オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
since 2007.4.16
写真など一切の転用、転載を禁止します

他力本願に頼らず自ら勝ちにいくべし

2007-09-06 22:23:19 | 千葉ロッテ

楽天は得意のソフトバンク戦で今日も中盤までリードしていましたが、ロッテ戦では頑張る有銘や永井が炎上して逆転負けを喰らってしまいました。
これで3位転落、他力本願に頼らずに自ら勝ちにいくしかないようです。

そんな明日からの相手は楽天、岩隈も田中もいないので巡り合わせはいいのですが、とは言え好調楽天ですから油断は大敵です。
予告先発は久保とドミンゴ、何だかんだ言っても前回のドミンゴには割と抑えられましたので、やはり打線が鍵を握ることになるのでしょう。
まさに今、関東で猛威をふるっている台風が明日は東北を直撃するようですが、天気予報では夕方から回復に向かうようですので開催は微妙なところです。
先発陣が足りない楽天が、早々に中止を決める可能性もあります。
ロッテとしても目先の7連戦を考えれば中止はありがたいのですが、かと言って大事なところでのダブルヘッダーも困ります。
主導権を握っている楽天がどういった結論を導き出すのか、注目です。

何にせよ、週明けの日本ハム4連戦で首位を奪える位置はキープしなければ何も始まりません。
かと言って先の試合ばかり気にして足元をすくわれるわけにもいきません。
眼下の敵である楽天を叩き潰した勢いで日本ハム戦に臨む、そんな展開が最高でしょう。
平日にもかかわらず超満員のマリンスタジアムで首位に躍り出る、狸の皮をしまうところに困りつつあります(笑)

 

コメント (2)

島津家の野望 第1章

2007-09-06 21:02:14 | ゲーム

 

時は明応4年(1495年)秋、大隅国の加治木城を本拠とする伊作島津家では主立った家臣が評定のため登城していた。

「忠公、本宗家より使いが来たとのことだが。」
伊作家当主・島津久逸が筆頭家老の伊集院忠公に質した。
「は、いつものことですので用向きを聞いた上で、使いはそのまま帰しましてござりまする。」
「肝付城攻めの件か。」
「直ぐにでも出陣せよと。」
「こちらの都合も考えずに、忠昌殿にも困ったものよの。」
久逸は苦々しい表情で吐き捨てるように言った。
「度重なる出陣の要請、此度は無視するわけにはいかないのでは。」
二番家老の新納忠武が主君の顔色を窺うような素振りを見せながら、大隅国の地図を広げた。
「三州統一を目指すからには肝付城攻略はどうしても必要なことゆえ、忠昌様も焦られているのではないでしょうか。」
「それならば本宗家からも兵を出せばよいものの、いつも口だけで戦は一門衆に命令するだけではございませぬか。」
忠公の庶兄にあたる忠胤が、今にもつかみかからん勢いで忠武に反論した。
「兄上、落ち着かれよ。今は本宗家に逆らう力は我が伊作家にはござらん。力なき者は力ある者に従うしかないのが世の道理でござる。」
忠公の一言で、評定の場は重苦しい雰囲気に包まれた。

「叔父上、肝付城攻めには私が参りましょう。」
それまで黙っていた島津運久、久逸の甥にあたる相州家当主が口を開いた。
「形だけでも城を囲めば忠昌殿は満足されるでしょう。また城を囲めば衆目が集まりますれば、我々にとっても好都合かと。」
「その間に引き続き幕府や朝廷に働きかけるこということですね。」
久逸の嫡男である善久が、身を乗り出すようにして忠武が開いた地図に描かれた諸城を扇子で指し示した。
「幕府や朝廷への工作は今まで通り忠公殿にお願いするとして、私は出水の成久殿と飫肥の忠朝殿への働きかけを続けたいと思います。」
「しかし幕府と本宗家は昵懇の間柄。一門衆とて軽々に我らの話には乗ってこないのではありますまいか。」
伊集院家の庶流にあたる今給黎伊集院家の当主である久昌が善久に問いかけた。
「いえ、先年より忠公殿とも相談して伊賀・甲賀の忍びを召し抱えて各城下に流言を放っています。ようやく今年に入ってから効果が出始めたようで、忠昌殿は一門衆はおろか将軍家や朝廷にも疑いの目を向けているとの報せが届いています。」
「足利義澄様は忠昌殿に詰問の書を送られたとか。また成久殿も忠朝殿も清水城への出仕を拒んでいると聞き及んでおります。」
忠公が善久の言を引き継いだ。
「明年にも将軍家より本宗家の討伐令を得られるのは間違いないかと。また将軍家より奏上いただき帝の勅令をも合わせて得られれば、言を左右にしている一門衆も決断すると思われまする。」
「うむ。幕府や朝廷より大義名分さえもらえれば、薩州家も豊州家も忠昌殿を見限るに違いないであろう。」
久逸がようやく表情を明るくして、各将に指示を出した。
「運久殿にはご苦労ではあるが、忠胤に新納兄弟を連れて肝付城を囲んではくれまいか。」
忠胤と新納忠澄・忠祐兄弟が今にも駆け出しそうな勢いで立ち上がった。
「殿、私めも参陣させてはいただけないでしょうか。」
一番下座に座っていた肝付兼固が久逸の膝元までにじり寄って訴えた。
「従兄弟の兼久殿には私より何度も帰順するように説得しましたが、当家に敵する姿勢を変えておりませぬ。全ては私の至らぬことゆえ、その始末は自分でつけたいと存じまする。」
その表情からは周りの猜疑の目から逃れるための必死さが見て取れた。
「兼固、そちの忠誠を疑ってはおらぬ。此度は城を囲むだけゆえ大きな戦にはなるまい。それで気持ちが済むのであれば参るがよい。」
「ありがたき幸せ。この兼固、決して殿の期待を裏切りませぬ。」

その後、忠公に幕府・朝廷工作を、善久に一門衆への働きかけを指示した久逸は、清水城に出陣の使いを送るとともに、自らは城内にある仏堂に籠もった。
「父上、やはり忠昌殿では島津は保ちませぬ。裏切り者の汚名を着ようとも、私は三州統一のために立ち上がりまする。」
父・忠国の位牌に対して決意の報告をした久逸の、長い戦いがここに始まった。


明応4年(1495年)冬  島津運久を大将とした軍を肝付城の攻略に向かわせる。
明応5年(1496年)春  島津運久が肝付城を救援にきた大隅国・国人衆の蒲生範清を撃退する。
明応5年(1496年)秋  幕府より島津本宗家の討伐の御内書を得る。朝廷より島津本宗家の討伐の勅令を得る。
明応5年(1496年)冬  薩州家島津成久より同心の内諾を得る。
明応6年(1497年)秋  豊州家島津忠朝より同心の内諾を得る。島津運久が肝付城を救援にきた大隅国・国人衆の蒲生範清を撃退する。