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75歳になった途端に……

2008年05月24日 17時02分54秒 | 社会全般
後期高齢者医療制度の話で、反対派の言い分として明らかにおかしいと思うのが、これ。
「どうして75歳以上だけを区別するんだ、差別だ!!」

いや、気持ちは判らないではありませんが、こういうのって都合のいい使い分けなんじゃありませんか?


①旧制度でも区別されていた

前の制度は老人保健法による制度でした>後期高齢者医療制度に文句を言ってる人たちは、調べて理解してから言え

この制度だって、75歳で区分されていたわけですが、どうしてそれには文句を言わなかったのですか?いや、もうちょっと前は70歳だったんですけど、それでは老人保健制度が持ちこたえられなくなり、75歳以上となったんですが。確か、H14年から。
で、旧制度上では、70~75歳の人は「前期高齢者」として存在していたのに、誰もデモとかで文句を言ってなかったのではありませんか?いや、私が知らないだけで、本当はデモがあったのかもしれませんがね。改正前の老人保健法では、適用年齢が70歳以上という区分があったので、それを制度移行していく為に「前期高齢者」という区分けとしたんじゃないでしょうか。
要するに、前から区分していたじゃありませんか。前期高齢者と書かれた受給者証のようなものを持っていた人たちはいたでしょう?「後期」という名前がダメなんですか?でしたら、「前期高齢者」と「老人」という以前と同じ呼び方にしておくとか、「老人」じゃイヤだ、というのであれば長寿(笑)でも何でもいいんですが、名前を変更すれば解決しますね?

もしも絶対に区別するのは反対、ということなら、3割自己負担で他の現役世代と同じ負担で同じ健康保険制度ということにしますか?保険料負担もするということですね?現役世代と区別しない、というのは、そういうことなんですよ。高齢者を区別せず同じ医療保険制度にしろというのは、高齢者の特権を失う、ということを意味するのですよ。それでもいい、ということですね?


②無料化の特権は文句を言わない

地方自治体の財政状況が苦しくなったので、制度が変わったかもしれません。最近は無料というのが減ったのではないかと思いますけれども、各種サービスを無料で受けられる、というものがありました。例えば、市営バスの運賃とかの公共交通機関の運賃が免除されるとか、医療費助成なんかもそうでしたし、健康診断もそうですね。市町村によって制度は異なるでしょうが、財政的に余裕のあるところは70歳以上はタダ、なんて制度があったのです。そういう時には、「70歳になった途端に」明らかに区別されて、タダの特権を受けるわけですね。不当な差別だ、なんて文句の一つも言わずに。昔は65歳以上の人口自体が少なかったから、1割未満であった時代ならばそういうのもできたんですよ。働き手が多くて、65歳とか70歳以上の人たちなんて相対的に少なく、珍しかったから。けど、今は違う。現役世代の給料が昔より少ないとか、市町村にもお金がなくて困っているんですから。

どうせ「差別するな」と大袈裟に叫ぶならば、自分たちの無料化の特権も同じく「差別だ」と言うべきではないのか。孫が給料が少なくて困っているんです、保険料が払えなくて苦しんでいるんです、ってことなんだから、「ワシもちょっと協力しまっせ」くらいに言ってくれたっていいのではありませんか?


③昔だって、お金を払っていた

国民皆保険になったのは1961年からで、それ以前には高いお金を払わねば医療を受けられない人たちが大勢いたんです。それに、国民健康保険の自己負担率は5割でしたよ。今みたいに1割なんかではなかったのです。

その後、自治体のいくつかは医療費助成にお金を回すようになって、老人医療費の無料化をはじめた結果、1973年には老人福祉法改正によって無料化が達成された。しかし、当時は65歳以上人口は全体の1割にも満たなかったからできたことだ。65歳以上の高齢者は、1960年には約540万人(5.7%)だったのが、65年には623万人(6.3%)、70年には740万人(7.1%)、80年には1065万人(9.1%)とうなぎのぼりに増加した。国が73年に決めた老人医療費無料化政策は、わずか10年で負担に耐え切れなくなったのだ。政治家の大衆受けを狙った政策は、あっという間に制度根幹を揺るがす事態となってしまった、ということ。皆保険制度開始から10年余りで導入された老人医療費無料化は、老人保健法制定へと繋がっていった。

今の高齢世代が支えたという時代と現代では置かれた状況が全く違う。
年金受給者は少なかったし、65歳以上の人口比は今の半分以下でしかない。2660万人いる今と、600万人とか1千万人とかの時代とは違う。当時には5人とか10人で1人の65歳以上の高齢者を支えていた。今は、2人強で1人を支えているんですから。昔と同じような仕組みにしてくれ、ってのは土台無理な話なんですよ。

今の高齢者の人たちは、昔が天国であったかのように言うが、無料化が実現できた期間というのは、ほんの短い期間でしかなかったんです。今年78歳の人は1930年生まれですが、その親世代だと戦中戦後の苦労は大きかったけれども、年金も満足になかったか医療を受けることだってできなかったんですから。自己負担も勿論大きかった。60年代や70年代なんて無医村がたくさんあったし、「オレは外科が専門だから、あんまり診れないよ」なんてお医者さんであっても、何でもいいから診てくれればいい・専門外なんて関係ねー、ということで感謝されていたんですから。自宅に呼ばれて聴診器とガラスの注射器と針くらいしか持っていくものがなくたって、それで死んだとしても、誰も文句を言ったりはしなかったし、訴えたりもしなかった。そういう時代だったんです。それからみれば、今なんて幸せじゃないですか。誰でもCTを撮ってくれる。大金持ちしか受けられなかったような医療を受けられる。その費用の一部を負担することが、そんなに理不尽なことですか?


昔の5倍もの高齢者がいるのに、2600万人の「高齢者同士」が共に協力していきましょう、日本や孫たちを救えるのは我々だ、というような機運にならないのは何故ですか?
それは結局、自分たちに貰えるものを求めているだけだ。健康保険は積立なんかじゃないんですよ?何かの積立貯金みたいに勘違いしているのかもしれませんが、昔に積み立てたものを年を取ってから貰える、みたいなものではないのです。こういう高齢世代の過った認識が強いが故に、「払わないのにサービスしてくれ」みたいな社会風潮が出てきたのではなかろうか、と思わないでもありません。何でもかんでも、公的サービスはタダにしろ、とか。国がやるんだからタダ、自治体がやるんだからタダ、みたいな。
反論に窮すると今度は「お金は払っているぞ、税金を払ってる」とか言うんですが、そういう場合に限って受けてる給付や行政サービスの方が多かったりするんですよね。世の中、そんなに都合よくタダになることなんてないんですよ。




家計別の物価上昇率の話

2008年05月24日 13時07分57秒 | 経済関連
via 大竹文雄のブログ 所得階級別物価上昇率

興味深い話題である。

示されたペーパーがこちら>家計別物価指数の構築と分析

本論文で示された中で、示唆に富む部分があったので挙げておきたい。
5.2で次のように述べられていた。
『図3からも明らかなように、1980年代でもかなりの家計はデフレ状況にあった。現状でも全国消費者物価インフレ率が安定的にプラスになったとしても、40%以上の人がデフレ下にいることはあり得る。このように、平均的な物価水準で全てを理解し、政策判断することには限界があるというのが本稿の主たるメッセージである。
(中略)
すなわち約1%の上下の幅を持たせてターゲットを決めるとほぼ80%の人がその範囲内のインフレ率で生活していることがわかる。』


なるほど、と得心のいくもので、「平均的な物価水準で全てを理解し、政策判断することには限界がある」ということは同意できる。簡単にいえば、全てを理解することなんてできないだろう、というのはあまりに当たり前だからである。そうではあっても政策決定は行わねばならないのであって、理解できないことがあるにせよ、手持ちの材料や使えそうな資料等の全てを用いて「考えてみる」しかないのである。その役割を担うのが中央銀行なのだから。

山の中腹に登山隊がいる時、「このまま登り続けますか、どうしますか」と隊長に判断を求めても「判りません、答えられません」じゃ、困るでしょう、という話である。「下山しますか」「このまま待機しますか」「ビバークしますか」「アタックしますか」という判断を求めているのに、毎回毎回迷っていたり「答えられません」じゃ、登山隊は全滅するだろう。隊長がそんな役立たずでは、「隊長を代われ」と求めるしかない。指示を出せる人間が代わってやるしかない。急に悪天候に見舞われて、雨で前が全く見えません、という時に、どうにもできないのでとりあえず今まで通り、みたいに間違った指示をされたら、隊員たちが被害に遭うだけだ。日本経済というのは、実際にそうして大勢の被害者が生み出された。今後に猛烈な嵐がやってきます、どうしますか、という緊急事態の時に、「山頂に行けば雲が晴れるから登れ」と無理に登らされて多数死亡。ようやく少しだけ雨が上がって助かったと安堵した途端に「休むな、弛んでる」といわれ、駆け足で登らされるという無茶なシゴキに遭った。どうにかこれまでついてきた隊員たちも、そこでも大勢脱落し死亡。日銀とは、こんな隊長だった。

話が逸れたが、上記ペーパーの最も優れた部分というのは、家計のインフレ率はおおよそ正規分布になっており、平均値からの乖離がある、ということを明らかにしていることだ。指数として出される数値というのは全体を統合したもの(平均的な値)でしかなく、分布の低い方にも「それなりに存在している」ということなのである。これをどのように考えたらよいかといえば、ペーパーにも記されているように「80%くらいの国民」が平均からの上下約1%のインフレ率に存在し、政策的に考える時にはその多数派がデフレになっていないような状態を目指せばいいのではないか、ということになるのではないか。

つまり、正規分布の山の中心をインフレ率ゼロに位置させると「国民のかなりの数(例えば4割とか)」がデフレ下に置かれることになってしまうが、山の中心を1%高い方にシフトさせると、指数として出されるインフレ率は1%(平均値)となるが、国民の大多数の8割以上がデフレ下には置かれないことになるのである。完全に理論的な正規分布であれば左右対称ということになるから、仮に指数として出されるインフレ率がゼロであっても、半分はデフレ下に置かれることになるだろう。「理論的な消費者物価インフレ率がゼロ」という状態というのは、そういうことを意味する。これを回避して、正規分布の大半―8割とか9割とか、政策的に考えるべき水準―がゼロよりも高い側に存在するように金融政策を行うことは、結果的に正規分布の中心を「常に高い側に位置させる」ことが必要だ、ということだ。山を少しだけ右にシフトさせておかねばならない、ということ。インフレ・ターゲットの下限がゼロが望ましいのではないということは、そういうことからも言えるのではないだろうか。ターゲット(=山の中心の変動範囲)の下限をもうちょっと上に(最低でも1%とか)置いておかねばならない、ということだ。


物価上昇の実感云々の話は、これまでにも何度も書いたので、一応。

「貧乏バイアス」の存在を疑う(笑)

昔は「庶民の感覚」重視だったのか?

物価の実感云々の話は


ペーパーでは支出階級別での物価上昇とか、期間別や地域別といった差があったことを調べているので、家計の置かれている環境(年齢、地域、時期等)で個々の実感の具合というのは異なるだろう、ということかなと思った。でも、それって普通なのではないかな、とも思った。政策的に考える時には、個々の家計に合わせて判断することなどできないのは当然。日銀が全ての人たちの不満なく政策決定できるわけではない。できるだけ最大多数の幸福に繋がるように考えてみるしかないだろうと思う。だからこそ、銀行利息が少なすぎるのでもっと利上げしろ、みたいな「一部の特定層」の意見を出してくるのを疑問に思うのだ。判断する際には、全体を優先するべき、ということ。

これは、株式市場での変動なんかにも近いと思う。
指標としては、日経平均でもTOPIXでも「代表される指標」というものがある。これが平均的に算出される消費者物価指数みたいなものと同じだ。個々の企業ごとで見れば、値上がりしている株もあれば、逆に下がっている株もあるだろう。個々の動きとはそういうものだ。その変動率の分布を見れば、はやり正規分布に近いような形状となっているかもしれず(違うことも勿論あるだろう)、市場全体の動きとかエネルギーを見るには変動中心であるところの指標を見て判断することが多いのではないか、ということだ。個別の株の値動きだけ見れば、ずっと値下がりという銘柄だってある。家計でいえば、ずっとデフレ下に置かれている家計みたいなものだ。

もっと広い範囲で、地域別とか年齢別階級みたいな区分というのは、株で喩えればセクター別みたいなものかな。全体の指標は上がっていても、金融セクターだけは値下がりだとか、不動産セクターは下落が続いているとか、そういう「グループ間の差」みたいなものはある。別な区分で、「大型株」「中小型株」でもいいし、「値がさ株」「低位?(100円とか200円以下の安い)株」でもいいけど、そういうグループ間の差を観察すれば、動きには違いがあるのは珍しくはない。でも、相場全体のトレンドというか、動く方向性みたいなものを考える時には、やはり代表的指標―つまり日経平均だのTOPIXだの―で流れを見ることが多いだろうと思う。完全な予測など存在しないでしょうけど。それは政策判断、決定も同じだということ。

株式市場での弱気とか相場全体の強さとか、そういう判断の重要な材料としては、やはり指標が着実に上昇してきているかどうか、というトレンドだろうと思うし、将来予測としても重要な意味を持つだろう。業種別で見れば特定業種で連続の下げとなっていても、相場全体では上昇が続けば、方向性として「強い悲観論」みたいなものは左程出てこないと思う。
値下がりより値上がりの銘柄数が多く、変動率分布の山の中心がゼロよりもプラスに位置している限り、山の下限側の一部がマイナスとなっていても、将来予測としては「上昇」と感じ取るのではないかということ。相場観として、そうなるんじゃないかな、と。大抵の人間は、自分自身の判断よりも周囲の大勢の評価の方が気になるというか、周囲の評価を見て自分の判断が影響される、ということがあるのではないかと。経済停滞というのが、少数のマイナス領域の人々の悲観論によって引き起こされるのではなく、全体的な雰囲気みたいなもので形成されるんじゃなかろうか、と。分布の中心がどこに位置するか、ということであり、多分プラスにあれば悲観的な人は少なくなるだろう。それは「自分の持っているたった一つの株」が値下がりしたからといって、「日本市場はもうダメだ」と考える人はまずいないんじゃないかな、というのと同じ。そうではなくて、自分の持ってる一つの株が値下がりするばかりじゃなく、その他大勢の持つ多数の株が値下がりする、つまり指数は下落するという事態が続くことで、「日本市場はダメかもしんない」という将来予測が形成されるだろう、と。


ま、庶民の実感云々は別にして、低所得階層で値下がりの恩恵が少ないとすると、生存の為の最低費用が相対的に高いことになるのでちょっとマズイよね、ということにはなるだろう。
個人的な実感(笑)としては、物価下落の恩恵を受けて、基礎消費に相当する額というか、生存維持の最低費用は下がったのではないかな、と思っていたのだが、どうも当てにはならないな。失礼しました。
賃金に関する議論~補足編


今後の政策(日銀の、ということでなく)を考える上では、案外と重要な論点かもしれません。