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予備校が行う大学教育とは

2007年01月18日 12時48分00秒 | 教育問題
予備校が悪いということを言いたい訳ではありませんが、如何なものかとは思います。規制緩和唱導にありがちな主張には、「株式会社が経営すればもっと効率よく良くなる」というのがありますが、これって本当なんでしょうか?学校でも病院でも何でもいいのですが、「株式会社」だからよいものが得られる、ということではないように思えるのですよね。

文科省、「LEC東京」に特区大学初の改善勧告発動へ 社会 YOMIURI ONLINE(読売新聞)

(記事より一部引用)

LEC大は04年4月、資格試験対策の予備校を経営する株式会社「東京リーガルマインド」が開校。司法試験や公認会計士などの資格取得を目指す実学重視の姿勢を打ち出していた。
 ところが、文科省の複数の調査で、〈1〉予備校のテキストを使い、大学生と予備校生が同じ教室で授業を受けている〈2〉約170人の専任教員の多くが別の仕事と掛け持ちで、担当の授業を持っていない上、大学での研究活動もしていない〈3〉ビデオを利用した授業で教員がおらず、学生との質疑応答などができないケースがある――などの実態が次々に明らかになった。
 これらの一部は、専任教員に大学での教育・研究を求めた大学設置基準などに違反する疑いが強い。同省はLEC大側に文書で指導を重ねてきたが、改善が見られなかった。



民営化の流れというのは様々な分野で行われているのですが、大学の民間企業経営というものが果たしてどれ程必要なのだろうか、という疑問は拭えないのですね。株式会社は「営利目的で学校や病院経営をしたい訳ではない」とか言うのですが、利益のない事業とか赤字でもいい事業なんかをやっていい、ということなら、株主利益に反したりはしないものなのでしょうか?この辺の理屈というか、主張の整合性についてはよく分らない訳ですが、もしも社会的に貢献したいとか、CSRのような何かが関連しているとか、そういうことであるならば、頑張って税金を沢山納めてくれればいいし、「どうしても貢献したい」というのであれば寄附すればいいのですよね。

病院経営にしても、本当にきちんとできるのであれば、例えば夕張みたいな場所の病院を運営してみてくれ、思いますね。自治体は補助金を入れたりしなくてもよくなるだろうし、病院がきちんと運営できて医療サービスも向上させて住民に提供できるのであれば、みんなハッピーになれますよ(笑)。前から何度も言っている通りに、各自治体には多額の赤字を抱えた病院なんかがゴッソリあるので、モデルとして赤字額の大きい順に運営を担当する株式会社を募集すればいいと思いますよ。実際にやってごらんなさい。実績を見せてごらんなさい。

効率的運営とか言うのであれば、補助金は勿論全額カットでもいいはずですよね。国家公務員共済が運営している病院なんかもあるから、そういうのも補助金なしでやれるはずだよね?社会保険や年金関係が運営主体の病院なんかもたくさんあるので、そういうのを株式会社が運営して、施設整備費等の費用が全額カットできるのであれば、願ったりかなったりじゃないですか。株式会社が工場建設の際に、建設費用を全額出してくれないと操業できない、とか言うはずないですよね?

博士号のネット販売まであるらしいというご時世ですので、株式会社が学校運営を担当すれば、現実にどういった弊害が出てくるか監視が必要でしょうね。どちらかと言うと、運営主体が会社か学校法人なのか、といった違いなんかではなくて、運営する側の理念というか、やっぱり「やる人の人生観、考え」みたいなのが大きく影響しそうで、民間会社がやればうまくいくとか、良い教育が提供できるといったことではないように思えるのですよね。参入障壁を低くすれば、いい人たちも入ってくるかもしれないが、そうでもない人たちも入ってくるので、そういうのを選別・淘汰させられるような制度が必要なんだろうね。良くない大学に金を払ってしまった人たちは、言ってみれば騙されたようなものと同じくなりかねないので、チェックする体制が充実していないと難しいのではないかと思うな。まさか「ビデオ授業」しかない、などとは思ってもみなかっただろうから、学生さんが可哀想過ぎるよね。そんなんでいいのなら、教育テレビの番組からいくつか録画をしておいて、授業と称して流していてもあまり気付かれないかもしれない(笑、これは犯罪なのだろうけど)。

学校教育を本当に充実させたいと考える企業なのであれば、共同研究とか寄附講座とか他の方法がいくらでもあるし、金を出す代わりに口も出したい、とか思うのであれば、学校の理事会なんかに要望書を毎年提出できるような契約を予め結ぶとか何とか(そういった仕組みについては、全く知らないので実際どうなってるか判りません)できそうなんじゃないか。研究成果や活動状況などを報告書の形で出させたり、何かの評価機関に評価を受けさせて、金が有効に使われているか報告させるとか、そういう関与の仕方もあるのではないかな。でも、口を出す前に、まず金を出せ、というのが、私の印象ではあるな。「○○会社記念図書館」とか「××記念研究棟」とか、そういうのをまるで見たことがないもの。ごく稀に、企業名を冠した施設なんかはあるだろうが、大学とか半公的な施設なんかに大金を出している会社なんて知らないな。

そういう企業活動も大事だけど、まず従業員に払え、というのが社会全体の本音であると思うから当面は難しいかもしれないが、寄附受け入れに関する制度などを大幅に緩和すればいいのかも、と思ったりする。国公立(国立大学法人とかに変わったけど)は特定の民間企業から金を貰って、何か作るというようなことが難しいのかな。情報が公開されて透明になっているのであれば、あまり問題ないようにも思えるけどね。

社会全体が目先の利益になるものだけにお金を使うようになってしまうと、きっと経済活動も停滞するだろうな、という素人考えが浮かぶのです。


歴史の授業が少ないのは何故?

2006年10月25日 18時13分20秒 | 教育問題
世界史の授業時間数が少なくて、卒業が危ぶまれる学校が続出中の模様。

Yahooニュース - 毎日新聞 - <高岡南高校>必修「地・歴」未履修 卒業できない? 富山

(一部抜粋)

富山県立高岡南高校(篠田伸雅校長)で、昨年度の2年生197人全員が、世界史、日本史、地理のうち1科目しか授業を受けていなかったことが分かった。学習指導要領では世界史が必修で、さらに日本史と地理のどちらかを履修するよう定めている。県教委によると、生徒の間で以前から大学入試に必要な科目だけを集中的に勉強したいという声があり、学校側が昨年度の運用で一つだけ選択させたという。




Yahooニュース - 時事通信 - 履修不足、岩手でも=盛岡一高など3校-県教委


ちょっと可哀想だな、生徒たちが。何で学校側がカリキュラム作る時気付かないんだろう?不思議。
というか、余りに先生たちは無責任なんじゃないの?と思う。


昔話で申し訳ないが、今から20年以上前は社会科の授業は少なくなかったよ。
理系だったけど、地理A(今と昔の違いは知らない)、世界史、日本史、政治・経済、全部必修だった。選択科目は倫理・社会のみ。当時、理系に多かったのは、地理・倫社の組み合わせ。通称「ちりりん」ってやつだ。ポイントは、教科書が薄い(笑)、共通一次の平均点は比較的高い、という理由だった。実際の平均点は日本史が一番高かったかもしれないけど、なにせ教科書が厚い(笑)。あと、所謂「マニア」が多い。なので、理系で歴史を選ぶ人はそんなに多くなかった。文系の人たちは、主に世界史・倫社が多かったように思う。理由は知らない。


理科の科目も、生物、化学、物理の各Ⅰは全員必修だった。地学だけが選択だった。文系に行く人たちの多くは、物理で挫折(嫌いになった?)した人が多かったように思う。理系だけが各Ⅱの少なくとも2つを選択していた。


どうして、社会科目が1教科なんて寂しい状況になってしまったのでしょう。ちょっと残念ですよね。私自身は理系で、共通一次では世界史、日本史は選択しなかったのですけれども、授業はそれなりに面白かったですよ。特に日本史が。教科書の内容も大事なんですけど、まるで大河ドラマを観ているかの如く、出来事のそれぞれが「物語」になっていて、授業の中では「歴史の裏側」のような話が多かった。何かの出来事や大事件に至る過程の中で、人間ドラマが本当にあるのですよね。なので、教科書は試験の為に覚えるのですけど、そういうつまらなさはなくて、授業の中では「どんな人物であったか」「どんなことを言ったか」「誰を好きだったか」みたいな人間像に焦点が当てられていたように思う。そういう訳で、日本史や世界史はまあまあ好きだった。でも、年号を覚えたりとか暗記するのは苦手だったので、試験科目に選択するのは躊躇われた(笑)。


今の高校の授業の中では、基本的には歴史をやった方がいいと思うよ。大昔の「教養」というのは、歴史、神学、語学、みたいなものだったのでしょう?歴史というのは、身近なところでは「自分の親」とか、爺さん婆さんとか、そういう生き様そのものですよね。もっと古いなら、地域の言い伝えとか、伝統行事とか、そういうのと繋がっていたりするし。

なので、受験科目に無関係なものほど、ある程度やっておいた方がいいように思うけど。受験の為だけであったら、あんまり興味が広がらないのではないかと思う。それも悲しいですよね。



イジメと自殺のこと

2006年10月17日 14時28分33秒 | 教育問題
ここの所、イジメで自殺した事件がよく報じられている。丁度うちの子も中二(ところで、「中ニ病」とか見かけますが、?です)なので、他人事ではないなと思っています。確かにイジメは悪い。そんなことをしているヤツは、アホじゃ、とは思う。でも・・・・


文部科学省の統計では、イジメは「ゼロ」ということらしい。
全国で?ウソだよね、どう見ても。
ただ、学校側が隠蔽というか、コトを荒立てたくない、表沙汰にしたくない、ということはあるから、そこで止まってるんだろうと思う。そういうのが、「教育委員会の責任だ」とか、「文科省がなってないからだ」とかの批判にすぐ繋がるのもどうかと思う。


自分の経験だけしか知らないが、イジメは昔からあった。本格的なイジメではなかったかもしれないけど。
自分が小学校~中学校の頃には、割とよくあったと思う。変な「あだ名」とか、酷い呼ばれ方とかなんて、ごく普通だった。私も例に漏れず「変なあだ名」をいくつか頂戴していた。書いてしまうとバレたら困るから書かないけど(笑)。男子数人が女子にチョッカイを出して、泣かしたりもごく普通にあった。そして別な女子に先生に言いつけられて、怒られてた。体育だったか運動会でフォークダンスなんかをするから、男子同士で「オマエ、○○の手を触っただろー!!やーい、やーい」みたいな感じで囃し立てられたりもあった。何故その女子の手に触れてはいけないのか、理由など全く判らなかったが、何となくそういうのはあった。体育のジャージ姿の時に、他の男子がイタズラをして廊下を歩いている時などに、誰かのジャージを引きずり降ろしたりとかも普通にあった。女子に見られる場所でワザとそういうことをするのだ。学生帽(昔はあったんですよ!鉄道マンみたいな帽子だった。知ってる?)をフリスビーみたいに、「ホーレこっち、今度はこっち」と投げられてたりとか。男子数人で1人を担いで、窓から外に放り投げたり(勿論、2階とか3階ではないよ)もあった。雪の上だから痛くないのだけれど。そういう、今なら「トンデモナイ出来事」はいくつもあって、日常的だったと思う。

こういうのを見ている時、仮にイジメ風であったりしても、「止めたまえ、君たち」なんてことを、私は言ったりはしなかった。積極的に加担することはなかったと思うが(力も弱かったので、笑)、傍観者的に見ているだけであった。自分も窓から放り投げられたこともある。これは「ヤメレ」とか言ったが為に、今度は自分が投げられてしまうのだ(笑)。誰でもやられてしまうのですから、しょうがないのですよ。


近所の子ども同士で遊ぶ時にも、必ずいざこざが起こるし、打たれたり泣かされたりする子は出てくる。年齢が離れてる子も結構いるからね。少なくとも、力の強い年長の者が弱い下の子をイジメることは許されなかった。上級の子は、必ず年下の子の面倒を見て、仲裁する立場だった。小集団の中でルールを適用するのは、年長の子に求められる役割だった。


大人の社会だって、酷い連中はいると思う。自分の周りでは殆ど見ないが、女子の話を聞いたりなんかすれば、それこそ「イジメ」は日常茶飯事だろう。昔の「大奥」だってイジメの巣窟、オンパレードだったじゃないか、と思う(変なドラマの観すぎ?、笑)。なので、子どもの世界に限ったことじゃない。どうしてこのようなことが起こってしまうのかは、不明だ。人間の深層心理的な問題なのか、遺伝子的な何かなのか、それとも生い立ちとか何かの環境要因なのか、誰にも判らないが、昔からあったのは確かなのではないか。これを根絶することが果たして「可能なのか?」という根本的問題がある。どうしてもなくせないものならば、それをいくら責めてもしょうがないように思う。


例えば、「ウソをついてはいけない」ということがあるとしても、現実的に「ウソをつく」ことを根絶することができないのと似たようなものだ。いかに「ウソをつかないように対策を立てろ」とか責め立てられても、どうにもできない。ならば、ウソをつかないように指導するのは当然としても、善後策というか「ウソは有り得る」として対策を考える方が有効だろう。「ウソをなくすにはどうするか」というのをいくら考えても、根本的な原因が判らないから、根治的アプローチは難しいものだろな、と。病気とは違うのかもしれないが、「病気」があっても共に生きるという東洋医学的なアプローチで考えた方がよくて、西洋医学的な「悪い部分は完全に切り取る」というような方法は難しそうなんじゃないだろうか。


だから、「イジメを根絶しよう」というのは難しいと思う。なくそうと思っても、現実的に有効な方法が思い浮かばない。


昔は、イジメというか、そういうことへの「耐性」を子ども時代に作っていって、それで乗り越えることが多かったのではないかと思う(もしも、耐性がなかったら上に書いたようなことが日常的に起こっていたので、命がいくつあっても足りなかっただろう・・・・)。今の子どもたちは、昔よりもはるかに「きれい」で「大人しく」、「上品」だと思うよ。上に書いたようなトンデモナイことは、学校で起こらないでしょ?(笑)昔って、かなりいい加減というか、大雑把というか、のんびりとしていたんじゃないかと思う。田舎だったからかな?都会では、昔からこんなことはなかったのかもしれないけどね。


最近報道などで思うことは、「学校の責任」というのが厳しく追及されたり、教育委員会の無責任なんかが言われるのだけれど、実際、見たことも会ったこともない学校の児童・生徒の1人ひとりについて、教育委員会は把握したりなんかできないと思う。学校側からの報告が上がってきて、それに適切に対処することは求められるかもしれないが、いくら教育委員会の事後的対応のまずさを追及しても、自殺を事前に止められた訳でもなく、イジメを止めさせられたわけでもない。はっきり言って、親は何をしていたんだろうか、とは思う。

学校という空間の中で、一人の教師が子どもに接する時間なんて限られているし、家庭よりも多いとも言えない。もしも、家庭で家族と過ごす時間より、学校での時間の方が長いとすれば、そこに問題があると思う。問題教師がいて、不適切な発言や酷い言い方をしたりすることは是正されるべきだし、教師の資質としてそもそも問題がある場合もあるだろう。けれども、子どもが最も頼れて守ってくれるのが「親」でなくて、誰がいるのか、とは思う(中には親が酷い家庭もあるのかもしれないけど)。子どもの「SOS」のサインを見逃すな、とか言うが、学校の教員が判って、家庭で親が判らないってことはマズイだろうと思う。学校の出来事を親が知ることはできない、という面はあると思うが、子どもが話すことは可能だし、教師だって四六時中1人の生徒に付きっ切りなんてことはできないのは同じだと思う。他人に判って、親が判らないのであれば、まず家庭での問題があると思ってしまう。子どもとのコミュニケーションは、果たして問題がなかったと言えるだろうか?学校や教師を責めたい気持ちは判る。自分が子どもを失えば、きっと冷静ではいられなくなるし、責任を追及しようとする気持ちにもなるだろう。でも、本当に教師だけのせいなのか?教育委員会のせいなのか?


「イジメ」は悪い、よくないことなんだから、絶対にしてはいけない、というのは、誰も反対しないと思う。そのことと、イジメが自殺の誘引となることについては、対策は別に考えるべきではないかと思う。自殺した事件については、個別に問題点や原因について考えてみるべきだと思う。学校の「ことなかれ主義」的な対応がまずかったにせよ、学校だけにその責任を押し付けることはできない。イジメが社会全体から根絶できない限り、常にその危険性に晒されていく。小学校では対応を頑張ってるところだったとしても、中学や高校では違うかもしれない。就職した先で、誰も守ってくれない環境でイジメに遭うかもしれない。どこでそうした状況に見舞われるか予測は難しいので、当たり前すぎなんだけれど、やっぱり有効なのは、自分が自分で守れること、対応できる能力を身に付けること、だろうと思うのだ。


子ども時代では、自分だけの判断では対応が難しい場面もあったり、答えが分らずに苦しむ場合もある。そういう時は、やっぱり家庭が基本であり、それをサポートするのが学校であったり地域社会であったりするのだろうと思う。イジメは難しい問題であり、なくせないものだと思って取り組む以外にはないのではないかと思う。



教育の経済学分析を頑張って欲しいです

2006年09月03日 18時19分15秒 | 教育問題
以前に社会科学の方が理系よりも将来所得は多いかもよ、とか記事(将来を考えるなら、社会科学選択が有利)に書いておいたのですけれども、大変よくまとまっている文献を見つけたので紹介したいと思います。

日本の教育経済学:実証分析の展望と課題


小塩隆士先生と妹尾渉先生の共著になっておりますが、過去の実証研究を中心に基本的文献がたくさん紹介されており、ざーっと見ていくのには勉強になりましたよ(が、難しい部分もあるね、私にとっては。笑)。中にはいいペーパーがあるESRIでございます。民間シンクタンクなんかに分析とか外注する必要がないのではないの?といつも思うのですけどね。ふんだくられてるし。まあ、これは関係ないからいいのですけど。


中身は割と楽しく読めますよ。例のベッカー先生も登場しますし。人的資本論はベッカー先生なのかー、と初めて知りました。


中身は是非ご自身でお読みいただくとして、特に目を引いたのは「数学の成績」と将来所得の関係ですけれども、数学の成績がいいと所得の多い職業に就く可能性が高く、期待できるかもよ、と(笑)。これはひょっとして理系にも反撃チャンスかも、と思わせといて、実は文系だけど数学を頻用する経済学分野であったりなんかすると、もうガックリ、って感じでしょうか。でも、階層化を軽減する可能性があるかもよ、ということらしいので、低学歴・低所得層の親御さんたちは、「とりあえず、『数学だけ』はガンバレ、受験には数学を必ず選択せよ」と言ってみるのも一つの方法ではあります。ナルホド!!


それから、教員とか教育の成果に関する研究もありますが、古いものも多く、日本での実証研究は少ないようですので、お手の空いてる経済学者さんたちは、こぞって教育分野の分析をお勧めいたします。本当に。格差社会が云々とか、階層化・格差再生産なんかもこうした教育の実証研究によって、本当の要因とか、一般的に言われてるのが正しいのかどうかが見えてくるかもしれません。案外と、違ってたりすることもあるかもしれませんし。教育学的或いは社会学的な分析とも違った視点が生まれると思いますし。


それより何より、安倍構想では「教育改革」というのが目玉の一つですので、「再チャレ」ものとかの関連もあって、「予算」が付きやすいと思われます。これは「研究費獲得の狙い目」であると思いますので、どしどしご参加下さい。

とか、こんな冗談を書いてしまうと、本当に「予算目当てなんでないの?」という誤解を生ずる恐れがありますよね。ゴメンナサイ。でも、教育分野の経済学的ま実証分析は本当に大事だと思いますよ。何故なら、昨今ハヤリの下層とか下流とか言われる家庭に育ってしまえば、本当に次の世代も、その次もずっと浮かび上がれない、という危惧はありますから、もしも教育のやり方とかでそれが変われるのであれば、チャンスを広げてあげる政策は必要だと思いますので。



教育は格差を再生産するか~その2

2006年08月20日 01時02分11秒 | 教育問題
前の記事は途中で挫折してしまいました。睡魔に負けてしまいました。というわけで、続きを書いてみようと思います。


結局のところ、「親次第」ということであり、「親の生き方そのもの」が子供にも受け継がれていく、というようなもんです。なので、親が思考法を変えない限り、「迷える若者たち」はいつまでも残されるでしょうね。


子供の成績が悪いのは学校の教育が悪いせいだ、というようなことを言う親がいるらしいですが、「まず自分を見てみなよ」ということなんでしょうね。「あなたから生まれた子なんですから、それなりってものですよ」と誰か言ってみてくれませんか(笑)。勘違いしてるのは、まさに親の方なのでしょう。


生まれつき足の速い子は、100m競争では優位性があるに決まっており、速く走れる能力を元々持っていなければ、たとえ努力してもある程度までしか向上しないでしょう。それならば、もっと別の―長距離走とか―競技で能力向上を目指す方が効果的であるかもしれないのです。でも、何故か学校の成績ばかりを気にしている親が多いと思いますね。普通、自転車に乗れる人が圧倒的に多いと思いますが、子供のうちに練習すれば大体誰でも乗れるようになれますね。勉強にしても、最低限「自転車に乗れるようになる」という水準ならば、努力やトレーニングで到達できるようになれると思います。でも、「他の連中との競争に勝って、いい大学に入れ」というのが可能な人と、そうでもない人がいても不思議じゃないのです。自分の得意な分野で勝負する方がいいと思えますけどね。それが何なのかは、発見するのが難しかったりしますが。


確かに、プロ野球選手になるのは大変です。1球団に75人いるとして、12球団ですから900人しかなれません。海外に流出した選手や、元プロ選手とか、そういう人も含めればもっと多くなりますが、現役選手ということで考えると、高々1000人程度です。つまり、大雑把に「1億2千万分の1000」という厳しい水準です。12万人に1人しかいません。それだけ狭き門ということですので、高額年俸であるとも言えます。プロゴルフ選手とか、大相撲の関取とか、そういう人々は、もっと少ない確率でしかなれないでしょう。弁護士や医師の方がはるかに多く存在しますから、確率的には、そちらを狙う方が有利、ということかな。医師は確か26万人くらいは存在するはずですからね。


勉強をある程度やっておけば、他の色々な場面で使えることもあるし、相撲とか野球とかゴルフの能力よりも、有効範囲が広い、ってことはあるね。だから、やっぱり頑張った方がいいけど、親の能力・人生から見て「ずば抜けて」いいことは少ない、ってことか。でも、スポーツ選手でも、親は普通の人であっても、中には成功する人もいるから、生まれつきの能力とばかりも言えないこともあるかも。統計的な傾向というのはあくまで「平均的」な場合を示していることが多いから、それと乖離している場合もそれなりにあるだろうね。所謂「個体差」ってやつだね。


「垂直跳び」の平均を見るとき、日本人とケニア人を比べるとかはできるよね。仮に、日本人の平均が50cmで、ケニア人は平均が60cmだったら、「垂直跳び」という競争においては優位性というのがあるもんね。でも、日本人の中にも80cm跳べる人もいるわけで、親が50cmしか跳べなくても、そういう可能性はあるかもしれないですね。勉強も同じで、親の能力に大きく影響を受けるけれども、「トンビが鷹を産む」ということも有り得るのでしょう、きっと。逆の場合も有り得るけどね。親が立派なのに、子どもはどうして・・・みたいな。


よく判らなくなってきましたが、親の態度としては、「子どもの成績が思わしくない時」には、「自分の生き方に問題があったのだ」と自覚するしかないのでしょうね(笑)。しかし、必ずしも悲観することはなく、優位に立てるものを探してあげることができればよく、子どもの可能性を否定しないことが必要なのかも。

そうは言っても、私自身が一人の親として、その勇気があるか、子どもが挫折を乗り越えられるか、という部分では、自信ないなー。親の「生きざま」を見せることで、何かを学び取ってくれればいいかな、と思っていますけれども。



教育は格差を再生産するか

2006年08月18日 20時06分37秒 | 教育問題
昨日の記事でたまたまシカゴ大の話題を書いたのだが、先日購入した『ヤバい経済学』の著者の1人である経済学者レヴィットもシカゴ大だそうだ。

以前に触れたベッカー先生(少子化と労働問題9)もシカゴ大なんだって(レヴィット本の中でもチラッと登場してた)。そういえば、山口一男先生(少子化と労働問題7)もシカゴ大だった。私はアメリカ本土に行ったことは一度もないし、シカゴもどんな所なのか知らないけれど。ギャング(マフィア?)映画とかのイメージしかない(笑)。


本の中身に戻ろう。全体に興味深い内容になっているが、特に目を引いた部分を取り上げてみたい。


「完璧な子育てとは?」という第5章の中で、学校の成績と関係のある事項を調べているのだが、詳しい中身は実際に読んで頂くとして、一番感銘を受けた記述を挙げてみよう。

『一つ目のリストに挙がっているのは親がどんな人かだ。二つ目のリストに挙がっているのは親が何をするかだ。いい教育を受けていて、成功していて、健康な親御さんのところの子供は学校の成績もいい。(中略)子育ての技に取り憑かれ、パラノイアになった親―や子育て専門家―に聞かせてやれば目が覚めるかもしれない。現実には、ああいう技はもてはやされすぎている。』

『でも、だからといって親が関係ないってことじゃない。もちろん親はものすごく重要だ。それがとても難しいところだ。つまり、親御さんが子育ての本を手にするころにはもうぜんぜん手遅れになっている。大事なことはずっと前に決まってしまっている―あなたがどんな人で、どんな人と結婚して、どんな人生を歩んできたか、そういうことだ。あなたが賢くてよく働いてよく勉強してお給料も高くて、同じぐらいよくできた人と結婚したなら、あなたのお子さんも成功する可能性が高いでしょう(中略)。でも、あなたが親として何をするかはあんまり重要じゃない―大事なのは、あなたがどんな人かなのだ。』(P222~223)


如何でしょうか。けっこう衝撃を受けたりしませんか?(笑)
『大事なことはずっと前に決まってしまっている』ですからね。それに、『大事なのは、あなたがどんな人かなのだ』ですし。


子供の成績がいいのは、遺伝的な要因なのか、出生後の環境要因なのか、これは判らないのですけれども、親と関連していると言えそうだということです。

考え方としては、大雑把に言えば

①生まれつき頭がいい→なので成績もいい(→社会的に成功しやすい=収入も高い)→子供も生まれつき頭がいい

②親の収入が高い→教育にお金をかけてもらえる→子供の成績がよくなる→社会的に成功しやすい=収入も高い

ということだろうと思われますが、どちらがどうなのかは判りません。でも、親が「どんな人生を歩んできたか」というのが、一番重要なのでしょう。親とはそういうものだ、ということです。これって、「子は親の鏡」ということが当てはまるのではないかと、ちょっと思いました。まあ普通に考えて、「センスと努力」の両方(生まれつきと環境)なんではないかと思うけど。


例えば、「ゴルフ」について考えるとしよう。「生まれつき要因」というのは、元々センスが良くて、ゴルフの才能がある、ってことだ。大して練習しなくても、ドライバーショットは遠くに飛ばせるし、バンカーショットもうまい、ってことです。でも、練習しないと、成功できない。なので、「環境要因」としては「小さいうちからゴルフをさせられる」とか、「頻繁にコースを回るお金がある」とか、そういう要因ですね。どっちもあるのではないかと感じますけどね。すごく貧乏である場合、ゴルフ用具も用意できないし、コースを回るなんて無理ですよね。生まれつきセンスが良ければ、同じ練習時間であっても早く上達するし、一定水準以上に超えていける。でも、センスがないと、練習である程度までは上達するが、どこかの時点で頭打ちになり、何度プロテストに挑戦してもダメとかプロになれたとしてもいつも予選落ちで終る、というようなことです。たとえゴルフの英才教育を施したとしても、その子供たちがみんな、タイガー・ウッズや宮里愛ちゃんみたいにはなれんのですよ、多分。


<休憩所:
全然関係ないのですが、笑い話を聞いたことあります。
シカゴ大のアメリカ人と日本人留学生の間での会話。

ア「日本の地名で知ってるトコあるよ」
日「えっ、東京とか京都とか?」
ア「それは確かに有名だけど、もっと違う街さ」
日「他には・・・大阪とか?それともヒロシマ?」
ア「いや、違うよ。札幌さ」
日「よくそんな地方都市を知ってるね。どうして?」
ア「シカゴじゃ、かなり有名さ。サッポロビール」
日「あー、ナールホド」(笑)

作り話かもしれないですけど。どうなんでしょ?

毎度のビールネタですみません。
私がビール好きだからっていうことではないんですけど。笑>


ちょっと退席しますので、また後で。



続・大学教育の未来(追記後)

2006年07月30日 18時37分21秒 | 教育問題
もう少し大学教育について書いてみようと思う。ツマラナイという評価の方が多いのかもしれませんけれども、もう暫くお付き合い頂ければ。


大学の競争と淘汰のことですけれども、私自身としては、本来1人でも多くの人が大学教育を受けられた方がよいし、義務教育であったとしてもそれは全然構わないと思います。しかし、人それぞれに向き・不向きがあって、「苦痛だ」という人々もまた多数存在するであろうし、費用的にも賄うのが大変になってしまうかもしれませんよね。更に肝心なことは、そもそも大学教育に対して、学生・保護者側が「見返り」を求めてしまうこと自体が問題なのであって、それを捨て切れない限り、「ブランド信仰」「有名マンモス大学集中」みたいなことは防げないし、「いい大学、いい会社幻想」のようなことも永続されるのではなかろうかと思います。

もじれの日々


「頑張って受験勉強をやって、こんないい大学に入って、大学院にまで大金をかけて進んで、勉強一筋で頑張ってきたのに、その結果がこんな無様な評価で、いい会社にも入れなかった」というような、「逆恨み」があったりするのではないでしょうか。保護者にしても、子どもの為に、「無理な残業を強いられても、イヤな上司にいびられても、妻に小遣いを半分にされても」父ちゃんは頑張り、「女学校(いつの話?)だか有名女子大だかを出たというプライドも捨ててまで、安い時給のレジのパート」で母ちゃんが進学塾の費用や有名私立の学費を稼いだにもかかわらず、「大学にようやく入れたと思ったら、ロクでもない仕事にしか就職できないなんて!」一体全体どういうことよ?というような錯覚が多すぎなのではないでしょうか。


本来「大学で学ぶ」ということは、卒業後に明確な「見返り」を求めるべきものではないはずなのです。学問というのは、何かをよりよく考えたり、自分や自分以外の人間の思考をなぞるのに必要であったり、何かに気付いたりするキッカケの土台を作るものであったり、他人の言葉を理解するのに必要であったりと、そういう何かの能力を培う為にあるのであって、大企業に入るための「予備選考」でもなければ、将来獲得できる収入の大きさを約束するものでもないのです(例えば、医学部とかのような特別な資格という場合には、法律上必然ということもありますが、そちらの方が本来特殊な場合だろうと思います)。人生の中で、どのような場面でも、普段の生活の中でも活かすことができるはずなのです。


にも関わらず、大学卒業者や大学院卒業者の中には、「オレはこんなにやってるのに、なぜ高給取りの職業に就けないんだ??」というようなことは少なくないと思います。学問を純粋に捉えるのであれば、それは就職や将来収入に無関係に動機付けられるべきものでしょう。ヘーゲルをこよなく愛するゴミ回収業者になったっていいし、ケインズの理論にとても詳しい漁師であってもいいのではないでしょうか。


そうは言っても、現実には将来を考えて進路選択を行うので、その志向に応じて法学部、教育学部、工学部や医学部といった選択を大学進学時点で行わざるを得ないのですね。これは個人の選択ですので、将来その仕事に就けるかどうかは判りませんね。でも、多くは、極端に言えば、「法学部を出たら、官僚とか弁護士になれる」のような錯覚があるのではないでしょうか。たとえ教育学部を出ても、みんなが教員になれるわけではないのですね。そういう時に、「折角大学を出ても無駄だった」みたいな感じになってしまうのが、そもそもの間違いなのではなかろうか、と。教員になれなかったら、教育学部の「大学教育は無駄だった」のでしょうか?


こうした大学教育は、無意味だったのでしょうか?本当に役立たずなのでしょうか?
大学では、書物に出会い、友に出会い、先生に出会い、様々な体験に出会うではありませんか。自分では気付かないかもしれないけれども、人生に大きな影響を与える何かとの出会いがあり、ひょっとすると「新たな自分」とか「自分の中の価値(観)」に出会うかもしれないではありませんか。そのような時間や機会を持てることは一生の中で、そう滅多にある訳ではありません。でも、そういうことに価値を見出すのは難しく、自分で直ぐに評価できないから、「大学なんて意味ないじゃん」ってことになりがちなのかもしれません。


多くの場合、初めから「大学教育の成果」に対して、多大な期待とか幻想があるのではないでしょうか。最初の期待が大きすぎて、卒業時の評価との乖離が大きければ大きい程、落胆も大きい、ということになるかと思います。それは就職という出力結果(まるで、before-afterみたいなもの?)を得たら、そうなるでしょう。入る前から知っているのではなく、出るときになってようやく気付くこともあるのです。すると、「こんなはずではなかった」という期待ハズレというか、無念さが大きくなるのではないでしょうか。その落差が小さいのは、実学系統(主に医・歯・薬・看護系とかでしょうか)であり、初めから将来の見通しが立っていて(職業が限定的ですので)、紛れが少ないためではないかと思います。新卒を採用する側にも、大学教育に対する過大な期待というものが、いくらかはあるのかもしれないですね。ただ、その傾向は昔から見れば変わってきていると思いますけれども。学閥的な志向も弱まってきているのではないでしょうか。


そういうわけで、本来大学教育には、有形的な或いは金銭的な見返りを過大に期待するべきではないと思います。学問とはそういうものでしょう。私が感じる大きな意義は、「出会い」であり、「何に」出会うかは人それぞれで、決まっていない為に予測できないできないと思います。それは自分が感じ取るものであり、評価も自分なら行えるが、他人には正確に評価しにくいし、客観的な(特に金額的な)価値に置き換えることも難しいでしょう。自分自身が感じ取らない限り、その価値は永遠に見出されないかもしれません。


そうはいいながらも、大学教育自体が需要と供給のあるものなので、供給側はある程度ニーズに応えていくべきではあると思います。それは、「就職指導をして欲しい」とか、「就職、進学等の情報提供をして欲しい」とか、そういった部分では応えていく必要が出てくるでしょう。将来の為に、「どのような(心の)準備をしておくのが望ましいか」ということも、求められるかもしれません。それは教えてあげる方が親切ではあります。社会常識とか一般の礼儀作法を教えてくれとか、無理な要求に応える必要性はないと思いますけれども。


仕事の「コモディティー化」ですか・・・


内田先生の記事を上の記事でも取り上げましたが、その中では「『文学部』という名称を残すことのできた大学」が「大学らしい大学」なのであり、「大学らしくない大学」というのは「文学部がない大学」ということでもあります。実学系の大学とか単科大学というのは、大体がそうですね。これらは、大学としての最低限の条件を備えていないので、淘汰されても仕方がない、ということでしょう。多くは、歴史のない、老舗でもない、ブランドも確立していない、新規参入の新設校が多いでしょう。universityとcollegeの元々の語源は正確には知らないのですが、感覚的には「Philosophiae Doctor」を生み出せる―つまりはphilosophyを学べる(当然、philosophyのある)―大学こそがuniversity なのであり、それ以外の「大学らしくない大学」(=単なる「カレッジ」)こそが淘汰されるべきである、とも受け取れるのです。このことは、地方の多くの無名私立大学での現況を示しており、地方から大学が消えるのはこの意味でもやむを得ないのです。「philosophy」なき大学は、そもそも「大学らしくない大学」なのです。


それと、内田先生が重きを置いている、「老舗力」「ブランド力」「人的ネットワーク」という価値も、大都会の「有名私立」(勿論「マンモス校」も少なくない)がまさにそれにピッタリと当てはまっているのであり、それ故、特定の「有名ブランド私立」が寡占状況をつくり、地方の無名私立大学を駆逐していく原動力となっているのです。歴史ある伝統校で、ブランド力もあって、無名校を駆逐する立場(university)であるとすれば、「大学らしくない大学」が淘汰されるのを果たして拒んだりするでしょうか。老舗校が自らの定員を割いてまで、死に行く「大学らしくない大学」(主にブランド力のない新設校でしょうね)に定員を回し、助けたりするものなのでしょうか。

「老舗力」「ブランド力」「人的ネットワーク」の強さが、他の「大学らしくない大学」を確実に淘汰へと向かわせる、最大の暴力であるということは、ほぼ間違いないと思います。それを世間一般の人々が認めてるからこそ「ブランド校集中」が起こるのであり、それを欲しがるからこそ「学生の寡占」を生じるのです。


戻りましたので、追加です。


大学での学業成績を重視した採用を求めるのであれば、企業の採用試験には「超難問」とかを課すのがよい、ということにもなりかねず、それはまるで大学受験が再び行われるのと同じようなものであり、そこでの新たな受験競争のようなものが生み出されるだけなのではないかと思えます。勉強だけで評価したりすれば、「受験地獄」だの、「知識偏重」だの、批判が数多く出されてきたのではないでしょうか。それこそ、ペーパーテストだけはできるが、「缶詰も開けられない」とか、「足が4本のニワトリを書く」とか、「満足に挨拶もできない」とか、そういうのが過去に散々出尽くしてきたので、「学歴偏重は問題かもね」「出身校依存は止めましょう」みたいになってきて、そういう中で「コミュニケーション能力」というのが重視されてきたのであって、学業一筋で頑張ってやっていても自己努力でそういう「必要とされる能力」を身に付ければいいのです。別に、学業を放り出してまで、バイトに精を出せとか、部活に打ち込めなんて、誰も頼んでもいないのです。どんな方法であろうと、需要側の要求を満たせるような能力を培っておけばよいことです。それが備わっていないのであれば、採用から漏れても止むを得ないではありませんか。


「自分が努力してきた道」を評価して欲しい、ということは理解できるのですが、努力してきた過程と得られる結果とは必ずしも一致するとは限らないのではないでしょうか。例えば、オリンピック代表選手を決める時にも、努力をどれほど続けてもダメな場合も多くあると思います。殆どの人たちは、自分の努力を評価して欲しいと願いつつも、冷酷な結果が出てくると思います。自分がどれほど「頑張ったんだ、やれるだけやったんだ」と思っていても、時の運もあると思うし、無残な結果が待っていることも多いでしょう。他の誰かが獲得してしまえば、自分にはそのポジションは与えられることはないのです。それは、自分なりの評価とは全く別なものであると思います。仕方がないのですよ。大企業の新規採用枠にしても、数に限りがあるのですから、「努力した全員」には与えられるものではないのです。プロ野球の1軍選手になれない限り、一軍の試合には出られないのです。一軍の選手の数には限りがあり、努力したからといって全員が一軍選手になれるなんてことはないのです。


全て客観的な指標で採用を決めてくれ、ということも、どのような指標を用いようとも、不満が出るのではないかと思えます。それに、人物を正確に表わせる指標なんて、簡単に作れないのではないかと思えます。採用側の時間的な問題とか、労力とかコストの問題などもあって、完璧な人物評価なんて難しいと思います。自分が「大学の勉強は誰にも負けない、人の何倍もやったんだ」という強い自負があるのであれば、それを最大限アピールすればよいのです。「私はバイトに精を出しました」という人と、「私は○○学の勉強には自信があります」という人がいて、どのような人物を選ぶのかは採用側が決めることです。


結局のところ、自分がこういう勉強の仕方でこんなに頑張ったんだから、「努力の対価として、こうして欲しい」という、何らかの成果を暗に求めているのであり、「真理探究」には不似合いな話なのではないかと思えます。本当に真理探究を目指すのであれば、自分が他の仕事をしながらだろうが、何十年かかろうが、「何の対価も求めず」ただひたすら探求を続ける、ということだと思います。それが学問ではないかと思います。



大学教育の未来

2006年07月29日 18時16分41秒 | 教育問題
これについては色々な御意見があると思いますが、私の考え方を書いておこうと思います。

Sankei Web 社会 私大定員割れ40% 地域・規模、二極化進む0725 0828


まず、全国的な私立大学の定員割れですけれども、こんなことは既に20年以上前から判っていたことです。出生数の減少トレンドが続いて行けば、将来「学生の奪い合い」となるであろうことは明白です。このような事態はどうして起こってきたのかというと、恐らく次のようなことではないかと考えています。


団塊ジュニア世代は同年齢人口が多くなっていることは明白でした。それ以前の世代では同じ学年に150~160万人程度しかいなかったのに、これが190~200万人に増加するのですから、同じ進学率であっても実需は大幅に増加が見込めたのです。丁度今の30~35歳くらいの世代ですね(小学校・中学校・高校時代にも、教室が足りなくなったり、校舎を拡大したりして対応したと思います。今では半分くらいの出生数に落ち込んでいますから、校舎の統廃合が進むでしょう)。仮に40万人増加(160→200万人)で進学率をどちらも同じ40%としても、16万人の入学者増があったのです。実際には、給与体系の違い(高卒と大卒では明らかな違いがあった)もあって、進学率自体が増加したはずです。つまり、同年齢人口の増加+進学率増加で、実需は大幅に増加したのです。


このような環境でしたので、一種の公共事業的な新設校・学部新設が相次ぎました。「地方にも大学を」という陳情が多くなり、町おこし・村おこしみたいな感じで、文部省の認可を取り付けたがったはずです。そりゃそうですよね。学校が作られることで、潤う部門も当然あるのですから。用地取得、多額の建設費、新たな雇用人員、下宿や食堂などの需要・・・色々とあったはずですね。特に、事業規模が数十億円にもなる場合もあったかもしれませんよね。そうした事業は部分的には補助金なども投入されたりしたかもしれないですね。なので、地方にも私立大学というのは増えていったのではないかと思います。学校側は「入れ物」を用意してさえいれば、大した努力も苦労もせずとも、学生は集まってきたかもしれない、ということです。そういう時代だった。


ところが、こうした定員大幅増という恩恵も長くは続かず、次第に同年齢人口は減少していくので、いずれは経営的に苦しくなることは容易に予想されました。初めのうちは、進学率上昇ということで実人数(同年齢人口)減少分はある程度カバーできたでしょうが、それも限界がやってきますよね。


昔みたいに、「女の子は短大を出て、ちょっとOLで勤めた後、社内恋愛で相手を見つけて結婚」というような状況は、少なくなっていったでしょう。「女性も社会進出を」「男性と対等に仕事をしよう」という意気込みで、かつてのように「女子には高学歴・学問はいらない」というようなこともなくなっていったでしょう。そういう流れもあって、短期大学は4年制大学へと変更され、女子大は共学に変わり、単科大学は総合もしくは複数科へと変わっていった。これらは、全て「学生数が減少する」ということへの「対策」として行われた面が強かったのではないだろうか。団塊ジュニアのピークが過ぎた後には、生き残り競争がスタートしていたのだ。


一方、高卒で直ぐに働く人の割合が減少していき、世の中の風潮としては、大学に進学するか、目的があってもなくても専門学校に入ってとりあえず1~2年過してから就職する、というような感じが増えたのではないでしょうか。なので、学生数は減っていくが「専門学校」は新設が増えて、こう言っては失礼だと思うが、あまり役に立たない「実践的知識」を植えつけたり、就職できないけれど「職業的技能」を仕込んだり、ということが行われているのではないかと思いますね(案外と理解に苦しむような、意味不明な専門分野もあったりしますし)。まあ、専門学校を選択しているのは、学生さんの自由だと思うし、それが将来には無関係なことであっても、本人さえ望むならばそれでもいいとは思います。

参考記事:内田樹の研究室 「日本のへそ」で教育を論ず

それから、有名私立への集中ですけれども、これも就職難とかの影響もあるのかもしれませんが、「ブランド志向」というのは強まっていて、「皆が有名大学に殺到する、有名大企業の求人に殺到する」というようなことになっているのかもしれませんね。ここからこぼれた人たちは、負け組だか無業者だか(?、こういう区分には意味がないと思いますが、一般的にはそういうようなことが言われてたりするので)になったりして、格差とかの根本にある、というようなことなのでしょうか。無名の地方私立なんかを出ても、地元で仕事があればいいのですが、それも厳しかったりして、有名企業への就職なんかは「夢のまた夢」みたいになっちゃってるのかもしれません。大企業への就職自体が、たとえ有名私立大学を出てる人であっても、中々困難であったのかもしれませんよね。全国的には有名な日大とか東海大とか、そういうマンモス大学を出た人たちがどのような就職があったのか、とかは知りません。


このような推移の中で、全国的に私立大学の定員は増加し、同時に教官の需要もそれなりに増加したのではないかと思われる。即ち、大学そのもののある種の「粗製濫造」という側面と、そこでの「大学教員の質」がどうなったのか、という問題は起こってきたに違いない。仮に、全国に「大学教授」が300人しか存在しなかった時代と、3千人存在する時代では、その水準は大きく異なるであろうことは推測できる(今、何人位いるのかは知らないです)。人間の能力の分布が、20年程度の違いによって大きな変化があるとも思えないが、もしそうだとすれば、昔は極めて少ない、全人口の上位数%の研究者のみが教授であったのに、今ではその枠が下方に大きく広がって、なおかつ平均水準が低下している可能性はあると思う。これは他の大学教官も含めてそうなってしまってるかもしれない。就業する際のハードルが下がった、ということでもある。


このように振り返ってみれば、大学が増えたことで入学者も増加し、教官も増加したのだが、それは人口構成の上では範囲が広がったのであり、教育を受ける側の学生も、提供側の教官も、平均水準は低下してきた可能性が考えられる、ということである。今は、何とか学校法人の食い扶持をつなぐために、昔の「短大→4年制」としたのと同じく「大学院重点化」を行って、1人の学生の就学期間を出来る限り延長することで「1人単価」を上げてきたようなものである。それでも、今後の学生数減少は止まらないので、必ず淘汰される学校は出てくる。専門学校も同じだ。海外留学生を大量に入れる、とかならば、多少は補えるかもしれないが(確か事件になったと思うが、中国人が入国だけを目的として大量に大学入学を果たし、殆ど学生が通って来ないような大学もあった)。


で、大学が存続していれば、質の低下した大学教育提供側である教官も残っているのであり、そういう人々はかつての「団塊ジュニア」世代対応時期に大量に採用・供給され、学生数が減少した今でも残ったままなのだ。学生の人数が減ることで1人当たりの対応を充実させ、学生の能力向上に努めたりするならば、就職も割りと良くて、学生や企業の評判がいいかもしれない。だが、何も取柄の無い大学ならば、学生は減っていくに決まっている。そもそも、大学のブランドなんかを信頼するのがよくないのであれば、伝統校だろうが無名校だろうが関係なく、提供される教育の質で決められるべきであろう。内田先生が憂慮するような、大都会の学生を多く集めている大学は、それなりに歴史ある伝統校でメジャーなブランド校なのであり、地方の新規参入組の私立大学を死に追いやっている張本人とも言えるであろう。


三流学者風情が、ぬくぬくとぬるま湯に漬かり、見かけだけは教授だとか何とかのポストを与えられ、実際には何の論文も著作もなく、これといった研究もないという程度の教官はゴロゴロいるわけで、かといって「教育の質」がとりわけ他の人よりも高いのかと言えば全然そんなことはなくて、そういう大学や教官たちが淘汰を免れることにあまり意味はないと思う。大学教育を義務教育にでもするのであれば、人気低迷校さえも生き延びられるかもしれないが。



将来を考えるなら、社会科学選択が有利

2006年07月17日 18時54分53秒 | 教育問題
今から大学受験を控えていたり、志望変更の可能な若者諸君は、是非とも考えてみて欲しい。

将来、高い給料を貰いたいと思っているなら、やっぱり『理系よりも文系が有利』だ!!
その理由は次のことが考えられる。

・給与の期待値は文系の方が高い(統計的にそうらしい)
・理系、特に専門技術職系はコモディティ化からは逃れられない(だろう)


狙い目は、次の職種だ。

・メディア(放送・出版)
・大学教員

他の職種に比べて給料が高いぞ。

テレビ局社員の平均年収の高さは有名だが、新聞社もかなり儲かるらしい。で、新たに出版業界でも、講談社の若手もえらく高いことが判明した。スバラシイ。


漫画家さんは超人気作家以外は、かなり厳しい状況で、そのアシスタントとかになれば、もっと悲惨な生活が待っているらしいからね。「家内制手工業」的零細産業の末端があって、そこからの生産物を吸い上げる大手出版社は、高々入社5年未満のものが年収1200万円以上「一律に」貰えるシステムになっているんですか。そーですか。こりゃ、笑いが止まらんシステムなんですな。テレビ局も似てるようだけどね。羨ましい限りです。


日本の評価システムとしては、創造者に対する恩恵が少なすぎるのかもしれないね。作家、漫画家、ライターなどの下請け部隊は、大した原稿料も貰えないが、販売者には多大な恩恵がある、というのが特殊な業界システムなんですね。こういうのを打破するには、やっぱりネットの実力を上げていくしかないのかもしれない。今は現実世界の出版物は、権威付けシステムみたいな感じだもの。有名な雑誌とか出版の流通に乗せられれば、何か箔が付いたような感じになるからね。


もしも、生産者(作家、ライター、漫画家等)がダイレクトにネット上にしか作品を出さず、途中の流通業者とか販売業者(出版社とか・・・他に何があるのか知らん)を介在させなければ、雑誌なんかはもっと安くなるはずだし、逆にそういう部分に搾取されていた金は生産者に直接入ってくるはずなんだよね。でも、それが何故かうまく機能していないかも。基本的にネットで発表して、作者ごとに単行本(コミックでもいいんですけど)で今までに近い形で販売するというのはダメなんですかね。広告業界なんかの、非常に不可思議なシステムがあるのかもしれないから、一概には言えないのかもしれんけどね。生産現場の虐げられし状況と、メディア大手の高給優遇の落差があまりに大きいので、そこに疑問を感じてしまいますね。



それと、前にもちょっと触れたけれど、文系大学教員というのは、同じく高給優遇されてる職種だと思いますね。成果がそもそも曖昧でいいし。研究費にしても、配下はあまり必要なくて一人でやってれば、科研費を使いきれない、とかもあるそうですし。週に2、3日の出勤で済むなら、別に常勤である必要性がないですね。

何でこのような状況になっているかと言うと、競争原理がきちんと働いていないから、なんではないですかね?私立の私学助成金は基本的にどの程度必要なんでしょうか?何で、論文一本も書けなくて、何十年もポストに収まっているような連中に、高給優遇せねばならんのよ?とは思うね。論文って言ったって、複数審査委員とかに査読を受けるような論文でもなくて、大学発行の自分が書きたいものをただ書いて載せる程度のものがですよ?それが教授なんですよ?文系っていいよね。


はっきり言えば、オイシ過ぎ。楽し過ぎ。そういう教員がゴロゴロいるんですよ、大学には。

やることが多い先生もほんの一部にはいると思いますけど、いい先生の下には学生が沢山集まってくるので、そういう教員には大学として高い給料を払えばいいのです。別に、大して働いてない先生の給料を払うためにまで、税金を投入する必要性はないですね。研究費は自力で応募して取ればいいんですよ。私学助成の結果、何か良い成果は上がったのでしょうか?それでは大学経営が成り立たない、というのなら、不必要な大学は退出してもらえばいいのです。いい学校には学生がちゃんと集まるはずですよね?自力で経営できてる学校は、教員にどのような給料を払おうと、大して研究しない先生に多額の給料を払おうと、勝手にすればいいのですよ。完全に自由でいいですよね。でもね、税金を大量に投入してもらってるクセに、私立大学の金の使い方は制御不能なんですよ、今のやり方というのは。ナメタ教員の給料を維持するために、助成金を投入しているような部分があるのですよ。

もしも、助成金が来なくなれば、大学としては経営を考えるから、穀潰し教員は頭数を削減するとか給料水準を下げるとかするでしょう。ぬるま湯に浸かってるうちはいつまで経っても、そういう教員を切れないでしょ?そもそも、国公立大学があるんだから(国立大学法人になっちゃったけど)、無駄な私立大学はそんなにたくさんいらないって。授業料が大幅に跳ね上がってしまう、とか心配するなら、学生に奨学金を与えればいいんですよ。学校に金を直接ばら撒いておく必要性はない。私学というのは、かなりの規制業種ではないですか?


まあ、そうは言っても、今の制度が大きく変わることは暫くないと思いますので、私立文系の大学教員ポストは狙った方がいいと思います。何と言っても、楽(あくまで相対的に、ということで)。理系は逆に大変。自分1人だけで部下とか院生がいなければ、特にマネジメントに頭を痛めたりせんでもいいし。一度なってしまえば、辞めさせることは滅多にないでしょう、不祥事でも起こさない限り。


経済学者は数多くいますが、大学教育分野での実証分析は、日本では少ないそうですよ。何でだか知らんけど。研究分野としては、チャンスがまだまだ多く残されているかもしれませんね。



「テニュアトラック」導入

2006年06月12日 17時47分22秒 | 教育問題
大学は中々大変ですね。少子化による学生の減少、ということにも対応せねばならない。研究等の実績も必要だし、資金集めや学内ベンチャーなどの成功も必要です。そして、企業側からは「もっと、ちゃんと教育しろ」と要求水準が高くなるし、学生からは「ちゃんと就職できるようにしてくれ」と求められますし(それに失敗すると、一生涯学生から恨まれかねない)。


今後「大学院生を4倍に増やそう作戦」というのを文部科学省が是非「やりたい」(笑)ということですので、社会全体で見れば大学院卒とか博士が続々誕生する訳です。また、ロースクールのように、特化した分野を作ることも重要ですね。これらの作戦は、学生1人当たりで見れば「大学在学期間の通算年数」が延長されるというものです。以前であれば4年しか大学に通わなかったが、現在や今後は、例えば「大学4年+ロースクール2年」、「大学4年+博士課程4年」、「大学4年+社会人大学院4年」というような具合で、在学期間が延長される、と。結果的には、少子化に伴う学生数減少を補って、大学経営にはプラスとなるんじゃないかと思えますが、一方では「大学院まで出たのに、いい仕事がない」という人々も多数生まれてくるんじゃなかろうか、ということですね。


で、そんな中、「テニュアトラック」導入、ということらしいです。

asahicom:研究者昇進「ガラス張り」に 9大学-社会

(以下に記事より抜粋)


東京工業大や京都大など9大学は今年度、研究者の昇進をより実力本位に改めるため、一部に新しい昇進審査制度「テニュアトラック」を導入する。選ばれた若手研究者が独立して研究を続け、一定期間の後に、研究業績に基づく昇進審査を受ける。合格すれば教授や准教授としての終身在職権(テニュア)が与えられる仕組みだ。文部科学省が各大学に3億円ずつを5年間助成する。 導入するのは、ほかに、東北、東京医科歯科、東京農工、名古屋、大阪、北陸先端科学技術大学院、九州の各大学。

従来の人事制度では、研究室に所属した研究者の昇進は、研究室の教授の意向に大きく左右された。研究室に所属せず、任期付きポストで研究する人も増えてきたが、任期終了時点で希望する空きポストがなければ、再就職先を自分で探さなければならない問題が指摘されていた。 テニュアトラックは、一定の評価が得られれば、確実に昇進できるのが特徴。人事の透明性を高め、研究意欲を支えると期待されている。

標準モデルでは、博士号を取得した30歳前後の若手研究者を対象に大学が10~20人を選抜し、1000万円ほどの資金を支給して自分の研究室と専任スタッフを持たせる。以後、年1000万円ほどの研究費を5年間支給したうえで、昇進審査をする。審査に際しては大学や学部が学外委員も含めた審査委員会を設けるなどして、透明性を確保する。




不満がくすぶっていた「ポスドク問題」ですけれども、「テニュアトラック」導入で緩和しよう、ということになったのでしょうか。能力もやる気もある若手研究者にとっては希望が持てる面がありますが、それでも「競争」であることに違いはなく、「業績主義」ということが重くなってくるのではないかと思われます。

そういう環境に置かれると、ついつい「研究データの信頼性」という部分に手をつけてしまう(具体的に言えばデータ捏造とか改竄とか・・・)、というようなことも起こってくるかもしれないので、研究業績の評価に関してはある一定の指針のようなものが必要でしょうね。外部からの客観的評価が可能になるような、研究履歴の保存とかデータ管理とか・・・よく判りませんがそういう何らかの対策ということです。


この前に書いた(仕事の「コモディティー化」ですか・・・)のですけど、「大学教育とは何か」という難しい問題があって、やっぱりそこに行き着くかもしれないですね。単に職業的な有利さを求める為に必要なのか、純粋に学究的な意味に正当性を見出すのか、・・・・どちらという風には決められないものだろうと思うけれども、学生の多くは大学や研究などからは離れて生きていかねばならないので、より大きな要請には応える必要はあるように思う。「実学的な分野」(例えば工学系とか医療系とか)が例えば哲学なんかに比べれば”俗な”分野であって、即効性の高いスキル修得が大学教育の本筋ではない、という考え方にも同意しかねるのです。いかに「歴史学が大事なんだ」とかいっても、新幹線は動かないし、手術もできないんですよね。


学問の純粋な研究は重要、これはそうだろうと思います。その意味では、誰かが非実学分野の研究もやらなきゃいけないし、基礎研究にも労力を注がねばならないとは思いますよ。でも、実学分野だって必要だし、就職に役立つスキル修得だって必要だろうと思います。変な喩えですけど、「世の中には絵画が不要である」と全否定されないと思います。特別絵画が存在しなくても、生きていくことは可能ですよね。直接生活に役立たないかもしれないけれど、そういう分野も必要なんだろうな、と、大抵は考えると思います。だからといって、全員が「絵描き」になっちゃったりしたら、これは大変です(笑)。「オレは絵描きになりたいから、絵を描くこと以外はやらないから」と言い出したら、みんな生活していけません。誰かが絵を書いて生きていけるとなれば、その他大勢は「絵描き」にはなれず、バスの運転手や農家や小学校の教員などになって社会の機能を支え続けるしかないんですよね。全員が「絵描き」の崇高な思想を持ち、それを実践してしまうとすれば、逆に誰も「絵描き」にはなれないでしょう。


なので、学問的な探求にしても、その他大勢のある種の「犠牲」があってはじめてできるんですよね。「テニュアトラック」はその選別システムといえるかもしれません。従来は、「よくわからない」システムによって選別されていたが、今後はより分かり易い方法で「選別」されていくということです。つまり、「犠牲者」がハッキリと選り分けられるということでもあります。最後まで誰が「絵描き」として存在することを許されるのか、ということですね。


今日はサッカー観るのが一番大事、と思っている人たちがきっと多いと思いますので(私もそうなんですけど)、とりあえず。

何だか、結論のようなものが出てこなくて・・・喉の奥に小骨が引っ掛かっているような感じです。もうちょっとこの問題は考えてみようと思っています。

swanさんの所の新しい記事(+ C amp 4 + - 「みえないものをみたい」ということについて)が非常に重たい。そちらも勉強させて頂いて、と思っています。因みに、一度読んだのですけど、難しい。何度か読もうと思います。



高専の人気

2006年05月11日 20時10分48秒 | 教育問題
専門教育に関して、受験生の方が身近な現実をしっかり見ているのかもしれんね。「人気が高い」ということは、教育の成果を認め、それを重視している、ということの表れなのかもしれないですね。

Yahooニュース - 河北新報 - 「高専」が人気 2007年問題控え即戦力期待 仙台圏


記事より、一部抜粋

団塊の世代が定年退職を迎える2007年問題を背景に、機械、電気、情報技術(IT)などの専門技術者を育てる工業高等専門学校(高専)が注目されている。仙台圏の高専では、学生一人当たりに10社程度の求人が集まる人気ぶり。入試に際し、進学率の高い高校とてんびんにかけ、高専を選ぶ中学生も少なくないという。

高専は5年間の「準学士課程」と、その後2年間の「専攻科課程」からなる。仙台圏には、準学士課程の一学年定員が約200人の宮城高専(名取市)と約160人の仙台電波高専(仙台市青葉区)がある。学生の半数は準学士課程修了後に就職し、ここ数年は大手企業からの引く手あまただ。バブル期以降、製造拠点の海外移転が進み、国内技術者の需要は減少。高専も目立たない扱いを受けてきたが、ここにきて高度成長期を支えた熟練技術者が大量に定年を迎えることから、高専卒業生に「即戦力」としての期待が集まる。宮城高専の四ツ柳隆夫校長は「一貫した専門教育が高専の強み。企業はもちろん、受験生、保護者にも見直されてきたと実感している」と話す。

早くから専門的な教育が受けられ就職先にも困らない点が、受験生には魅力的に映る。一般入試の志願倍率は、各学科で軒並み1.5倍を超す。本年度入試で、仙台電波高専の情報通信工学科が2.46倍となったのをはじめ、宮城高専情報デザイン学科が2.38倍、電波高専情報工学科が2.13倍―などと高倍率だった。両高専の本年度一般入試の面接は、宮城県内の公立高一般入試と日程が重なったが、ともに面接辞退者はいなかった。仙台市内の中学校や進学塾は「高専は今や、仙台一、仙台二高など県内のトップ高校に次ぐ難関」と口をそろえる。「○○を学びたい、という目的意識の高い受験生が目立つ」との声もある。




「目的意識の高さ」というのが立派だと思います。中学~高校生くらいの時に、そうやって考えられる、ということだけでも大変だと思いますね。そして、今のような時代にあっても求職が多い、ということが、教育の成果を示しているように思えます。

これは、しっかり教育されていると企業側が感じるから採用したいのか、生徒の側がやる気があるとか積極的に就業するので求人も多く来るのか、あるいは他の理由なのか、よく判りませんが、いいことだと思いますね。

ただ、実数が少ない、というのが、成功の秘訣とも考えられなくもなく、同じような教育が半数以上の高校で同じようにできるかと言えば、やっぱり難しくなる面もあるかもしれませんね。少数派であるが故の強み、ということかもしれません。でも、参考にはなると思いますよ。


参考記事:少子化と労働問題4



「日本の子どもはバカ」発言に見る失敗の典型例

2006年03月02日 15時17分42秒 | 教育問題
例の『国家の品格』の著者、藤原正彦先生は痛烈な批判をしたようですね。高校生の意識調査に関する報告で、今朝の読売新聞に出ていました。

勉強冷めた日本: YOMIURI ONLINE


以下に、YOMIURI ONLINEより一部抜粋





◆脱受験戦争の果て/努力の価値低下

 日本では長年、受験戦争や学歴至上主義からの脱却を図るべきだと言われてきた。その主張通りに社会が変わってきたとも受け取れる今回の調査結果に、逆に危機感を募らせる識者も少なくない。

 「国家の品格」の著者で数学者の藤原正彦さん(62)は、調査結果について、「一言で言えば、日本の子どもはバカだということではないか」と話した。将来に希望を持てない「希望格差社会」の問題を指摘する東京学芸大教授の山田昌弘さん(48)も「努力することに価値を見いださない傾向は労働意欲の低下につながり、少子高齢社会を支えられなくなる」と危惧(きぐ)する。

 なぜこうなったのか。藤原さんは「個性の尊重ばかりを唱え、子どもに苦しい思いをさせてはいけないという『子ども中心主義』が信奉されてきたこと」を第一の理由に挙げる。

 戦後の日本は高度経済成長を達成した反面、受験戦争の過熱やいじめといった社会問題を抱えた。1980年代には、中曽根内閣の臨時教育審議会が「学歴社会の弊害の是正」などを答申。これを受けて文科省はその後、「ゆとり教育」への転換を図り、経済界も、学歴に偏らない採用基準の多様化などを進めた。

 だが、2003年の国際学力調査で、日本は「読解力」が前回の8位から14位、「数学的応用力」は1位から6位に下がるなど低迷。子どもの学力不足がクローズアップされ、文科省は「ゆとり教育」の見直しを余儀なくされている。

 藤原さんは、こうした経緯に加え、「いつリストラされるか分からない不安定な今の社会で、『勉強してもしようがない』という気持ちが植え付けられてしまった」と指摘。山田さんも「勉強に希望を託せない社会システムに問題がある」と強調している。




このような内容で、いつもと同じく山田昌弘教授も担ぎ出されておりますね(笑)。
全体的なトーンとしては、「ゆとり教育のせいだ」的な感じも伝わってきます。本質的に「努力することには意味がある」というのは、私も賛成の立場ですしエリート教育も許容派ですが、今回のような結果となったのは「ゆとり教育のせい」ばかりとは思えませんね。

参考記事:教育を考える8


まず藤原先生がご指摘の「日本の子どもがバカ」ということは、もしもその通りであるなら確実に「親がバカ」ということです。そして、「教師もバカ」であり、そういうバカな大人たちによって教えられた子どもたちがバカになったに過ぎませんね。では、なぜ大人たちがバカであるのか。それは例えば大学教授のような、所謂知識階級の人間の多くがバカであったり、文部官僚たちが揃ってバカであったり、中教審の委員たちも同様にバカであった為ですね(笑)。非常に分かり易い。「バカの再生産ライン」を国を挙げて作り上げ、それによってバカな連中が世代を超えて量産されたに過ぎないのではないかと思います。バカな考え方の大半は、世代間での移転に過ぎないでしょうね。

なので、藤原先生が仰るように「子どもがバカ」であるとすれば、それを生み出す根本原因となった、ご自身たちの世代の大失敗を反省し、過ちの原因を作った自らの世代の愚かさを悔やむべきです。特に戦中・終戦直後あたりに生まれた世代の人々が、明治人などに比べればはるかにバカであった可能性が高いのかもしれませんね。特に団塊世代での大きな転換があったかもしれないですね。だから、彼らの子どもたちである団塊ジュニア世代以降では、色々と今言われるような問題が浮上したのではないかと思いますけど。


そういう世代の大人が持つ価値観や教育によって、次なる世代のバカを産み出していったのでしょう。小さな子は大人が教えない限り、自ら進んでバカを獲得しようとはしませんよ(笑)。逆に、親が教えた通りにしたり、学校で教わった通りにしようとはしますが。「子は親の鏡」とか、昔から言うではありませんか。バカになるような教育を小さいうちから施してきて、親や社会や学校での教育に失敗が多くて、手本になるべき大人たちが酷い有様では、子どもたちがそれに幻滅するのも仕方がないのでは、と思う。


結局、「生きる姿勢」というものを親が子どもに示すことが不十分であったかもしれず、その元を辿れば古い世代に遡っていくのである。自分たちが残した子孫というのは、何も無い所から生まれて来たりはしない。血も文化も引き継がれてきた結果が、今の子ども達だ。もしも教育に失敗したと思うなら、本当に悪いのは子どもたちではなくてむしろ私達大人なのだ。



続・所得格差が子供を下層階級にするのか

2006年03月01日 23時00分13秒 | 教育問題
前に書いた記事(に、datさん、kechackさん、nao_c/wさんからコメントを頂きまして、またちょっと考えてみました。また、「みそひともじの夢」さんからTB頂いたので、それにもお答えしたいと思います。


まず初めに、「格差」とか「不平等」なんていうものはそもそも存在するのであって、ご指摘を受けたようにそれを完全に無くすことなどできないんじゃないのか、それを殊更無くす必要性もないんじゃないのかな、というのが私の印象です。それに、地方と大都会に違いがあるのは普通で、それも受け入れられないということもないと思いますね。もしも格差が耐え難いものであるならば、人々が出て行ってしまい村や町が消滅していくだけですね。敢えてそこに住むということは、そこに自分達の生活基盤があり、何らかの幸せを見出しているからではなかろうかな、と。都会の人々を強制的に連れてきてまで、田舎に住めということも必要がないと思っています。住みたいところに自由に住めばいいと思いますね。


雇用問題から見てみると、仕事に就けない若者がたくさんいることは事実です。フリーターが企業側の都合によって使われているというのもそうでしょう。でも、企業側には一定の義務(社会保障負担や福利厚生などですね)を果たしてもらうべきですが、まさか全員を義務的に雇えとも言えないですよね。現状では「イス取りゲーム」のイスは限られているわけで、イスの数を増やせる方法を選択しない限り座れない人々が存在することは仕方がありませんね。一方では、イスがあったとしても不人気な仕事であれば敬遠されるし、「自分のやりたい仕事と違う」「給料が安すぎる」とか言うのであれば、他の人達や外国人労働者などにそのイスを奪われても仕方がありませんね。地方には全然仕事のないようなところも実際にあるだろうし、高卒に対する求人というのが全然来ないとかっていうこともあるかもしれません。これは解消が難しい問題であり、本人には責任はないわけですが、もしも家族の働き手が自分しかいない場合には、どんなに遠くであっても、昔の出稼ぎ労働者(今も存在するのかもしれませんが)のように働くしかないでしょう。自分の望まない仕事であろうが何だろうが、一家を食べさせる為には自分が働かねばならない、という気になると思いますね。必死になって「空いているイス」を探すのではないでしょうか。


教育・学歴の格差が色々言われたりしますが、仮に全員大卒まで義務教育にしたとして、その後に今と同じように就職を考えると、学歴なんて無関係に仕事に就けない人々が多分出てくると思いますね。全員が大卒なんですから。結局今と同じようなものなのではないかな、と。そこでの選別は同じ大卒であっても、「行った大学(ブランド)の違いだ」とか「親の職業の違いだ」とか(笑)、また新たな別の「格差」が考えられたりして、就職出来なかった理由として持ち出されるのではないでしょうか。高卒と大卒の違いで仕事に就けなかった、という理由がたとえ消滅したところで、他の不平等が浮上してくるだけでしょうね。


またいつもの変な空想で申し訳ないのですが、ある年の新卒の大学生がいるとしましょう。全国で全く均一に大学教育を受けて、職業教育も受けて、全員の能力が均等であるとしましょう。同じ学年の人々はみんな同じ学歴、能力です。すると、誰が就職して、誰が失業しても同じですね。つまり機械的に個々に仕事を割り当てていき、余った人達に失業とかニートとかの役割を与えるのです。クジでも何でもいいです。すると、「余らない」という方法を実行しない限り、誰かが必ずイスから滑り落ちてしまいます。仕事に就くことが出来た人達でも、大企業勤務とか、銀行員、官僚、弁護士とかの高給取りがいる一方で、その何倍かの中小企業勤務とか安い給料の仕事の人たちも当然存在しますね。全員、機会も教育も全て平等ですよね?でも、こういう結果は生まれてしまいます。教育が不平等だからとか、機会が不平等だからではありませんね。ある程度は仕方がないことなのではないでしょうか。


結局、一般に多くの人達がなりたいと考えている仕事は競争率が高いかもしれず、誰かがそのイスを獲って座ってしまえば、他の人達がそこに座れないのです。溢れた人達は、たとえ座りたくないかもしれないが別なイスに座るしかなく、それでも「座れる人はまだいい」とかってイスに座れない人達からは言われたりするんですね。女子アナのような人気の仕事であれば、2千人だか数千人に1人とかっていうレベルでの激しい競争ですし、他にも人気企業の就職には何十倍か何百倍か知りませんが、そういうレベルでイス取りゲームが繰り広げられるわけですね。そこに漏れてしまうのは、しょうがないんですよ。大多数が漏れるんですから。で、人気の高いイスから埋まっていき、段々残りのイスは減っていくし、人気がないイスとか自分の好みではないイスしか空いてない、ということになります。そこで「座れるから座ってみよう」と考えるか、信念を貫いて「自分の好みのイスを獲るまで待つ」かを選択することになります。立ったままでは足にもいずれ限界が訪れるかもしれないけれど。


フリーターになってしまうと、その後の就業に支障を来たす可能性も有り得ますが、これを不利とする企業ばかりではありません。フリーターから正規社員になっている人達も、割合は多いとは言えませんが存在します。「クジ運」のような違いなのでしょうか?実際のところがよく判らないのです。非正規雇用の問題というのは確かにありますが、不平等や格差のせいなのかというと、そうでもないようにも思えます。


以前から述べているように、個人の様々な違いがあることが、丁度うまくいくのではないかとしか思えず、それは多様性ということに裏打ちされると思います。それは価値観の違いなのではないのかな、とも言えます。不平等や格差に原因を求め続ける限り、それをたとえ解消できても次の不平等を生み出すということの繰り返しに過ぎないのであり、それらの完全解消などに大きな意味を見出すことにも疑問しか浮かんでこないのです。


所得格差が子供を下層階級にするのか

2006年02月27日 22時04分37秒 | 教育問題
非難轟々ということになるかもしれないが、率直に書くことにする(コメントスクラムはやめてね、笑)。

前にも書いたのだが(格差社会5)、格差、格差ってのが本当に疑問だ。


よく聞くのは、親の所得格差が子供の教育格差に繋がっていて、しかも、「下層階級」の子供は既に諦めてしまって学業を頑張ろうと思わないそうだ。希望を失っている、ということも同じなんだと。親が金持ちじゃなけりゃ、「行きたい学校にも行けず」、ありとあらゆる「競争が不平等」で、「機会も不平等、結果も不平等」で、子供は勉強の出来ない子になってしまい、まともな仕事にも就けないようになってしまうんだそうだ。貧乏人は貧乏人のまま、世代を超えて階層固定されるんだって。そう言えば、内閣府の報告にはニートも低所得層が増加している、とか書かれてたしな。


じゃあ、そういうことを言う大学教授は、どうしたらいいと思ってるんだ?どうやって解決するのか言ってみてくれ。本当の根本的解決策はあるんだろう?現実には実施できないとしても、元々の「理想の答え」というのがあって、その通りやったら解決できるんでしょ?現実的な解決としては次善策を目指すか、それに極力近づけるような政策を考えればいい。是非とも「理想の答え」を聞かせてくれ。そして、それができた時の世の中を想像してみてくれ。全員が高給取りになってるのか?(爆)

希望格差も所得格差も無くなっているから、全員勉強が出来るようになるし、医者・弁護士とか大企業とかのような現在の「勝ち組」と言われるような仕事に就いている人しか存在しなくなって、全員が金持ちの安定した豊かな生活が約束されるんでしょ?その「理想の方法」を実行できたとしたら。安い給料の仕事に就く人達が誰もいなくなるから、外国人のメイドとか労働者だらけになってしまうな(笑)。


勉強が出来ることがそんなに偉いのか?給料が高けりゃ、立派な人間なのか?大学教授さまは偉いから、「貧乏人というのがまたバカな貧乏人を生み出す」とか思っているんだろう?「勉強だけが人生じゃない」って言ったりするのは、下層階級の貧乏でバカな子供だけだってんだろ?格差がそういう子供を生み出すと言いたいんだろ?一体何なんだ。そんなことが幸せなのか?


既に他界した有名な一流企業の創業者は、奥さん以外にも何人も女性がいて、認知した何人かの子供達に遺産相続をしたそうですよ(数億円も貰えたそうだから、全然下層階級じゃないですね。さぞ、誰しも羨む幸福だろうよ)。そういうのが「本当に立派な人だ」と思っているなら、そういう人生を目指せばいいでしょう。何億だか、数百億だかの遺産を残せるような企業創業者にしたって、立派な行いばかりなんかじゃないんですよ。

それとも普通に表現してみましょうか?「愛人が何人もいるような大金持ち」というのが立派な社会人であり、「配偶者以外に子供を何人も産ませる」というのが、立派な大人になる、ってことですか?(爆)

もしも、そういうのが正しい、っていう学者がいたら是非会ってみたいね。そういう大金持ちが何故非難されないかと言えば、社会的な地位と金があるからだ。それだけだろ。金のない「怪しげな教祖」や「ジゴロ気取り」が何人もの女性に子供を産ませると、逮捕されたりしてしまうこともあるけど(笑)。こういう大金持ちで一流企業を創業した人間は、貧乏だが真面目で道徳的な人間よりも偉い、って言ってみろよ。後者のような人間は、「所詮”下層”階級であり、その子供も下層階級になりがちだ」って言ってみろ。学者たちがこれを宣言できるのなら、下層とか格差というものの意味が、私にも少し理解出来るかもしれないな。


格差を謳ってる学者は何を平等と考えてるのか分らない。所得格差が子供の能力を変えるのか?私立中学に行く子と行けない子には格差があるのか?そういう意味?学習塾に行ける子と行けない子も?家庭教師の付けられる子と付けられない子も?じゃあ、どうしろと?貧乏人を根絶しろとでも?クソみたいな塾に通い、私立中学だかを受験して合格して、その後も大学受験して、そういう道を多くの連中が進んで、中にはクソみたいな末路を辿る人もいるんではないですか?


子供に大金をかけられることが幸せだなんて思っているんだったら、そりゃ大間違いだ。子供の人生にそれが最も大切だ、と思っているんなら、全然違うと思うよ。勉強の成績は、格差のせいなんかじゃない、って(笑)。別な教育の問題だろ。公立の学校だけしかなくたって、ちゃんと教育はできるはずだろう。家庭教育の質にも違いがあると思うし。今なんて、工夫すれば色々方法はある。たとえ貧乏でも、何か方法を探せるはずだ。そういうことにこそ意味がある、ってもんだろ。


デフレの影響を受けて失業率は増加した。これは個人の能力や考え方には無関係なことだ。確かに仕事に就けないことの理由の一つではあるかもしれないが、現実には多くの若者が就職して、数はずっと減ったがそれでも官僚も誕生しているし、大企業にも就職してるし、「勝ち組」とかもてはやされる人々も実際にいるじゃないですか。そういうのを目指したい人たちは、その競争に敗れたんですからしょうがないですよね。別な道を探すことがあってもいいでしょ。大工になったって、左官屋になったっていいではありませんか。


有名私立みたいないい学校(笑)に入れないのは、「機会が不平等」だからですか?実力を見る試験の成績ではなくて?それとも、貧乏人は金がないので有名私立には入れないから、これも不平等だと?私立というのは、元来金持ちだけを相手にするサービスなんだから、それでいいでしょ。わざわざ大金払ってまで行きたい奴らだけが行けばいいじゃないですか。そういう学校に行った人々は全員幸せになっているんですか?皆いい会社に入ったり、素晴らしい人生を送れたりしているんですか?(笑)貧乏人は知恵と度胸で勝負、でいいではないですか。ないものねだりをしても仕方がないでしょ。親が「あれはウチでは買えないんだよ」というものが世の中に沢山あって当然だっての。もしも初めから下層階級と認定されているんだったら、もっと「落ちていくリスク」が少なくて有利かもよ?どうせ下からの出発なんだったら、それでいいではないですか。


塾もなければ私立もない所なんて、全国には沢山あると思いますよ。東京の平均給与よりはるかに安いところなんて沢山ありますよ。確かに給料は安いかもしれないし、携帯電話を持っている中学生もかなり少ないかもしれないが、そういう地域の人々は下層階級で固定されて不幸せな人生をみんな送っているとでも言うんですか?いいじゃないですか、塾や私立学校に行けなくたって。主に大都市圏での問題なんじゃないの?田舎もそうなの?


そもそも教育を研究している学者たちが間違えてきたから、今のような惨状を産んだのではないのか?教育とはこうしていくべきだ、ということって、人間の営みなんだからそんなに直ぐに変わったりはしないと思うけど。
当然ながら、学校の教科書の範囲とか内容は色々変化はあると思うが、そんなことは根本的な問題ではない。親が「教えること」ってそんなに大きく変わるのか?動物は大体一緒だろ?人間様だけがそんなに違うの?


人間が生きていく上で教しえられるべきことは、そんなにしょっちゅう変わるものではないと思うけど。根本を変える連中ってのは、大体大間違いを犯してきたんだろうな、と思う。ギリシャ哲学の時代と現代とで、人間の根本的生き方は変わってないように思えるけどね。「このように生きるべき」ということは、大体同じだろ?殺戮しまくるのが、素晴らしい生き方だ、とかって言われてたのか?他人を騙して陥れたりすることがいいと言われてたのか?違うでしょ。ならば、教える方だって昔と同じく教えるんじゃないのか?根本を見失うと、時代に流されたりして、その時々に間違いを犯すのさ。特に大間違いを犯しやすいのは本当のバカではなくて、むしろ「浅知恵」をつけている連中さ。タダの頭でっかちの、クソ知識を詰め込んでる連中さ。書物などに書いてあるものとか、情報をよく取り入れたりするのが、逆に間違いの元になってしまうのさ。戦前を思い浮かべればわかるだろう?どういう連中が先導して、間違えた方向に突き進んだのか。


今は生き方を教えないで、教科書に書いてあることばかり教えようとするし、子供にもそれを要求する。バカな親は、テストの点数が良ければ「いい子」だと思っている。受験に合格したら「いい子」だと思ったりするんですよ。そんな訳はないんですよ。それは単なる付録に過ぎない。


だが、学者も一緒になって、こういう生き方を推奨している。教育投資に金をかけるのが良くて(=教育にはお金を沢山かけるべき)、貧乏人にはそれが出来ないから下層階級を固定化させてダメなんだ、意欲も希望もないんだ、ということですな。

貧乏なりに、できることをやればいいじゃないか。それの何が悪いというのだ。




仕事の経験と教育

2006年02月20日 20時35分35秒 | 教育問題
私は「釣り」には全く興味がないのだが(子供の頃、ちょこっとやってみただけ)、多くの大人たちの心を掴んでいたりする不思議な趣味である。この楽しみが私には判らないので、悲しむべきことなんだろうけど、好きな人にとっては「どうしてなのかな?」と思うに違いない。釣りがいいとか悪いとかそういうことではなくて、熱中している人たちはきっと色々な工夫をしたり、本を読んだりして研究したり、実践的な経験を積んだりしていることだろう。それは強要されるものでもなく、自ら進んでそういうことをやるだろう。


とある釣りの好きな人がいるとして、その人は一度も釣りに行ったことがなく、本とかの知識だけしかなく、実際の竿を扱ったこともないが、「釣り」に関する知識だけは凄く詳しいとしよう。どれほど他の人よりも知識が優れていたとしても、この人は果たして「釣り」を人に教えたり出来るのだろうか?この人は、全くの実体験がないけれども、新たな擬餌を考え付いたり、うまい誘き寄せ方法を思いついたり出来るのだろうか?このような仮定は果たして意味があるのかどうか、判らないのであるが。


私は教育とかの専門的な考えや理論を知っている訳ではありません。ですが、著名な大学教授などの言う教育理論というのは、どの程度信頼性のあるものなのか、謎なのです。上の「釣り」の例で言うと、全く「釣り」をやったことがないのに、人に教えられるほど理解出来るものなのだろうか、と。どのくらい一般人のことを理解しているのか、よく判らないのです。


自分が色々な仕事とか作業を実際にやってみると、それまで知らなかったことがたくさんあったりします。先の「釣り」の話でいうところの、頭の中での知識だけ知っていても、実際には役立たないことも多かったりします。いや、知識を知っているかどうか、というレベルではなくて、もっとそれ以前の問題であったりすることが多い、ってことかな。なので、知識を得ることと実際の経験とを組み合わせる方が、上達したり上手くいく方法を考え付いたり出来そうな気がします。子供達に仕事や作業をやらせる、というのは、そういう過程を経験させることで、どういう勉強の仕方がいいのか、どんな知識を得るべきか、今自分の知っている知識を総動員してどのように対処するか、などといった実際的な体験ができるということだと思っています。テストの成績が良いとか悪いとかの話ではなくて、現実の生活に密着した「頭の使い方」だろうな、と思います。仕事をやると、そういう能力獲得に繋がるのではないかと思います。


自分が実際に何かの職業についてから、「学校でもっとこういう勉強をしておけば良かった」などと思うこともたくさん出てきます。自分が学生の時には、そういうことが中々判らないのです。「どうして~を勉強しておかなかったのか」「昔、授業で言ってたような気がするけど、すっかり忘れた」とか、そういう後悔が起こってしまいがちです。なので、自分の若かりし頃の勤勉とは対極にあった姿勢とか、不真面目さを呪うこととなります(笑)。でもこれは、自分が実際に仕事などをしたり、社会的な経験を積んでいくうちに判ることであり、自分で気付かないと勉強する動機とはならないのです。そういう結果になることを予め判っている人が、如何に「若いうちに勉強しておいた方がいいよ」とか、「~~は後々大事だから、よく勉強しなさい」というような暖かいアドバイスをしてくれても、その時の自分にはそれが理解出来ない為に、小言に聞えたり、単に耳が痛かったりするだけで、「どうやったら勉強しなくて済むか」という別な方向に知恵を働かせようとすることになるのです(笑)。でも、ずーっと後になってから、「ああ、こんなのも面白いんだな」ということが実際の体験に裏打ちされた状態で出てきたりするので、特別に他人から「~~を勉強しなさい」などと求められなくても自分で勝手にやろうとするのではないかと思います。「釣り」の話で言うと、学生の頃は「生物」という学問など何の興味も無かったのに、趣味というキッカケで自然に勉強してみたいと思えるようになることもある、ということです。


ですから、学校での職業的な教育というのは、それをやることで特別な職業能力が身について社会に出た時に直ぐに役立つ、とか、そういう即効性のあるものでもないと思いますし、万人が同じようなレベルで職業的な能力を獲得出来る、ということではないと思っています。仮に料理に関する技術を学校で教わったとしても、全員が料理人になる訳ではないのですから。パソコンだとか、経営やらマーケティング等を学習したとしても、みんながそういう分野の仕事に就く訳ではないのですし。そうではなくて、何でもいいと思いますが、現実の「仕事」とか「作業」を通じて、実際に自分の頭と体と少ないなりの知恵を使ったりして、ちょっと苦労しながらやってみることで、「なるほど」とか思えたり、後に自己の発見に繋がることがあるかもしれないし、自分では気付いていなかった意外な向き・不向きが認識出来るかもしれないし、何かの自信形成のキッカケに繋がるかもしれない。そういうことを期待して、職業的な学習というものをやることには意味があるのではないかな、と思っています。


今は学校を卒業してから、そういうことを各個人レベルで行っているような感じで、もう少し準備を早く行う方がいいと思います。仕事は人間を成長させてくれると思います。人間を鍛えてくれたり、育ててくれると思います。


またしても変な言い方かもしれませんが、御容赦を。

学校での勉強というのは、ゴルフで言うと、まずは「公式ルール」を全て頭に叩き込め、というところから始まるのです(笑)。やってみないと面白さも分らないのではないかと思うんですけれど、まず「ルールブック」をマスターしなさいとか言う訳です。仕方なくルールブックをひたすら覚え込もうとする訳ですが、「ウォーターハザード」なんて言われても、すぐに忘れる訳です(因みに私はゴルフを一度もやったことがありません)。それは実感がないからですね。多くの素人ゴルファーを奈落の底に落としているであろう、「池ポチャ」という現実の体験を有していれば二度と忘れることはないでしょう(笑)。そういうものです。でも、学校の勉強の多くは、こうした「ルールブックを読め、覚えろ」ということが殆どであり、体験に基づくことが少ないのですね。なので、ゴルフの楽しさも知らないうちに、「オレは嫌いだ」という風なことになりがちではないかと思いますね。大人だって実際にプレーさせてもらえず、ひたすら「ルールブック」の試験ばかりあったら、多くの人がゴルフを毛嫌いするようになってしまうと思います。大体がそういうようなことなのです。ただひたすら、ルールを覚えることが重視され、せいぜいが頭の中で「仮想プレー」をするくらいのものでしょう。誰もコースには立たずに、先生も一度もプレーしたことがないかもしれないが、それでも生徒には「こうやって打つのが基本だ」などと教えたりするんですから(笑)。


しかもこれには続きがあります。ようやく何とかゴルフの「ルールブック」を覚えたら、次は野球の「ルールブック」が用意されているのです。その次はサッカー、次はテニス・・・と継続される訳ですね。ですので、延々と頭の中だけでの「仮想プレー」ばかりが続くのですね。現実の体験を含むということは、ゴルフを自分でプレーしてみて初めてその楽しさも分るし、逆に難しさとか自分の足りないことも分るし、もっと上手くなりたいと思う人も出てくるかもしれないですよね。思いのほかパッティングが上手な子もいるかもしれません。ルールの筆記テストではよく間違えていた子であっても、凄まじいドライバーショットが打てるかもしれないですよね。そういう単純なことで、何かの自信をつけられるかもしれませんね。でも、学校教育の多くは、そうした体験に基づかない勉強を教えられて、ルールブックのテストの点数が重視されがちだと思うのです。


どんな仕事や作業でもいいので、それらを通じて、「ルールブック」(教科書)には載っていない楽しさとか、実際のプレーに興味を持ってもらえるのであれば、それが望ましいと思いますね。ゴルフは嫌いだけれど、野球は興味が持てる、という人がいたっていいし、別な人はサッカーの方がいい、という人がいるかもしれないですし。いずれは社会に出ると、何かのプレーヤーにならねばならないのですから。で、大抵は「そういえば誤球の場合の罰則ってどうだったかな?打ってしまった相手ボールは打つ前の地点に戻されるんだったか?」などと、昔習ったことも忘れていることがあったりして、「もうちょっと勉強しておけば良かった」などと思ったりする訳ですね(笑)。自分自身で実際にプレーしてみると、「やっぱり、必要だな」と感じるので、誰にも言われなくとも「ルールブック」の勉強をもう一回してみよう、と考えるのではないでしょうか。それも、ゴルフの楽しさに惹かれて、実際にプレーするようになれたからですね。学校での「ルールブック」授業だけであったら、二度と勉強してみようなどとは思わなかったかもしれないですね。


ルールブック以上の楽しさということを学校教育の中で体感できたり、興味のキッカケでもなんでもいいので、そういうことが獲得出来るのであれば、やはりそれが望ましいと考えています。実際に何かの体験を通じて「料理人になりたい」と思う人がいるとして、その人がどういう道を歩むは誰にも分りませんね。でも、そういうキッカケがあればいいのです。すし屋の弟子入りをするかもしれないし、ラーメン屋にフリーターとして勤めるかもしれないし、中華街の店に就職するかもしれない、或いはチェーン店の料理人になるかもしれない。どういう選択をするのかは分らないですが、「料理人」の仲間入りは出来るようになると思いますね。

そういう幾つもの選択肢の中から、「フレンチを極めたい」と思うかもしれないですよね。そうであれば、有名なホテルの厨房に勤め口を探すかもしれないし、そういう所で修行をして将来は料理長になるかもしれません。帝国ホテルの料理長のような立派な人になるかもしれないですしね。そういう料理人となるには、恐らく言語(主にフランス語かな?)も、各国の歴史、文化や宗教に至るまで勉強したりせねばならないでしょう。そうでなければ、レシピが書けないからですね。学生時代にはそんなこととは露知らずに過したかもしれないが、料理という仕事を通じて、再び自分の為に―必要に迫られてということの方が正解かもしれないが―勉強することになるかもしれません。勿論、料理人全部がそうだとは申しませんが、仕事とは、多分そういうものであろうと思います。それを求めていく人、自分で考えて決められる人、そういう人は新たな仕事を作り出せるだろうし、常にチャレンジや勉強が必要になってくるでしょう。これは業種というか、職種にはよらないことだろうと思っています。


ですから、仕事というのはどんな職種であっても、中々奥が深いのです。そういうものを若いうちに多少なりとも体験できて、何かの道筋をちょっと感じ取ることが出来れば、きっと新たな自分の発見に役立つでしょう。そして、将来自らの仕事への「誇り」を持てるようになれるなら、真のプロフェッショナルとして育っていくでしょう。