということが起こってしまうことがある、ということです。


参考:

ネット上の「風説の流布」3

電脳炎上と現実炎上


人間の行動には似たパターンみたいなものがあるのかもしれない。
けど、韓国では若年層において「反米的」というのは、中々面白い。朝鮮半島における将来の米国の地位を占うという面では意味深だろう、と。

けど、韓国で拡散されたデマというのは、かなり荒唐無稽ではあるな。
日本も取り付け騒ぎや「あるある納豆」事件(笑)があるからひとのことは言えないが、あまりに陰謀論が過ぎてる感じだし、それ以上に完全なる間違いというのが多いね。


しかし、一般大衆が集団分極化で大きく偏ると、対抗言論とかワクチンみたいなものは効かなくなる。現実世界のデモの人たちには、殆どそういう「~は間違いです、○○は科学的に誤りです、…」みたいな意見は届かなくなるからね。


それにしても、この煽動を行った工作員部隊(いるかどうかは知らんけど)は、
中々よく研究してるというか、ネットや人間の特性みたいなものを知っているんだろうと思う。狙い通りにカスケードの威力が発揮された、という実例であろう。

ネット依存度、携帯メール依存度、現実世界での保有者率、等、基礎的条件がなければ難しいが、煽動に成功すればこうなる、ということだな(笑)。日本や米国でできるかといわれると、それはちょっとどうかな、と。判らんけど。

日本のネットでも「~の工作員乙」とか何とか書かれていたりするけど、通常は馬鹿にするとか揶揄っぽいものだろう。けど、中国や韓国の場合には、それが結構真剣に「工作員」だったりするのかも(笑)。

ま、牛肉消費増大は環境にも食糧供給にもマイナスだから、韓国が輸入停止しておけば、少しは貢献できていいんじゃないかな。米国は涙目だろうけど(笑)。



天敵みの(笑)

2008年05月12日 20時46分07秒 | おかしいぞ
一体何を言ってるんだか。

<内閣支持率>低下で党内かえって結束 「みのさんに理解してもらわないと…」(毎日新聞) - Yahooニュース

誰の為の政治なのか。番組司会者の説得の為ですか?
笑える。こういうことを言うから、余計に自分たちの立場を悪くするんじゃないの?
でも、まあいい。
この際、みのさんにコッテリ怒ってもらった方がいいな。


僕からも重ねてお願いしておくから。

>みのもんたさん江

公明党のお間抜け議員の誰かが、みのもんたさんのご機嫌を取ろうとしています。ほとぼりが冷めた頃合いを見計らって、与党の都合のいいように、みのもんたさんを利用しようとしています。決して騙されてはいけません。みのもんたさんの舌鋒が自民党や公明党に向けられずに済むように、そして批判の矛先を民主党や小沢代表なんかに向けてくれるようにとの下心を持っているのです。

みのもんたさんは「思いっきり」怒っちゃっていいですから。
毎日国民に向けて、今の政治の酷い有様や与党の悪いところをとことん追及して下さい。支持率が10%以下になるまで、絶対に頑張って追い込んで下さい。今のような政治状況は決して「ほっとけない!」はずです(笑)。



医療制度を議論する前に

2008年05月11日 18時58分56秒 | 社会保障問題
ありがちな対立としては、経済成長と財政再建を軸にされることがよくあるが、これらは両立させられるものであって、必ずしも相反するものではないだろう。通常、経済成長が順調に進めば財政健全化は促進されるであろう。結果的には財政再建に繋がるのである。
また、高齢者が負担するか若者が負担するか、という単純な対立も「ちょっと待て」ということである。それぞれに前提というか、基礎となる考え方があるのだ。


1)対人サービスが成長できないわけではない

これまでよく言われてきたことに、医療費が増大すると制度が破綻する、ということがある。それは、医療費以外の制度をいじらない、という前提で考えれば制度的に苦しくなる、ということである。それがまずよくないよ、と言っているのである。
これまでにも何度も書いたが、医療や介護分野は需要が増大する分野なのだから、経済成長の重要なエンジンとなる。対人サービスというのは代替性が困難なものが多く、工場で何かを作るのとは違う。例えばエステだのネイルサロンだのパーマ屋だのは、貧困国では需要は殆どなく裕福な国でしか商売が成り立たない。みんなの平均的な賃金が多く基礎消費以外の余裕があるかどうか、だ。日本のネイルアーティストの生産性がインドのIT技術者よりも高いというわけじゃないが、平均的な賃金が日本の方が多いがゆえに、ネイルサロンの儲けが増え付加価値が高くなるだけだ。同じことを喋ったとしても、賃金が高い人と低い人では「価値が違う」のだよ。サービスの付加価値というのは、一部幻想みたいなものなんだよ。そう信じていれば、いくらでも付加価値が高くなるのさ。詐欺とか○○商法とか、みんなそうなんだよ(笑)。
生活に余裕があるからこそ、セコムみたいな商売が成り立つのも同じなのだ。貧乏な国では商売が成り立たないが、先進国では需要がある。仕事固有の生産性や付加価値が高いからなんじゃなくて、余った金を安心にかけてもいい、安心を金で買ってもいいです、と思わせられるかどうか、というだけなのだ。別にセコムの仕事そのものに、世界中のどこでも通用するような特別な付加価値があるわけじゃない。

ちょっと極端な例を出してしまったが、工業化の後に来る産業として情報通信関連だのソフト分野だの色々とあると思うが、対人サービスが増えなければ仕事が減っていく一方なのだ。工場が消えて海外に移ったり、炭鉱や農場が消えていけば、その分仕事が減っていくのだから。昔は100人がかりでやっていた製造工程を、今はロボットシステムやラインの管理の数人で済む、という効率化が図られれば、100人分近くの仕事が消滅するわけだから。そういうのを補うには、「他の分野や仕事」が必要なのだよ。それを創造していかなけりゃならないのだ。医療や介護分野は需要が増加していくことは予想できるので、四苦八苦して新規分野を「創造」しなくとも、必ず必要とされるのだから雇用が生まれるのだ。そういう成長分野に資金を回せ、と言っているのだ。

しかし、大儲けを企む連中が、それを阻もうと兵糧攻めをやってきたんだよ。資金を枯渇させると、医療側も国民も困ることが判りきっているのに、だ。
そうするとどうなるか?
ギブアップと言い出すのだよ。自ら折れてくれるのだよ。国民は「税金を上げてもいい」と自ら申し出る、ということ。医療側も「参りました、民間大資本の参入をどうぞ」と軍門に降って、更に悪条件下でこき使われる、ということになるのだ。


2)成長分野に資金配分すれば地方の雇用を増やせる

医療や介護の需要はあるのだから、そこに資金配分をすればいいだけだ。道路建設だの、ハコモノ工事だのに回さずに、「医療や介護をする人」に直接資金を配分できるのは、医療制度や介護制度なのだ。日本の医療費のGDP比はOECD中でも下位であるのだから、それを是正するだけで十分なのだよ。まずは先進国なみに近づけるようにするだけでいい。それには財源が必要になるが、社会保障制度改革と税制一体改革が必要だと言っているのですよ。また、道路特定財源みたいに道路に資金投入するのを止めさせるだけでかなり賄える。医療従事者や介護従事者に資金投入すると、将来に渡って資源になるんですよ。それらの人たちの能力という形で、残されるのです。だから、それをやりなさい、と言っているのですよ。

地方でも需要はかなり見込まれるのですから、地元の若者の雇用口は増やせるだろうし、就業者数が増えるから地方の税収も増やせるのです。立派な道路であっても、市民税を払ってくれるわけでもなければ、地元の商店街でお金を使ってくれるわけじゃない。逆に自治体に借金を背負わせて、負債を後世に残すだけだ。

今後労働人口が減少していく中にあっては、たくさん稼げる優秀な人たちには男女を問わず働いていただいて、日本を支えてもらわねばならないのです。その為には、高齢の親の面倒をみるとか子育てや教育に関する部分とか、「後顧の憂い」なく仕事をしてもらえるような環境を整備しておかなけりゃ、思い切って働けないですよ。稼ぎの大きい優秀な人たちが安心して仕事に打ち込めるように、サポート部隊をきちんとしておかねば立ち行かなくなりますよ、ということです。そういう面でも、主力となる現役世代と、彼らを支える基盤(医療、介護、教育、福祉等)を整備し、高齢世代の方々にも子育てなんかのサポートをお願いしたらいいのです。


3)高齢者に負担してもらうのは止むを得ない

今後の人口構成を考えれば、若年世代にだけ負担を求めるというのは無理があるだろう。そういう意味においては、高齢世代の方々にも負担をお願いせねばならない、ということ。後期高齢者医療制度の良し悪しについては、別としても、基本的な考え方として制度の持続可能性を考えれば、広く負担を求めていくのは致し方ないであろう。ただ、過重負担とならぬように、病気の重い方、障害の重い方、所得水準の低い方、そういう方々には給付をきちんと確保しましょう、ということです。

現時点で既に65歳以上の高齢者率が21%くらいになっているのですから、今後世の中の3分の1の方々を残った現役世代が支えきるのは容易ではありません。いずれ現役世代の不満が爆発してしまうでありましょう。大企業を中心とする健保組合のやり口や彼らの主張が必ずしも正しいとも思えませんし、医療費削減一辺倒の「費用削減至上主義」を掲げる過激な原理主義集団のようではありますが、そうだとしても高齢世代に負担をお願いするべきだと考えます。

参考までに書いておきますが、この医療制度の導入は、中医協改革で医療側の発言力を削ぎ、粛清を図った効果の賜物だ。国策捜査と同じようにして厚生族や元社保庁長官が追い込まれたからだ。決定の影響力を握ったのは、「保険者代表」(例えば健保組合の人とか)だの「公益代表」だの、そういった「非医療」側の勢力だ。国民にこれら制度を強いた張本人は、官僚側でもなければ、勿論医療側でもない。「国民の代表」ヅラした、いい加減な主張であろうと国民の声といって憚らないような、「医療の反対側」にいた人々なのだよ。多くの国民はそういうことを知らない。
もっと言うと、根本的に改革実行を推進したのは、財政再建至上主義の息のかかった連中や、大企業等の経済界の操り人形や、「腐れ経済理論」を掲げるような学者、そういう人々なのだ、ということを忘れるな。医療側の発言力が弱まった為に、こうした改革に至ったのだ、ということを肝に銘じるべきだ。


4)とは言うものの…

私は大企業が憎いわけじゃない。彼らだって、それなりに苦しんでいることもあるだろう。別に楽して過しているわけじゃないからね。それは判るよ。年金保険料だって上がっていくし、法人税だって高いし、その上、医療保険料まで上げられたら困る、というのが本音だろう。これは大企業に限らず、中小企業であっても、社会保険料負担が重荷になっている、ということはあるからね。

更に、これまで散々大企業経営者たちがバカだったから日本がこうなった、とか非難してきたし、非正規労働で搾取してきたんだ、とか色々と書いてきたら、ちょっぴり反省してくれたみたいで(笑)正規雇用を増やした企業は結構ありました。大企業だってバカじゃないから、人材投資するべきだなと考えることはあるだろうし、日本の将来の為にと思って正規労働者を増やそうと考えてくれたのかもしれない。それはそれで、感謝しています。嫌々ながらでも(笑)労働者に投資してみようと考えてくれたことには、素直に御礼を申し上げたいです。

なので、大企業の台所事情というものもあって、あまり一方的にも責められない部分はあるのです。こんな経済情勢ですから、先行き見通しが立たないと、賃金を大幅に上げることは難しいですし、非正規から正規に切り替えただけでも相当の人件費負担が増加することにはなるでしょうし。かなり頑張ってくれたことは評価していますよ。数十万人とかの規模で正規雇用が増えるというのがどれほど大変か、というのは理解できますので。

だから、今ここで医療費負担も企業がやれ、とは申しませんよ。すぐに負担を強いるということはしません。しかし、同じ税収額であっても、振り向け先を変えることで医療費の確保は不可能ではありません。無駄な天下り先に回っているお金をまず分捕ってくればいいのだし、道路財源だの空港整備特会みたいに非効率分野への資金配分が過大になっているものを引き剥がしてくればいいだけです。そういうところを本気で崩そうと思うのであれば、政界への働きかけのやり方を変えて欲しいですね。

法人税を下げてくれ、ということを本気で主張するのであれば、税制のあり方を完全に変えるつもりでお願いしたいですね。地方の自主的な徴税権を強化するべきであり、国の徴税権限を縮小するべきでしょうね。地方なんて今後土地は大量に余るし、値段なんてあってないようなもんですから、土地に関する税制だの農地の規制だの公示価格だの、そういうのを自由にして欲しいですよね。田舎なんて、土地をタダで提供したとしても、そこに産業が生まれ人々が居住してくれるのであれば、それだけで税収が増えますから。別に、土地から微々たる税金を集めていく必要もないように思う。
法人税にしても、東京みたいに土地代金が高くて、そこにいるだけでコストが高い自治体は高い税金でもいいだろうし、田舎なんて法人税は半分とか3分の1でもいいよ。法人の国税なんて払う必要ないもの。地方税だけ払うことにすればいいんだよ。そうすれば、田舎に法人を移転するだけで大幅減税達成じゃないか(笑)。何で人気のない場所でも、東京でも同じでなけりゃいけないんだよ。ITの威力というのは、ド田舎であっても同じ仕事が出来うる、ということがあるからいいのだよ。小規模企業なんて、ほんの少しの地方法人税を払うだけで十分なんだよ。地方では、そこに住んでくれるというだけで十分なんだもの。なので、単純に「法人税を下げろ」ということではなく、国税は廃止、地方法人税だけは地方が「自由に決められる」ということにすればいいだけなんだよ。人が増えてきて、税を集めて諸問題を解決しなくちゃいけない、ということになれば、税金で何とかしましょう(例えば交通、ゴミ、学校、病院等)ということなんだから。



そういうわけで、単に「後期高齢者医療制度」は、姥捨て山だ、死ねってことか、全然わかんねー、呼び名が悪い、みたいな感情的批判をいくら集めてきても問題解決には繋がらない。まず、制度の持続の為にはどういう方向性でいくか、ということを説明せにゃならんでしょ。医療だけじゃなく、社会保障全体と税制面でもどうやっていくか、そういうことを積み上げていかなけりゃ解決には向かわないでしょ。誰がどれくらいの負担をするか、どういう配分でやっていくか、そういうことから考えた方がいいと思うよ。

大体、基礎年金国庫負担引き上げ問題だって未解決というか、見通しゼロのまんまでしょ?(笑)
暫定税率の2.6兆円と妙に符合するんだけどさ、基礎年金の国庫負担に必要な額って2.6兆円くらいなんだよね。だから公明党はほぼ同規模の税収に相当する「定率減税」を廃止する、って言ったんだから。今回の暫定税率如きで財源不足だ、と喚くんだから、今度はどうする積りなんかね?日本沈没ですか、もう、こうなったら。
地方出身の議員たちや首長たちも、道路工事がなくなったら地方の仕事がなくなるんだ、だから必要だ、ってバカなことばかり言ってるのも異常だ。目先のことだけにしがみついても、しょうがないだろ。麻薬と同じさ。薬が切れると苦しいんだ、だから麻薬をくれ、ってのと一緒だろ。誰も今すぐ全部切る、って言ってるわけじゃない。将来どうするか、ということを真剣に考えるべきだ、と言ってるんだよ。



超涙目~映画字幕のこと

2008年05月10日 19時20分26秒 | 俺のそれ
ヲイヲイ、大丈夫か、と心配になるけど、実際どうなのかは判らない。

「ナチスって何?」…字幕読めない若者増加に映画業界困った!(産経新聞) - Yahooニュース

(一部引用)

しかし、ここ数年、13字の字幕を読み切れないという若者が増加。映画離れを食い止めようと、製作、配給会社では苦肉の対応を余儀なくされている。字幕づくりの現場では、10字前後で区切って行数を増やしたり、漢字を省いたり…。さらに、字幕を必要としない吹き替え版へシフトする動きもある。

 東宝東和では8月から10月の3カ月間で計3本のハリウッド大作を公開するが「吹き替え版を過去最大級の手厚さで用意する」と話す。ワーナー・ブラザーズ映画も「ハリー・ポッターシリーズの場合、吹き替えが6割で字幕版を上回っている。その他の作品でも吹き替えの比率は年々高まっている」と説明する。

 字幕以前の問題も。ある映画会社の製作担当者は「スパイ系作品の試写会後『ソ連って何ですか?』、『ナチスって何ですか?』との感想が寄せられ、本当に驚いた」と打ち明ける。

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そんなに深刻なのか?
いちいち客の要望を満たそうとするからよくないんじゃないか?判らんヤツは放置して、黙って見とけ、ってことでいいんじゃないでしょうか?
因みに、吹き替えても「ナチス」や「ソ連」はそのまんまじゃないですか!(笑)
結局、全員にわかりやすくする、という試み自体が無理なんじゃないでしょうか。

昔、映画館に吹き替えなんてなかったから、字が難しかったり意味が判らなかったりしても、映像との組み合わせで文脈から判断していたじゃないですか。そういうのが外国の文化や歴史なんかを知るいい機会だったように思うけど。子どもやファミリー向け映画なんかでも、タイトル忘れたけど、子ども時代にあった「ロッキー山脈に住んでる家族」の物語とか当然字幕だったよ。


それと、字幕が無くなったら、字幕業者の人たちだって困るじゃないですか。字幕は残して欲しい。
参考>「paperboy」と「待つ人」

時々、声質が気になってしまうことがあって、どうも役者さんと声が合わないな、とか感じることがある。テレビの映画放送の時に、そういうことを感じるんですよ。あと、別な作品で別な役者さんを担当している声優さんだと、そのイメージがカブったりとか。なので、私はほぼ字幕派です(英語が聞き取れないので、笑)。

シュワちゃんの「I'll be back」みたいな定型句のジョークとか、吹き替えだと判らんし。
Fで始まる罵倒セリフとか、そういうのも判らんし(笑、これは関係ないか)。


これからは、字幕推進派になってみるか。




ひょっとして「オレって、天才?」と感じた時

2008年05月10日 14時55分33秒 | 俺のそれ
天才に関して、そろそろ一言言っとくか。
今の時代には天才が掃いて捨てるほど溢れているらしい(冗談です)。

ちょっと便乗して書いてみる。
というか、以前もそうだったね。
『「これをやったら急激に頭がよくなった」という方法』に群がるのは何故なのか?


子どもの頃、自分のことを「頭がいい」とか宣言する場合って、大体決まっていたと思う。

・雑用や家事などをしなければならない場合に、楽して作業できるとか効率的にできる方法を考え付いた時
→思わず口をついて出る言葉:「あったまいい~」

・友人の家に遊びに行った場合に、タンスの裏とかに落ちたまま放置されていたモノを回収してあげる時
→友人たちから称賛される言葉:「お前って、かしこ~い」


これらよりもはるかに凄い、「オレって、天才?」と感じたエピソードは…

短くなった鉛筆(2~3センチ程度?だったか)を石炭ストーブに入れて燃やし、芯だけ回収した。芯の部分は、コンパスの芯の部分に使えるからだった。お陰でコンパスの芯を一度も買わずに済んだのだった。この時、ひょっとして
 「オレって、天才?」
と思った。が、ごく当たり前に普通だった。

基本的に、天才というのはあんまり重大な努力は必要ないのではないかと思う。知能が高ければ、一度説明を聞けばそれで習得できる、一回本を読めば頭に入る、みたいなもんだろうと思うので(実際そうなのかどうかは知らないけど)。将棋をやったら、あっという間にオヤジのヘボ将棋くらいには強くなる、数ヶ月でアマトップクラスになれる、とか。ゴルフも数年でプロになれる、とか。

だけど、天才であっても、新たなものを生み出せるとは限らない、ということではないかな。それには地道な努力や訓練みたいなものが必要、ということかと。知能が高いからといって、人々を感動させるような小説が書けるわけではない。知能の高い人がみんな重大な発見や、新たな定理なんかをもたらせるわけではない。天才的棋士であっても、新手や新定跡を生み出せるとは限らない。多分そういうのは、「天才ですら」苦しまないと生み出せないのだろうと思う。天才的ゴルファーであっても、練習に練習を重ねないとタイガー・ウッズみたいにはなれない。エジソンが言った通り、99%は努力ということだろう。

天才の人にも、何かの誘因というか動機が必要で、それがないと努力することには結びつかないのだろうと思う。トップクラスに猛烈な速度で到達できるけれども、そこから先の未知の領域は天才にとっても苦しみの荒野なのだ、ということなのではないかな。
能力の高い人が10年かかる(凡人なら一生か、一生かけても到達不能か)ところを、天才はその数分の1で到達できる、って感じ。だけど、何倍も早く到達できても、そこから先の新たな領域は自分で開拓しなくちゃならないから。そういう開拓能力には、努力プラス特殊な才能が必要、運も必要、ということなのではないかな。だから天才であっても苦労するし、歴史に名を残している先人たちは偉いと思うんですよ。

ま、単なる感想ってことで。




「オタク系は下」~格付け社会の恐怖

2008年05月09日 13時07分33秒 | 社会全般
今朝の読売新聞に面白い記事が載っていた。ネット上では探せないので、概略を紹介しよう。

・今世紀以降くらいから、中高生の友人関係には「格」ができたらしい
・「格」はグループやクラス内での上下関係を意味する
・この「格」に応じて自分を位置づけ
・こうした格による上下関係に縛られているかも

記事から一部引用してみる。

大学で19歳の女子学生に、何が上下を決めるのか質問したところ、①外見②発言力③先生にかわいがられている度合い――だった。
関東地方の女子大生ナオコ(仮名、22)は高校時代、格付けを意識して苦労した。女子の場合、格付けで重要なのはファッションや体形。ギャル系やカジュアルなおしゃれが上、おしゃれしても地味な感じだと中、オタク系が下だった。
(中略)
格に自分を合わせて友達付き合いを続けるには、努力が必要だという。ナオコは同じ格の女子が好むテレビ番組や音楽をチェックし、ファッション雑誌を読みあさった。「みんなと同じじゃないと。空気が読めないと言われるのは怖いから」。服も趣味も、自分の本当の好みなんて関係ない。だから、「自分を見失ってしまいそうになる」。
一度決まった格は、卒業や転校などの大きな変化がない限り変わらない。

=====


へえ~、そうなんだ、知らなかったよ、思いました。
何といっても、
 『オタクは下』
ですから!
世の中のオタクを自認する人々から猛烈反発が出そう。
「オタクが下なんじゃない、そいつが下なんだ!」
「ナオコ及びその友人の格付けがおかしいんだ!」
冗談はいいとして、オタクといっても昔の宅八郎だったかみたいに(所謂)「キモい」とかって言われるのは、最近は少ないんじゃないだろうかと思う。より広まって珍しい存在ではなくなったからだろう。外人さんの自称オタクたちも、カッコイイ人はいっぱいいるご時世ですから。


けど、これって大人も同じようなもんなんじゃないの?ホレ、「うちのブログはオメガ級」で、アルファな方々とは違いまっせ、とかいつも言ってるし(笑)。他の人たちも「○○はアルファだから」とか、似たようなことを言ってるように思えますしね。肩書きだのアルファだの、何らかの権威に支配されとる人もいるんじゃないの?(笑)

それは別にいいんだけどね。悪いことじゃない。いや、普通だ。
現実世界でも、適当なことしか言わないコメンテーターや評論家だって「格」があるからテレビに出てるんだし。間違ったことを言っていても、世の中の大部分の人たちは信じてしまうんだから。何もない「格下」といいますか、格付けが下の人であれば、たとえ正しいことを言っているとしても、多くの人たちは見向きもしないだろう、と。そういうようなもんだ。

そういえば、「格」について書いたことがあったな、偶然だが。
格の違いってやつですか

日本的発想だと、昔からあった話だわな。家老とかその他役職になるにしても、「~家」ごとにみんな格付けされていて、家柄がその「格」に序列されていなければ絶対になれない、みたいなもんでしょ。婚姻にしても、「格」が大体同じ家じゃないとダメだったでしょ?そういうのと、あまり大きな違いはなさそうかな、と。


たとえ「格」だの「格付け」だのが昔にあったり(ブログ=部落格にもアルファとかオメガとかのランク付けがあったり、笑)したとしても、今の状況は全然違う。それは子どもたちが自発的に「格」を意識している、ということだと思う。何となくだけれども、自分自身をある「階層化」の中に押し込めているんじゃないかな、と思う。目に見えない身分制度みたいなもんだな。そうした階層の呪縛からは、自力だと簡単には抜け出せない人が増えている、ということなのだろう。将校、下士官、ヒラ、という具合にあれば、「あっしはヒラです」とか「私は下士官です」とか、そういう階級(格)に囚われてしまって、「いかに自分が下士官から落ちていかないようにするか腐心する」みたいな状況になっているのである。これには危惧を抱く。若者が生気を失っているかのようだからだ。

若者の上昇志向が弱いかどうかは判らない。単に「疎外」を怖れての保身的行動なのかもしれないけど。でも、自分は平民であり、あの子はプリンセスだから、みたいな身分みたいなものを意識せざるを得ない、というのは、子どもが成長する過程で刷り込まれたものなのではないかと思う。子どもたちが自発的にそういう身分社会みたいなもの、或いは人間を階層化していくというシステムみたいなものを生み出せるとも思われないからだ。親世代や、少し上の先輩世代などから自然発生的に引き継がれてきた傾向なのではないだろうか。偶然かもしれないが、「格差」(格の差だな、笑)がクローズアップされ出したのと同じだ。

格付けによって上下関係が形成され、その階層からは抜け出せない、という発想が、身分社会っぽい。こうした考え方を持つ大人が多いからなのではないかと思う。それが子どもたちにも伝播した結果ではないかな。私自身は立身出世物語とか、はなから肯定的なので、階層に縛られるということを認めようとは思わない。何たって、野口英世は偉かったと思っているタイプだからね(笑)。でも多くの子どもたちは、「どうせ抜け出せないのさ」みたいな諦めというか階層や格差を受け入れてしまっている。それが何故なのかは、よく判らない。本当は格もなければ、階層もないのに。


「ドラえもん」でいえば、「ジャイアン格」の人間には逆らえない、みたいなもんだ。スネオは永久にスネオ階層のまま、ということだ。せめてノビ太みたいな底辺には落ちたくない、落ちないようにしよう、と必死になってる、みたいな。ここで、どうして「ジャイアンをやっつけよう」ということを考えないか、だ。いや、別に個性は個性だからいいと思うんだけど、友人関係の中で格の違いなんてあるもんじゃない。周りのみんながそう考えて、ノビ太にもいいところはあるんだよ、だから下なんかじゃないよ、と認めることができさえすればいいだけなのに、と思う。

昔のドラマや漫画では、勉強ができてもスポーツができない、みたいな所謂「典型的ガリ勉タイプ」というキャラはあったし、「金持ちの息子でイヤミな奴」といった設定も普通にあった。そういう連中は、それだけ(勉強ができる、金がある)では周囲の大勢からは高い評価を得ることなどなかった。通常だと、一生懸命頑張る、明るくて信念や勇気を持つキャラが一番高く評価される、ということになっていた。少女漫画だって、学年で一番の美貌の持つ主で頭がよくて家柄がお上品なキャラはライバルとか仇役で、主人公の少女はさほど美人でもなく頭も普通で庶民の子だった。それでいて、みんなが憧れる超カッコイイ男子は、ライバル役の女よりも平凡な主人公の方を選ぶんだよ。主人公にはあって、ライバル役の少女にはないもの―大抵は心根の優しさだの隠れた能力だの―が評価され、男も心惹かれる、みたいなものだった。昔はそういう価値観が通用していた、ということだろう。しかし、現実の社会では、美貌と才能を持ついい家柄の女が完勝、ってことなんだろうか。勉強ができるとか、金があるということが高い評価を得ているのだろうか。ひょっとすると、そういう価値観が今では普通なのかもしれない。


そういえば、ヘンな格付け番組とかもあったね。今もあるかどうかは知らないけど。なんかこう、格付けを後生大事にしてるみたいだな。格といえばあれだ、ミシュランの星数とか、ああいうのに殺到するという気質ともちょっと似てるのかも。けれども、格付けできるものとできないものがある、ということを考えて欲しいなと思う。偉そうな金持ち息子は敗れ去る、というのが当たり前なんだよ。格なんて関係ない。子ども時代はそういうもんなのさ。大人みたいに格付けに振り回される必要性なんてないのに。あまりに残念だ。

若い世代の活力が大幅に減退しているのは、こうした階層に閉じ込められているからなのかな。階層を乗り越えて行こう、もっと頑張ってやってみよう、とか、思えなくなってるのかな。初めから、身分制度みたいに「どうせ私はこの格だから…」と決め付けているようにしか見えない。美貌や知能だのなんて生まれつきなんだし、家が金持ちとかも自分ではどうしようもないし、こういう差をもって人間関係さえも上下の階級にせよということを認めろというのだろうか?どうしてもそういう考え方にはついていけない。

こうした、はじめからある格差、どうにも乗り越えられない階層、それを認めるがゆえに、例の戦争希望みたいな「階層破壊」というか下克上のようなものを求める気持ちが出てくるのかもしれない。現状では、どうにも変えられないからだ。取り替えることも、飛び越えていくこともできない「格」に縛られていると考えるからこそ、自分よりも上にいる「格」をもつ連中を叩き落とさねばならない、その為には「格」が通用しなくなる・機能しなくなるような状況を作り出さねばならない―すなわち戦争のような状態ということ―、戦国時代のような成り上がりを生み出せるような環境を求めるのだ、ということなのかもしれない。


なぜこうした「格」というものに囚われ、これほど簡単に支配されてしまうのか、私には理解できない。



花粉症は軟弱だから

2008年05月08日 15時38分37秒 | 俺のそれ
3年くらい前までは、花粉症のニュースとか完全防備のいでたちとか、「こんなもん、どうせ都会の軟弱者がなるんだろ、自然の厳しさを知らず甘ちょろいからだろ、あんなカッコしてバッカみたい、キャハハハハ、薬飲むだの目薬だの大袈裟すぎなんじゃないの?」とか、密かに思っていた(こんなセリフを吐いたことは当然ないです)。


しかも
装備が大袈裟なんだYO!
とか、
「ふぁ?薬?」(腹ん中、小人の大行進で笑い転げそう)
「そんなもん、無駄無駄無駄ムダムダーーー!!」
というディオ状態のように感じていないわけでもなかったんですが、現実世界はどうやら本当に厳しかったみたです。


昨年頃から、ちょっとくしゃみが頻発する時期があったんですけれども、軽度であった為に何気なく過ぎていたわけですが、今年は猛爆に遭いました。


くしゃみ百連発!
「しゃっくり百回すると死ぬ」というのは都市伝説だろうと思っていましたが、くしゃみでも当然死にません。
けど、鼻水が垂れる、垂れる(笑)。
目がチカチカして、かゆみがあるんですね。何度も鼻をかむので、鼻が痛くなる。ティッシュを大量に消費してしまう。配ってるティッシュは当然全部いただきだ。
これほど酷いとは思ってもみなかった。

けど、断固内服はしない。マスクも悔しいのでしない。
軟弱の証だからだ(笑、冗談です)。

一体全体、何の花粉だか知らないが、オレも落ちぶれたもんだ。まさか自分が花粉症に苛まれるとは…。田舎パワーも通じない面がある、ということが判ったよ。


くしゃみって、連発すると、常に鼻がムズかゆいみたいな感じになるのだね。くしゃみが出そうで出ないと、何だか物足りない感じを覚える。「何で出ないんだよ」「どうせならスッキリ出させろよ」などと思ってしまう。

今は少し落ち着いたんだけど、数日前は酷かったよ、ホント。

花粉症には参りました。


ところで、全然関係ないけど、くしゃみじゃなくて「コーヒー吹いた」とかって定型句がありますよね?これって、本当に吹いてる人はどれくらいいるんでしょう?

因みに、自分の場合には、文章を読んで吹くことはあまりありませんが、前に車を運転中にペットボトルのコーヒー牛乳を口から吹いてしまったことがあります。鼻に流れたようになって(別に面白くも何ともなく)、ブハッと噴出してしまいました。1人で運転していて、特に何かをしゃべっていたとか、笑ったわけではありません。
が、この大惨事の結果、車は大変なことになってしまいました。

フロントガラスに小さい水滴みたいに飛び散っている。
メーター類や、各種スイッチ類にも、飛び散っている。
泣きました。
お~、何てことだ…
空調関係のスイッチのところとか、ふき取りきれなくて、隙間に入り込んだんだろうね。スイッチを押した時に、抵抗感があるもん。
酷い目に遭いました。


みなさんも「コーヒーを吹く」のは十分気をつけましょう。




来日の話はいいけどさ

2008年05月06日 21時32分27秒 | 外交問題
中国との関係は大事なんだろう。
胡錦濤国家主席の来日で日本の外交の全精力(笑)が投入されているんじゃなかろうか、とか思わないでもありませんが、それだけではないみたいですけど。


ミャンマーの被害は数万人規模に及ぶということのようなので、自衛隊の派遣とかやらなくていいのかね?向こうの都合とかもあるんだろうけど、一応災害は酷いみたいですので。


中国人はバカじゃないから、意味なく日本にやってきたりはしないよ。特に、中国よりも下に見ている日本に、最高指導者が来るというのは特別な意味なんだろう。

チベット問題で、ケツに火を付けられているから、ということも多少はあるのかもしれないが、恐らく中央での「近代国家」としての青写真があるのだろう。欧米諸国に認められることが一番大事なんだけれども、その足がかりとして日本を利用したい、というのは当然あるだろう。先進国の仲間入りを認めて欲しい、という願望の顕れでもあるだろう。

国として、先進国のように振舞わなければならんな、と指導者層が考えているとしても、国民全体のレベルがそこまでは到達していないからちょっと恥ずかしいよね、ということがある。また国の体制という面でも、大きく遅れをとっていることがあるので、「体面を保たせてね」ということであろう。だからこそ、わざわざ日本くんだりまで足を運ぶのだよ、ということかと。

日本にとっては長年のご近所だし、中国がどう考えているかは別にして、ビジネスの相手であるので、中国が「ようやくまともになってきた大国」であるとしても、足蹴にするようなことはできないからね。要するに、「中国様」ということで「敬う姿勢」を国際社会に見せてくれ、ってことだね。

困った時には、日本というのは便利な存在なのかもしれない。フランスみたいな名門国家にバシッと言われるのが我慢ならないというか、顔に泥を塗られたような気分になるから。そういうのを緩和してくれるのは、日本という国なんだろう。




「オーシャンズ13」観たよ

2008年05月05日 19時10分03秒 | 俺のそれ
前作、前々作は勿論みたよ。

個人的には毎回好感が持てる。娯楽作品として楽しめるのがいい。
ジョージ・クルーニーはまあまあ好き。ERの頃のイメージが残り過ぎるのが難点なんだけど。マット・デイモンは「グッドウィル・ハンティング」の時からずっと好き。それ以後の作品は大体観てる。イケメン過ぎないのがいいのさ。ブラッド・ピットは別にどうでもいい。「セブン・イヤーズ・イン・チベット」とか「セブン」とかは良かったと思うけど。

今回ジュリア・ロバーツが出てこないのが、ちょっと残念だった(笑)。

それはいいとして、みんな年をとったな、って感じ。
アルパチーノがこんなに老けたのだから、自分も年を取ったんだな、と(笑)。「ゴッド・ファーザー」を観た時、あまりに凄いので感動した。小学生くらいだったか。パートⅡも観たけど、やはり最初が一番良かったと思う。

アンディ・ガルシアもすっかりオジサンだな(笑)。「アンタッチャブル」の警官役で登場していた頃は、随分と若かった。偶然だけど、「ゴッド・ファーザー」繋がりだ。


本題に戻って、今回一番心に深く残ったのは、寝たきりになってしまったオッサンに、仲間の1人が手紙をひたすら書き続けたことだ。あれは大袈裟に描かれてはいたが、でも、「言葉をかける」ということ、それを「手紙」という小道具を通じて描き出していたことだった。人間を元気にしてくれるものは、「いたわり」と「話しかけ」みたいなものなんだろうな、と感じることが多いので、凄く共感できた。


やっつける、というのが毎回工夫されているけど、今回も痛快だった。
できれば、みんなが年を取ってできなくなるまで頑張って作って欲しい(笑)。


ああっと、それから、メキシコの工場の労働運動が凄くよかったね。こういうのを普通に映画の中で描写しようとするのが、米国映画のいいところかもしれない。



やっぱヘンだよね

2008年05月05日 17時46分44秒 | 俺のそれ
本屋に行くと、もの凄い量のビジネス本とかハウツー本みたいなのがある。殆ど中身のない、ワケのわからん「象」?が教訓を垂れる本とか、一体誰が買うのよ、とは思う(笑)。立ち読みしただけで、もうご馳走さん、って感じなのにね。けど、何万部だか何十万部だか売れていて、儲かる仕組みになっているんだと。羨ましいかぎりでございます(笑)。これなら、漫画の本を買った方がマシな気がするが。

他にも、「頭がよくなる~」みたいなのとか、「こうすれば成功する、儲かる」とか、多すぎ。そんなに頭がよくなりたいのなら、もっと前から取り組んでおけ、ってこった。学生時代に頑張っておけよ、みたいなもんだな。まあ、普通は頭がよくなったりはしないと思うけど~。
世の中、成功者が多すぎるのかもしれん。


こんだけ教訓みたいなものが出回っているのだが、それを整理するとどうなるのだろうか。
誰か、教訓データベースでも作ってくれんかな。分野別に分類して、「知的能力を高める」「儲かる」「事業で成功できる」…云々、みたいに。きっとかなりの量になってしまうのではないかと思うね。これを真剣にやる、実践できる人って、いるのかな?


モーゼの十戒じゃないけど、人間なんてあまり多くのことを守れないだろうから、コンパクトにこれこそが真髄みたいな、超エキスを取り出してきて、10個くらいにまとめてくれるといいと思うんだけど。先のデータベースから、最も多くの頻度があるベスト10とか、そういうのを教えたらいいんじゃないか?そうすると、その後には殆どのビジネス・成功本みたいなものは売れなくなるかもね(笑)。既に答えが判明してしまっているのだから。けど、次々と売り出されるということは、依然として「正解」みたいなものが判っていないからで、結局答えのないもの、判らないものを求めて、大勢の人たちが探しているということなんだろう。

迷ったり悩んだりするけど、自分では考えられないのでお手軽に答えを教えてくれ、みたいな感じなんだろうか?でも、正解がないものだから、何とでも言いようはあるわな。例えば適当に「毎朝生け花を用意しましょう」みたいなアドバイスであっても、これはこれでいいわけだ。誰にも「それは間違っている!」などと言うことができないのだから。「朝8時までに出勤し、少なくとも夜10時までは会社にいましょう」とかでもいい。判定できないものについて、「こうすれば成功できる」みたいに信じるというのは、ニセ科学っぽいというか、細木の小言と同じというか、心性が似ている気がしないでもない。

ああ、近頃もてはやされる「世界の50人」とかに選ばれるような優れた人とかも、いっぱい本を出してると思うんですが、見るからに立派ですわな。凡人には到達できん高みにあるんじゃなかろうか、とか思うわけですよ。そういうスーパー才女の成功体験を普通の凡人たちがトレースしたとして、同じくなれますかね?いや、そう信じているなら、やっていただいて全然構わないわけなんですが(笑)。何の世界でも一緒だと思うんですが、何かを達成した人たちというのは、普通じゃないからこそ、他の人たちとは違うわけですからね。同じ練習方法とかトレーニングをやったとしても、ものになるのは数%とかの程度ではないでしょうか。実際どうなのかは判りませんがね。努力してみることはとてもいいことだと思うし、うまくいった人のアドバイスみたいなものを聞きたいとか、どうやったのかを知りたいというのはわかるんですよ。けど、それが正解かどうかは誰にも判らないし、確かめようがないということです。


私は「私の履歴書」とか好きだし、「プロジェクトX」肯定派だから(笑)、誰かの成功体験みたいな話を否定する気はないんですよ。人間の生き様とか物語を知ることはいいことだと思うので。けど、それは「こうすれば成功できる」みたいな、安易なハウツーを得たい為ではないですよね。生き方とか人生に共感したり感動したりする、というだけです。そこから何を感じ取るか、というのは結局自分次第なんですよ。何かの答えがあるわけではない。むしろ、何も回答が提示されないところにこそ、感じ取れる何かがあるのではないだろうか、ということです。

高価なブランド品で身を固めて、雑誌見本に出てくるようなファッションをしてみたところで、それだけでは人間そのものに大きな変化はないわけで。直ぐに答え(パターン化されたようなハウツーみたいなもの)を求めるよりも、生きる人を見たい。共感できる誰かに出会えたら、多分そこに何かがあるはずなんじゃないかな。




日銀は何か変わったか

2008年05月04日 23時30分19秒 | 経済関連
マクロとミクロは両輪だよ、と書いた記事の続きです。

正確な地図がなければ、河川工事をしたり何かの建造物を作るということはできません。PDEという酵素の存在と作用が判らなければ、バイアグラという薬剤が生み出されることはなかったでしょう。そういうようなものだ、と。なので、基礎研究がなければ細かく正確な知見を得ることはできませんし、その上に立脚する実用面での成果を得ることも難しくなります。基礎研究があるだけで、現実の何かに対処することができるとは限りません。「バイアグラはPDE阻害作用を有する」という事実が、誰かの悩みや苦しみを軽減してくれることにはならない、ということです。基礎と臨床のどちらもあって初めて人々の役に立つものだろうと思います。


こうした考え方は経済学領域でも同じであるように思え、金融政策においても両方が揃っていなければならないでしょう。金融政策というのは、実験でもなければ研究の為にあるわけではないのです。あくまで臨床なのであって、適切に診断し病状を回復させ、健康的な状態を保てるようにサポートすることが最大の目的なのです。主張や理論の証明を得る為にあるわけではありません。


先頃、日銀の展望が発表になりましたが、昨年(日銀は予想屋と同じなのか(追記後))とは若干トーンの違いが感じられます。白川新総裁の姿勢が垣間見られるものなのかもしれません。

経済・物価情勢の展望 08年4月

日銀が金利正常化路線を完全に捨てた(笑)とまでは確信できないものの、何らかの変化を来たした可能性はあるかもしれない。長年にわたり日銀批判を続けてこられた方々にとっては、朗報かもしれません。これまでの活動については、大変ご苦労様です、と思いますけれども、やり方としてどうだったのか、ということについては、いくつか見方があるやもしれません。長年にわたり、同じような論争が継続してきたのは、批判側にも問題があった、無力な或いは無効な戦術をとってきたが故ではないか、ということがあるかもしれない。ド素人に過ぎない私がこんなことを言うのもなんですが、少なくとも普通の一般人から見て謎といいますか、不可思議現象であったことは間違いないでしょう。

「堂々巡り」の議論

まるでこの前書いた例と似てる気がしないでもありません(笑)。騒動の本質が周囲の人々には殆ど理解できない、というシロモノなのです。相手側陣営を撃破することに重点をおいても、それが事態を動かすようにはならないということであろう、と思うのですよ。

拙ブログにおいて、日銀批判とかをかなり書いてきました。日銀の提灯部隊みたいなマスメディアの人とか業界内の人たちにも、同じく非難を浴びせることになってしまったでしょう。けれども、何かに気付いてもらいたいと考えるのであれば、相手と直接対決をするばかりではなく、周囲の人たちに考えてもらう・知ってもらう、ということを考えた方がいい場合もあるのではないかと思えます。恐らく過去にそうした「戦い方」というものについて考える人たちが少なかったからなのではなかろうか、と思うのです。相手側陣営の撃破(論破)することに重点を置いても、判定者の誰もいない場所で行う限り、殆ど効力を持たないでしょう。結局、誰に届けたいか、誰を説得しようとするのか、どうやって何かを動かそうとするのか、そういうことに関心を払わないと、例のネット規制法案の話でも同じようなものなのですけれど、ただ相手側への批判や人格非難みたいなものが繰り返されるだけになってしまうでしょう。


大事だろうと思うことは、相手側の立場とか置かれている状況とか、そういうような部分について共感を持ってあげることではないかと思います。誰も好きで「バカな道」を選択したいわけではないでしょうから。大抵のことは賢くて真面目で知的水準の高い人々がやっているのだから、何かのワケがあるに決まっているのです。だから、認める部分についてはきちんと評価するべきだし、相手側の言い分を理解しようと努めることも必要でしょう。そういう対話を積み重ねていくしかないのだろうと思います(いや、実際そんなことが向こうに届いていたのかどうかも不明なんですけど。私が対話したわけではないから)。

白川総裁がこれまでの考え方の全てを変えたとか、何かのポリシーを捨て去った、というような劇的変化があったというものではないでしょうが、ウチみたいな低俗ブログの書いたことの何か一つでもいいので通じてくれれば大変有り難いことです。もっと末端のサポート部隊の人たちの誰かにでもいい。本当にそう思います。

もしも何か「響いたもの」があったとすれば、多分、白川総裁に染み付いた「学者さん」気質なのだろうと思いますね。学者気質であるが故に、それも筋金入りのマニアであるが故に、「曲げない」部分があるのではないかな、と。最も許容できない、受け入れ難いのは……ということなんだろうな、と。ホントのところはどうなのか知らないんですがね(笑)。


<ところで:
潜在成長率はまだ2%未満、ということみたいなので、もしもそうであるなら経産省の「2.2%」に引き上げという政策は、ほぼ効果が得られていない、ということなんでしょうね。ダメじゃないですか、それじゃ。って、まだ政策実現してないものが多すぎるのかもしれませんが。調べてないから、判らんし(笑、ごめんね)。

潜在成長率の推計結果みたいなものは、公開するならやってもらった方がいいと思いますね。>




米国でも規制強化だそうで

2008年05月03日 23時10分07秒 | 経済関連
NIKKEI NET(日経ネット):米FRB、クレジットカード規制強化へ・年内に最終案

【ワシントン=藤井一明】米連邦準備理事会(FRB)は2日、クレジットカードに関する規制を強化する方針を発表した。利息設定などを巡る「不公正で悪質な慣行」を封じるのが狙い。貸し手の事情を優先した金利操作を禁じたり、無理のない返済期間を設定したりすることなどを盛り込んだ。年内に最終案をまとめる。

 バーナンキ議長は「クレジットカードを公正に運用するための新たな基準を提案した」と説明。消費者が利用に伴うコストを正確につかむために規制の見直しが必要との見方を示した。規制強化が実現すれば、FRBによる監督や検査などの権限が増す。

=====


なるほど、そうでしたか。
いえ、別に米国の中の規制等については、どうぞご自由に、と思いますね。FRBが何か悪いことをしたとか、間違ったことをやった、とは私も思っておりませんので。

ただ、日本の「経済ナントカ」だか立派な肩書きを持った人だか知らんけど、よくありがちな「規制反対!規制は間違ってる」という御託を並べているので、恐らく悔しがることでしょう(笑)。
都合よく学問の名を騙ってるだけにしか見えませんね。いかにもっともらしくウソや屁理屈を並べるか、ということがよく判ります。

結局のところ、人による、ということなんでしょう。



マクロとミクロは両輪

2008年05月02日 20時26分01秒 | 俺のそれ
「お前は既に死んでいる」

BizPlus:コラム:斎藤 精一郎氏「斎藤教授のホンネの景気論」第71回「経済学は死んだか(1)――経済政策失敗の教訓」

というのは冗談です。
(ケンシロウじゃないんだから!昔の流行語>疑問に思う方は昔の現代用語の基礎知識でも繰ってみては)

が、少々思うところがあるので、書いておきたいと思います。上記斉藤先生の論説の中身については、次回以降も読んでみてから、ということで。


「~学は死んだ」というのはよくある話かと思いますが、何かの定説みたいなものが否定されたからといって、その分析手法とか道具とか全てが否定されるわけではないと思うのですよ。何かの考え方や理論なんかが元々間違っているかどうかではなくて、それらへの理解が間違っているとか適用の仕方が間違っていることが大部分なのではなかろうか、と。つまり、受け手側の問題ですわな。

例えば、人間の体については長い年月をかけて色々と研究されてきたし、現代科学の様々な分野で研究されていますが、まだまだ判らないことだらけです。今の研究成果が得られたからといっても、昔の成果が台無しになるわけでもなければ、昔の研究結果を無闇に非難する必要性もないと思います。あくまで人類の「知の蓄積過程」を辿るようなものなので、今から見ても十分価値のあるものだと思えます。先人の研究が無駄であるとか役に立たないとか、そういうことではないと思いますし、そのような受け止め方や理解しかできないのは「先人のせい」ではなく、自らに原因があるのではないかと思えます。自分の能力が足りないがゆえに、先人のレベルには到達できないのだろうと思います。


昔の生体研究というのは、大雑把にいえば肉眼的な解剖学みたいなものでした。正確な地図を作るのと同じで、どこにどんなものがあるのか、ということを知るまでには多大な時間がかかりました。何の為にあるのか、どんな役割があるのか、ということまで知るには更に研究が必要でした。顕微鏡ができて、もっと詳しく調べられるようになって、より細かく調べるようになっていきました。心臓の機能ということについても、昔でいえば「血を送り出すポンプ」という程度だったものが、より精密な生理機能が研究されてきました。今では、分子レベルでの研究というものが当たり前となりました。はじめは肉眼的な研究だったものが、より小さな部分に絞って調べることができるようになった、ということですね。病気の研究も随分と変わり、疫学的研究とか観察による記述だったものが、遺伝子レベルとかで研究するようになってきました。

つまり、マクロ的な研究から、もっと正確で細かいミクロ的な研究へと移ってきた、ということです。昔は、大雑把な記述であったものが、今では分子レベルとか遺伝子レベルでの記述が可能になってきたのだ、ということです。病因や治療薬剤なんかも、それと同じくミクロ的な説明がなされるようになっています。正確性は増した、ということは言えるでしょう。けれども、全ての医師が診察する時にメガネの代わりに顕微鏡や電顕を装備したりはしていません(笑、実際、装備できないんだけど)。ある現象が分子レベル、遺伝子レベルで研究、解析されているとしても、やはり患者を見ているのは医師なのだ、ということです。

ある細胞Aにある分子Bを作用させるとどうなるか、みたいな研究があるとします。濃度を変えたり、条件をいくつか変えたりするかもしれませんが、しつこく研究をするんですね。全世界中の科学者たちが、そういうのをやるわけです。すると、細胞Aには分子Bのレセプターbが存在し、作用としては細胞Aから分子Cが放出される、ということが判ったとしましょう。この現象は再現性があり、誰がやっても同じ結果が得られるのです。なので、確からしいな、と判るわけですが、このことが判明したとしても、必ずしも何かの病気が治せるようになる、というような話ではありません。正常細胞ではこうなる、みたいなことが判るだけなのですね。正確に。それだけです。
今度は、病気の場合ではどうなろうかと調べてみると、実は病因にはあまり影響がなかった、とか、病気の場合はCの濃度が低下する、とか、色々とあるかもしれませんが、そうやって細かく調べていくしかない。普通の状態というものを知るまでがまず大変で、病的状態と比較となると、もっと大変なんですね。そういう積み重ねをひたすらやっていくわけですね。

そういう風に正確な知見が積み重ねられても、これが一つの病気の全体像を知るまでとなれば、もっと大変なんですね。一般化できる知識の時もあれば、そうでもなくて特異的であるかもしれない。実は細胞Aの役割は小さく、ずっとずっと多種類の細胞が関係していて、物質BやCというのは病気の本態とは関係性がそれほどでもないかもしれない。別な細胞Xの出す物質Yによって、本当は打ち消されてしまっているかもしれない。要するに、細かい部分が正確に記述できたとしても、それが病気の全体像を理解できるようになることを意味するわけではない、ということはたくさんあるのです。「血管内皮細胞がNO(一酸化窒素)を放出すると、血管は拡張する」ということは一般的な現象であると判っても、そのことを知るだけでは人体の反応の多くを説明できないし、血管の拡張現象の全てではないし、病気の時にどういう関係・影響なのかも判らない。「血圧が下がる」と断言することもできない。

つまり、より正確に細かい部分まで論理的に説明できる成果を得ても、これが人体全体ということになると、中々難しいのです。観察者が常に同じ現象を観察できるかどうかを確かめることそのものが、難しい部分はたくさんあるわけです。前にも触れたことがありますが、「in vitro」と「in vivo」は違うことも多いのです。そういうことを考慮した上で、研究成果に向き合えばいいだけなんでしょうけど。普通の研究者たちにはそれが当たり前になっていると思いますが、それら研究分野にあまり関係のない人たちにとってはそういう発想が困難であるので、「~が観察された、だから、○○だ」みたいに結論にすぐ直結させてしまうことがあるかもしれません。現実に起こることというのは、それほど単純でもなければ簡単なものでもないように思うのです。


動物実験などで確認することができる場合には再現性を確かめられますが、これが経済学の世界となると、難しいのですよね。大抵のことは「確かめようがない」(笑)。だからこそ、適当な解説や毎回異なる言説なんかが通用してしまうのかもしれません。その多くは誤った適用とか、他の要因の見落としであるとか、そういう根本的な誤りではないかと思えますね。

仮に、ある人に観察された現象が
・意識消失
・血圧低下
であるとします。
また、実験の成果などで
①血管が拡張すると血圧は低下する
②血管内皮細胞にはNOを産生するeNOSが存在する
③NOは血管に直接作用して血管を拡張する
という知見が得られているとします。

すると、とある解説をする人がいて、
《血管拡張が起こると血圧低下が観察される(①)、つまり意識消失は脳血管の拡張が原因だ。では、何故血管が拡張したかといえば、②と③から「NO産生が多くなり、その結果血管が拡張」したんだ。つまり、NO増加が原因だ!》
みたいに言うわけです。

本当にそうなのかな、と疑問を述べると、「血圧は下がったじゃないか」「血管にはeNOSがあるのは事実だ」「NOは血管を拡張するのは事実だ」とか、強硬に言い張るわけです。いや、それらは確かに事実なんだけれども、それが理由で意識消失したかどうかは判らないよね、という風に考えたりできないんですね。
「NO増加をもたらすような、供与体は特になかったみたいですよ」とかいうと、「NOには血管拡張作用がない、っていうのか!」だの「血管にはNOSが存在しない、っていうのか!」だの、見当ハズレなことを言い出すわけです。誰も、そういう細かいモデルでの事実を否定したりはしていないんですよね。そうじゃなくて、普通は「ある人」全体の外見を観察しているんですから、そこに何らかの要因みたいなものがなかったのか、検討してみることは必要なんじゃないですか、って話ですね。

別にNOのせいにしなくたって、例えば「丁度点滴しようとしているところで、刺入直後だった」というような要因とかがあれば、「ひょっとしてVVRによる反応かもしれませんね」と別な解釈を考えることだって可能なわけです。
(VVR:血管迷走神経反射、針刺しなどをキッカケに起こることがある)

結局、ある事実や知見があるとしても、それが説明として適切でなければ「間違っている」ということになるだけですね。これは別に分子生物学が悪いわけでもなければ、生理学や生化学のせいでもありませんね。「生化学は死んだ」といったことには無関係ですね(笑)。どんな知識とか知見であっても、その組み合わせや適用の仕方に誤りがあれば、やはり役立たないのであって、だからといって「分子生物学は実生活で役に立たない」「生理学は昔の知識だから(以下略)」「生化学は…(以下略)」ということにはならないでしょう、と。

これらは先人が現代に通用しない知識を残したのが悪いのでもなく、先人の知識に欠陥があったからでも、間違っていたからでもありません。受け継いだ私たちの理解が不十分であり、意図や解釈を誤解しているだけなのではないでしょうか。


ある人物全体を観察して、その人に適切な診断や処置を施すということと、実験的な知見を得ることでは、若干異なった部分みたいなものがあるということを知った上で、研究するなり治療するなりをやればいいのではないかな、と。何となく両方を見ながら、でも本当に集中して見るべきは「ある人」なのであり、自分の全能力を傾けて観察してみる・考えてみる、ということ以外にはないのではないでしょうか。

知識が役立たないのではありません。役立てられない自分が悪いのです。
答えは既にそこにあります。現象はすでに起こっているのですから、自分が見落としている条件や症状や要因みたいなものがあるのだ、ということです。着眼点が間違っているのか、見えてない要因があるのか、調べていない項目があるのか、それが何なのかは判りませんけれども、「何か」が多分あるのでしょう。



参考までに、全然関係のないエピソードを。

ある電車内での会話
女学生A 「来週から試験ね」
女学生B 「うん、あたし化学苦手なのよね」
女学生A 「化学は終わりの方だったから、まだ余裕はあるわよ」
女学生B 「けど、自信ないのよねえ…」
女学生A 「ああーっ、『生理』っていつだった?」
女学生B 「月曜じゃない?」
女学生A 「ヤバ、早速ヤラないと。すぐ来ちゃう」
女学生B 「慌ててもどうせ無駄。案ずるより産むが易し、よ」

これを聞いていたオバサンは、心の中でこう思った。

な、何ー?『生理』だって?
全く、イマドキの若いモンは、電車の中で堂々と『生理』の話をするなんて!
親の躾がなってないわ。や、や、「ヤラないと」、ですって!?
一体、な、何をしようっていうのよ。恥というものを知らないのかしら…
う、う、「産む」ですってーー!?
言うに事欠いて、「産む」ってどういうことよ。
ちょ、ちょっと、産むって、アナタねえ…
若い子には呆れるわ。全く今の時代はホントにもう…

一応解説しますと、
いや、そうじゃなくて、ただ単に生理学の試験の話でしょう、と。
けど、一般人には生理学なる分野は知られていないだろうし、学生が単に「生理」と呼んでることも知る由もないでしょうから、オバサンが勘違いするのも無理はない。恐らく、女学生の方をジロジロと怪訝な顔で見ていたに違いない。って、本当はそんな現場に立ち会ったことはないんだけどー!全くの創作なので。

もしこの記事を読んでいる女学生諸君がおられた場合には、電車内でこの会話を試してみることを強くお勧めする。周囲の注目を引くのではなかろうか、というのが私の予想。こういう時の、人々の反応を見たりするのは結構楽しいよ。どう?
えっ?普通は楽しくない?
そうかな~私はかなり楽しみなんですけど。



自分が資本

2008年05月01日 15時13分12秒 | いいことないかな
スケールが違う。
そうですか、こんなにですか。

昨年最も稼いだモデル、36億円でG・ブンチェンがトップ(ロイター) - Yahooニュース

よく「不平等だ!」ということを言う人たちとか、こういうのを非難するんだろうか。美人でスタイルが良いのと、頭が良くて成績がいいのと、何が違うんだろうか。機会が不平等だ、とか言うかな?

「女性を売り物に…」云々とか言う人たちも、こういう稼げるモデルとかは許容しがたいのだろうか。よく知らないんだけど。
でも、こんなに世界で稼げる美人モデルであっても、オナラくらいは出るだろうし、乳房の組織切片を名も知れぬブス比べるとほぼ同じだったりするだろう(笑)。特に意味はない。


だから、何がどうの、ということでもないけど、人それぞれでいいんじゃないか。成功を恨めしく思うな、羨むな、自分には自分のオナラが、じゃなくて能力とか人生がきっとあるんだろう。