史跡巡りの二日目は安芸高田です。
毛利輝元が広島城に移るまでの約250年間に毛利氏の居城であった吉田郡山城があり、それだけを目指してバスで1時間ほど揺られての移動です。
到着をしたのが8時過ぎで麓にある安芸高田市歴史民俗博物館が開館前だったので、まずは城攻めとばかりにその吉田郡山城跡に向かいました。
吉田郡山城とは書きましたが正しくは郡山城で、他の郡山城と区別をするために一般的には吉田郡山城と呼ばれています。
郡山をすぽっとくるむように城域が広がっており、よって典型的な中世の山城となっています。
それなりに親切に案内板があるのですがしかしそれに従って歩いて路頭に迷うなど中途半端なところもありますので、登山口にある地図は必携だと思った方がよいでしょう。
写真は例によってクリックをしていただければ大きくなりますが、見比べていただくのであれば「右クリック→リンクを新しいウィンドウで開く」を選んでいただいて、そのウィンドウを横に置いていただければどういったルートで城攻めをしたかが分かると思います。
同じく登山口にある杖も、邪魔にはなりませんので借りた方がよいです。
この手の山城を登るに際しては両手が空くスタイルが必須なのは言うまでもありませんが、登るときも下るときも杖があるとかなり楽になります。
登り始めたときには雨は上がっていたのですが濡れ落ち葉で足を取られがちでしたので、この杖にはかなり助けられました。
安芸高田市歴史民俗博物館を起点に右回り、左回りのルートがあるのですが、右回りをする人は少ないのではないかと思います。
トラック競技で左回りが当たり前で右回りをしようとするとたたらを踏むのは利き手が右だからということではなく、無意識に心臓を守るように体ができているからなどという説もあるようですが、そうなればサウザーは右回りの方が得意かもしれません。
それはさておき最初に巡り会ったのは毛利元就の像で、そのイメージどおりに老将の姿となっています。
ただそれにしても鎧兜が重すぎるのではないかと思えるぐらいの老齢ですから、もうちょっと若くてもよかったような気もします。
行き先案内板に従って歩いて行けば何かの施設の敷地内に入ってしまったのですが、そこにあるのが三矢の訓跡碑です。
訓の跡というのが意味が分からないのですが、ここは毛利元就が隠居をしてから住んだ御里屋敷跡になります。
やはり毛利氏のエピソードともなれば一番に挙げられるのが「三矢の訓」ですから、それが創作であろうがそんなことはもう関係はないのでしょう。
昭和になってから建てられたものですが、その題字は当時の毛利氏の当主であった毛利元道の手によるものです。
そこから清神社の脇を回って登り口を探したのですが、これがまた分かりにくかったです。
駐車場がある場所に出てそこの案内板を頼りに10分ほど探したのですが見つからず、また清神社まで戻って見ればその背後に「ここ?」と思うような細い道が続いていました。
山城に登るのは珍しくもないのですが1メートルあるかないかの道幅とすぐの斜面というのはそれなりのリスクを伴いますので、悪天候のときの挑戦は避けた方がよいでしょう。
いきなり横道に逸れて最初に向かったのが旧本城跡です。
安芸毛利氏の初代である時親が築城をしてから元就が大幅な拡張をするまでの本城があった場所で、かなり行きづらかったです。
矢印に従順になってみれば両手を使って這うように登る必要があるような場所で、同じ場所を下ると足を滑らせて崖下にまっしぐらになりかねません。
実のところは矢印がトラップで少し遠回りをすればちょっとは傾斜の緩い道があったのですが、いずれにせよ安芸高田市歴史民俗博物館の方曰く「お奨めはしません」とのことです。
尾崎丸の堀切と、尾崎丸跡です。
堀切とは尾根部の各郭間に掘られた堀のことで、城を守るには重要なものとなります。
尾崎丸に屋敷があったから尾崎殿なのか尾崎殿だから尾崎丸なのかは分かりませんが、隆元の屋敷があったと伝えられています。
勢溜の壇は本丸から南西に延びる尾根を堀切で区切って独立をさせて十段の曲輪からなる守備の要で、本丸を守護する兵が詰めていたと想定をされています。
その上部にある御蔵屋敷は兵糧などが貯蔵をされていた屋敷が建ち並んでいた場所であり、また勢溜の壇まで攻め込まれたときにはここから攻撃ができます。
写真は左が勢溜の壇跡、右が御蔵屋敷跡です。
元就のときに大幅な拡張が行われて隆元、輝元に引き継がれましたが、石垣はその頃のものです。
廃城になった際にそのほとんどが崩されましたが、三ノ丸の石垣が僅かですが残されています。
土塁はここそこにあるのですが、それが土塁なのかただの土盛りなのかは正直なところよくは分かりません。
写真は左が三ノ丸石垣跡、右が土塁跡です。
二ノ丸は本丸の南にあり、東西36メートル、南北20メートルの広さがあります。
周囲を石垣や石塁で囲まれており、いくつかの区画に分かれていました。
三ノ丸は東西40メートル、南北47メートルと城内最大の曲輪で、吉田郡山城では一番に新しい遺構と考えられているようです。
写真は左が二ノ丸跡、右が三ノ丸跡です。
そして本丸です。
35メートル四方で北側に櫓台がありますが、天守閣ではなく物見のための櫓があったと考えられています。
一説に三層三階の天守閣が輝元のときにあったとも言われていますが、詳しいことは分かっていません。
写真は左が本丸跡、右が櫓台跡です。
ここから本丸を取り巻くいくつかの壇を見て回りました。
釣井の壇は長さが75メートルの長大な曲輪で、手前に見えるのが本丸に一番に近い水源だった井戸です。
本丸から北に延びる峰にある姫の丸壇で長州藩士の武田泰信が「百万一心」の礎石を見つけたとの話が伝わっていますが、本人の言葉のみで何ら裏付けはありません。
写真は左が釣井の壇跡、右が姫の丸壇跡です。
釜屋の壇は本丸に一番に近いところにあり、炊事場だったと伝えられています。
すぐ下が馬場であったことから厩舎が並んでいたものと想定をされているのが厩の壇で、いくつかの小さな区画に区切られていたようです。
写真は左が釜屋の壇跡、右が厩の壇跡です。
壇巡りを終えて毛利氏の墓所に向かう途中にあるのが、元就が吉田に招き入れた嘯岳禅師の墓です。
嘯岳禅師は筑前博多の人で二度も明に渡って修行をし、元就の逝去に際しては葬儀の導師を務めて、また元就の菩提寺である洞春寺の開山でもあります。
ちなみに洞春寺は毛利氏に従って山口に移っています。
そして元就の墓です。
菩提寺が山口に移ったことで先祖の墓も改葬をすることが珍しくはないのですが、生まれ育った吉田の地に元就は眠っています。
墓標に「はりいぶき」が植えられていて堂々とした姿を誇っていますので、その形状からして墓石は後世のものかもしれません。
名高い謀将である元就の墓にしては、ちょっと寂しい気もします。
その側に百万一心の石碑がありますが、先に書いたとおり当時のものではありません。
元就が城を拡張した際に人柱の代わりに埋めたと言われていますが、武田泰信が残した拓本を元に復元をされたものです。
復元というのも微妙な表現ですが、何にせよその伝えられる「皆で力を合わせれば何事も成し得る」という元就の思いは吉田町のモットーとなっています。
元就の墓があるのは洞春寺跡ですが、そこに毛利氏の墓地があります。
おそらくは輝元の代に改葬、あるいは供養塔のような意味合いのものではないかと思います。
元就のそれと同じで門には鍵がかかっていて入れなかったのが残念でしたが、LUMIXの望遠での激写で凌ぎました。
元就の兄の興元の墓です。
毛利氏は源頼朝の側近であった大江広元が祖であり、その四男の季光が父から毛利庄を相続したことで毛利を名乗りました。
そのため毛利氏の本姓は大江であり、よって墓石にも大江朝臣興元之墓と刻まれています。
興元は父の弘元が45歳で病死をしたために15歳で家督を継ぎ、大内義興に従って上京をして合戦に明け暮れるなど活躍をしましたが、25歳の若さで早世をしました。
元就は父、兄が酒毒によって若死にをしたと考えていたようで、酒は飲まなかったと伝えられています。
ちなみに季光が継いだ毛利庄は相模にあり自分が通っていた高校の近くに南毛利中学校がありましたので、そのあたりが毛利庄だったのでしょう。
興元の跡を継いだのは嫡男の幸松丸で、僅か2歳での当主ですので叔父の元就と母方の祖父の高橋久光が後見となりました。
しかし9歳で病死をしてしまい、多治比元就と名乗っていた分家の元就が家督を継ぎました。
幸松丸の死は無理矢理に首実検に立ち会わせられて体調を崩してのものと言われており、大河ドラマでは緒形拳の扮する尼子経久に無理強いをされたことに中村橋之助の演ずる元就が恨むシーンがあったように思いますが、一方でその死の僅か10日のうちに将軍家の許可を持っての相続ですから、元就と一部の家臣による暗殺との説も根強いようです。
またその名のとおりに隆元の正室の尾崎局の墓もあります。
大内氏の重臣であった内藤興盛の娘で輝元の母である尾崎局は、甥の隆世が大内氏に殉じて毛利氏に滅ぼされる悲哀がありながらも兄の隆春が毛利氏に降って周防内藤氏として幕末まで続きましたので、複雑な思いで当主の妻、そして母として生き抜いたのでしょう。
写真は左が幸松丸、右が尾崎局です。
こちらは安芸吉田に下向をした安芸毛利氏の初代である時親から、元就の祖父である豊元までの当主の合同墓です。
さすがにこれは供養墓でしょうし、ここから外れている興元や元就らの父である弘元の墓は隠居城であった猿掛城の近くにある悦叟院跡にありますが、毛利氏の重臣であった福原氏の墓所のある鈴尾城跡とともに今回は足を伸ばすことはできませんでした。
時親から元春、広房、光房、煕元、豊元、そして弘元、興元、幸松丸、元就と続いていきますが、この間に坂氏や福原氏などの有力な庶子家が誕生をしています。
一本目の矢である隆元の墓は、洞春寺跡から少し離れたところにあります。
元就の隠居後に家督を継いだ隆元は偉大な父と優秀な弟との間に挟まれて苦悩をしていたようで、遺されている書状からもそれが窺えます。
隆元は尼子攻めに向かう途中で毛利氏に降っていた備後の和智誠春の饗応を受けた直後に41歳で急死をしており、当時から毒殺が噂をされていました。
弟ほどには優れてはいなかった隆元ではありますが父には愛されていたようで、怒り狂った元就は尼子氏を滅ぼした4年後に隆元の重臣であった赤川元保の関与を疑って切腹をさせるとともに、その翌年には厳島神社に立て籠もった誠春と久豊の兄弟を攻め殺しています。
すぐには手を下さずにタイミングを見計らっていたところなどは元就の深慮遠謀さが見て取れますが、しかし元保は誠春の誘いを断るよう隆元に強く進言をしていたことが後に判明をしたことで一族に赤川氏を再興させており、また誠春の子である元郷は許されていますのでやはり隆元は病死だったのでしょう。
ぐるっと回って駐車場のあるところまで降りれば、そこには元就の火葬場跡があります。
御里屋敷で波乱の一生を閉じた元就は、この火葬場で荼毘に附されました。
近代日本であれば火葬は当たり前ですが戦国期には土葬が一般的だと思っていましたので、ちょっと意外な感じがあります。
そうなると墓の下には骨壺があるのかもしれず、いろいろと興味は尽きません。
1時間が目安とされているらしい吉田郡山城跡を2時間半ほどかけて攻めた後は、ようやくに安芸高田市歴史民俗博物館です。
写真は完全に雨が上がった後ですので青空が広がっていますが、展示を見ている間にそれまでとは違ってかなりの大きさの雨粒が叩きつけるように降り出しました。
仕方がないので普段よりもじっくりと展示物を見て回ったりショートムービーを見ているうちに雨が上がりましたので、次の目的に向かって突撃です。
予定では元就の女婿で一門衆となった宍戸隆家やその一族の墓を巡る予定だったのですが、地元の観光課の担当者の方に事前に送っていただいた地図を持って出るのを忘れてしまった失態に加えて、貸していただいた自転車が長距離の移動にはちょっとあれな状態だったので諦めて次回の課題に繰り越しました。
そのためにまずは尼子義勝の墓で、途中で斜め45度の大雨に遭遇をしたのは旅情篇で書いたとおりです。
尼子義勝は経久の弟で久幸の名の方が知られていますが、尼子氏が吉田郡山城を攻めた際の宮崎長尾の戦いで毛利氏の救援に駆けつけた陶隆房、後の晴賢の急襲を受けて混乱をした尼子本陣を守るために奮戦をしましたが敢えなく討ち死にをしてしまいました。
安芸高田の最後は相合元綱の墓です。
元綱は興元、元就の弟で、元就が家督を継いだ際に一部の家臣に担がれて対抗をしたことで元就に攻め滅ばされました。
一説には尼子氏が糸を引いて新宮党の豊久を毛利氏の家督に、元綱はその後見にとの目論見だったとも言われていますが、元就の機敏な対応にしてやられた形で坂広秀、渡辺勝らもあっけなく討ち取られたのですからさすがとしか言いようがありません。
もっとも元就と元綱は仲が良かったようで大河ドラマでもそういった描写がされており、その策略に怒った元就が尼子氏の傘下から大内氏に転じた理由の一つともされています。
そんなこともあってか元綱の子の元範は許されて敷名氏を興しており、また元就が自ら書き起こした系図には元綱、元範だけではなく孫までもが書き込まれているそうです。
ちなみにこの墓は元綱のものではなく、元就の末弟である北就勝のものとも言われているとはwikipediaの受け売りでした。
【2013年4月 広島、山口の旅】
三本の矢を探して
三本の矢を探して 旅程篇
三本の矢を探して 旅情篇
三本の矢を探して 史跡巡り篇 広島の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 福山、三原、竹原の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 北広島の巻
三本の矢を探して 史跡巡り篇 岩国の巻
三本の矢を探して グルメ篇
三本の矢を探して スイーツ篇
三本の矢を探して おみやげ篇