史跡巡りの最後は岩国です。
正直なところ当初の計画には入れてはいなかったのですが、拠点とした広島市街からすればむしろ福山よりも近いと気がついたことで発作的にねじ込んでしまいました。
小早川氏を沼田、竹原と巡ったことで、吉川氏ももう少し踏み込んでおこうと思ったのもその理由だったりします。
吉川氏の史跡が集中をしている吉香公園は岩国駅から6キロちょっとの場所にありますので、例によって自転車での散策です。
最終日で帰りの飛行機の出発時刻が気になったことで夜明け直後にホテルを出たためにちょっと早すぎで、朝マックをしても時間を持て余してしまいました。
この錦帯橋は錦川にかかる5連のアーチ橋で、名勝に指定をされています。
吉川広家が岩国に入ってから何度か橋を架けましたが200メートルもの川幅があるために強靱なものを造ることができず、洪水の度に流されてしまったものをアーチ橋にすることで昭和に入ってからの台風の際に崩れるまでの276年間に耐えた錦帯橋は、3代藩主の広嘉の執念によるものと伝えられています。
渡るには入橋料が必要ですが時間が早かったために夜間料金箱に入れる仕組みで、しかし自転車を降りてのアップダウンはきつそうだったので遠回りをして錦川を渡りました。
岩国城などの施設が開くまでには時間がかなりあったので、それらは後回しにして他の場所をまずはうろつきました。
洞泉寺は吉川氏9代の経信が開基の洞仙寺がルーツで岩国に移ったときに洞泉の字をあてたと言われおり、やや離れたところに岩国藩主の吉川氏の墓所があります。
厳密に言えば岩国藩が正式に認められたのは大政奉還後であり、関ヶ原の戦いの際のいざこざから本宗家である毛利氏から大名として認められなかったために江戸幕府からは外様大名扱いとされながらも実質的には陪臣の立場であったことで藩主とは言えないのですが、便宜的にこちらでは藩主として紹介をしていきます。
墓所は門をくぐったところと、その奥の小高いところの2箇所に分かれています。
初代藩主である広家の墓はやはり別格なのか門構えのある敷地にあり、当然のように高いところから見下ろしています。
広家は元春の三男で長兄の元長が豊臣氏の九州征伐に従軍をした際に病死をしたために家督を継ぎ、毛利の両川の片翼として本宗家を支えました。
しかし外交僧であった安国寺恵瓊と仲が悪く、また自らが徳川家康と近かったこともあり関ヶ原の戦いでは西軍の総帥である毛利輝元の身内でありながらも東軍に内通をしたことで結果的に毛利氏は大幅な減封となり、先祖代々の安芸を追われる原因を作った裏切り行為として糾弾をされてしまいます。
家康は毛利氏を取り潰して所領を広家に与えようとしたものを広家の懇願で本宗家の改易を免れたとも言われており、そうなれば広家は忠臣と讃えられるべき存在であるはずなのですが、その内通の動機がやや不純であったこともあってか毛利氏内部では受け入れられずに陪臣の立場から抜け出せないままに幕末を迎えました。
そういった経緯から本宗家との関係は微妙だったらしく、何度か独立運動が表面化をしています。
2代を継いだのは広家の嫡男の広正で、岩国藩の経済的基礎を築くとともに輝元の娘を正室に迎えて本宗家の執政を務めるなど重きをなしました。
その嫡男で3代の広嘉が錦帯橋を架けたとは先に紹介をしたとおりで、しかしこのあたりから本宗家との距離が広がり始めます。
4代の広紀は広嘉の嫡男ですが家格に絡んで本宗家と揉め始めて、その嫡男の5代の広逵のときに大名への昇格運動が本格化をしますが実現には至りませんでした。
代々の藩主の墓は洞泉寺にありますが広逵の嫡男の6代の経永のみは実相寺を崇拝したためにそこに葬られ、しかし廃寺の後に山崩れで墓が行方不明になったために後に再建をされたことで洞泉寺の墓地からほど近い山肌が開けたところに、かなり探すのが大変だったのですが五輪塔ではない墓がありました。
この経永が継ぐ子が無いままに没したために、徳山藩から入った経倫が7代となります。
徳山藩は輝元の次男の就隆が初代でその孫の広豊の子である経倫を迎えることで、家格を上げることへの期待感があったのでしょう。
その後は元春の血が絶えたままに8代の経忠、9代の経賢と嫡男が続きましたが経賢が早世をしたために10代は次弟の経礼が、その経礼にも跡継ぎが無かったために三弟の経章が11代を継ぎ、そしてその嫡男で12代の経幹のときに念願の諸侯に昇格をしての本当の意味での岩国藩の初代藩主となりました。
もっともそのときには既に経幹は病死をしていたとのことで、それを秘匿しての藩主就任だったそうです。
13代、新生岩国藩の2代であり最後の藩主である経健は経幹の嫡男で、甥の元光が跡を継いで子爵となりました。
写真は上段左から広正、広嘉、広紀、広逵、経永、経倫、経忠、経賢、経礼、経章、経幹、経健、元光です。
こちらは元春の正室で、元長や元氏、広家らの母である新庄局の墓です。
毛利氏の重臣で猛将の熊谷信直の娘で、元春の姉で宍戸隆家の正室の五龍局と仲が悪かったと伝えられており、元就の「三子教訓状」でもその仲の悪さをたしなめられています。
その仲を取り持とうとした隆景を無視したことで吉川氏と小早川氏との関係が悪化をした時期もあったようで、なかなかに人間関係は難しいとしか言いようがありません。
こちらは手水鉢で、仏前で身を清めるための水を入れる器です。
みみずくの手水鉢は茶人の上田宗固から広家に桜の返礼として贈られたもので、しかし届いたときには既に広家は亡くなっていました。
その後は浄念寺に置かれていましたが、明治に入ってから広家の墓の側に移されています。
誰が袖の手水鉢は着物の袖に形が似ていることから名付けられたもので、やはり茶人として名高い小堀遠州の手によるものと伝えられています。
小堀遠州の子孫である小堀勝太郎が経幹の姉の夫であったことから、小堀家から贈られて今は経幹の墓の脇にあります。
写真は左がみみずくの手水鉢、右が誰が袖の手水鉢です。
三原には小早川隆景の像があったのですから岩国には吉川元春でなくとも広家の像があるのではと思ったのですが、あったのは広嘉の像でした。
やはり錦帯橋の貢献が、地元にとっては大きいのでしょう。
もっともこの像を作るに際しては2代の広正から11代の経章までの肖像画が残されていないために、広家の肖像画と子孫の写真を合成したものが用いられたそうです。
そういう意味では無理矢理ではありますが、広家の像と言えないこともありません。
なぜか佐々木小次郎の像もありました。
吉川英治の「宮本武蔵」で岩国の出身とされていることから、それにちなんでここに建てられたのかもしれません。
小次郎と言えば武蔵との巌流島の決闘があまりに有名ですが、その当時の資料には単に岩流としか書かれておらず佐々木小次郎の名が出るのはかなり時代が下ってからであり、その決闘の時期も戦いの内容も講談の域からあまり出ていないようです。
その出自をそのまま信ずれば決闘のときの小次郎は70代後半となりますので、夢のためにはあまり真相は掘らない方がよいのかもしれません。
吉川経家弔魂碑は羽柴秀吉の鳥取城攻めに城督として入城をした吉川経家の英魂を弔うために昭和に入ってから建てられたもので、その礎石には鳥取城の石が使われています。
刻まれた文字は当時の吉川氏の当主であった元光の手によるものです。
経家は石見吉川氏の出で、その子孫に五代目の三遊亭圓楽がいます。
吉香公園は吉川氏の居館があった場所を公園としたものですが、旧藩時代に三階建ての南櫓があったところにその櫓に似せて建てられた絵馬堂が錦雲閣です。
吉香神社は吉川氏歴代の神霊を祀っており、明治になってからこの地に移設をされました。
岩国徴古館は第二次世界大戦中に「郷土に博物館を」との目的で、物資が少ない中で旧藩主である吉川氏が私財を投じて建てたものです。
写真は左から錦雲閣、吉香神社、岩国徴古館です。
旧吉川邸厩門は明治に入ってから岩国藩知事となった吉川経健の邸宅に附属する長屋で、今は岩国市の所有となっています。
香川家長屋門は山口県の指定文化財で、岩国藩の家老の香川氏の表門です。
香川氏は讃岐香川氏の系統の方が馴染み深いのは長宗我部元親の次男の親和が養子に入ったからですが、こちらの香川氏は安芸香川氏で客将から吉川氏の家老となりました。
写真は左が旧吉川邸厩門、右が香川家長屋門です。
そしてようやくの岩国城です。
日本100名城の一つで、関ヶ原の戦いの後に吉川広家が8年の歳月をかけて築城をしました。
しかし一国一城令にて僅か7年後に廃城の憂き目となり、現在の天守閣は1962年に鉄筋コンクリートで再建をされたものです。
登城口は整備をされているようですがさすがにこの標高を自転車で登る勇気はなく、大人しくロープウェイに揺られての岩国城です。
時代背景からすれば山城を築いた広家の思惑が分からないのですが、豊臣秀頼が健在だっただけにもう一波乱でもあると考えたのかもしれません。
これらの石垣が当時のものかどうかは分かりませんが、領主の権力の大きさ、強さを感じさせてくれます。
城の築かれている横山から切り出されたものももちろんあったでしょうが、領民の苦労が偲ばれます。
麓からの見栄えを重視して再建をされただけのことはあり、下から見上げる天守閣は木々に隠れることなくその偉容を誇っています。
トップの写真のように、錦帯橋とセットで眺めるのが一番なのでしょう。
夜に訪れることがなかったのでそういった盛り上げがあるかどうかは分かりませんが、錦帯橋とともにライトアップをすれば幻想的な雰囲気になるものと思われます。
岩国城は横山の尾根沿いに長さ180メートル、横に最大で108メートル、石垣の高さは5.4メートルほどあり、天守閣は桃山風の南蛮造りで四層五階で本丸の北隅にそびえていました。
その他にも櫓が五棟、折り回し大門が二門、埋門が一門と、その三万石とも六万石とも言われる領地からすれば立派な規模です。
再建をされた天守閣はその場所も造りも当時のものとは違いますので、観光施設と割り切るのがよいのでしょう。
こちらが本来の天守台跡です。
古式穴太積みと呼ばれる石積みを基本として大きな石と隙間に詰めた小さな石からなり、その隅は反ることなく直線であるため構造力学上の安全性を重視したものとなっています。
この天守台に再建をしなかったのは史跡を保護するというよりは、この位置ですと麓から見えないのが理由ではないかとは個人的な想像でしかありません。
山城ともなるとその生命線は水で、この大釣井はその水を汲むための井戸かと思いきや説明板によれば非常時の武器弾薬等の収納を図るとともに、敵に包囲をされたり落城の危機にさらされた場合の脱出口を備えたものとのことで、しかし覗いてみた感じではただの井戸にしか見えません。
もっともこれだけの標高で水が出るのかどうかは定かではなく、また深さがどのぐらいかは柵が邪魔でよく分かりませんでした。
岩国の最後は吉川史料館で、旧岩国藩主吉川氏に伝わる資料などが展示をされています。
6代藩主の吉川経永の墓についての経緯は、こちらの担当の方から伺いました。
正門として使用をされている昌明館付属屋長屋門は7代藩主の隠居所として建てられたもので、岩国市の指定文化財となっています。
【2013年4月 広島、山口の旅】
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