明応7年(1498年)春、加治木城の島津久逸の居室に嫡男の善久と筆頭家老の伊集院忠公が姿を見せていた。
「殿、そろそろ決起の時ではないかと。」
忠公が久逸の決断を促すかのように、いくつかの書状を久逸に手渡した。
「本宗家の討伐の許可をいただいてから2年、一向に動かない当家に対して朝廷や幕府より問い質す書状が届いておりまする。」
「それは一門衆も同様です。出水の山田殿や飫肥の北郷殿も先月こちらに見えられ、父上の優柔不断さをなじっておられました。」
善久も懐から書状を取り出し、久逸の膝元に置いた。
「そう焦るでない。朝廷や幕府などは当家からの献上を望んでのこと。一門衆にしても謀議が顕れることを恐れているに過ぎまい。」
久逸は手渡された書状に目を通すこともなく、背後の書棚にしまい込んだ。
「とは申せ、そろそろ時期かもしれぬな。」
「時期とは。殿は何を待たれているのでございますか。」
忠公がやや苛立ったかのような表情を久逸に向けた。
「もしや肝付城攻めの状況を見ておられるのでしょうか。」
善久がふと思いついたかのようにつぶやいた。
「うむ、そろそろ明かしてもよいであろう。忠公、もし当家が一門衆とともに謀反を起こした場合に本宗家はどう動くと見るか。」
「そうでございますな。一門衆まで背いたとすれば当家を挟み打ちにするために肝付家や伊東家と結ぶのが妥当かと。」
「当家とともに一門衆が決起したとしても薩州家は相良、豊州家は伊東を背後にかかえる以上はすぐに兵を出すことはかなうまい。そんな中で足元の肝付に攻めかかられれば独立どころの騒ぎではなくなることは明白であろう。」
「つまりは肝付が兵を出せぬところまで追い込むことが必要であるとのことでござりますか。」
「肝付さえ兵を出せねば、本宗家は動くことはできまい。一門衆とて肝付が動けぬ以上は心変わりすることもあるまいて。」
「一昨日に運久殿より肝付城は兵糧の蓄えも尽き、和睦の使者を送ってきたとの報せがありました。父上はこれを待たれていたのですね。」
「善久、運久殿からの使いはいかがしておる。」
「父上からの返書を待つよう、そのまま城中に残しています。」
「その使いにこの書状を渡し、運久殿にそのまま城を囲むように伝えよ。忠公は成久殿と忠朝殿に使者を送り、当家の決起をお知らせいたせ。」
「ではついに起たれまするか。」
「うむ、肝付が兵を出せぬようになった今が当家が立ちあがる好機である。」
そのころ島津本宗家の本拠である薩摩国の清水城では、蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。
「殿、伊作家の久逸殿がご謀反でござる。」
忠昌の居室に駆け込んできた樺山長久が叫んだ。
「樺山殿、冗談も休み休み言うがよい。伊作家は当家からの命により肝付城を攻めておる。なにゆえ謀反などと虚報を殿にお伝えいたすのか。」
忠昌の脇に座っていた種子島忠時が蔑むかのような顔つきで長久に言った。
「冗談でも虚報でもござらん。肝付城を攻めているのは相州家の運久殿で、久逸殿は加治木にて兵を揃えているとの報でござる。加治木城下に配していた忍びからの報にて間違いはござらぬ。」
「なにゆえ久逸殿が謀反なさるのか。当家に含むところなど久逸殿にはあるまい。」
「種子島殿。度重なる出陣を求めて伊作家の力を殺ごうとしたそなたの策が裏目に出たのではござらぬのか。」
「長久、やめい。忠時の策を入れたのは余である。そちは余を批判するのか。」
忠昌が長久に怒りの表情に向けた。
「失礼いたしました。そのようなつもりはござりませぬ。」
「して長久、久逸は兵をこちらに向ける様子はあるのか。」
「いえ、兵を揃えているとは言え、直ぐに出陣する気配はないであろうとのことでござりまする。」
「それはそうであろう。肝付城に兵を出している上に薩州家と豊州家にも備える必要がある中で、当城まで攻め込む力は久逸殿にはなかろう。」
忠時が勝ち誇ったように言った。
「薩州家と豊州家に使いを出し、加治木を攻めるように伝えれば直ぐに片づくであろう。」
「種子島殿、その薩州家と豊州家が久逸殿に同心しているよしにござりまする。」
「ありえぬ。豊州家はまだしも伊作家と薩州家は犬猿の仲、樺山殿は狼狽えているのではござらぬか。」
「種子島殿、現実を見られませ。伊作家は朝廷と幕府より当家の討伐令を得たとのこと。大義名分を得た久逸殿に一門衆が従うのは当然の理でござる。」
「なにゆえ当家の討伐令が出されたのじゃ。」
忠昌が青白い顔でつぶやいた。
「おそらくは久逸殿の策略、一門衆が出仕を拒んでいたのも久逸殿の仕業かもしれませぬ。」
「久逸がそこまで余を憎んでいるということか。」
「憎んでいると言うよりは追いつめられたというべきでござりましょう。度重なる肝付攻めで伊作家は疲弊していると聞いておりまする。」
「疲弊しているのであれば打ち破るのに苦労はあるまい。背に腹は代えられぬゆえ肝付殿と和睦してともに伊作家を攻めれば済む話ではないか。」
忠時が立ちあがり、長久を見下ろした。
「樺山殿、直ぐに肝付殿に使いを出して和睦せい。国見の蒲生や大口の菱刈にも合力の使いを送るがよい。」
「国見の蒲生範清殿は運久殿に2度打ち破られたことで伊作家に臣従したとのこと。大口の菱刈隆秋殿からも久逸殿とは昵懇ゆえ兵を出せぬと言ってきておりまする。また肝付殿は城を囲まれて当家を支援するどころではござりませぬ。」
「範清、隆秋・・・蒲生家は宣清殿、菱刈家は氏重殿が当主ではないのか。」
忠昌が不思議そうな顔で質した。
「そこは光栄の限界と言うことで・・・」
「よくわからぬが、まあよい。して長久、当家はいかがすればよいと考えるか。」
「援軍を得られぬ以上は当家単独で戦うしかないと考えまするが、まずは久逸殿の出方を見るがよいと存じまする。」
「手ぬるい。ここは島津本宗家の威信にかけても直ぐに久逸殿を討伐する檄を飛ばすべきであろう。」
忠時が叫んだ。
「気合いだけでは戦はできませぬ。殿、久逸殿とて本宗家を潰すことまで考えてはないと思いまする。まずは此度の謀反を質す書状を遣わしてはいかがでしょうか。」
「それしかないようだな。」
忠昌が疲れたような表情で答えた。
明応7年(1498年)春 島津本宗家からの独立を宣言する。薩州家島津成久、豊州家島津忠朝が追随する。
明応7年(1498年)夏 朝廷より正六位下・薩摩守に叙任される。幕府より摂津守護職に任ぜられる。