永正6年(1509年)秋、加治木城の大広間は歓喜の声に満ち溢れていた。
「これでようやく念願の三州統一が成りましたな。」
筆頭家老の伊集院忠公が満面に笑みを浮かべて言った。
「伊東殿が臣従なさるとは、やはり九州探題を拝命したことが大きかったようでござるな。」
「まだ清水城が残っておる。」
忠公の庶兄の忠胤が怒鳴った。
「いや、忠昌殿もようやく落ち着いてこられたようで、もはや独立騒ぎを起こすこともなかろうと存じまする。」
相州家当主の島津運久が穏やかな表情で答えた。
「嫡男の忠治殿が忠昌殿を諫めておられるようで、重臣が出奔した今では頼るは忠治殿のみとなったことで忠昌殿も大人しくしているようにござりまする。」
「それもこれも幾度となく清水城を下した運久殿のおかげでござる。」
伊集院久昌が周りを見回して言った。
「運久殿の采配と新納一族の奮闘があってこその清水城攻略でござった。此度の三州統一は運久殿が勲功一番でござろう。」
「私よりも忠良様のご活躍の方が大きかったと存じまする。伊東殿を説き伏せたは見事でございました。」
運久の言葉で広間にいた重臣が一斉に忠良の方を見た。
「確かにあれだけ抵抗していた伊東殿を臣従させたは、忠良様のお手柄にございました。」
肝付城から肝付兼久の名代として来ていた兼固が言った。
「そんなことはございませぬ。県城を下された忠朝殿のご活躍あってこそ、私は最後に使者として赴いたに過ぎませぬ。」
島津久逸の孫で善久の嫡男にあたる忠良は、豊州家の名代として来ていた嫡男の忠興の方を見て答えた。
「いやいや、私めも副使として県城に赴きましたが、忠良様の弁あってこそでございました。伊東殿も忠良様の威に服されたと申しておりました。」
「忠良をこれ以上つけあがらせないでいただきたい。」
久逸の隣に座っていた善久が、苦笑いを浮かべながら言った。
「初陣すら済まさぬ若輩者、あまりつけあがらせるといつかこちらが痛い目にあうことになる。」
善久の言に、広間が笑いの渦に包まれた。
「して、今後はどういたしまするか。」
二番家老の新納忠武が久逸の方を向いて言った。
「忠武はどう考えるか。」
「三州統一が成ったからには、次は九州統一を目指すが妥当かと存じまする。」
「幕府より九州探題に任ぜられましたからには、それが妥当でございますな。」
忠公も続けた。
「うむ、まずは九州を治めて足場を固めることが重要であろうな。」
「足場と申されますと。」
「上方では管領の細川殿が勢力を広げており、潰された家も多いと聞く。四国もほぼ全域が細川家に服しており、このままでは九州に進出するのも近いであろう。」
「畠山家、北畠家、長野家、一色家、山名家、斯波家、松平家、西園寺家、多くの家が細川殿に滅ぼされています。」
島津家の諜報を束ねる善久が言った。
「幕府が当家に西国探題、九州探題と現在の当家の力を越える役職をくだされたのも、細川殿に対抗して欲しいとの将軍家の思いがあるとのことでございます。」
「しかし幕府を牛耳るは細川殿、将軍様の思い通りにはならぬのではございませぬのか。」
忠武が善久に問うた。
「細川殿も当初は反対なされたとのことですが、近衛殿のご意向もあり渋々お認めになられたとのことです。」
「近衛殿にはいつもご面倒をおかけしておる。善久、近衛殿にはお礼の使いを送るように手配いたせ。」
「やはり次は阿蘇殿でござろう。」
忠公が周りを見渡して言った。
「大友殿や菊池殿よりも使者が参っておるゆえ、共同して攻めれば岩尾城を下すはたやすいと存じまする。」
「その次はどういたしまするか。ここで大友殿や菊池殿と手を結べば、北に進むが困難になりまする。」
忠武が反論した。
「とは言え、全てを敵に回すわけにはいかぬであろう。忠武殿は当家にその力があるとお考えか。」
「肥後口は成久殿、日向口は忠朝殿に攻め上がっていただき、殿は戦況を見て後詰めいただければ両面での北上は可能と考えまする。」
「菊池殿はともかく、大友殿は簡単に敵に回してよい相手ではござらぬ。」
「大友殿は大内殿とも構えておりまするゆえ、大内殿と手を結べば戦えぬ相手ではないのではござらぬか。」
久昌も忠武に賛同した。
「それでは大友殿や菊池殿と結べば次がない、と同じでござる。北上すれば豊前や筑前の大内殿とぶつかるは必定、その時はどうするつもりでござるか。」
「叩き潰せばよいではないか。」
忠胤が叫んだ。
「兄上、簡単に言わないでくだされ。大内殿は6カ国を治める評定衆にござりまする。」
「当家は九州探題、何を臆することがあろうか。」
「忠胤、暫く黙っておれ。」
「しかし、殿。」
「黙っておれと言ったが聞こえぬのか。」
忠胤が赤い顔をしてうつむくと、周りから小さな笑い声が漏れた。
「忠公の申すことも尤もであるし、また忠武の申すことも間違ってはおらぬ。」
久逸が諭すような口調で言った。
「大友殿は油断ならぬ相手であるし、大内殿は強敵である。しかし細川殿に飲み込まれぬ為には打ち破るしかあるまい。」
「では」
忠胤が口を開きかけたが、久逸が睨むと再び口を閉じた。
「細川殿の勢いは衰えるところを知らぬ。善久の調べによると既に23国を治めたとのこと、当家としても急いで九州を統一しなければ取り返しのつかぬ事になろう。」
「忠武殿のお考えのように肥後口と日向口を同時にお攻めになるとお考えにござりまするか。」
忠公が久逸に問うた。
「いや、それでも足りぬ。我が軍を5つに分けることとする。」
大広間にどよめきが広がった。
「肥後口は今まで通り、成久殿に山田と川上の勢で阿蘇殿を攻められよ。また日向口も忠朝殿に北郷と種子島の勢で大友殿を攻められよ。」
忠興と豊州家の名代として来ていた北郷数久が頭を下げた。
「忠武は一族を連れて県城に行き、伊東殿とともに忠朝殿を助けよ。また忠胤は久昌とともに人吉城に行き、相良殿とともに成久殿を助けよ。」
県城は臣従した伊東尹祐がそのまま城主として守っており、また人吉城は相良一族の相良治頼が城主となっていた。
「向後は本軍を含めたこの5つの軍団で展開していくこととする。残された時間が少ないことを忘れるでないぞ。」
三州を統一した久逸は勢力を広げる細川家に対抗すべく九州統一を急ぐために軍団を分割する選択をしたが、これが島津家の軍制を根本から変える革新的な選択であったことを今の久逸は知るよしもなかった。
永正3年(1506年)秋 朝廷より従四位下・弾正大弼に叙任される。幕府より西国探題に任ぜられる。
永正4年(1507年)春 朝廷より従四位上・蔵人頭に叙任される。島津忠朝を大将とした軍を県城の攻略に向かわせる。
永正4年(1507年)夏 島津運久を大将とした軍を清水城の攻略に向かわせる。
永正5年(1508年)春 島津忠良が元服する。
永正5年(1508年)秋 朝廷より正四位下・参議に叙任される。
永正5年(1508年)冬 幕府より九州探題に任ぜられる。
永正6年(1509年)春 島津運久が清水城を下し、島津家が従属する。
永正6年(1509年)夏 島津忠朝が県城を下し、伊東家が従属する。
永正6年(1509年)秋 県城の伊東尹祐が臣従する。