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「言葉の力」

2006年02月12日 00時22分01秒 | 教育問題
先日、日本語教育のお話がブログに散見されたのですが(内田先生のトコとか、finalventさんのとことか)、文科省が「ゆとり教育」から「言葉の力」へ方針転換ということをNagarazokuさんの記事(ながら族:Nagarazoku:Nagara Tribune)を読んで知った。これは朝日の記事に出ていたようだ。

asahi.com: 学習指導要領、「言葉の力」柱に 全面改訂へ文科省原案 - 教育

記事から一部を抜粋。




学校のすべての教育内容に必要な基本的な考え方として、「言葉の力」を据えることがわかった。文部科学省が近く、中央教育審議会の部会で原案を示す。「言葉の力」は、確かな学力をつけるための基盤という位置づけ。学力低下を招いたと指摘を受けた現行指導要領の柱だった「ゆとり教育」は事実上転換されることになる。




他方、次のような記事も。

- Brain News Network -

こちらも一部抜粋。


記事を読む限り、ここで言う「言葉」とは日本語を意味すると断定できるが、まさか近年の「国語ブーム」に便乗したのでは、と邪推したくもなる。

 だが、それは必ずしもうがった見方とは言えまい。たとえば、阪神大震災の後に、「耐震」をテーマにした施策が相次いで打ち出されたように、日本の官庁は、実は時流に乗ることに殊の外熱心であるという性格を持つ。

 裏を返せば問題が表面化しなければ動かない。万事が対症療法的で、著しく先見性に欠ける。だから熱が冷めれば途端に綻びが目立ち始める。相次ぐ耐震偽装問題の発覚も、こうした無責任さと無縁ではあるまい。

 文科省原案も、早速綻びが見られる。国語を重視する姿勢を打ち出しながら、一方では小学校での英語必修化も検討課題としていることは明らかに矛盾だろう。

 ベストセラー「国家の品格」の著者である藤原正彦氏は、著書「祖国とは国語」の中で、小学校からの英語導入について「他教科の圧縮を意味し、国民の知的衰退を確実に助長する。愚民化政策と言って過言ではない」と痛烈に批判している。まったく同感である。






このように厳しい意見もありますが、藤原先生は所謂文科省の何かの委員であり、国語教育に関してはご意見を出している立場です。あくまで推測ですが、日本人的心というか「情緒力」「愛国心」のような―まさに「言葉の力」肯定派という意味で―日本人の心を取り戻す第一歩としてこれに賛成されているのではないかと考えております。「言葉の力」は確かにあるように思えるし(わたくしも同じく情緒的と申しましょうか、笑)、これを盛り込むかどうかは数年来の協議の結果であると思います。調べてないですけど。とても行政が一朝一夕でこうした決定を行うとは考えにくいのでございます。


ですので、文科省としては勿論昨年来の「学力低下危機」という批判に晒され、「ゆとり教育」という言葉だけが取り上げられる為に誤解を招いている原因となっている、という側面もあるのではないか、と考えたとしても不思議ではないように思えます。ややもするとご都合主義とも取れなくもありませんが、お役所仕事ですので(笑)。少なくとも審議会とかのレベルでは、もっと早い段階から盛り込む言葉の選定を行なっていたであろうな、と。


こうした方針転換がどうなのか、というのは賛否あると思いますが、少なくとも現場レベルの知見や報告ということも吟味されている可能性は高いと推測しており、モデル事業などからの提言とかもあったかもしれませんね。そういうことをきっと記者たちが調べて書いているかというと、そうでもないと思いますね。


私がナルホドそうだな、と思ったのはNagarazokuさんの次の言葉でした。


経済的な格差の中で、教育におカネをかけることができる家庭と、そうでない家庭で、ベースラインに差異が生まれてしまったのは事実でしょうが、これは直接に「ゆとり型」の所為ではありませんし…。そして「ゆとり型」の中に置かれていても、やるべきこと以上のコトをやってきた人たちだって存在してるワケですから、一概にゆとり型が失敗だとか、そんな風には思えなかったりもするのです。

~中略

問題は、「社会の構成員として人間が機能するのではなく、社会を道具としてどのように上手く活用してゆくかと言うコトを、キチンと教えてないことじゃないかなぁ」と、そして「社会と言う道具はまだまだ未完成で、自分達の手で改良を続けてゆかねばならないと言う、根本的な課題を伝えてないことじゃないかなぁ」と、ゆとりの世代を横目で見ながら働いてきたアタシは、そんな風に漠然と思い続けていたりするのです。



日本人を誇りにしてはいけないか

2005年09月21日 10時26分26秒 | 教育問題
小倉弁護士の記事(○○人であることを誇りに思う人々)を拝読して、「○○人の誇り」論争について知った。私は既に日本人であることを誇りに思う、と記事にも書いてきたのだが(終わったな、ホリ○モン)、思わぬところで「右傾化」を非難される羽目になった(笑)。正直な気持ちとして、もしも再び生まれてくるとしたら、日本に生まれたいと思っている。それはいけない感情なのだろうか?

「こういう人が大手をふるっている日本は・・・」とまで言われてしまって、何と失敬な、とちょっと思いました(笑)。私は歩いてしまっています、大手をふるって。


日本人であることは何も担保するものではない、ということは理解できる。だが、少なくとも日本人として生まれ、その文化に育まれて生きてきたのであるから、日本人としての誇りを持つことがそれほど問題なのだろうか?オリンピックやワールドカップでは、日本を一生懸命応援するし、勝つと嬉しいけどね、やっぱり。外国に旅したら、堂々と日本人です、と答えるし。少なくとも、中国人とか韓国人といった、よく間違われ易い民族と思われたら、「いいえ、日本人です」と答えるけれど。


「どうせ自分のことを誇りに思うのであれば、自分が他人のため、社会のために、何かを成し遂げたことを誇りに思えばいいと思うのです」とも述べておられるが、それならば別に日本人でなくとも何人でもいい訳です。何処に生まれようと無関係ですね、ということです。


これはあたかも誰の子供として生まれてもよい、ということを言っているようにも感じます。私は自分の両親から生まれたことを恥じたりはしません。勿論大金持ちでもなければ、高学歴でもなかった両親が、世間的に見て「人も羨むような立派な人」という訳でもないですし、はっきり言えば、もっと特別な家庭に生まれていたら違う人生を送れたかもしれません。大会社の御曹司とか(笑)。ですが、自分のルーツは両親を含め、自分の先祖にあることは動かせない事実であり、その生家を誇りに思うことがなければ「自分の血は穢れている」的な、暗鬱な気分しかないように思います。確かに「良家の血筋」を自慢して、それに安住するというのは、個人の能力を示すものでもないのに、おかしな話だろうと思います。ただ、そうであったとしても、自分の先祖、ルーツを否定する気にはなれません。自分を産み育ててくれたことに感謝し、誇りに思うことはあっても、他の文化を持つ家に生まれればよかった、とは思いません。


日本人であることは、自己の選択意思とは無関係なものであり、生家を選べないことと同じです。その誇りを忘れてしまい、文化を否定することは、自分のルーツを捨て去ることと同じだろうと思うのです。過去の歴史が積み上げてきた日本人の文化を捨てることで、礼節も規範意識も倫理観も喪失していくのではないか、という危惧があります。それを体得させる一つの要素が、自分のルーツを大切にする気持ちなのではないか、と感じています。


ナショナリズムに走ることの危険性や排外的思想の先鋭化問題などは、今後解決していくべきことだろうと思いますが、それと、日本人としての誇りは別物なのではないか、と考えております。寧ろ、そういう混同を避ける意味でも、「他人への敬意」「人々への感謝」といった教育をすることが必要なのではないか、と思います。教育に関する記事に何度か書いてきましたが、私は今の時代に欠けているのは、そういう他者への尊敬や両親や先人への感謝の気持ちだろうと感じます。


ですから、たとえ「日本人であることを誇りに思う」という発言をすることで疑惑の目を向けられるとしても、それを改めようとは思いません。少なくとも、誇りに思わない日本人がこれ以上増加しないことを祈るだけです。何たって、「いい国作ろう!」ですから、私の場合には(笑)。単に個人が頑張るなら、「自分で自分を褒められる人になろう!」にタイトルを変えねばなりませんから。



ブームの予感?話題の「ニュートラ」

2005年09月10日 18時43分45秒 | 教育問題
内閣府の取り組みらしいですが、ブログにも幾つか書かれていますね(主に大学教官系ですね)。駝鳥さんも取り上げていますし(+ 駝 鳥 + - やっぱり最初の二問をNoにつけたのが決定的にダメ出しされる理由だったのかな。。)。

中々ユニークですが、改良の余地は多いようですね。でも、色々な専門家の意見を取り入れていけば、良くなるかもしれませんよ(笑)。

若年者の何をどう支援していくのか、結構難しい問題なのかもしれない。それぞれの立場によって、体験的に接したことのある若者が違えば、持つ印象も違っていると思う。教育関係者の間でも、色々違いがあるようです。


「支援は必要だ」という立場もあれば、「いいや、個人の問題などではなく、景気循環の問題だ」という意見もあります。見ている部分が異なるからではないのかな、と思います。


ある大学では、「就職率は100%さ。特別な支援など必要がないし、仕事さえあれば何も教えなくても、自分で考えて行動できるし、短期間で辞めたり、しょっちゅう休んだりはしないさ」と。そういう立派な若者ばかりの学校もあるんだな、と思う。


ところが別な高校教師などは、「仕事に就こうとしない生徒がクラスの3分の1は存在する」と言い、どうしたらよいか、と思い悩んだりしている。それに対する答えは、「景気のせいさ」で済むのだと。ほー。これで悩み無用ですな。シンプル伊豆ベスト。ナイスなキャッチコピーみたいでしょ?(笑)それで問題解決なら、こりゃ、楽だわな。「景気が良ければ、放っておいたって仕事に就きますよ」

ある親御さんは、自分の息子が一度就職したのにすぐに辞めてしまい、引き篭もりになってしまってどうしたらよいのかと悩み、講演会などに参加したりして、どうにか解決策を模索しているが、未だ引き篭もりのままだと。でも大丈夫。この家族に本当の答えが見つかったのだ、と教えてあげれば済むのです。「丁度景気循環が悪かったからですよ。景気が良くなれば引き篭もらなくなります」

ある生活雑貨店に若い高卒のバイトを雇ったら、1週間位で「辞めます」と言って来なくなったそうです。店長が理由を尋ねたところ、「ダンボールの荷物を運ぶ仕事があるとは思わなかったから」と。そうですか。次に雇ったバイトは、遅刻が多くて度々シフトに穴があき、店長が少し厳しく注意したところ、次の日から来なくなった。心配して電話したら、「バイトだからいいじゃないですか。もう行く気ありませんから」と。そうですか。こういう問題も、解決できますよ、オーナーの皆さん。安心して下さい。「景気が悪くて仕事がないからで、仕事が増えればきちんと出来るようになりますから」と。そうですか。


こうした問題は、景気を良くすることで解決がつく、という主張がある(玄田有史『14歳からの仕事道』(理論社)+ニート論の弊害(再録))。立派な若者にしか出会わない人とか、苦しんでる人を知らない人は、そう考えるのかもしれない。でも、それで解決できるなら、誰も苦労しないだろうな、とも思う。だったら、若年層の仕事を爆発的に増やす政策を教えてさえ下されば、一挙に解決できるだろうと思うけど。是非聞いてみたい。例えば、事業所の人員構成比率規定を決めて、10%は24歳以下の人員を雇わなければならない、とかの規定を作るとか?若年者を雇えば、給与の半分は助成しますよ、とか?それで本当に解決出来るのだろうか?数百万人にも及ぶフリーター問題の最大部分は経済学的問題として捉えることが可能だろうが、実際には数万人とかそれ以上かもしれないが、そういう人々はそれだけで解決が可能とも思えない。


勿論、大半の若年者達は大体きちんとしているし、一生懸命頑張っている人達の方がずっと多いと思う。だが、一部にはそうではない人達がいると思うし、そういう部分には何かの支援が必要だと思うが。まあ、体験とかっていうのは、理論ではないから、理論派の方々にとっては、「そんな奴は見たこと無い。本当にいるなら、目の前に連れてこい」って思うのかもしれませんけれども。


あと、明日はいよいよ「決戦の日曜日」ですね。勿論投票には行きますよ。妻も一緒に行きますとも。当然です。エヘン。


まことにご苦労さまでした、と言ってあげたい。本当に大変だと思う。泣いても笑っても、明日の結果を待つだけですね。報道された大方の予想通りでしょうね。

ご武運を祈っております(笑、誰の?って)


本当に長かったー、郵政民営化法案・・・夏の陣から秋の陣に向けて、戦いが残されております。ほぼ結果は出たようなものでしょうけれども。

また「郵政決戦に備ふ」の続編を書こうと思います。



教育を考える9

2005年04月24日 13時32分58秒 | 教育問題
最近の若者の問題として、ニートやフリーターのことを記事に書いてきました。こうした問題がある一方で、全く別の生き方をする若者の姿を見ることが出来る機会がありました。あるテレビ番組でした。

参考記事:
「ゆとり教育」は何を教育したか
格差社会5
格差社会6


2日前の金曜日にフジテレビ系列で放送された番組を録画しておいたのだが、昨夜それを見ました。とても良い番組でした。素直に感動しました。その番組とは、「桜の花の咲く頃に」というタイトルの番組で、北海道の別海町という、人口より牛の数が多いことで有名な地方に生きる高校生達を取材したドキュメンタリーでした。


別海町は広さが東京23区の2つ分くらいあり、そこには公立高校が一つしかなく、普通科と仕事をしながら通う酪農科があるということでした。酪農の盛んな町に、後継者を育てていく酪農科があるということのようであるが、行政側としては、少子化に伴い酪農科の学級削減が検討されているということで、存続が難しくなるかもしれない、ということでした。このような地域の学級を削減するよりも、もっと他に削減するべきことがたくさんあるにもかかわらず、教育機会を奪うことを考えるという行政は余りに愚かしい。こんな広い地域に1校しかないのに、学級削減されたら定時制のある高校まではるか遠くに通う(多分無理だろう)とか下宿するとかしかないだろう。得に酪農科がある高校なんて滅多にないだろうから、削減されれば普通科に通うか、進学を諦めるということになりかねない。本当に行政はバカだな。


番組の話に戻ろう。撮影記録は2003年から始まり、2004年途中までの映像が放送されました。このような良い番組が何故今まで放送されずにきたのか、少しばかり疑問にも思いました。多分、撮影スタッフが相当頑張ったのだろうと思いましたが(住んで撮影していたらしい)、余り金になりそうな番組でもなく、スポンサーがたくさん付きそうでもなかったのかもしれない。今まで大切に保管されて(笑)いたのだと思う。お蔵入りにならずに済んで、良かったですね。撮影スタッフはその苦労が報われたことでしょう。


番組に登場した高校生達や卒業生はとりわけ天才ということでもなく、学校の勉強がどれほど凄いとかは知りません。きっと大都市圏などの高校生でテストの成績がいい人達はたくさんいるかもしれません。彼らはそういう意味では、ごく普通の高校生達ですが、「真剣に生きる」とか「親に迷惑をかけられない」という強い責任感や将来への意志があり、人間としての誠実な生き方に心を打たれました。こうした若者が今も日本にいるのだな、と思うと、日本もまだまだ捨てたものではないと感じました。私はこういう教育現場や実在の若者のことを詳しく知っていた訳ではないにも係わらず、教育問題とか格差社会のことを書いてきてしまいました。ですが、この番組に登場したような「真剣に生きる」という人々がいることを確かめることが出来ました。多くの人がこの番組を見て、「生きること」「仕事をすること」「勉強が教えないもの」といったことに考えを巡らせてくれたら、きっと教育問題の解決の糸口が見つけられるのではないかと思います。また、多くの大人たちも、勉強の何が大切なことで、難しい問題の解法が何を教えてくれるか、考えてみるといいのではないかと思います。



エリート教育は国際競争力を高めるか

2005年04月13日 21時28分27秒 | 教育問題
読売新聞には「地球を読む」というコーナーがあるのだが、私にはとても勉強になるよい企画だと思っている。執筆陣は皆立派な人たちで豪華な顔ぶれなのであるが、執筆者として度々登場する岡崎久彦氏が先日(11日)の記事に書いておられた。


折りしも、中国との競争についての記事であり、現状のままの日本では、今後中国との知的分野での競争に敗れる可能性があると指摘している。日本の態度としては、知財立国を謳い、付加価値競争で世界をリードして行こうというであるから、この指摘は当然の危惧と言えるだろう。一方で、従来の中国脅威論についての指摘をする論説本は「汗牛充棟もただならない」といいながら、「日本はどういう国になって、この来るべき競争を生き抜くかを論じたものは、ほとんど無い」とも述べている。確かに、この問題に対する取り組み方や基本的姿勢・方針を示した政治的リーダーは、私には思い浮かばない(以前少し触れました、国連との距離は?)。


記事中の氏の意見を次に一部抜粋してみます。

「ではどうすればよいのだろうか。勉強すれば報いられる社会を作ればよいのである。日本はかつてそういう社会を持っていた。」

「実は日本の誇るべき伝統はそれだけではない。どの庶民も、その場その場で徹底的に良心的な仕事をするという、この点ではおそらく今でも中国人、アメリカ人よりも優れた完全主義の文化を達成し、今でももの作りの伝統に優位を保持している国である」

「そして家庭教育と社会教育により、大都会で夜でも女性が一人歩きできる稀な順法社会を作った国である」

「中国との競争に生き延びていくためには、まず失われたエリート主義を復活させ、完全主義と順法精神の日本的美徳、そして日本の過去の歴史について、今一度国民に自負を持たせ、これを推奨する教育が必要であろう」

「そして愛国主義の意義の再確認も必要である。これは復古主義でもなんでもない。ただ日本民族が今後の劇的な台頭という国際環境の中で落後せずに生き延びていく、他に選択肢のない道である」



感想というか、考えたことを書いてみたい。


この中で述べられている失われたエリート主義の復活は、一面的に考えれば厳しい競争原理を勝ち上がったごく少数の成功者達―科学者や研究者、実業家、政治家や官僚など―が支配層を形成し、各分野で世界的競争に負けないような力を発揮し、大衆を導くということであろう。これに反対する人々もたくさんいるかもしれない。特に最近「勝ち負け」はよくない、不平等はよくない、という意見も多く見られるからである。しかし、強いリーダーが存在しなければ、日本という組織全体としては負け組になってしまうかもしれない。


日本と同じクラスメートにアメリカ、中国、韓国、ロシア、インド、台湾、イギリス、フランス、ドイツ・・・という具合に存在するとしたら、弱い国はどこかの強い国に従属的に扱われるか、パシリのように扱われたりしてしまうだろう。日本の経済活動も、どこかの国の利益を生み出すことに利用されてしまい、おいしい部分をみんな持っていかれてしまうだろう。言ってみれば、クラスの中に勝ち組と負け組が存在する構図なのである。これを拒否するならば、日本だけのクラスを作るしかない。1人だけのクラスならば、そうした相対的地位がなくなるからで、日本国内の活動のみで生きていける。しかし、これを受容するには、相当の覚悟がいるだろう。昔の鎖国というような状態を持続せねばならないからである。諸外国との関係を殆ど絶って、自給自足で全て国内活動に依存するしかないのだ。果たしてこんなことが可能だろうか?


今の生活環境を維持しようとするなら、世界の中の日本というか、諸外国との相対的関係から作り出される日本の位置というものが、消えることはない。成功を収めた国からは、様々な圧力がかけられたり、経済的依存関係を強要されたりするかもしれない。大企業とその下請け中小企業、出世競争に勝った上司と下っ端、会社経営者とその労働者という関係と同じような相対的関係は、国同士でも起こるということである。この時に、支配される立場を受け入れられるのか、ということを国民がよく考えて選択する必要がある。これは価値観の問題でもあるので、たとえ従属的でも支配される立場であっても、「貧乏でも、楽しければよい」とか「競争は疲れるので、のんびり過ごせるならそれでよい」という人々もいるだろう。それが優勢で、多くの国民がそうした「支配・搾取される側」になってしまうことを許容するなら、それも仕方が無い。


しかし、私にはこれを受け入れるだけの勇気はない。従属的支配を受けるくらいなら、1人きりのクラスにした方がまだましだ。そういう意味では、岡崎氏が提唱するエリート主義の復活を、あながち否定できないのである。それは、個人レベルでの勝ち負けに拘泥することではなく、少数エリートへの抵抗という面を強調するよりも、国民全員のレベルアップによって生み出される強い組織の創造とか、優れたリーダーを養成し選別していく仕組みであると思うのである。言うなれば、強い野球チームのエースになる選手と、弱い草野球チームのエースになる選手では、自ずとレベルが違うのである。国民全体が努力するということは、チーム内の競争が厳しくなり、そこから選びぬかれたエースは高いレベルであるだろうし、チーム全体は強くなるということを意味する。


もう一つ、岡崎氏が記述した「どの庶民も、その場その場で徹底的に良心的な仕事をするという、優れた完全主義の文化」という言葉が、心に残った。今まで、時折話題に上っていたのだが、何と表現するべきなのか分からなかった。私は外国で生活したことはないが、ほんの少しの旅行経験や、本などに書かれた外国の生活実態などから、日本人全体の真面目さ、信頼度というのは、少なくとも諸外国の中ではトップレベルであろうと思います。学歴が高いとか知識が多いといったことには無関係で、おおよそどの職業の人々も、まっとうに働き、業務を遂行していると思うのである。例えば、店舗の床掃除をやっておく、という場合に、日本人なら監督者がついて見ていなくとも、きちんときれいに掃除するし、店のモノをくすねたりはしないだろう(絶対とは言えませんが)。ところが、国によっては、監督していないと全然働こうとしなかったり、くすねたりしてしまうことが多かったりする、ということである。


日本人は、他人が見ていないところでも正しく行動する、という意識があると思う。でも、だんだん不届き者が増えてきて、こうした部分は崩れてきている。しかも、難しい大学を出て立派な職業に就いていても、不道徳な行いをしてしまう人がいることは、単に知識としての教育という問題ではなく、人間としての教育にもっと比重が置かれる必要があると思う。これは、学校の役割というよりも、社会や家庭における教育が重要だろう。


でも、全体としては、「優れた完全主義の文化」というのは分かる気がするし、職人芸的な(マニアな人が多いのでしょうか)仕事をする人も珍しくは無い。「プロジェクトX」を観れば、一目瞭然ですね(笑)。このようなことは、他の国にはない特別の長所であると思うし、このような文化、日本的美徳を復活させることは、多くの点で有利に働くことだろう。


大きな問題は、こうした意思を持つ人がどれほどいるのかということであり、一部の人間だけでは実行できない。社会全体がそういう共通認識を持ち、日常の社会生活、家庭生活の中で実践していかなければ効果は期待できないであろう。また、エリート教育への理解ということも必要になるだろう。自信や強い心を育てる教育、道徳心を重視する教育が同時に求められる。


60兆個にも及ぶ人体の細胞は、一個体の生体機能を維持するために存在する。個々の機能や存在価値は異なるのは当然であるが、細胞単独で生きることに何ら意味がないことは明白であり、独自の生存価値を求めるものは、多細胞生物ではなく単細胞生物としての生き方をした方がよい。それが真の自由であり、束縛も制限もない唯一絶対的な個の存在価値を確かめられる方法である。社会とは隔絶された生活しかないだろう。無軌道な増殖や活動を求めるものが生体内に存在しようとするなら、それはガン細胞という不要な存在としかなりえないからである。国家という一個体に参加している以上、その中で個人が役割を果たすことは当然なのではないか、と感じるのである。


教育を考える8

2005年03月30日 17時59分23秒 | 教育問題
読売新聞に「教育ルネサンス」という連載記事があります。これは随分と長く続いている企画で、既にNo.44まで続いています。我が家では、この記事について家族で話し合うものがたくさんあり、いつも興味深く読んでいます。今までゆとり教育についての記事や、国内の教育事情などの記事がありましたが、先日よりフィンランドの教育事情の報告が始まっています。昨日掲載されていた「フィンランド報告5」を読んで、ちょっと衝撃を受けました。今の日本と比較するのはどうかと思いますが、「社会の姿」というか「生き方」という根本的な部分から考えさせられました。

フィンランドは巨人「ノキア」に代表されるIT企業などが成長し、経済は安定しております。女性の就業率も非常に高く、共働きが確か7割を超えていたと思います。そういう社会環境にある、ということでしょう。OECDの学力比較ではフィンランドはトップクラスの成績でした。


一部記事を引用します。

1位は教師で26%。2位以下は、心理学者、芸術家、音楽家(各18%)、建築家(15%)、医師(10%)、看護婦(9%)と続く。民間の調査会社が昨年、フィンランドの高校生2千人に、将来なりたい職業を聞いた結果だ。この数字が今月、ヘルシンキで開かれた教育に関する国際会議で報告されると、会場はどよめいた。
ヘルシンキ大学教員養成担当学科のマッティ・メリ学科長は「資源がなく、人口が少ないわが国は、国民の知的水準を上げることが不可欠。教師が重要な仕事であると言う認識は自然と生まれた」と説明する。9大学に教員養成学科があり、倍率は約10倍。しかも、フィンランドの大学は教員養成に限らず、最短でも5年かかる「修士終了」が一般的だ。

このような記事でした。

この結果の凄いところは、教師の人気が非常に高いということもさることながら、2位以下の選択された職業が、日本ではまず上位にきそうなものがあまりなく(建築関係くらい?)、より多様な職業選択が社会通念上出来上がっていると思われるのである。そういう価値観が社会に根付いているのではないのかなと思うと、日本社会の「精神的貧しさ」があるのではないか、と心配してしまいます(そうではないのかもしれませんが)。日本で、子供が音楽家とか芸術家などと希望したら、確かに「親が泣く」かもしれませんが。このような、自由な発想の職業希望があるというのは、フィンランドの教育の質の高さが窺えるようにも思います(賛否あるかもしれませんが)。


日本の高校生では、どういう結果でしょうか。このような結果とは違うかもしれませんね。恐らく、医師、弁護士、官僚(公務員)とかが多いような気がしますが。少し調べてみます。


明治安田生活福祉研究所が昨年高校生に行ったアンケート(回答約3300名で男女比はほぼ半々)では、男子が医師・弁護士等の専門職が約22%、会社員約32%、公務員約19%、教員約7%、自営業約7%となっており、女子では同じ順に34%、21%、12%、9.5%、2.6%で、保護者も同じ順に22%、30%、26%、6.7%、2.2%となっています。要するに全体的な印象として、会社員が多く、次に専門職、そして公務員が本人よりも保護者に大人気ということですね。教員は1割以下ですね。これは複数回答してないので、単純には比較できないでしょうけれど。


もう一つ別な調査を見てみます。日米中の比較で行われた「高校生未来意識に関する調査」で、日本は2001年に調査され(この前も調査結果が出ていたような…別な年の調査だったかな)、回答数が1250(男子43%)です。これによれば(複数回答と思います)、なりたい職業でダントツ1位は公務員で約19%。細かに分けられているからかもしれませんが、他には例えば医師は4.3%、法律家は3.4%で上の調査とはちょっと違っていますね。会社従業員は8.9%、会社経営管理者は5%、エンジニア・IT技術者が10%、芸能人6.2%、などで、教師は5.1%しかいません。

両方の結果を見ると、公務員はだいたい5人に1人弱くらいの高校生が選ぶということで人気が高く、教員は1割未満であり人気があるとは言えないでしょうね。



それと「高校生未来意識に関する調査」では、まだ気になる結果が出ていました。「成功するためには努力より運の方が重要である」という設問について、日本の高校生は約4割が肯定(よく当てはまる、まあ当てはまる)的で(1980年では25%くらいだった)、米では約12%しか肯定的ではない。アメリカンドリームは運ではなく努力だと考えており、努力すれば成功できると信じている人が多いというのが意外で、日本は5人に2人が、そりゃ運だろ、というのも悲しい。

また、「私は他の人に劣らず価値のある人間である」という設問には、日本では約6割ちょっとの高校生が否定(あまり当てはまらない、全然あてはまらない)的で、「人並みの能力がある」ことにも約4割が否定的である。米では同じ設問で、前者が10%、後者が8%となっている。国民性ということもあるが、自信満々の態度や発言の源となっている米国人は間違いなく「自信家」と言えるが、日本の高校生達は、本当に自信が持てないということなのでしょう。

自分の「価値」が自分自身では肯定できず、能力的にも劣等感を抱く人が多いということが言えるでしょう。これは、社会参加の面でも大きなマイナスになっている可能性があるかもしれません。自分に自信がないので、対人関係にも臆病なところがあったり、仕事してみようというときにも失敗を極度に畏れたりして、踏み切れない面があるのでしょうか。

日本でも1980年での調査では、「人並みの能力がある」に否定的な人は約13%で、今の3分の1しかいない。きっとこの25年間に何かが大きく変わったのでしょう。学力も大切ですが、この結果の方がむしろ危機的かもしれません。


日本の教育制度もそうですが、やはり、社会全体の価値観とか子供を育てる社会環境とか、大人たちの過った考えや仕組みを変えていかなければ、こうしたことの改善はできないかもしれません。フィンランドで教育改革が可能だったのなら、日本でも都道府県単位くらいのレベルで取り組めば変えられる可能性はあります。


以前書いた参考記事です。他にカテゴリー:教育問題にもあります。
「ゆとり教育」は何を教育したか
続・「ゆとり教育」は何を教育したか



教育を考える7

2005年03月12日 13時29分56秒 | 教育問題
昨日家族である番組を見た。これはどうしても観たいという要望があり、「えーっ」と反対したのは私だけだったからです(ライブドアの会見とか解説を見ようと思っていたので、ニュースが観たかった)。普段はチャンネル権の第一シードは私なのですが、多数決に従いました。


その番組は、日本テレビ系の「世界で一番受けたい授業」(だったと思う)で、乙武さんが出ている特集番組でした。私は途中から見ましたが、家族の評価は、とてもよい番組だと好評でした。私も最初から見ておればよかった、と思いました。これは教育に関する番組で、外国の例を取材しておりました。日本人は、割と当然のように学校へ行き、勉強できるのが当たり前のようになっておりますが、そうした幸せを享受するのが困難な国も当然あります。それを思えば、今の日本の恵まれた環境というのは、天国のようです。だが、享受することが簡単だと、これが当たり前すぎて感謝できないのかもしれない。


ウチの子と話したのは、番組のこともそうですが、概ね次のような話をしました。
私立学校(中学・高校・大学)に行く人は国から多くの補助金を貰い学校が運営されているから、その受けた利益は卒業したら社会に還元する義務がある。そして、国公立の学校に行く人も、当然学校の運営資金は多額の税金が使われているのだから、同じように社会に還元しなければならない。大学に行きたくとも行けない人はいるし、全員均等に利益を受けられる訳ではないから、大学に行くような人は、そういうことを感じて、社会に貢献すること、恩返しすることが必要だ、というような内容でした。

私達は、およそ学校へ行けることがどれ程貴重なことかを忘れがちです。生きていくのが精一杯で、学校へは行けないという環境に比べたら、勉強で苦しむことぐらい大したことないように思います。そういう感覚が失われてしまったのではないでしょうか。番組を見て、そう感じました。


また番組では、日本の学校の例も出ていました。和歌山(だったかな)の「きのくに小学校」というユニークな学校でした。クラスが4つしかなく、1~6年生が一緒のクラスなのです。また、作業グループに分かれた編成となっており、大雑把に「農作業」「料理」「大工」「羊飼育」のような感じだったと思います。それぞれの作業を通じて、勉強していくというものです。教科書がなく、授業の半分以上は作業に当てられますが、子供達は自分達で様々な計画を立てたり、調べものをしたり、農作物価格の決定をしたり、という、実践的なものが多いのですね。「かずとことば」(だったかな?)という授業はありますが、一般的な学校の算数や国語の授業に近いのは、この時間だけです。こんな学校があるんだな、と本当に驚きました。


感じとしては、すごく昔の日本の農村に見られた家族像が、そこにはあるような気がしました。兄弟姉妹が多い、必ず仕事として作業が割り当てられている、自然や動植物に直かに接する環境、というような感じでしょうか。擬似的にこれに近い環境を作り出しているかのようです。勉強も大切ですが、こうした作業などを通じて学び、考える環境というのも必要かな、と思います。


全ての学校にこれと同じ事を求めるのは難しいと思いますが、選択肢の一つとしては優れた取り組みであると思います。本来家庭や地域社会で、これらに近い環境を作り出せればよいでしょうが、大都市部では特に難しいでしょう。それでも、家庭で作業や手伝いなどをさせるなどは可能であると思います。ゆとり教育の目指していたものが何処なのか、これははっきりとは分りませんが、もしもこうした勉強以外の体験などを通じて得られる学びの姿勢や生活力を養うというものであるならば、それなりに意義があるのかな、とも思います。むしろ、授業に完全に「振り切られる」子供達、家庭や学校の「生活意欲を失う」子供達、という方が、将来の問題が大きいような気がします。例え微分や積分が出来なくとも生活していけますが、「自立して生きていけない」という問題は、大人になってから解決が困難な問題であろうと思うからです。これは、部分的にニートの問題に関係するかもしれません。


先ごろ発表された文部科学白書では、家庭や地域の「教育力」低下や、自然・社会との関わる機会が減少している、基本的生活習慣が身についていない、などの問題点が指摘されている。これは家庭教育に大きな問題があることを示しており、これらについても学校教育と同時に改善策を考えていかなければならないのである。また、学校で不審者侵入や殺人などの重大犯罪が起こっている状況も、学校だけでは対処しきれない大きな問題となってしまった。教育ばかりではなく、こうした安全面を考える上でも、白書が示す通り、家庭・地域社会・学校の連携・協力が不可欠となってきている。多くの国民が関心を持った今こそ、行政政策も含めて真剣に取り組まねばならないと思う。


教育を考える6

2005年02月21日 17時25分09秒 | 教育問題
最近の気になった幾つかの話題。

「某女性タレントの告白騒動」
番組内のクイズで、『以前に「集団で強盗」まがいの万引きをし、その店は潰れた』というとんでもない告白をしたそうだ。しかも、これが普通に放送されるという事態も異常である。タレントは18歳らしく、小学生の頃にいたずらで万引きをしたのをオーバーに脚色したという事務所発表があったようだ。今さらになって、の発表は、「これも、どうだか」という感じがする。頭が悪く、罪悪感もなければ、「別に有り得るじゃん」くらいに思って、真実をゲロしてるかもしれない(表現が変だな。「真実を吐露してる」です)。「脚色」できるほどの話術があるなら、もっと普通の脚色するのでは?それに、「実は本当ではありませーん」位は言うでしょう。まあ、いずれにしても万引きには違いないけど。ケインと「あびる」みたいな名前の方は、困ったものです。


「ダルビッシュ投手のパチンコ喫煙問題」
何と日ハムキャンプ参加中の同選手が、写真誌に撮影された模様。球団は陳謝し、謹慎処分としたとの発表。店内で喫煙していたらしい。ちょっとふざけてみたかったのかもしれないが、非難されてしかるべきである。昨年、一場問題があったばかりで、対したお咎めもなく、その程度で済むという風潮があるのか。アマ選手が金銭授受って、贈収賄事件とあんまり違いがないようだけどね。これは、過ぎてしまったのでおいて置くけど、ダル君は体直してから投球だねって言っていた矢先じゃないか。プロとして、社会人として、当然の責任を生じるし、球団やその他関係者にもすごく迷惑かけることになるのですから、そういう自分以外の人々に多大な影響が出ることも考えて欲しいぞ。ハムファンとしては、きつく反省してもらい、将来の糧として他の誤りをしないようにしてほしい。


このように、若者が不祥事で謹慎や活動自粛など、残念な結果となるのは、本人達の問題は当然として、周囲の大人たちにも責任の一部があると思います。悪い見本がゴロゴロ転がってる。年長の大人たちが、悪事を平気で重ね、金をネコババし、規則や法律を破っても平然としてる連中が、社会の中枢に大勢いる。これで、「子供達よ、正直に清く正しく生きよ」といくら言ってみても、説得力がないな。森前総理曰く「これが日本の教育の成果」というのは、そのままお返ししたい気分ですね。

議員・官僚を初め要職にある連中が、不正を働き、おかしなキックバックを受け取り、裏金をせっせと溜め込み、業者と癒着し、怪しげな献金を貰い、どんと1億もらっても記憶喪失、エロ教授にエロ教師、手鏡野郎や盗撮野郎、言うに事欠かない今の社会は、子供達に見透かされてるんでは?奇麗事を並べても、「ルールを守れ」と言っても、効き目がないのは、こういう大人の間違いをきちんと正せない社会に問題があるからでは?そんなことも感じてしまいます。

昨年だったと思うが、深夜帯で、キンキの「堂本こういち」が司会してた番組があったのを偶然見た。その番組は毎週放送されているようだったが、見たのはその一回だけだった。ゲストに武田鉄矢と若い女性タレント(正確に分らない。名前よく知らないから・・・)が出ていたと思う。他に、15~20歳程度の若者達が総勢20~30人位いて、討論風に意見を出すというものである。暴走族とか、チーマーみたいな人とか、普通の女子高生とか、就業少年とか、ラッパーみたいな人とか、スポーツ少年とか、ともかく色々な若者が出ていた。
その時の話題になったのは、「薬物(ドラッグ)」について。何と司会の堂本君が「今まで薬物の経験がある人」といって挙手を求めると(もちろん目を閉じたりしていない。全員普通の状態)、全体の3分の1くらいが挙手!本当かよ?と思わず目を疑った。しかも、そこには、女性タレントが挙手してるではないか!怒れよ、武田。ってな気分。「○○が衝撃の告白!」、その続きは、CMの後で。のような、いつもの手で先に延ばされたが、観てましたよ、続きを。そこでのタレント告白は、「渋谷で普通に買わないか、って言われて買いました。そして、軽い気持ちでやってみちゃった」というような内容でした。こんなとんでもないこと、テレビ放送してもいいの?と思いましたが、「これが東京の現実なのか?」と恐怖を感じました。やっぱり、大都会は怖い。

その女性タレントの名前が思い出せないんですが、でも、あの万引き告白のタレントだったような気がするんですよ、実は。テレビ関係に詳しい人は、この内容から、どこの局の何ていう番組かわかるんでは?もし解る人がいたら教えてくれませんかー!って真剣には思っていないが、「薬物汚染」がこんなに簡単に語られるほど進んでいるのかと思い、罪悪感の希薄さも非常に危惧を感じた。他の参加者の若者も、悪びれる風でもなく、平然と挙手しているその光景が映し出されていて、衝撃を覚えた。これは、犯罪でしょう。番組制作側も異常だし、挙手した参加者や告白タレントも異常。この国の行く末が、本当に心配です。


悪い話が続いてしまったので、少し良い話を。ある喫煙場所があって(私はまだ喫煙派なんです。すみません)、私はそこで座ってタバコ吸っていました。吸煙機の上には、前にいた人が残していった飲み物のカラ容器が幾つか置いたままになっていました。そこへ20歳位の茶髪の若者2人がやってきて、向かいのベンチに腰掛けました。いまどき風な若者でした。彼らは2人ともジュースを持ってきていて、吸煙機の上に置いたりして、飲みながらタバコを吸っていました。しばし2人は話していた後、ふと立ち上がりその場を離れることになったのです。

吸煙機の上に、今まで置いてあった自分達のジュースの缶と、置きっぱなしになっていた数個の容器を手に持って中身を確かめて、私の目を少し覗き込んだ後、立ち去って行きました。カラの容器全てをゴミ箱に捨てていったのです。私の目を覗き込んでいた時に、「あなたのではないでしょ?違うよね?」みたいな、一瞬のやり取りが行われたように感じました。とても感心しました。こういう行動がきちんと出来る若い人もいるんだな、と思いました。そこにゴミを残していった人達がどんな人か分りませんが、子供とは限らないと思っています。駅のホームに平気で空き缶を残していくとか、ベンチの下にカップ酒の空き瓶を置いていくとか、とんでもないオヤジに何度も遭遇したことがあります。喫煙所ではない所で、普通にタバコ吸って、ポイ捨てしていくオヤジにも未だに遭遇しています。こういうことは年齢に関係なく、ルールを守らない人間は、いつまでたってもこういうことをやるんですね。それを自分の子供や周囲の若者たちに教育できるでしょうか。


レベルは違えど、犯罪も不正も悪巧みもどれも同じです。悪いことを敢えてやり、それを反省することもなく、改めようとしない人間、それは大人の中にこそ多く存在しているのです。簡単なルールが守れない風潮が浸透することで、規則を破ることの罪悪感が薄れ、あらゆる倫理の壁が相対的に低くなってしまっているのではないか・・・そんな恐れも感じます。規範の外に乗り越えてしまうことが、容易になりつつあるとすれば、まず大人が改めなければならないでしょう。

「割れ窓の論理」でしたか?小さな犯罪を防ぐことで、重大犯罪を防ぐというのと、同じですよね。決まりやルールをきちんと守る、これを日常生活で徹底することで、違法な犯罪行為を防げるようになるかもしれません。そのためには、まず大人が良き見本となるべきです。


教育を考える5

2005年02月15日 20時14分23秒 | 教育問題
コメントを頂いていたのですが、続きを書くのが遅くなりました。申し訳ありません。
前回の記事で紹介した読売新聞のアンケート結果の記事には、東大教育学部の刈谷教授のコメントも記されていました。以前から「医学教育のひろば」のInoueさんからコメントでお聞きしていましたので、とても役立ちました。ありがとうございます。


また、本日付の読売新聞朝刊には中山文部科学大臣と、元東大学長で文部省大臣を歴任された有馬先生の、『学力低下とゆとり教育』という記事が載っておりました。

私なりに要旨をまとめてみますと、中山大臣は、基礎教科の時間数を増やす方向性と、特に国語を重視する、ということでした。また、ゆとり教育の否定でなく、学習意欲の持たせ方と能力のある教師の確保が問題と捉えている。時間数は長期休暇短縮や平日の時間延長などで補うことも考慮するとした。

一方、有馬先生は、総合学習の趣旨が十分理解されていない、読解力の低下、刈谷教授の指摘する”できない子”のさらなる低下傾向などに懸念されております。学んだことを大人になっても身につけている教育、内容は少なくても基礎基本をしっかり教え考える力を養成すること、全員が勉強を好きになるのは無理でも個々の好きな分野を伸ばす教育が大切と述べている。

なるほど、両者とも現大臣と元大臣ということで(両者とも東大でもある)、それなりの考え方があるようですね。共通しているのは、「読解力が低下しており、この回復が必要」(国語教育についての再考ということか)、「授業時間数不足には、5日制は維持しつつ、従来の長期休暇等でカバー」ということですね。近年、英語教育については、かなりの関心の高さが見られていますが、国語については見過ごされてきたかもしれませんね。当然のことながら、言語や歴史は国としての(あるいは民族としての)文化の根幹であり、これについての教育・理解が不十分というのは憂慮すべきことであろうと思います。外国語教育の面でも、母国語がベースにあって、その語彙や文化などが理解されていることが、他言語の習得には必須であると思います。その意味でも、国語教育を見直すべきなのでしょう。

総合学習については、中山大臣は有効に行われているか再検討が必要、教師によって差があるという見方をしている。有馬先生は、「継続」を強く訴えておりますが、問題点に「体験学習ばかりに使う」と思われていること、しばりは良くないが現場任せにし過ぎた面があること、を挙げておられる。もう一度総合学習を検討し、実際にどのような授業が効果的であったのか教師自身で研究・検証すべきでしょう。

私も以前から述べているように、通常の科目以外の時間は必要と思っておりますので、総合学習は残すべきと思っています。どのような方法がよいのかは、教師が学ぶ以外にないと思います。実践例で評価の高かった方法などをよく研究して、共通して取り入れられることはどの教師でもできるようにすべきでしょう。

教師の質という点でも同様に、全員が一定レベルに到達するように研鑽するべきでしょう。前回のアンケートでは、質の低下が8割くらいに肯定されていましたが、現実にはそういう教師が以前から存在していた(逮捕されたり処分されている教師の年齢が、20代ではなく40代・50代というのも珍しくない)のであり、それが顕在化したに過ぎないのかもしれない。


教育を考える4

2005年02月13日 15時36分01秒 | 教育問題
2月6日付読売新聞朝刊に、教育についてのアンケート調査の結果が報じられていた。その中のいくつかについて、少し考察してみたい。


学校教育について、概ね「満足している」と答えたのは、約20%でした。不満に思うこと・改革が必要なこととして、多い順に「教師の質」「学力低下」「道徳教育」「いじめ」「校内暴力・非行」というものでした。教育者としてふさわしくない教師が増えてきているか、という問いに対しては、「増えてきている」が約50%、「どちらかといえばそう思う」が約30%と、両者併せて8割が肯定的でした。

これは非常に重大な問題があると言えそうです。学校教育に不満が多く、その大きな原因に考えられるのは「教師の質」や「学力低下」ということのようで、その「教師の質」は益々低下しつつあると受け止められているようです。そして、教員免許の更新制については約8割が賛成しています。現状の教育改革に最も求められているのは、教師への「教育者としての教育」ということなのかもしれません。教育現場の方々にとっては、非常に厳しい意見です。主に、「わいせつ教師」とか「教え方が下手」「子供が好きではない」などが理由に挙げられています。


教育理論も大切なのですが、結局のところ教師と生徒という、人と人の関係であることに違いがなく、そういうところを根本的に作り上げていくような発想が求められているのかもしれません。また、学校と親・地域社会は「信頼関係」によって繋がっていなければならないのですが、これが壊れてしまっていると、双方に不信感や不満が大きくなりやすいかもしれません(もっと懸念されるのは、現在の社会が、あらゆる局面において「信頼関係崩壊社会」となりつつあるのでは、ということです)。

教育の方法論は、究極的には答えが出ないようなものなのかもしれませんが、「効果がある」「やり易い」などの、比較的良い評価を受けた方法について、教師間の個人差がでにくいようにトレーニングするとか、共通理解を得る努力をする、研究会などを活用していく等の、行政施策が必要でしょう。また、学校単位とか地域単位といった、現場の裁量権を確保することも必要かもしれません。マニュアル通りが必ずしもよい授業とも思わないし、そこの地域に密着した方法や実態に即した方法も必要でしょう。


アンケート結果に戻りますが、「ゆとり教育」を評価する派は約22%、評価しない派が約72%と圧倒的に差がありました(当然の結果でしたが、ネーミングにも問題があったかもしれない。「ゆとり教育」があたかも「楽にのんびり勉強」みたいな錯覚をもたらすのかな?)。また、日本の子供の学力低下には8割が不安に感じており、全員同じ教育を受けさせる(約20%)よりも、競争を取り入れ個々の能力に応じた教育を受けさせる(約60%)方がよい、という意見も目を引きました。このことは、学校教育に対しては厳密な画一性を求めているものではなく、そのことが不公平であるとは思わない人がやや多いと考えられます。これは意外な結果でした。

学習塾に賛成派は約55%と、私が思っていたより少なく、反対派が約38%もいることも予想外でした。もっと、塾の肯定派がいるのかとばかり思っていました。塾派は、「学校の授業だけだと不安」「受験に必要」「親が家庭で勉強を見られない」などが上位の理由です。どれも、もっともな意見だと思います。特に大都市部は、親も子供も大変なんだろうな、と思います。


まあ、私が子供のころには、学習塾がない地域でしたから、そろばんか習字くらいしか塾もなかったけどね。だからという訳ではありませんが、ウチの子にも学習塾に行かせたことはありません。やりたきゃ、自分でやったら?という方針で、特に必要なし。お金も無いしね(笑)。それに小学生だし、今からそんなに頑張らなくてもいいんじゃないかと。後で、大学受験前頃に頑張ってくれればいいと思います。


これらの結果を踏まえて、教育基本法や行政施策を考えて欲しいですね。


教育を考える 3

2005年02月03日 14時34分21秒 | 教育問題
今までは能力に応じた級位の導入や、到達度別クラス編成、一般科目以外の実用的授業や総合学習的なロールプレイングなどを実施してはどうかと、提案してみました。これらは、実際的な方法論がどのようなものとなるのか、教育現場の方でなければよくわからない面があろうかと思いますので、このような素人考えは果たして実行できうるものなのか定かではありません。


私が生まれたのは昭和40年代で、現在の状況とは全く違う環境で育ってきました。どの様な教育が望ましいのかは、私もよく判りません。自分の子供に対しても、どの様な教育方針で臨むか決めかねる面がありました。私立中学に行かせるか、公立にするかで、先日家族会議が何度か行われ、結局公立を選択することにしました。この時は、数日間で結論を出さねばならなかったので、ぎりぎりまで迷いました。話し合うことの意味はあったと思いますが、やはり当事者となると決めかねるものです。迷いに迷った挙句、公立ということに決定しました。


私が同じ年頃には、大して勉強もせずに外で遊ぶことがほとんどでした。学校から帰ったら、近所の公園やグラウンドなどに出かけて行き、野球したり、鉄棒したり、近所の子供が集まって適当に遊んでいました。また、近所の水田などで、カエルやドジョウを捕まえたり、オニヤンマを果てしなく追いかけたり(本当にでかい!普通のトンボと比べるとゼロ戦とジャンボ機くらい違う)、農家で飼っているやぎや馬を見に行ったりしてました。自慢ではありませんが、周りには自然がいっぱいあって、遊ぶには困りませんでした。


今思うことは、私が子供の頃の方が、遊びが違ったということは確かですが、家の仕事もあれこれやらされていたように思います。ウチは田舎でしたので、庭の草むしり、ぞうきん掛け、石炭運び(風呂は石炭釜だったのです)、炊事や後片付け(兄弟姉妹で当番があった)、などが思い出されます。毎日というほど多くはないのですが、家の用事を言いつけられるのが非常に嫌でした。でも、これらのことをこなすことで、その後自分の役に立つことも多かったです。学生の時には1人暮らしでしたから、自炊できて本当に「良かった」と思いました。家族の一員として、大袈裟に言えば、「家庭運営」に直接参加していたのだな、と思います。その役割が1人ひとりに与えられていた。このような環境は、大切なのではないかと思うのです。


今の子供達は、みんなで遊ぶことが少ないし、勉強以外の作業などをあまりしていないのではないかと思うのです。これが、直ぐに勉強の成績に直結するとは思っていませんが、スポーツや部活もせず他のこともしないで、勉強ばかり頑張っても、能力が高まるとは思えないように思います。ウチの子供の場合に、愕然としたことがありました。低学年の頃には、何でも親がやってしまっていて、缶詰も開けられず、栓抜きも使えず(現在ではどちらもあまり使われませんが)、私達が気づかないうちに道具を使うとか自分で考えてやってみるということが出来なくなっていました(やって見せても出来なかった・・・)。親としても知らないうちに、子供にできることをさせず、考えさせることが少なくなっていました。そこで、このままではいけないと思い、主に家の用事をさせるようにしました。


私が中学・高校時代には、近所のスーパーに、「バイトさせて欲しい」と直接頼みに行き、夏休みや冬休みに働かせてもらいました(お小遣いが少なく、欲しいものがあったからです)。昔は、このような飛び込みで頼んでも、雇ってくれたんですね(こんなんで、よく雇ってくれたな、と思います)。田舎だったこともありますが、このようなことは、今どきないでしょうね。お盆前とか年末年始の一週間程度でしたが、学校は楽だな、と感じました。一日8時間働くと、本当に疲れてしまい、終わるのがすごく長く感じました。同時に、自分が働いてお金をもらうことで、働く事は大変なんだな、お金はとても貴重だな、とも思いました。ほぼ最低賃金でしたから、日当はたかだか4千円程度だったと思います。自分としては、とてもよい体験だったと思います。

大学時代には体育会系の部活もやってました(パワーはまるで自信ないんです)が、空いてる時間は家庭教師や塾のバイトを主にしました。でも、暇がなくなると塾はできなくなり、家庭教師を掛け持ちでしてました。お金がなくなると(合宿とかでお金がなくなるし、普段は飲み代に使ってしまう)、日雇いのバイトに行きました。その日払いであった(現金はとても有難かった)ので、肉体労働しかなく、引越し屋とか古紙運搬とか(紙や本は死ぬほど重い。握力がなくなるくらい辛かった)の仕事をしました。他には、学生向けに単発の求人があって、抽選で当たれば仕事がもらえるバイトもありました(イベントや催事関係の設営などで、夜中に作業するので時間が短く給料がよかった。でも、当たらないと、そういう割のいい仕事は貰えなかった)。


こんな下らないことばかりやってましたから、勉強は出来ませんでしたね。よく考えると、とんでもない学生ですね。貧乏を絵に描いたような学生でしたから、本当に貧乏になると、食べるものもお金もなくなり、パンの耳を買ったり(今は売っていないかもしれません。昔は一袋50円くらいで売られていました。これが、かなりお腹一杯に食べられ、4~5食分くらいは楽に入っていました)、実家に住んでる友人の家で食事をご馳走になったり、家庭教師先で目一杯食べたりしました(当時は、何故か必ず食事が出された。今はどうなのでしょう?)。このような生活のお陰で、粘り強く生き抜く力だけは養われました(笑)。バイト先で気の荒い、肉体派のオヤジに怒鳴られたりしても、勿論平気になりました。逞しさは身に着いたと思います。


話が大きく逸れましたが、子供にはやはり仕事や何かの作業をさせるとか、スポーツですごく頑張るとか、そういう体験が必要であると思います。勉強も大切ですが、教科書や本には書いていない、実体験によって培われる何かがあると思っています。どのような方法で、それを体験させるのがよいか分りませんが、そのような体験を通じて、人を当てにせずとも道を切り開いていけるような、強く生きることの出来る子になって欲しいと思います。


下らない脱線で、長くなりました。すみません。

教育を考える2

2005年01月21日 12時00分31秒 | 教育問題
ゆとり教育批判を受け、「総合学習」(tomberさんが記事に書いておられますので参照して下さい。総合学習の時間を削減するのはまだ早い)の見直しや国語の読解力や算数の基本的計算能力について時間を増やす方向で検討するということのようです。国際比較については「結果に一喜一憂すべきではない」ということはとは確かかもしれませんが、現状の方法で続けることがよいということにもならないでしょう(私の参考記事:「ゆとり教育」は何を教育したか)。



かなり昔、私が学生の時、家庭教師や塾の教師のバイトをしていたことがあります。その時、「これは困ったな」ということが何度かありました。昔の話ですから、当てにはなりませんが、この体験について考えるところがあったので、その話をしてみたいと思います。



中学3年 男子の場合

一人っ子の彼(仮に名前を翼とします)の家がお店を営んでいたので、両親とも忙しく朝から晩まで自宅と隣あった店で働いていた。翼は将来家業を継ぐというつもりであり、時々手伝ったりしてはいたが、本格的に親から仕事を教わっていたわけではない。両親の希望は「高校に入ることが出来れば、それでいいんです」ということで、大学とかは考えていなかった。本人も「高校は卒業したい」ということであった。それほど裕福ではなく、塾には殆ど通ったことがない、ということで、家庭教師に全てを賭けているという様子だった。

翼の学力は非常に厳しいものであった。5教科で一番良いのが国語であったが、100点満点で20~30点くらい。数学・理科・社会は概ね10点くらいであった。一番悪かったのは英語で、常に一桁であった。正解するのは記号問題のみで、書く問題は不正解であった(というか、単語がまともに書けているものはなかった)。

志望校を私立の3教科しかない高校を選ぶことにした。家庭教師を頼まれたのは9月で、試験は2月くらいだったように思う。あまり時間がないので、兎に角「合格する」ということだけを優先することにした。「勉強が楽しい」とか、「覚える意味」とかなどにかまけている暇は無かった。

数学と英語をとりあえず何とかしなくちゃならない。幾つか問題をやらせてみた。数学は単純な文字式の計算問題、英語は発音と簡単な作文(「私は日本人です」みたいな)。じっと見つめていたら、何かを書いたりして、やっているような仕草を見せるのであるが、まるで何を書いているのか不明であり、答えはいつまで待っていても出てこなかった。そこで、もっと純粋に問題を簡単にした。分数と少数の計算問題と、アルファベットの大文字・小文字を全部書くように指示した・・・予想通りどちらも出来なかった。

翼に「今まで授業中はどうしていたの?」と尋ねたら、「何となく座って聞いていた」ということであった。「解らないと辛くなかった?」と聞くと、「退屈で、辛かった」と答えた。彼はとても素直で、不真面目ではないのであるが、何故か勉強が嫌いであり、将来家業を継ぐから勉強は必要ないという考えが少しあったのかもしれない。翼との会話の中から、小学校や中学の今までの生活や勉強の考え方がちょっと理解できた。当面の目標を英語はアルファベットを全部書けるようにすること(Fくらいまでしか書けなかった!小文字は全滅!!)、数学は分数・小数を出来るようにすること、であった。中学3年でもそこから始めることになったのである。宿題を出し、ひたすら練習させた。反復以外になかった。

その後、数学は彼が言うには「好き」になったらしく、分数・小数が計算出来るようになると、先へ進むことが出来た。実力テストみたいなのがあって、数学の伸びが一番であった。覚える量が少なく済むので、やり方さえ身に着けば点数になって顕れた。英語は苦戦に違いはなかったが、これまで4点とかだったのが、2桁になった。翼と私は、一緒に喜んだ。初めての2桁だったからです。しかも、記号問題以外で正解したのは、初めてだったからです。

翼はなんとか高校に合格できました。もちろんレベルが高い学校というわけではありませんから、「たいしたことないよ」と言われるかもしれません。確かにそうです。誰でもできるレベルのことが出来ないというだけなのですから。しかし、中学3年の秋の時点で、アルファベットが書けないとか、分数・小数の計算が出来ない子が存在するという驚くべき事実がありました。翼は、努力してそれを少し改善することが出来ました。彼はとてもいい奴だったので、本当に合格出来てよかったと思いました。高校卒業後、彼は家業を継ぎました。




基本的な昔で言うところの「読み、書き、算盤」は特訓すれば、だんだん出来るようになり、次へ進めます。ところが、学校でこれをやってもらうということになると、現状では無理があります。塾に通うほどの余裕があるわけではない人々もたくさんいます。家庭教育で、ある程度カバーしないとダメだということも理解できます。こんな状態になるまで放置することに問題があったと言えますが、小学校でつまずいてしまっても強制的に卒業させられてしまうので、そこまでバックして勉強することはなかなか出来ません。自分で克服するか、「全員出来る」という前提に基づく中学の勉強を、わけも解らずただ聞いているふりをするかしかないのです。

底辺を見てもきりがないよ、というご意見もあるでしょう。確かに、このような生徒がそれほど多くは存在しないと思います。大半は、もっと一杯勉強しているし、学校の勉強についていけると思います。ですが、極端な話で言いますと、基準となるレベルをもう少し上げて設定しますと、やはり同様の現象が見て取れます。解らないまま次へ進まざるを得ない子供たちが多く存在するということです。この辺をどう考えるのか、ということです。


対策として、教科ごとに級を設定するという方法があります。国語8級とか算数5級とかです。これによって、子供の到達度が測りやすくなると思います。この級別にクラスを編成して授業を行うことが出来ないでしょうか。5年生と4年生と3年生が同じクラスでは、やっぱり問題がありますか?算数5級で同じなら、いいような気がするのですが。勿論、年長の生徒は恥ずかしさもあるかもしれませんし、年の違う子供たちに対してどの程度うまく授業を行えるかわかりません。でも、能力が違うということを素直に受け止めると、可能な感じもします。昔のそろばん塾も、年齢が違う子供たちが雑多に同じ教室でやっていたように思います。


年に3~4回昇級試験とか、級位認定試験みたいなのを行うことにしてみては?この試験によって、全国の統一的な判断基準が得られます。どのくらいの子供たち(単なるクラス平均点とかではなくて)が、どこら辺まで到達しているかもわかり易くなるでしょう。子供たちは、次の級位を目標に努力します。級位(クラス)がアップするのは、ゲームでいう“レベルアップ”とか“キャラのクラスチェンジ”みたいな感覚で、分かり易いと思うんだけどなー。


子供たちの理解度によって、授業内容の難易度が変えられますから、今までの点数分布で半分以下に入っていた子供達でも「これは出来る」という部分を増やせると思うし、すごく出来る子供はどんどん先に進むことが可能になります。修学旅行とか運動会とかの学校行事は従来通りのクラス単位でいいと思いますが、勉強は少し変えてみてもいいように思います。小学校の初めのうちは差が少なく、学年が上がっていくに従い、級位にばらつきができてくるでしょう。卒業までに課す最低条件(全科目5級まで、とか、全教科合計20級必要で最低科目が8級以上みたいな)を決めて厳しく取り組んでもらうようにします。このような基準設定は各学年進級時でもいいのですが。


これなら、振り切られることはありませんし、翼君のような事態はなくなると思いますが、差別化が今まで以上に明確になるわけで、反対意見もあるかもしれません。また、以前の記事に書いた(続・「ゆとり教育」は何を教育したか)、所謂勉強以外の科目(生け花とか木工作業とか・・・)も級を振り分けて、勉強苦手な子の級数の足しにします。「オレは算数苦手だけど、機械工作が3級だよ」という自信になるかも?しれませんし。これは、それぞれ参加者が少ないと思いますので、工夫が必要かもしれません。小学校に必要かどうかも分りません(選択可能としても高学年でしょう)。子供自身にとって、点数が零点に限りなく近いものをやるより、級位レベルが低くても実のある内容や試験の方が、いいような気がするんですが・・・みんなと同じ試験の点数で明確に(零点に近い低い点数ということ)自信を奪うのと、級位レベルで明確になるのでは、自信に違いがあるでしょうか?よくわかりません。


この方式は、先に進める子には非常に有利に作用するかもしれませんが、単に獲得級位レベルが高いことが人物評価の全てではないことは、きっと実社会の中で証明されるでしょう。また、本当の基礎中の基礎だけは出来るようになるまで反復されますから、点数分布での底辺に存在した子供たちには大きな意味があると思いますし、底上げには繋がると思うのですが。


教育改革はまだ検討段階でしょうから、今後どのような方策が打ち出されるが、見て行きたいと思います。


教育を考える1

2005年01月13日 18時04分02秒 | 教育問題
教育基本法の改正案が出されました。将来にわたる日本の重要な資源は、人です。人的資源が大切です。その意味においては、教育は重要課題でしょう。


現在の問題点は、何度も議論されてきましたが、ゆとり教育への世間の非難とニートに代表される若年世代の問題です。今回の教育基本法改正に当たっては、これらに配慮した内容ということのようです。


戦後ある種のアレルギー反応とも言うべき、国旗・国歌拒否や愛国心への拒絶が見られたように思います。現在のお上が醸し出すナショナリズム復活傾向が必ずしも良いとは思いませんが、少なくとも、礼節や愛国心は必要と思うし、行き過ぎた個人主義や誤った自由の謳歌は改められる必要があると思います。こうした傾向は、今まで大人たちが作り上げたことは間違いなく、小さな集団が崩壊していったことが一つの要因かもしれません。

家庭という最小単位の中でさえ、うまくいかないことが多くなったように思います。それは、家族の殺害のような現象に見られると思います。昔もありましたが、今よりはるかに珍しかったと思います。親は自分の子供にどうしてよいのか分らず、当事者同士では解決ができないような事態が起こってきています。また、親が子供の養育を放棄したり虐待したりというようなことも少なくありません。家族関係さえ崩壊の危機にあるのが現状なのです。

大都市部では、小さな地域社会に互いの不干渉が浸透し、各家庭は孤立したような状態となることも珍しくないでしょう。親は育児の面で誰にも頼れないとか、どうしたらよいのか誰にも相談できないといった状況になっているのかもしれません。そのしわ寄せが学校に出てくる、ということもあるのでは?学校は家庭の代わりは出来ません。本来、家庭教育は各家庭で行うしかないのです。非常に希薄な人間関係となった地域社会は、困っている家庭の手助けをしたり支えができなくなっています。子供は家庭内でも地域社会でも孤立しつつあるのではないでしょうか。

一方、薄汚い欲望に駆られて行動する大人たちが存在することも事実で、安心できる大人や信頼できる大人が少なくなったと感じます。殺人などの犯罪を犯す高齢者が珍しくなくなってきました。社会的に信頼できると思われていた、教師や警察官などもわいせつ行為やその他犯罪が毎日のように報道されているように思います。他人を簡単に信用できなくなっているのが、今の世の中です。このような世の中を作り上げたのは、他ならぬ私たち大人です。

それでも、心優しき善良な人々は、まだたくさんいるはずです。非常に小さな単位から、再生していくほかないと思います。地域社会が復活すれば、犯罪抑止にも繋がるでしょう。防災訓練とか町内会の清掃行事とか、何でもよいのですが、地域の人間関係をつくることができるよう努力するしかないでしょう。そうした取り組みは今までもありましたが、各自治体は一層の努力と工夫が必要であると思います。


メールやインターネットが便利になって、人間は疑心暗鬼が強くなったのでしょうか。他人に猜疑心を抱くことが多くなったのでしょうか。よくわかりません。また、所謂ケータイ世代ではコミュニケーション能力の低下が起こっているのでしょうか。一概には言えませんが、若年層には、私には理解できないような「大きな変化」があったのであろうと思うのです。その正体が何か?と問われても、明確には答えられないのですが、漠然と思うのは・・・実体験の減少と信頼の欠如、かなと思います。何かに真剣に取り組めた人はそうでもないかもしれませんが、学生時代に何も見つけられなかった人は、そういうことが起こるのかな?


最も重要な仕事は、「人を育てること」と何かで読んだように思います。まさしく、そうだなと思います。わが子もそうですが、仕事上の部下にしてもそうですね(「金を残すは下、仕事を残すは中、人を残すは上」だったかな?ちょっと、よく覚えていません、ごめんなさい)。

日本の唯一にして最大の資源――「人物」を育てられたら、私の存在価値があったと言えるのかもしれませんね。



ニート再燃

2004年12月22日 10時46分32秒 | 教育問題
今相当の論議を呼んでいるニート問題ですが、少し整理して考えてみましょう。
古い記事ですみませんが、私の前の記事を読んでみて下さい。


ニート

若者の訓練その1

若者の訓練その2

教育庁の「奉仕活動」





「育て上げ」ネットというHPに簡潔にまとめられた記事があり、分かりやすいので載せます。

http://www.sodateage.net/mainpage/NEET/Top.htm

以下に抜粋します。

NEETという言葉が立法・行政・マスメディアを中心に話題となっています。NEETとはNot in Employment, Education or Trainingの略で、「職に就いていず、学校機関に所属もしていず、そして就労に向けた具体的な動きをしていない」若者を指します。現在、日本にはNEETに分類される若者の数は68万人と言われています。労働政策研究・研修機構副統括研究員の小杉礼子先生はニートを四つ類型化しています。

Ⅰヤンキー型
 反社会的で享楽的。「今が楽しければいい」というタイプ
Ⅱひきこもり型
 社会との関係を築けず、こもってしまうタイプ
Ⅲ立ちすくみ型
 就職を前に考え込んでしまい、行き詰ってしまうタイプ
Ⅳつまずき型
 いったんは就職したものの早々に辞め、自信を喪失したタイプ

 また、東京大学社会科学研究所助教授の玄田有史先生はNEETを以下のようにとらえています。
失業の理由
 需要・・・経済状況・産業構造の問題【主に年齢のミスマッチ】・・・景気回復など
 ミスマッチ・・・①技術・技能の問題【スキルのミスマッチ】・・・能力開発など
         ② 希望するものがない・何をしたいのか分からない
                  【こころのミスマッチ】・・・大きな課題
支援について(仕事と個人の関係からとらえる)
 個別単位の支援・・・若者全体への支援ではなく、あくまでもその人、個人への支援
 主役は「地域」・・・バーチャルな情報ではなく、自分で足を運び五感で実感する
 各機関の名目以上の連携・・・この層への支援はNPOが進んでいる。




この4つ分類からみると、それぞれにアプローチの仕方や対策が違ってくるように思います。全部をひっくるめて同列に論じることは困難かもしれません。また、私達の側にも先入観や誤解が生じていたりして、自分の想像する若しくは頭の中に考えている「ニート」と、別なイメージが作られている他の人が言う「ニート」を対比したり考察したりしても議論が噛み合わないかもしれません。

これらを念頭に置いて、もう一度どこの部分について議論するか整理してみた方がよりよいかもしれません。

続・「ゆとり教育」は何を教育したか

2004年12月16日 03時06分02秒 | 教育問題
前の記事の続きです。とりとめなく書いてしまっていますが、読んで頂ければ幸いです。


社会が多様性を認めるならば、教育においても同じことが言えるのではないかと思います。
走るのが速い子もいれば、絵が上手な子もいる。話が上手くできる子もいれば、料理ができる子もいる。そうした多様性と同様に勉強を位置づけてよいのではないだろうか。そもそも、個人差があることを全てにわたり一律に行おうとすることに、無理な面があると思う。


例えばある少年野球チームがあるとします。そこでは、年齢や体格が違う子供達が存在しています。もちろん野球のレベルにも個人差があり、すごく上手な子もいればあまりうまくできない子もいるかもしれません。レギュラーになれる子はその中から選ばれたごく少数の子だけで、ベンチ入りできる子も限られています。このような場合に、あまり上手ではない子に全体の練習をあわせるとチームは強くなりません。まさしく「ゆとり練習」ですね。

練習をどのレベルに設定するのかは、難しい問題でもあります。ある程度の練習成果や効率性、勝てるチーム作りなどを考えるならば、基礎練習は同じように行いますが、実践練習などはレベルに合わせて練習することが多いのではないかと思います。あまり上手ではない子は、同じレベルの子供達と一緒に能力に応じた練習メニューが必要でしょう。「どうしてもレギュラーになりたい」と思う子は独自にランニングや素振りや個人練習をするかもしれません。「みんなと楽しくスポーツができればいい」と思う子は、それほど必死に練習しないかもしれないし他の習い事や遊びに時間をかけるかもしれません。

結局到達度によってある程度柔軟に対応せざるを得ないと思います。親は「どうしてうちの子はレギュラーと同じ練習をさせないのか」とは言わないことの方が多いのではないかと思います。下級生がレギュラーとして試合に出ていたとしても、上級生の親が「うちの子を出せ」とは言わないと思うのです。ポジションが限られていますし、能力によって出られるかどうかが決められてしまいます。このような状況は非常に不公平かというと、そうではないと考える人の方が多いのではないかと思います。


学校の授業もこのような考え方をしてみたらどうでしょうか。基礎的な能力に関する学習については、全員同じメニューとします。現在の多くの授業内容が当てはまってくるとは思いますが。一般的な試験の点数に大きな開きができてきて、到達度によって分けた方がよいという内容については、レベルごとに授業を行う必要が出てくるということになります。授業進度も変える必要があります。出来る子にはさらに高いレベルの課題を与え、より高度な内容としてもよいと思います。義務教育期間中は、到達レベルの目標を設定しておき、全員がクリアすべき内容を課します。下限だけを決めておくことで、十分なのではないかと思います。現状は、中間層に設定された均一な内容となっており、ついていける子もいれば、ついていけない子もいる状況で、途中で振り切られるとそこから先は無益な時間が過ぎていってしまいます。目標到達レベル以外は現場での自由度を持たせて、高度な内容の授業も容認することとします。

他の授業として、生きる力、自信を養うために、勉強以外の面を増やす方向がよいと思います。既に実施されているところもあるでしょうが、例えば園芸技術、料理、木工作業、紙工作、機械組み立て、デザイン、服飾関係、生け花等の実生活に役立ち、その後の人生にも何らかの影響を与えるような内容のものがあればよいのではないかと思います。方法論として具体的にははっきり思い浮かびませんが、勉強が得意な子と同じように、こうした技術が得意な子がいることも不思議ではありません。理科の化学実験の授業を選択する子もいれば、園芸の授業を選択する子がいてもよいと思うのです。このような方向性を探ってあげられるのが、親であったり教師であったりしてもよいのではないでしょうか。

今までは、「みんな一律に」「差別しないように」という変な平等意識があって、その根底にあるのは多様性を認める価値観が存在しないことに起因していると思います。これでは、先の野球チーム内で、「レギュラーと全く同じ練習をさせないのは不当な差別だ」というようなことと一緒のような気がします。「能力に違いがある」というごく普通のことを、大人たちが受け入れるべきであると思います。

現実にはスポーツが得意な子はそういう学校へ行ったり、勉強ができる子は私立の進学校へ行ったりしていますね。そのことが悪いことでもなんでもなく、得意なことがあればそれを伸ばしてあげたいし、やる気がある子はどんどん前へ進みたいと思うでしょう。その反面、そうしたことが見つけられず何処を目指して前へ進めばよいのか分からなくなっている子がたくさん存在することも事実です。親や教師たちは、勉強ができる子供達と同じ所を目指して進めと言い、他の価値を認めないところがあると思います。試験に合格するためのテクニックを憶えることが真の学問であるということを、あらゆる識者たちが考えているとは思えないのです。

今後少子化の影響で子供の数は減少しますから、学校の教員は子供一人あたりの人数が相対的に増加すると思います。そこで、上述したような弾力的な授業も可能ではないかと考えます。専門的な授業を教える人は、現役の人でもよいでしょうし、高齢者の人でもよいと思います(専門的技術や知識はやはり専門家に頼ることになりますから)。高齢者が教えることは、雇用面、子供達と高齢者の接点、などの面でも利点が多いと思います(勿論教師も一緒に授業に取り組みます)。

もう一つ取り組むべき授業があると思っています。それはロールプレイングです。例えば、八百屋さんを想定して、商売をする現場を再現しながら、体験させていくようなものとします。商売上手な子がいてもよいでしょう?その後人生で役立つかもしれませんし、特別な能力を発揮できる子がいるかもしれません。できれば実際の体験(本当のお店に行き見学や体験などを行えればよいと思います)をさせながら、考えてもらえる場を提供していくことが重要と思います。実際に高校生の運営するお店などが全国的に幾つか存在していますが、とてもよい取り組みであると思っています。教科書で勉強する以上に役立つことは多いのではないかと感じます。想定される授業は相当の広がりが考えられます。どの時点(何年生ころ)から始めるかとか各論的な議論はあると思いますが、全員が体験できるものが望ましいと思います。現在は大都市部の子供たちを中心に、あまりに社会とかけ離れた環境に置かれているのではないかと思います。体験の少ない、バーチャルな世界しか知らない子供達が増えているのではないでしょうか。コミュニケーションや問題解決能力に問題があるのは、実体験が少ないことに起因すると考えます。

勉強をすごく頑張って、難関校とか東大合格を第一目標とする学校があってもいいと思っています。それが望みの人はそういう選択をすればいいのです。でも、みんながそういう子ではないのですから、それ以外の進む方向があってもよいのではないでしょうか。それが現実の社会構成と合致しているように思うのですが。


少年野球チームを強くすることはとても大変です。ですが、適切な指導をすれば、短期間で飛躍的に強くなることも稀ではありません。指導者の役割が如何に重要かを物語っています。それを達成するには、保護者等周囲のサポート、指導者の熱意と明確な方針が必要であると思います。このような方向性を文部科学省が示してくれくことを期待したいと思います。