オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
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島津家の野望 第3章

2007-09-09 18:45:52 | ゲーム

 

文亀2年(1502年)冬、加治木城で今後の戦略に関する評定が開かれていた。

「殿、私を肝付城に遣わしてはいただけませぬでしょうか。」
肝付対策を論じている中、肝付兼固が発言した。
「今度こそ兼久殿を帰順させて見せまする。」
肝付城の肝付兼久は島津運久の軍に明応7年(1498年)秋に降伏したものの、その後2度に渡って謀反を起こしていた。
「肝付殿も今春に降伏してからは大人しくなっておるようですな。」
伊集院久昌が筆頭家老の伊集院忠公に問いかけた。
「どうやら外様衆に任ぜられたのが大きかったのかもしれませぬ。やはり京より遠く離れたこの地では将軍家の権威は未だ効果的でござりました。」
忠公が笑みを浮かべながら答えた。
「大口の菱刈殿も帰順いたしましたし、薩摩と大隅で当家に相対するのは本宗家と肝付殿のみ、孤独感を強めているのでしょうな。」
「しかしあれだけ何度も背いては、今さらという感じがしますが。」
久逸の嫡男である善久が、首を傾げるように言った。
「肝付殿に不審を覚えている者が当家に多いことは当人も存じているはず、下手に帰順して誅されることを恐れているのではないでしょうか。」
「だからこそ一族の私が赴くことで、その疑念を晴らせると考えまする。」
兼固が久逸の情にすがるかのように続けた。
「手をこまねいて肝付家を絶やしてしまっては、先祖に申し分けが立ちませぬ。兼久殿が帰順した後は私が目付として肝付城に残り、万が一再び兼久殿が背くような素振りを見せた場合は差し違えてでも止めてご覧に入れまする。」
「いっそのこと、兼固殿が肝付家を継がれればよろしいのではないか。」
久昌が周りを見渡して言った。
「叛服常無い肝付殿を肝付城に配すよりは、兼固殿に継いでいただいた方が当家にとっても為になると思われまするが。」
「勝手なことを申されないでいただきたい。」
兼固が憤然と立ちあがった。
「私にはそんな野心はござらぬ。もしお疑いであればここで腹を切ってお見せいたそう。」
「兼固、落ち着け。」
久逸がなだめるように言った。
「兼久殿もそろそろ潮時と感じているであろう。また他の者より兼固の方が腹を割って話しもできよう。兼固、兼久殿を説き伏せて参れ。」
「は、ありがたき幸せに存じまする。では、これにてご免。」
兼固があたふたと評定の場を後にした。

肝付城では肝付兼久と兼固が、ただ2人で相対していた。
「兼固殿、伊作殿は当家をお許しになられると申しておられるのか。」
「は、殿は兼久殿の力を貸していただきたいと申しておりまする。」
「とは言え我らは何度も敵対した身、伊作殿はともかく他の者どもが当家を許すとは考えられぬが。」
「その件につきましてはそれがしに全権をゆだねていただいておりまする。兼久殿がお心をお決めになられれば、重臣としてお迎えいたす所存にござりまする。」
「他国衆のそなたにそこまでの権限を与えるとは、伊作家は風通しのよい家中であるようだな。」
「殿は私を譜代衆と分け隔て無く遇してくださっておりまする。」
「うむ、もはや近隣で当家に味方する者もおらず、もはやこれまでか。」
「では。」
「兼固殿。今から加治木城に出仕いたすのでご案内をお願いしたい。」
「畏まりましてござりまする。」

「兼久殿、よくぞ決断なされた。」
加治木城の大広間に重臣が居並ぶ中、久逸が肝付兼久に声をかけた。
「恥を忍んで参りました。向後は伊作家の為に一命を賭して働く所存にござりまする。」
「うむ、兼固の努力の甲斐があったな。肝付殿を家中にお迎えすれば当家の威信が上がるは必定、これで本宗家も腹をくくるであろう。」
「島津殿は未だ帰順なされないのでござりまするか。」
「心ならずも運久殿に清水城を囲ませて、何度か降伏はさせたのだがな。」
「どうやら老臣の種子島殿が忠昌殿を唆しているようです。」
善久が久逸の言を継いだ。
「忠昌殿はもはや当家に敵対する意思はなきように思われますが、都度種子島殿が当家との手切れの使者を送ってくることからも、既に実権は種子島殿が握られているものと思われます。」
「樺山殿への工作はどうなっておる。」
「は、父上のご命令通り長久殿、信久殿と接触しておりますが、未だよい返事はいただけておりません。」
「よし、運久殿には引き続き城を囲むように使者を送るとしよう。善久は樺山殿との交渉を続けるがよい。」
大隅国を平定し、また薩摩国の平定もあと一歩のところまできた久逸は、充実した笑顔を居並ぶ家臣に見せた。


明応7年(1498年)秋  島津運久が肝付城を下し、肝付家が従属する。
明応7年(1498年)冬  島津運久を大将とした軍を清水城の攻略に向かわせる。
明応8年(1499年)夏  肝付城の肝付兼久が独立する。島津忠朝を大将とした軍を肝付城の攻略に向かわせる。
明応9年(1500年)夏  朝廷より正六位上・大内記に叙任される。島津忠朝が肝付城を下し、肝付家が従属する。
明応9年(1500年)冬  肝付城の肝付兼久が独立する。幕府より播磨守護職に任ぜられる。島津忠朝を大将とした軍を肝付城の攻略に向かわせる。
文亀1年(1501年)夏  朝廷より従五位下・主殿頭に叙任される。
文亀2年(1502年)春  島津忠朝が肝付城を下し、肝付家が従属する。島津運久が清水城を下し、島津家が従属する。
文亀2年(1502年)夏  清水城の島津忠昌が独立する。島津運久を大将とした軍を清水城の攻略に向かわせる。島津運久が清水城を下し、島津家が従属する。
文亀2年(1502年)秋  清水城の島津忠昌が独立する。幕府より外様衆に任ぜられる。島津運久を大将とした軍を清水城の攻略に向かわせる。
文亀2年(1502年)冬  朝廷より従五位上・越前守に叙任される。肝付城の肝付兼久が臣従する。

 


がっぷり四つに組んでの力負け

2007-09-09 16:42:45 | 千葉ロッテ

今日のこの不愉快さは、山寺宏一のくだらないコメントのせいだけではありません。
大事なこの時期に負けるべくして負けた、そんな試合展開に苛立っているからです。

渡辺俊は持ち味の緩急を使った投球が全くと言っていいほどできていませんでした。
よく3点で収まった、そんな内容でした。
立ち上がりから緩い変化球のコントロールが悪すぎで、ほとんどストライクになりません。
タイミングを外したくてもボール球では打者は振らず、苦し紛れのストライクゾーンのボールを軽く打たれていました。
球威のある投手ではないだけに、今日のような投球では抑えることは難しいでしょう。
最近はこんなピッチングばかりで、自分の投球ができていないという意味では清水や小野よりも今の渡辺俊は状態が悪いと思います。
以前にも書きましたが、どうも上体が沈みきっていないように思え、これが制球の乱れに繋がっているのかもしれません。
彼の立ち直りがチームには絶対必要なだけに、投球フォームのチェックを含めて早急な対策が必要だと考えます。

打線は希望通り昨日と同じオーダーでしたが、ヒットは出るものの残塁の山を築いてしまいました。
ポイントは2つあったと思います。
まずは2回の無死一塁の場面で大松にバントをさせずに結局併殺で終わったことです。
確かに大松はバントが巧い選手ではありませんし昨日4安打を放ちましたから、そのまま打たせたい気持ちはわかります。
しかし苦手な朝井を相手に先取点を取るには、確実にスコアリングポジションにランナーを送る方が重要であったと思います。
5回までずるずると朝井に抑えられたこと、これで試合の流れを楽天に向けてしまいました。

そして2つ目は、これが1番痛かったのですが、7回に福浦にバントを徹底させなかったことです。
バレンタイン監督は初球のバントを失敗するとエンドランに切り替えることが多く、この場面でもあっさりとバントを諦めてしまいました。
この性向は完全に相手ベンチに読まれていた感じで、テレビ解説ではたまたまと言っていましたが、あれは完全に読まれていたと思います。
あまりに単純な戦略でチャンスを潰したこと、これは今後の反省材料として欲しいところです。

お互いにチャンスを潰し、エラーを犯し、低いレベルでがっぷり四つに組んだ挙げ句の力負け、かなり疲労感の残るゲームでした。
幸いにも日本ハムもソフトバンクもきつい負け方をしましたので助かりましたが、今日は勝てる試合を落とした感が非常に強く、TSUYOSHIの怪我の具合も心配ですし、不安だけが残る1日となってしまいました。
明日からは天王山の日本ハム4連戦、首位に立つには3勝1敗が最低ラインの厳しい状況ですが、全勝するつもりで挑んで欲しいと思います。



1 2 3 4 5 6 7 8 9
千葉ロッテ 0 0 0 0 1 2 0 0 0 3 11 2
楽天 0 0 2 0 0 1 0 1 X 4 11 2


◆9月9日(日) 楽天-千葉ロッテ20回戦(ロッテ11勝9敗、14時、フルスタ宮城、17,908人)
▽勝 山村 29試合6勝2敗1S
▽S 小山 21試合1勝1敗13S
▽敗 川崎 39試合1勝2敗

▽バッテリー
千葉ロッテ 渡辺俊、荻野、川崎、薮田―里崎
楽天 朝井、渡邉恒、山村、小山―嶋

 

コメント (9)

島津家の野望 第2章

2007-09-09 03:47:06 | ゲーム

 

明応7年(1498年)春、加治木城の島津久逸の居室に嫡男の善久と筆頭家老の伊集院忠公が姿を見せていた。

「殿、そろそろ決起の時ではないかと。」
忠公が久逸の決断を促すかのように、いくつかの書状を久逸に手渡した。
「本宗家の討伐の許可をいただいてから2年、一向に動かない当家に対して朝廷や幕府より問い質す書状が届いておりまする。」
「それは一門衆も同様です。出水の山田殿や飫肥の北郷殿も先月こちらに見えられ、父上の優柔不断さをなじっておられました。」
善久も懐から書状を取り出し、久逸の膝元に置いた。
「そう焦るでない。朝廷や幕府などは当家からの献上を望んでのこと。一門衆にしても謀議が顕れることを恐れているに過ぎまい。」
久逸は手渡された書状に目を通すこともなく、背後の書棚にしまい込んだ。
「とは申せ、そろそろ時期かもしれぬな。」
「時期とは。殿は何を待たれているのでございますか。」
忠公がやや苛立ったかのような表情を久逸に向けた。
「もしや肝付城攻めの状況を見ておられるのでしょうか。」
善久がふと思いついたかのようにつぶやいた。
「うむ、そろそろ明かしてもよいであろう。忠公、もし当家が一門衆とともに謀反を起こした場合に本宗家はどう動くと見るか。」
「そうでございますな。一門衆まで背いたとすれば当家を挟み打ちにするために肝付家や伊東家と結ぶのが妥当かと。」
「当家とともに一門衆が決起したとしても薩州家は相良、豊州家は伊東を背後にかかえる以上はすぐに兵を出すことはかなうまい。そんな中で足元の肝付に攻めかかられれば独立どころの騒ぎではなくなることは明白であろう。」
「つまりは肝付が兵を出せぬところまで追い込むことが必要であるとのことでござりますか。」
「肝付さえ兵を出せねば、本宗家は動くことはできまい。一門衆とて肝付が動けぬ以上は心変わりすることもあるまいて。」
「一昨日に運久殿より肝付城は兵糧の蓄えも尽き、和睦の使者を送ってきたとの報せがありました。父上はこれを待たれていたのですね。」
「善久、運久殿からの使いはいかがしておる。」
「父上からの返書を待つよう、そのまま城中に残しています。」
「その使いにこの書状を渡し、運久殿にそのまま城を囲むように伝えよ。忠公は成久殿と忠朝殿に使者を送り、当家の決起をお知らせいたせ。」
「ではついに起たれまするか。」
「うむ、肝付が兵を出せぬようになった今が当家が立ちあがる好機である。」

そのころ島津本宗家の本拠である薩摩国の清水城では、蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。
「殿、伊作家の久逸殿がご謀反でござる。」
忠昌の居室に駆け込んできた樺山長久が叫んだ。
「樺山殿、冗談も休み休み言うがよい。伊作家は当家からの命により肝付城を攻めておる。なにゆえ謀反などと虚報を殿にお伝えいたすのか。」
忠昌の脇に座っていた種子島忠時が蔑むかのような顔つきで長久に言った。
「冗談でも虚報でもござらん。肝付城を攻めているのは相州家の運久殿で、久逸殿は加治木にて兵を揃えているとの報でござる。加治木城下に配していた忍びからの報にて間違いはござらぬ。」
「なにゆえ久逸殿が謀反なさるのか。当家に含むところなど久逸殿にはあるまい。」
「種子島殿。度重なる出陣を求めて伊作家の力を殺ごうとしたそなたの策が裏目に出たのではござらぬのか。」
「長久、やめい。忠時の策を入れたのは余である。そちは余を批判するのか。」
忠昌が長久に怒りの表情に向けた。
「失礼いたしました。そのようなつもりはござりませぬ。」
「して長久、久逸は兵をこちらに向ける様子はあるのか。」
「いえ、兵を揃えているとは言え、直ぐに出陣する気配はないであろうとのことでござりまする。」
「それはそうであろう。肝付城に兵を出している上に薩州家と豊州家にも備える必要がある中で、当城まで攻め込む力は久逸殿にはなかろう。」
忠時が勝ち誇ったように言った。
「薩州家と豊州家に使いを出し、加治木を攻めるように伝えれば直ぐに片づくであろう。」
「種子島殿、その薩州家と豊州家が久逸殿に同心しているよしにござりまする。」
「ありえぬ。豊州家はまだしも伊作家と薩州家は犬猿の仲、樺山殿は狼狽えているのではござらぬか。」
「種子島殿、現実を見られませ。伊作家は朝廷と幕府より当家の討伐令を得たとのこと。大義名分を得た久逸殿に一門衆が従うのは当然の理でござる。」
「なにゆえ当家の討伐令が出されたのじゃ。」
忠昌が青白い顔でつぶやいた。
「おそらくは久逸殿の策略、一門衆が出仕を拒んでいたのも久逸殿の仕業かもしれませぬ。」
「久逸がそこまで余を憎んでいるということか。」
「憎んでいると言うよりは追いつめられたというべきでござりましょう。度重なる肝付攻めで伊作家は疲弊していると聞いておりまする。」
「疲弊しているのであれば打ち破るのに苦労はあるまい。背に腹は代えられぬゆえ肝付殿と和睦してともに伊作家を攻めれば済む話ではないか。」
忠時が立ちあがり、長久を見下ろした。
「樺山殿、直ぐに肝付殿に使いを出して和睦せい。国見の蒲生や大口の菱刈にも合力の使いを送るがよい。」
「国見の蒲生範清殿は運久殿に2度打ち破られたことで伊作家に臣従したとのこと。大口の菱刈隆秋殿からも久逸殿とは昵懇ゆえ兵を出せぬと言ってきておりまする。また肝付殿は城を囲まれて当家を支援するどころではござりませぬ。」
「範清、隆秋・・・蒲生家は宣清殿、菱刈家は氏重殿が当主ではないのか。」
忠昌が不思議そうな顔で質した。
「そこは光栄の限界と言うことで・・・」
「よくわからぬが、まあよい。して長久、当家はいかがすればよいと考えるか。」
「援軍を得られぬ以上は当家単独で戦うしかないと考えまするが、まずは久逸殿の出方を見るがよいと存じまする。」
「手ぬるい。ここは島津本宗家の威信にかけても直ぐに久逸殿を討伐する檄を飛ばすべきであろう。」
忠時が叫んだ。
「気合いだけでは戦はできませぬ。殿、久逸殿とて本宗家を潰すことまで考えてはないと思いまする。まずは此度の謀反を質す書状を遣わしてはいかがでしょうか。」
「それしかないようだな。」
忠昌が疲れたような表情で答えた。


明応7年(1498年)春  島津本宗家からの独立を宣言する。薩州家島津成久、豊州家島津忠朝が追随する。
明応7年(1498年)夏  朝廷より正六位下・薩摩守に叙任される。幕府より摂津守護職に任ぜられる。