オリオン村(跡地)

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三本の矢を探して 史跡巡り篇 福山、三原、竹原の巻

2013-06-08 20:15:56 | 日本史

 

三日目は東部の福山、三原、そして竹原です。
かなり詰め込みましたし移動時間もかかることから珍しくも新幹線を使っての福山入りで、予定の全てを巡るのは厳しいかなと思っていたのですが無事にクリアすることができました。
ちょっと朝日、夕日で色合いが今ひとつな写真となってしまったのが残念でしたが、まあ仕方がありません。

その最初は福山城で、こちらも日本100名城の一つです。
築城は1622年と大坂の役が終わった後ですのでかなり新しく、譜代大名の水野勝成が築きました。
勝成の父である忠重は徳川家康の生母である於大の方の弟ですから、勝成は家康の従兄弟になります。
まず迎えてくれるのが筋鉄御門で、当時の遺構で国の重要文化財に指定をされています。
伏見城からの移築と説明板には記載をされており、しかしその様式などから疑問視をされているものの往時の姿を残していることに違いはありません。

その左手に見えるのが伏見櫓で、こちらも当時の遺構で同じく国の重要文化財に指定をされています。
解体修理の際の調査から正真正銘の伏見城から移築をされたことが明らかとなっており、三重三階の造りとなっています。
ただし時期的に豊臣時代のそれではなく関ヶ原の戦いにて西軍に攻め落とされて炎上をした後に家康が再建をした伏見城からの移築で、武器庫として使われていました。

筋鉄御門を抜けて左手にあるのが鐘櫓で、こちらは1979年の再建です。
二階建ての入母屋造りで、時を告げる鐘を鳴らしていました。
その一部が当時のものであるためか福山城の公式サイトには遺構として紹介をされていますが、往時の姿での復元ではありませんので微妙さがあります。

筋鉄御門の右手にあるのが湯殿です。
こちらも伏見城から移築をされましたが、残念ながら福山大空襲で焼失をしてしまいましたので1966年の再建です。
その名のとおりに風呂があったとのことですが、中を見ることはできませんでした。

湯殿の東、本丸の南東の隅に位置するのが月見櫓です。
明治に入ってから取り壊されてしまったものを1966年に再建をされたものですが、残念ながら鉄筋コンクリートによる復元です。
こちらも往時は伏見城から移築をされたもので、福山城は伏見城が廃城となった資材を用いての築城であったためにこれだけの規模ながらも僅か3年で完成をしています。

月見櫓の北には鏡櫓があり、1973年に再建をされた鉄筋コンクリート造りです。
内部は資料が展示をされているとのことでしたが見てのとおり扉は閉ざされており、係の方に聞いても普段は公開をしていないと断られました。
ネットで調べてみれば中には最近でも入れた方もいるようで、朝が早くて自分だけだったので面倒くさがられたのかもしれません。

そして天守閣です。
五重六階の堂々たる姿を見せてくれましたが、しかしこちらも湯殿、月見櫓と同じく1966年に再建をされた鉄筋コンクリート造りです。
慶長期の建築技術の貴重な資料として国宝にも指定をされていた福山城の天守閣は湯殿や涼櫓などとともに福山大空襲で焼失をしてしまい、しかも再建に際しては古写真などがありながらも華美さを意識したことから「戦後に再建をされた天守では最も不正確」と評されているとはwikipediaからの受け売りです。
内部は福山城博物館となっており、売店のグッズは屈指のラインアップとなっていました。

福山藩は勝成から始まった水野氏5代の勝岑が2歳で没したことで改易となり、天領、奥平松平氏の忠雅の12年間を経て、譜代大名の阿部氏が入って幕末まで続きました。
阿部氏としての7代藩主である正弘は老中首座を務めて、安政の改革で幕政を立て直した名君とされています。
写真は城内にある左が水野勝成、右が阿部正弘の像です。

妙政寺は勝成の嫡男で2代藩主の勝俊の菩提寺です。
勝俊は日蓮宗に帰依して妙政寺の大檀越となっていたことで、死後にここ妙政寺に葬られました。
戦国期に水野氏が拠点とした三河刈谷に創建をされた妙政寺は、水野氏とともに福山に移ってきたとのことです。

その妙政寺に勝俊の墓があるとのことで訪れたのですが、境内にそれらしきものは見つかりませんでした。
代わりというわけではありませんがこちらは勝俊の廟所で、なかなかに立派な建物です。
廟所はいろいろな意味合いがあり墓所だったり位牌堂だったり骨壺が納められたりしていますのでこれがそうなのかなと、中に入れなかったのでちょっとガッカリです。

それでも諦めきれずにお寺の方に聞いてみれば、すぐ近くに勝俊の墓があるとのことでした。
喜び勇んで向かってみれば、立派な五輪塔です。
勝俊は波瀾万丈な一生を送った勝成の陰に隠れがちではありますが、内政に力を尽くした名君と伝えられています。

賢忠寺は水野氏の菩提寺で、勝成が父の忠重の菩提を弔うために建立をしました。
寺名は忠重の戒名である瑞源院殿勇心賢忠大居士からきています。
幼稚園を併設している寺院は少なくありませんが賢忠寺はスケールが違い、学校法人として50年以上の伝統を誇っています。
右の写真の二階に赤いジャージの上下の10代と覚しきうら若き乙女な保育士がゾロゾロと、それこそ学校の一クラス分ぐらいの人数が出てきたのには驚きました。

妙政寺と同じく水野氏の墓所がどこにあるかが分からなかったのでその保育士の一人に聞いたところ、新幹線の線路を挟んで賢忠寺と反対のところにありました。
道路に面した入口は閉ざされていますが、右手に入り込めば開いている扉がありますので柵を乗り越えないよう願います。
福山藩水野氏にかかるいくつかの墓があり、しかし以前にあった場所から山陽鉄道の敷設の際に移転をされたものとのことです。

初代藩主の勝成は父と諍いを起こしたことで出奔して全国を放浪するなど苦労をしたようですが、やはり家康の従兄弟というブランドが効いたのか帰参を果たします。
仙石秀久、豊臣秀吉、佐々成政、小西行長、加藤清正、立花宗茂、黒田孝高、三村親成と仕えた武将は錚々たる顔ぶれですから、やはり優秀だったのでしょう。
独断専行で家康に疎まれた時期もあったようですが10万石ながらも大規模な築城を認められたのも、その出自によるところが大きかったのではないかと思います。

勝成の父である忠重も、負けず劣らずの人生を送っています。
織田氏の配下でしたが兄の信元との不和により織田氏を出て家康に仕えたのは、やはり姉の於大の方との関係によるものなのでしょう。
その信元が武田氏との内通を疑われて織田信長に謀殺をされましたが、これは尾張と三河の間に位置する水野氏の力を弱めるための言いがかりとも言われています。
そういった後ろめたさからでもないでしょうが信元の跡に入ったのが忠重で、このときに織田氏に復帰をしています。
信長の死後は次男の信雄に仕えて、徳川氏に戻ったのは豊臣秀吉の死後でしたが、その僅か2年後の関ヶ原の戦いを前にして加賀井重望に酒宴の席で斬り殺されました。
これは徳川氏の有力武将である忠重の暗殺を石田三成、あるいは大谷吉継が謀ったとも言われていますが、実際のところはただの喧嘩によるもののようです。

勝成、勝俊に続くは3代藩主の勝貞で、勝俊の嫡男です。
島原の乱に参戦をするなど戦国の最後の風を浴びた武将ではありますが、38歳で早世をしてしまいました。
4代藩主は僅か3歳で家督を継いだ勝種で、こちらも37歳での若死にでかつ子の多くが夭折をしたために5代藩主となったのは2歳の勝岑で、将軍家へのお目見えで江戸に向かった際に発病してそのまま江戸で無位無冠のまま病没をしたために無嗣断絶で改易となったとは先に書いたとおりです。
ここ水野氏墓所には勝岑の墓もあるとのことでしたが見つからず、賢忠寺の説明板にもその記載がありませんでしたので誤報だったのでしょう。
写真は左が勝貞、右が勝種です。

その他の一族の墓として、成貞と勝則、そして数馬の墓があります。
成貞と勝則は勝成の子で勝俊の弟、数馬は勝種の子で勝岑の兄にあたります。
旗本奴と町奴との対立で幡随院長兵衛を殺すなどして今もその名が知られる水野十郎左衛門の成之は成貞の子で、行跡怠慢により切腹とされて家名断絶となりました。
写真は左から成貞、勝則、数馬です。

次に向かった三原で最初に訪れたのは三原城跡で、その中央を線路がぶった切っています。
そのため天主台跡は駅の構内から行くことになり、つまりは時間外は見学をすることができません。
駅の近くにあるのでと油断をして計画をすると泣くことになりますので、注意が必要です。

天主台の石垣は見事な偉容を誇っていますが、逆に言えば三原城の遺構はこれぐらいしかありません。
しかし天主台とは言いながらも天守閣があったわけではないようです。
小早川隆景が築城をして名島に移った後は養子の秀秋が入り、広島に福島正則が入ったときに甥で養子の正之が、浅野氏の時代には三原浅野氏の居城となりました。

天主台跡には見事なぐらいに何もありません。
建物のない城跡などはこんなものですが、写真を見ただけではただの公園といった感じです。
三原城は海に向かって船入りを開いた城郭兼軍港としての機能を備えた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えることから浮城と呼ばれていました。
瀬戸内海を掌握する水軍を率いていた隆景らしい城と言えます。

近くには小早川隆景の像があります。
言われなければ徳川家康かと思ってしまうような福々しい表情となっており、どこか痩身をイメージしていましたので違和感がありました。
国の重要文化財である絹本著色小早川隆景像の肖像画とはあまり似ていません。

その絹本著色小早川隆景像を所蔵しているのが米山寺で、小早川氏の菩提寺です。
距離的には駅から12.3キロとお茶の子さいさいだったのですが、川沿いの向かい風が強烈でかなり往生しました。
小早川氏は宗家の沼田小早川氏と分家の竹原小早川氏の二流がありますが、こちらは沼田小早川氏の菩提寺となります。
近くにはその沼田小早川氏の墓所があり石造りの宝篋印塔が整然と並んでいますが、遠祖である土肥氏のそれがあったり並びが代数順だったりもしますので改葬をされた、あるいは供養塔のようなものではないかとも思うのですが、実際のところはよく分かりません。

二本目の矢となる隆景の墓です。
父の才能を一番に受け継いだとも言われている隆景は分家の竹原小早川氏の興景が子が無いままに病死をしたことで、家臣団や大内義隆の薦めで養子に入りました。
これは興景の正室が隆景の従姉妹にあたる興元の娘、つまりは元就の姪であったことが理由なのでしょうが、ただ元就が周到な根回しをした上で押し込んだとも言われており、その方が信憑性が高いと感じてしまうのは謀略の人である元就の人となりによるものなのでしょう。
その後に本家の沼田小早川氏の繁平が盲目であることからその妹を正室に迎えることで跡を継ぎ、二流に分かれていた小早川氏を統一しました。
この際には繁平派の家臣を粛正するなど元就が露骨な介入をしたようで、これによって毛利の両川が成立をしたことになります。
長兄の隆元が病没をした後は次兄の元春とともに甥の輝元を支えて重きをなし、また豊臣政権では五大老の一人として秀吉に「日ノ本の国は西方は小早川隆景に東方は徳川家康に任せれば安泰」と評されるほどの名将として筑前などに37万石もの大領を得るなどしましたが、しかし隆景はあくまで毛利氏の家臣との立場を崩しませんでした。
これは父の教えはもちろんのこと輝元が頼りなかったこともその理由の一つとされ、伊予や筑前など秀吉に与えられた領地が毛利氏の近くであったのは輝元を一人にはできないと考えていた隆景が望んだからとも伝えられており、もし隆景があと5年、あるいは3年でも長生きをしていれば輝元が西軍の盟主に祭り上げられることはなかったのではないかと、もしくは西軍があそこまで大敗をすることはなかったのではないかと思います。
もっともそうであれば前田利家の死をじっと待った家康ですから10歳年長の隆景に無闇に手を出すようなことをしたとも思えず、結果は変わらなかったかもしれません。

小早川氏の祖とされるのは土肥実平で、よって代々の当主は「平」を通字としています。
実平は源頼朝に質実剛健な資質を愛されて鎌倉武士の重鎮として見なされていましたが、一方で義経にも近かったようで晩年は政治的に失脚をしたとも言われています。
嫡男の遠平が小早川村に居を構えたことから小早川氏を名乗り、その初代となり沼田に下向をしました。
写真は左が実平、右が遠平です。

遠平には維平という実子がありましたが土肥宗家と土肥郷を継がせて小早川氏には養子の景平を据えたため、小早川氏の2代は景平となります。
土肥維平は和田合戦に際して和田氏に味方をしたために処刑をされてしまい、よって実平の系統は小早川氏のみとなってしまいました。
しかし景平は平賀義信の五男で土肥氏との血縁関係もないため、景平の代で桓武平氏から河内源氏に血が入れ替わったことになります。
3代の茂平は景平の嫡男で、小早川氏の本拠となる高山城を築きました。
茂平の三男の雅平が4代を継ぎ、その弟の政景が父から竹原荘を譲られて竹原小早川氏として分家をしたことで小早川氏は二流に別れます。
その後は5代の朝平、6代の宣平、7代の貞平、8代の春平、9代の則平、10代の煕平、11代の敬平、12代の扶平、13代の興平、14代の正平、15代の繁平と血を絶やすことなく直系で繋いできましたが、一時は竹原小早川氏と抗争をするなど順風満帆に勢力を広げていったというわけではなかったようです。
そしてその血の繋がりが繁平を最後に毛利氏に結果的に乗っ取られたのは皮肉な話ですし、しかし負い目を感じていたのか隆景は側室を取らずに繁平の妹を愛し続けたと言われており、これは殺伐とした戦国期のある種の美談と言ってもよいでしょう。
写真は上段左から景平、茂平、雅平、朝平、宣平、貞平、春平、則平、煕平、敬平、扶平、興平、正平、繁平です。

代々の本拠だった高山城から沼田川を挟んだ地に隆景が築いたのが新高山城で、三原城に移るまでの隆景の居城となりました。
その新高山城の城門だったと伝えられるのが、宗光寺の山門です。
宗光寺は隆景が父母の菩提を弔うために建立をしたもので、城の西側を守る砦の意味合いもありました。

この日の最後は竹原です。
目指すは竹原小早川氏の墓所だったのですが、正直なところ行くかどうかを直前までかなり悩みました。
正確な住所が分からず地図上の場所も幹線道路からちょっと離れた曖昧なものしかなく、駅から9.4キロですので迷うのには充分な距離というのがその理由です。
しかし沼田小早川氏だけでは片手落ちと気持ちを奮い立たせての挑戦で、近くにある商店などの住所を頼りに向かったところ意外にあっさりと見つかりました。
ただ立派な宝篋印塔や五輪塔がありながらも誰のものかは分かっていないようで、ちょっともの悲しさがあります。
ちなみに竹原小早川氏は初代の政景の「景」を通字としており、隆景は元服前に養子に入ったために毛利氏の通字である「元」の字を持たずに主君である大内義隆の「隆」と竹原小早川氏の「景」を合わせて隆景と名乗りました。

そこから少し登ったところにあるのが、小早川興景夫妻のものと伝えられている二基の墓です。
それなりの道はありながらもただの山肌のような感じですから、途中で断念をした人も少なくはないようです。
何の説明もありませんし戒名のようなものなかったためにどちらが興景のそれかが分からなかったのですが、帰ってきてからネットでいろいろと調べてみれば左側がどうやら興景の墓ではないかと、その伝承も含めてもうそう信じるしかないでしょう。
ちなみに説明板には隆景の養父とありましたが、隆景が小早川氏に入ったのは興景の死後ですから養父、養子という表現は適当ではないかもしれません。

帰り際に見かけたのが和賀神社で、小早川神社とも呼ばれているようです。
隆景を祀る神社ですが、1945年に豪雨による山津波で損壊をして現在に至っています。
見てくれはただの廃墟でしかありません。

長生寺は河野通直の死を悼んで、隆景が建立をした寺です。
豊臣秀吉の四国攻めで通直は進退定まらずに湯築城に籠城をしますが、しかし隆景の薦めにしたかがって降伏をしました。
所領は没収をされましたが命だけは許されてここ竹原に身を寄せますが、子が無いままに24歳の若さで没してしまい名門河野氏はここで実質的な命脈が絶たれたことになります。

その通直の墓が、長生寺にあります。
戦国末期の河野氏はなかなかに混乱をしており、通直が誰の子であるかもハッキリとはしていません。
本宗家と予州家で家督が争われていたこともその理由でしょうが、これまで有力とされていた通吉の子ではなく村上水軍の村上通康の子であるとの説が浮上をしているようです。
3代前の当主に同じ名前の通直がいるために分かりづらいですが通康はその弾正少弼通直の娘が母親ですから伊予守通直が家督を継いでも血筋的に不思議はなく、また伊予守通直の母が通康の死後に先代の通宣に再嫁をしたことで後継者の地位を手にしたのでしょう。
ちなみに伊予守通直の母は宍戸隆家の娘で、その跡を継いだとされている通軌は隆家の孫ですから毛利氏の影響は当初から強かったものと思われます。


【2013年4月 広島、山口の旅】
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三本の矢を探して 旅程篇
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6 コメント

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つらい (Unknown)
2013-06-09 01:19:32
趣味の話長すぎ
独り身はいいな。うらやましい。
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Unknown (taiji)
2013-06-09 01:27:10
こんばんは。「三本の矢」をテーマにすると、時代、「家」、権力闘争、人間性、人間関係、または、それらが入り交じった複雑で、大きな話になるのですね。
写真も、背景まで含めた構図、意図が素晴らしく、お手本になります。
…阪神戦の記事を拝見しにきたのですが、野球と歴史は様々な面において関係あると思うのですが、そのつながりを感じつつ、違った素敵な写真と文章に、出会えました。
今日の阪神戦、エース対決、勝てなくて残念です。
最近、勢いではごまかせない不安材料が出てきている気がして、それも、気がかりです。
しかし、伊東監督は、なかなかできない「誰かがいつかはやらなければならないこと」を、しっかりやった人で、私は、今後も、できるだけ大きな気持ちで楽しみながら観たいと思います(勿論、日本一になってほしいです!)♪
ベンチのいいムードを保ち、ミスをしても選手によって適切な対応をし、引き続き人を、選手を、チームを育ててほしいです。
目先の勝利は当然大事ですが、それ以外のそういったことで明るい気持ちになれるし、楽観はできないにしても、未来を具体的に感じられます。又、個人的に、今年は、とても面白いです!
私は、伊東監督就任を望んでいましたが、ここまで凄い方だと思っていなくて…この記事に関係し、「名将」になるでしょうか?
少なくとも、今の時期に最適な監督に思えます。
とにかく、歴史の舞台と同じく色々あるでしょうが、「簡単には崩れない土台を築いてほしいな」と、思います。
読むだけにしようと思ったのですが、記事が凄くて…まとめてのコメント、失礼しました。
おやすみなさい。




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福山城 (スカイマウンテン)
2013-06-09 08:20:12
以前、仕事で福山に行った際に、帰りの新幹線の時間があった為、福山城に行きました。
福山駅から二分位、もりかしたら一分位と滅茶苦茶近く(記憶が定かではないです)、新幹線の停まる駅の中で一番近い城なのでは?と思いながら行きました。実際のところはどんなものなのでしょうか。

歴史、城にも詳しくないのですが、敷地も広く街のシンボルになっている様な城に感じました。また、高台?から見えた街並みが風情ありました。
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お返事 (オリオン)
2013-06-09 23:45:45
>Unknownさん
ブログはほぼ全て趣味の話ですが(笑)
独り者だろうが家庭持ちだろうが、時間の使い方に優先順位、選択を考慮しないと何も変わりませんよ。
時間がない、という人に限って時間の使い方が下手、とはよく言われる話です。
羨ましがる前に、やることがあるのではないかと。

>taijiさん
親兄弟だろうが血で血を洗うような争いが普通にあったのが戦国期ですから、それだけに一族の融和を説いた元就だったのでしょう。
その元就が外に対しては謀略による内輪揉めで弱体化をさせた上で攻略をしていったのですから、まさに謀略の人といったところかと。
そういう人を見ることが組織を作っていくには重要なポイントなのでしょう。
能力があっても使われなければ宝の持ち腐れですし、そこに不満が溜まれば内紛にも繋がります。
仰せのように野球も同じだと考えます。
スローガンとは裏腹に人を見ることをしなかった昨年までに比べて、今季はここまで納得のいく野球をやってくれています。
あとはやはりチームが好調なことで目先に惑わされないこと、それだけを願います。

>スカイマウンテンさん
あまり新幹線に乗ることがないので詳しくはありません(笑)
でも駅からここまで近い城は珍しいのではないかと、甲府城も近かったように思いますが5分は歩いたような。
有岡城は駅からすぐだったはずですが、建物はありません。
これだけの建物が揃っての城では仰せのように一番に駅から近いかもしれません。
ホテルでもそれを売りにしているところがありました。
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有岡城 (スカイマウンテン)
2013-06-10 08:32:16
ご返事を頂き、どうもありがとうございます。
有岡城、私はこの度初めて知りました。有岡城の戦いという、織田信長との戦いがあった為、無名ではないはずですので、一応、日本史で受験した身として、あの時、何をしていたのかと思っています。(笑)

城跡は、当時どの様な城だったかを想像するのが好きです。想像は自由なので勝手な城を築いています。
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お返事 (オリオン)
2013-06-11 00:04:17
むしろ伊丹城の方が馴染みがあるかもしれません。
織田信長に謀反した荒木村重が立て籠もった城です。
説得に向かった黒田官兵衛が捕らえられて牢に入れられて足が不自由になってしまった、という話もあります。
その後は池田之助、輝政の兄ですが、数年だけ城主となって美濃に転封された後は廃城となっています。
よって今に残るのは僅かに石垣など、のみなので空想にはもってこい(笑)
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