先日、日本語教育のお話がブログに散見されたのですが(内田先生のトコとか、finalventさんのとことか)、文科省が「ゆとり教育」から「言葉の力」へ方針転換ということをNagarazokuさんの記事(ながら族:Nagarazoku:Nagara Tribune)を読んで知った。これは朝日の記事に出ていたようだ。
asahi.com: 学習指導要領、「言葉の力」柱に 全面改訂へ文科省原案 - 教育
記事から一部を抜粋。


学校のすべての教育内容に必要な基本的な考え方として、「言葉の力」を据えることがわかった。文部科学省が近く、中央教育審議会の部会で原案を示す。「言葉の力」は、確かな学力をつけるための基盤という位置づけ。学力低下を招いたと指摘を受けた現行指導要領の柱だった「ゆとり教育」は事実上転換されることになる。


他方、次のような記事も。
- Brain News Network -
こちらも一部抜粋。
記事を読む限り、ここで言う「言葉」とは日本語を意味すると断定できるが、まさか近年の「国語ブーム」に便乗したのでは、と邪推したくもなる。
だが、それは必ずしもうがった見方とは言えまい。たとえば、阪神大震災の後に、「耐震」をテーマにした施策が相次いで打ち出されたように、日本の官庁は、実は時流に乗ることに殊の外熱心であるという性格を持つ。
裏を返せば問題が表面化しなければ動かない。万事が対症療法的で、著しく先見性に欠ける。だから熱が冷めれば途端に綻びが目立ち始める。相次ぐ耐震偽装問題の発覚も、こうした無責任さと無縁ではあるまい。
文科省原案も、早速綻びが見られる。国語を重視する姿勢を打ち出しながら、一方では小学校での英語必修化も検討課題としていることは明らかに矛盾だろう。
ベストセラー「国家の品格」の著者である藤原正彦氏は、著書「祖国とは国語」の中で、小学校からの英語導入について「他教科の圧縮を意味し、国民の知的衰退を確実に助長する。愚民化政策と言って過言ではない」と痛烈に批判している。まったく同感である。


このように厳しい意見もありますが、藤原先生は所謂文科省の何かの委員であり、国語教育に関してはご意見を出している立場です。あくまで推測ですが、日本人的心というか「情緒力」「愛国心」のような―まさに「言葉の力」肯定派という意味で―日本人の心を取り戻す第一歩としてこれに賛成されているのではないかと考えております。「言葉の力」は確かにあるように思えるし(わたくしも同じく情緒的と申しましょうか、笑)、これを盛り込むかどうかは数年来の協議の結果であると思います。調べてないですけど。とても行政が一朝一夕でこうした決定を行うとは考えにくいのでございます。
ですので、文科省としては勿論昨年来の「学力低下危機」という批判に晒され、「ゆとり教育」という言葉だけが取り上げられる為に誤解を招いている原因となっている、という側面もあるのではないか、と考えたとしても不思議ではないように思えます。ややもするとご都合主義とも取れなくもありませんが、お役所仕事ですので(笑)。少なくとも審議会とかのレベルでは、もっと早い段階から盛り込む言葉の選定を行なっていたであろうな、と。
こうした方針転換がどうなのか、というのは賛否あると思いますが、少なくとも現場レベルの知見や報告ということも吟味されている可能性は高いと推測しており、モデル事業などからの提言とかもあったかもしれませんね。そういうことをきっと記者たちが調べて書いているかというと、そうでもないと思いますね。
私がナルホドそうだな、と思ったのはNagarazokuさんの次の言葉でした。
経済的な格差の中で、教育におカネをかけることができる家庭と、そうでない家庭で、ベースラインに差異が生まれてしまったのは事実でしょうが、これは直接に「ゆとり型」の所為ではありませんし…。そして「ゆとり型」の中に置かれていても、やるべきこと以上のコトをやってきた人たちだって存在してるワケですから、一概にゆとり型が失敗だとか、そんな風には思えなかったりもするのです。
~中略
問題は、「社会の構成員として人間が機能するのではなく、社会を道具としてどのように上手く活用してゆくかと言うコトを、キチンと教えてないことじゃないかなぁ」と、そして「社会と言う道具はまだまだ未完成で、自分達の手で改良を続けてゆかねばならないと言う、根本的な課題を伝えてないことじゃないかなぁ」と、ゆとりの世代を横目で見ながら働いてきたアタシは、そんな風に漠然と思い続けていたりするのです。
asahi.com: 学習指導要領、「言葉の力」柱に 全面改訂へ文科省原案 - 教育
記事から一部を抜粋。


学校のすべての教育内容に必要な基本的な考え方として、「言葉の力」を据えることがわかった。文部科学省が近く、中央教育審議会の部会で原案を示す。「言葉の力」は、確かな学力をつけるための基盤という位置づけ。学力低下を招いたと指摘を受けた現行指導要領の柱だった「ゆとり教育」は事実上転換されることになる。


他方、次のような記事も。
- Brain News Network -
こちらも一部抜粋。
記事を読む限り、ここで言う「言葉」とは日本語を意味すると断定できるが、まさか近年の「国語ブーム」に便乗したのでは、と邪推したくもなる。
だが、それは必ずしもうがった見方とは言えまい。たとえば、阪神大震災の後に、「耐震」をテーマにした施策が相次いで打ち出されたように、日本の官庁は、実は時流に乗ることに殊の外熱心であるという性格を持つ。
裏を返せば問題が表面化しなければ動かない。万事が対症療法的で、著しく先見性に欠ける。だから熱が冷めれば途端に綻びが目立ち始める。相次ぐ耐震偽装問題の発覚も、こうした無責任さと無縁ではあるまい。
文科省原案も、早速綻びが見られる。国語を重視する姿勢を打ち出しながら、一方では小学校での英語必修化も検討課題としていることは明らかに矛盾だろう。
ベストセラー「国家の品格」の著者である藤原正彦氏は、著書「祖国とは国語」の中で、小学校からの英語導入について「他教科の圧縮を意味し、国民の知的衰退を確実に助長する。愚民化政策と言って過言ではない」と痛烈に批判している。まったく同感である。


このように厳しい意見もありますが、藤原先生は所謂文科省の何かの委員であり、国語教育に関してはご意見を出している立場です。あくまで推測ですが、日本人的心というか「情緒力」「愛国心」のような―まさに「言葉の力」肯定派という意味で―日本人の心を取り戻す第一歩としてこれに賛成されているのではないかと考えております。「言葉の力」は確かにあるように思えるし(わたくしも同じく情緒的と申しましょうか、笑)、これを盛り込むかどうかは数年来の協議の結果であると思います。調べてないですけど。とても行政が一朝一夕でこうした決定を行うとは考えにくいのでございます。
ですので、文科省としては勿論昨年来の「学力低下危機」という批判に晒され、「ゆとり教育」という言葉だけが取り上げられる為に誤解を招いている原因となっている、という側面もあるのではないか、と考えたとしても不思議ではないように思えます。ややもするとご都合主義とも取れなくもありませんが、お役所仕事ですので(笑)。少なくとも審議会とかのレベルでは、もっと早い段階から盛り込む言葉の選定を行なっていたであろうな、と。
こうした方針転換がどうなのか、というのは賛否あると思いますが、少なくとも現場レベルの知見や報告ということも吟味されている可能性は高いと推測しており、モデル事業などからの提言とかもあったかもしれませんね。そういうことをきっと記者たちが調べて書いているかというと、そうでもないと思いますね。
私がナルホドそうだな、と思ったのはNagarazokuさんの次の言葉でした。
経済的な格差の中で、教育におカネをかけることができる家庭と、そうでない家庭で、ベースラインに差異が生まれてしまったのは事実でしょうが、これは直接に「ゆとり型」の所為ではありませんし…。そして「ゆとり型」の中に置かれていても、やるべきこと以上のコトをやってきた人たちだって存在してるワケですから、一概にゆとり型が失敗だとか、そんな風には思えなかったりもするのです。
~中略
問題は、「社会の構成員として人間が機能するのではなく、社会を道具としてどのように上手く活用してゆくかと言うコトを、キチンと教えてないことじゃないかなぁ」と、そして「社会と言う道具はまだまだ未完成で、自分達の手で改良を続けてゆかねばならないと言う、根本的な課題を伝えてないことじゃないかなぁ」と、ゆとりの世代を横目で見ながら働いてきたアタシは、そんな風に漠然と思い続けていたりするのです。