かつて日本は世界的に見て教育水準が高いという評価を受けてきた。特に算数・数学、理科などは世界のトップクラスであったように思う。また、識字率の高さも日本の特徴であると思う。こうした、日本の優れていたところが失われつつある。経済分野での諸外国の追い上げだけではなく、教育分野においても世界の中での地位は低下しつつあるということである。

教育問題は非常に難しいと思っている。文部省(現文部科学省)が考え方を変えたら、現場はそれに合わせて変えていかねばならないが、あっちへいったりこっちへいったりされては、確かに混乱を招くだけである。おまけに教師の質の問題という面もあるため、教える側、教えられる側の両者が、何が何だかわからないまま時間が経過してきたような気がする。
教育の根源的な問題は、その時の社会全体というか大人たちの価値観に影響されることであると私は思う。教育現場の問題もあるが、それ以上に大人(親)たちが、学校教育にある種の幻想を持ち込んでいるような気がするのである。大人たちの価値観や社会の誤った認識(私はそう思っている)が、教育の混乱につながっているのではないだろうか。
親たちの一般的な願いは、よい学校にいき、競争に負けずよい大学に入り、よい会社に勤めるとか医者や弁護士になってほしいというようなものなのではないかと推測する。私も一人の親の立場として理解できなくもないが、そうした願いはごく限られた人々しか叶えられることがないということに気づくべきである(勿論私はこのような職業とは違います、残念)。その願いの根底には、拝金主義的な面が多いのではないかとも思っている。安定した生活をするにはお金は確かに重要な要素ではある。私もたくさんのお金を手に入れたいと思うし、成功を収めている人々は羨ましい対象ではあるが、そのことが何より重要とは考えていないし、人間として生きる上で全てを犠牲にしてまで達成すべきものとも考えていない。「負け犬の遠吠え」とか「負け惜しみにすぎない」と思われるむきもあろうかと思うが(笑)、自分の持てる能力についてはおよそ見当がつきますし、幸せに(私の価値観で)生活できればそれで十分満足が得られると思っている。
地位の高い人が犯罪者となっていくのは、誤った価値観が背景にあるのではないか。向上を求めるのか、更なるお金を求めるのか判りませんが、倫理や理性を超えて何かを求める結果であろうと思う。そんな結果を生じるならば、どんなにいい大学を出ようが、いい職業に就こうが、何の意味もなさないことは誰しも分かることであろう。多くの大人たちの心を支配しているのは、これと似たような欲望なのではないだろうか。
このような社会環境で子供達がそういう方向に進んでいくことを、本当に防ぐことができるのだろうか。親の立場としては子供の幸せを願うであろうが、もっと違った価値観を持てるように社会全体が変わっていく必要があると思う。世の中に「勝ち組」「負け組」なる言葉がよく使われるようになった。企業間の競争で主に使われていたが、今は個人レベルでも使用されており、リストラされる人は「負け組」とか大企業に就職すると「勝ち組」などと用いられている。これは大人たちが持つ価値観を如実に表わしていると思う。
若者達は自分が「負け組」に堕してしまうことに幻滅し、自分の価値を見出せないまま「負け組」に組み入れられることを拒否してしまう。周囲の大人たちは「勝ち組」に入れなかった若者に必然的に「負け組」のレッテルを貼り、あたかも人間そのものが「負け組」であるかのような評価を下してしまう。これに反発したい若者は「自分のやりたいこと」や「自分に合った仕事」という、大人たちの価値観に対抗する独自の価値観を掲げるのかもしれない。こんなことの繰り返しが今の状況を作り出したのではないか。
世の中はとてもよくできている。皆がデスクワークしかできないと家も建たない。漁師さんがいないと新鮮なお魚も食べられない。清掃してくれる人がいないと駅やデパートのトイレはひどく汚い。ゴミ回収の人がいないとゴミの山に埋もれて暮らさなければならない。農家の人がいないとおいしい果物やごはんも食べられない。今更こんなことを言うのも気が引けるが、こうしたごく当たり前の感覚が消失してきているのではないのか。皆が良い大学を出て、お医者さんになっても何の意味もない。そんな人々だけで社会が成り立つわけではないにもかかわらず、それ以外の価値を見出せないならあまりに愚かなことであると思う。
社会はその構成に多様性があることによって成り立っており、そのこと自体に価値があると思っている。人間の体でいえば、脳だけあっても生体としては機能を保てないし何も出来ないことは自明であり、手もあれば足もあり、髪の毛であったり睫毛であったり、心臓であったり血管であったり・・・・そういうものが総合的に作用して複雑な仕事やスポーツや勉強やさまざまなことができる一人の人間となりえるのである。爪を失った人は生きていける。でもいらないと思う人はほとんどいないであろう。人体において生命維持に絶対的に必要であるとは限らない部分もある。社会でもそうである。例えば演劇や歌謡曲(今は使わないか。古いですね)が無くても生きていけるが、あると豊かに生きていける。
こうした多様性に支えられている社会は、それぞれに意味や価値があるということに大人たちの多くが気づいてほしいと思う。新潟中越地震で、地域の人々が復旧に向けて努力している姿が報じられていたが、その中で非常に感心したことがあった。ある場所では、道路が不通となっていたのだが、地域住民が協力してその道路の横に応急的に車両が通行できる道を作っていた。ショベルカーなどを操作できる人や土木作業になれている人々が中心となって、行政の手助けが間に合わなくても、自分達にできることとして復旧に貢献しているのだ。また、ある場所では、住民達が協力して避難場所にシャワー設備を作っていた。あり合わせの材料や配管技術や水道設備の技術などを工夫して、力を合わせたらできることもあるのだと教えてくれた。このような事態の時に役立つことは、やはり人間の多様性であると感じた。みんながエリートサラリーマンだったら、うまく出来なかったであろうと思う(笑)。
だから、勝ち組の職業という価値観なんて本来必要ないし、いつどのような時に人間の能力が役立つかなんて分からない。その人の価値を決めることは、それほど簡単なことではない、とも思う。他人を羨む気持ちが多いであろうことはわかるし、私もイチロー選手みたいになれたらどんなにうれしいだろうと思うが(絶対無理ですが)、本人にしかその苦悩や嫌なことは分からないであろう。キムタクみたいにモテモテな男だったら嬉しいが、その辛さは本人にしか分からないであろう。テレビで、ある人間国宝の方が「自分に合っている仕事かどうかわからない。これまでの仕事が本当に最良かもわからない」というような趣旨のことをおっしゃっていた。何十年も続けてきたその道の達人がそのように言うのであるから、そうなのか、と思う。私には到達できない境地であるが、真実なのではないかと感じる。「自分に合う仕事」を見つけることは、一生かかっても分からないかもしれないのである。
社会の多様性を認めることこそ必要な価値観であると思うし、それぞれの個人が社会の中で何らかの役割を果たそうとすることに意味があると思う。やっている仕事に誇りを持って臨むことができれば、「爪」の一生であったとしても「脳」と同じ価値があると思う。
異常な長文となってしまいました。読んで頂いた方には感謝いたします。教育から逸れてしまいましたが、このような価値観が社会に認識されるなら、別な教育方針があろうかと思います。次に書いてみたいと思います。


教育問題は非常に難しいと思っている。文部省(現文部科学省)が考え方を変えたら、現場はそれに合わせて変えていかねばならないが、あっちへいったりこっちへいったりされては、確かに混乱を招くだけである。おまけに教師の質の問題という面もあるため、教える側、教えられる側の両者が、何が何だかわからないまま時間が経過してきたような気がする。
教育の根源的な問題は、その時の社会全体というか大人たちの価値観に影響されることであると私は思う。教育現場の問題もあるが、それ以上に大人(親)たちが、学校教育にある種の幻想を持ち込んでいるような気がするのである。大人たちの価値観や社会の誤った認識(私はそう思っている)が、教育の混乱につながっているのではないだろうか。
親たちの一般的な願いは、よい学校にいき、競争に負けずよい大学に入り、よい会社に勤めるとか医者や弁護士になってほしいというようなものなのではないかと推測する。私も一人の親の立場として理解できなくもないが、そうした願いはごく限られた人々しか叶えられることがないということに気づくべきである(勿論私はこのような職業とは違います、残念)。その願いの根底には、拝金主義的な面が多いのではないかとも思っている。安定した生活をするにはお金は確かに重要な要素ではある。私もたくさんのお金を手に入れたいと思うし、成功を収めている人々は羨ましい対象ではあるが、そのことが何より重要とは考えていないし、人間として生きる上で全てを犠牲にしてまで達成すべきものとも考えていない。「負け犬の遠吠え」とか「負け惜しみにすぎない」と思われるむきもあろうかと思うが(笑)、自分の持てる能力についてはおよそ見当がつきますし、幸せに(私の価値観で)生活できればそれで十分満足が得られると思っている。
地位の高い人が犯罪者となっていくのは、誤った価値観が背景にあるのではないか。向上を求めるのか、更なるお金を求めるのか判りませんが、倫理や理性を超えて何かを求める結果であろうと思う。そんな結果を生じるならば、どんなにいい大学を出ようが、いい職業に就こうが、何の意味もなさないことは誰しも分かることであろう。多くの大人たちの心を支配しているのは、これと似たような欲望なのではないだろうか。
このような社会環境で子供達がそういう方向に進んでいくことを、本当に防ぐことができるのだろうか。親の立場としては子供の幸せを願うであろうが、もっと違った価値観を持てるように社会全体が変わっていく必要があると思う。世の中に「勝ち組」「負け組」なる言葉がよく使われるようになった。企業間の競争で主に使われていたが、今は個人レベルでも使用されており、リストラされる人は「負け組」とか大企業に就職すると「勝ち組」などと用いられている。これは大人たちが持つ価値観を如実に表わしていると思う。
若者達は自分が「負け組」に堕してしまうことに幻滅し、自分の価値を見出せないまま「負け組」に組み入れられることを拒否してしまう。周囲の大人たちは「勝ち組」に入れなかった若者に必然的に「負け組」のレッテルを貼り、あたかも人間そのものが「負け組」であるかのような評価を下してしまう。これに反発したい若者は「自分のやりたいこと」や「自分に合った仕事」という、大人たちの価値観に対抗する独自の価値観を掲げるのかもしれない。こんなことの繰り返しが今の状況を作り出したのではないか。
世の中はとてもよくできている。皆がデスクワークしかできないと家も建たない。漁師さんがいないと新鮮なお魚も食べられない。清掃してくれる人がいないと駅やデパートのトイレはひどく汚い。ゴミ回収の人がいないとゴミの山に埋もれて暮らさなければならない。農家の人がいないとおいしい果物やごはんも食べられない。今更こんなことを言うのも気が引けるが、こうしたごく当たり前の感覚が消失してきているのではないのか。皆が良い大学を出て、お医者さんになっても何の意味もない。そんな人々だけで社会が成り立つわけではないにもかかわらず、それ以外の価値を見出せないならあまりに愚かなことであると思う。
社会はその構成に多様性があることによって成り立っており、そのこと自体に価値があると思っている。人間の体でいえば、脳だけあっても生体としては機能を保てないし何も出来ないことは自明であり、手もあれば足もあり、髪の毛であったり睫毛であったり、心臓であったり血管であったり・・・・そういうものが総合的に作用して複雑な仕事やスポーツや勉強やさまざまなことができる一人の人間となりえるのである。爪を失った人は生きていける。でもいらないと思う人はほとんどいないであろう。人体において生命維持に絶対的に必要であるとは限らない部分もある。社会でもそうである。例えば演劇や歌謡曲(今は使わないか。古いですね)が無くても生きていけるが、あると豊かに生きていける。
こうした多様性に支えられている社会は、それぞれに意味や価値があるということに大人たちの多くが気づいてほしいと思う。新潟中越地震で、地域の人々が復旧に向けて努力している姿が報じられていたが、その中で非常に感心したことがあった。ある場所では、道路が不通となっていたのだが、地域住民が協力してその道路の横に応急的に車両が通行できる道を作っていた。ショベルカーなどを操作できる人や土木作業になれている人々が中心となって、行政の手助けが間に合わなくても、自分達にできることとして復旧に貢献しているのだ。また、ある場所では、住民達が協力して避難場所にシャワー設備を作っていた。あり合わせの材料や配管技術や水道設備の技術などを工夫して、力を合わせたらできることもあるのだと教えてくれた。このような事態の時に役立つことは、やはり人間の多様性であると感じた。みんながエリートサラリーマンだったら、うまく出来なかったであろうと思う(笑)。
だから、勝ち組の職業という価値観なんて本来必要ないし、いつどのような時に人間の能力が役立つかなんて分からない。その人の価値を決めることは、それほど簡単なことではない、とも思う。他人を羨む気持ちが多いであろうことはわかるし、私もイチロー選手みたいになれたらどんなにうれしいだろうと思うが(絶対無理ですが)、本人にしかその苦悩や嫌なことは分からないであろう。キムタクみたいにモテモテな男だったら嬉しいが、その辛さは本人にしか分からないであろう。テレビで、ある人間国宝の方が「自分に合っている仕事かどうかわからない。これまでの仕事が本当に最良かもわからない」というような趣旨のことをおっしゃっていた。何十年も続けてきたその道の達人がそのように言うのであるから、そうなのか、と思う。私には到達できない境地であるが、真実なのではないかと感じる。「自分に合う仕事」を見つけることは、一生かかっても分からないかもしれないのである。
社会の多様性を認めることこそ必要な価値観であると思うし、それぞれの個人が社会の中で何らかの役割を果たそうとすることに意味があると思う。やっている仕事に誇りを持って臨むことができれば、「爪」の一生であったとしても「脳」と同じ価値があると思う。
異常な長文となってしまいました。読んで頂いた方には感謝いたします。教育から逸れてしまいましたが、このような価値観が社会に認識されるなら、別な教育方針があろうかと思います。次に書いてみたいと思います。

この記事を読んで、「職業に貴賎なし」という言葉を思い出しました。
自分の子供には、勝ち組・負け組などという、他人が作った類別に惑わされることなく、本当に自分がやりたいこと・打ち込めるもの・かけがえのないものに出会ってもらいたいですね。
お金とか物質欲を満たすことよりも、充実した人生を送るためには、それが必要だと感じたのは30代になってからです。
私は、今40代ですが、小中の教育は、根幹をはずすことなく、大人になって以降も基礎でありつづける糧を残してほしいです。
今の学校教育システムは、崩壊している、と思っています。
文部科学省は、やった内容の反省点を踏まえて、次の教育政策に生かすべきなのに、以前の教育システムと違うことをやることが、正しい、というふうに考えているように見えます。
文科省の理念自体は歴史的にも世界的にも優れたものであると感じます。
佐藤氏や佐伯氏、加藤氏の教育論や実践記録を見ると良く分かるのですが、「考える力=論理的に推測し、最も確からしい答えを探る力」を育成するというのは、基礎学力の構築を阻害するものでもなく、教育者が意図を持って展開できれば連鎖して能力の発芽をもたらします。
例えば豊臣秀吉が行った政策で検地と刀狩がありますが、このどちらが先に行われた政策かという問を問われたときに、年号を暗記している人はすぐさま検地、刀狩の順で行われた事が答えられますが、その暗記に意味はありません。
ここで加藤氏の実践では、子ども達にどちらが先かという論議に展開させ、その中で子どもたちは「武器を取り上げた後に検地を行った方が抵抗されずにスムーズに行く」という論理性を導き、それを元に刀狩、検地という誤った答えを出します。
しかし実際には検地、刀狩の順であり、そこに子ども達は自身が築いた論理性の崩壊が起こり、「何故?」という強烈な疑問と興味関心が引き起こされます。
ここで与えられた答えから、検地の目的が諸侯の勢力削減と諸侯に依存した農民を太閤に依存させ、太閤権力の安定化を図り、結果刀狩という実質的な武力抑制に繋げられるという推論を立て、年号的知識と桃山時代の社会背景の理解を得ます。
しかもこれは自身の論理性により構築されたものであるため非常に記憶に残り易く、瞬間的に学習の手間がかかっているように見えても反復分まで考慮した学習効率は高いものとなります。
さらにここでは2度の論理構築とその確からしさの崩壊と再構築という命題が仕込まれており、いわゆる汎用性の高い「考える力」の養成も行われています。
この「考える力」の汎用性は他の学習においても効果的に機能し、知り得る知識を構築して知り得ない知識にまで思考により到達できるという側面を持ちます。
思考力はその反復訓練により確からしさと思考スピードの向上が可能です。
とまあ、適切に機能させられさえすれば、文科省の教育観というのは世間一般で非難されているほど惨いものではありません。
問題があるとすれば、それは文科省の教育施策であり、前出のような実践を研究している教員は少なく、そのための研究時数の確保、さらにある種の指導書作成による教員の実践の共有化、そしてその指導法を学術的に評価、更なる問題点の焦点化、発展開発というプロセスを実現するための組織を教育委員会に構築するなど、具体的に理念を動かすためのシステム構築が必要でした。
文科省が省庁間対立における国権獲得のための政治組織で、その下部組織としてしか教育委員会が機能していない現状、つまり教育システムを現場で実践できるレベルで構築する能力が備わっておらず、その必要性にも気づいていない事に問題があるのではないかと考えています。
ご指摘のような問題点があると思いますし、省庁の意図しているところと現場レベルでの実施段階での格差があることも事実かもしれません。政策立案は現実に実施可能なものでなければならず、理想論に終始しても下部組織がついてこれないこともあるかと思います。教育技術の改革は、スポーツのトレーニング技術の進歩(運動生理学などに基づく有効なトレーニング方法)に見られるように、変革が多くの指導者に浸透するまで時間がかかることも予想されます。これを短縮し普遍的指導方法として教師たちに定着させるような政策が行政の役割でもあると思います。また宜しくお願い致します。
実務家として役立たないと考えているのかもしれませんが、基本理念を理解していない人間が教育行政をしきってきたことは、将来を考えない小手先の教育施策が続いたことを意味します。
全部日教組のせいにしていますが、結果として、日本人の学力を低下させることを期待している他国民のための、愚民化政策が行われてきたのでしょう。
判断力を持たない市民が多ければ多いほど、政治家と官僚は楽です。ですが、技術力はこの先必ず低下し、教育現場の荒廃をもたらしているのは、戦後の文部官僚とそれを支持した政治家達だと思います。
教育心理学・発達心理学・犯罪抑止のための犯罪心理学などの専門教育を受けた文部官僚は、現在も存在しないはずです。去年、調べましたので。
素人の小手先で教育は充分とは、「教育は国家百年の計」という日本の伝統とは違います。
削除して書き直せない。タイトル直せないかな(笑)