オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
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ポジティブ思想も限界

2007-09-15 21:43:07 | 千葉ロッテ

柄にもなくポジティブ思想を続けてきましたが、そろそろ限界です。
なんだかチームがバラバラになっているように思えます。

久保が怒り爆発していたようです。
5回に4点を失ったところで交代、ベンチに戻る時にバレンタイン監督の方を向いてなにやら言いながら睨み付けて、奥に入る時に帽子とグラブを投げつけていました。
久保が見ていた方向にいたのはバレンタイン監督ぐらいで、監督自身は久保を見ることなく苦虫をかみつぶしたような表情でした。
打ち込まれた投手なんてあんなものでしょうし、そんな時の措置としては無視が一番なのは確かでしょうが、それであれば袴田コーチなり井上コーチなりがフォローをしていればいいのですが、そこまでは映像にはありませんでしたのでわかりません。
ただベンチに戻ってくる久保を迎えようと笑みを浮かべながら立ちあがったベニーがそのまま近寄ることができなかったぐらい、久保の怒りは大きかったようです。
確かに今日の久保は低めを丹念につく丁寧な投球で4回までは危なげないもので、5回も今江のエラーが絡んだり飛んだところが悪かっただけで、本人としては打ち込まれたという感じがしなかったと思います。
そして前の2打席を完璧に近い形で抑えていたローズのところで交代ですから、怒るのも無理はないかもしれません。
もう少し早くマウンドに行って一呼吸入れて、それでも打たれたら交代ならよかったのではないかと残念でなりません。
警戒しなければいけなかった両外国人にだめ押し打を打たれた時点で、今日の試合はほとんど終わってしまいました。

それにしても最近は先発投手が早々に代えられるケースが目立ちます。
シーズン序盤は先発投手が打ち込まれても6回か7回ぐらいまでは辛抱強く我慢して、それが功を奏して逆転勝ちというケースもあったのですが、連続して点を取られたら終わりというのが最近の傾向です。
結果が出ていない清水や小野ならまだしも、今や第3の投手である久保までそうではローテーション崩壊と言ってもいいかもしれません。
バレンタイン監督と先発投手陣の亀裂は、想像以上に深いのかもしれません。

その久保の足を引っ張った今江のプレー、軽率すぎました。
胸に当てて落としたのはともかくとして、巧くバウンドした球を拾えたのですから焦る必要は全くなかったのに送球がそれました。
今江に限らずこういった集中力の欠けたようなプレーが目立つのは、チームが浮き足立っているのが理由ではなく、やはり何かプレーに集中できないものがチーム内にあるのではないかと思えてしまいます。
ポジティブ改めネガティブ思想全開で考えると、やはり内紛でしょうか。
球場で見てもテレビで見てもベンチ内のコミュニケーションの少なさは異常とも思えるレベルにありますので、これでは期待するのがバカみたいなことになっていきそうな気もします。
そんな雰囲気を打破するための特効薬は勝利以外にありませんので、鶏が先か卵が先かになりますが、とにかく勝つしかありません。
その勝ちのためには打線の奮起も必要ですが、やはり予想したとおり鍵はその打線でした。
ヒットは出ても得点に繋がらない、これも各選手の気持ちが離れてしまっているからだというのは思いすぎなのでしょうが、そう思いたくなるほどのちぐはぐぶりです。

小宮山が今日もロングリリーフでしたから谷間の先発はなくなりました。
となると吉井にお鉢が回ってくる可能性が高くなりましたが、ここで吉井が炎上するようですと完全にチームはバラバラになると思われます。
100球に未たず降板した久保が中5日で起用されて好投、バレンタイン監督とがっちり握手なんて展開になってくれることを祈るしかありません。
そんな流れになるためにも、渡辺俊の死ぬ気の投球を期待します。



1 2 3 4 5 6 7 8 9
千葉ロッテ 0 0 1 0 0 0 0 0 0 1 11 1
オリックス 0 0 0 0 5 0 0 0 X 5 10 0


◆9月15日(土) オリックス-千葉ロッテ20回戦(ロッテ10勝9敗1分、18時、京セラドーム大阪、18,372人)
▽勝 デイビー 25試合7勝11敗
▽敗 久保 17試合8勝7敗

▽バッテリー
千葉ロッテ 久保、高木、小宮山―里崎
オリックス デイビー、大久保、菊地原、加藤大―日高

 

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島津家の野望 第4章

2007-09-15 02:13:51 | ゲーム

 

永正3年(1506年)夏、加治木城の島津久逸の居室では、嫡男の善久と筆頭家老の伊集院忠公が深刻な顔つきで談合を続けていた。

「父上、このままでは家中に不穏な動きすら出かねません。」
善久がやや青白い顔を向けながら、久逸に訴えた。
「寛容な処置も時と場合によります。度重なる本宗家の独立騒ぎに、運久殿すら不満の声を漏らしていると聞いています。」
「運久殿には何度も清水城まで出陣願いましたから、成果の出ない現在の状況に苛立ちを感じているものと思われまする。」
忠公もやや強い口調で続けた。
「殿が忠昌様に手をかけられることを躊躇なさるお気持ちは充分にわかりまするが、忠昌様はそのお気持ちを利用されているようにしか思えませぬ。兄上などは自ら清水城に乗り込んで首をはねてくれると、家中に同士を募っている始末にござりまする。」
「忠胤らしいの。」
ようやく久逸が口を開いた。
「笑い事ではござらぬ。」
「許せ。しかし思い通りに事は運ばぬものよの。」
「清水城に流言を飛ばして樺山殿を出奔させたまでは計画通り、しかしまさか種子島殿まで出奔してくるとは予想外でござりました。」
「うむ、忠時は根は臆病者ゆえ忠昌殿の側に置いておけばいつかは当家との和睦を策すと思うておったのだが、ちと計算外であったの。」
「種子島殿が忠昌様を唆していたことは事実のようでござりまするが、どうやら過半から忠昌様がその気になって家臣の言うことを聞かなくなったようで、最後まで忠節を尽くしていた信久殿まで半ば追放に近い形で追いやったと聞いておりまする。」
父の長久が出奔した後も島津忠昌の側近として仕えていた樺山信久も、度重なる独立騒動に愛想を尽かし父を頼って出奔してきていた。

「本宗家の事は暫くは様子見でよいと思います。樺山殿や種子島殿がいなければ忠昌殿も何もできないでしょう。それよりも伊東や相良です。」
善久が声を荒げた。
「そもそも忠昌殿が強気なのも、裏で伊東や相良が糸を引いているからだとの噂もあります。特に伊東が当家に従属しながらも盛んに清水城と連絡を取っていたことは先日もご報告したとおりで、甘い顔をしているからつけあがっているのだとの不満が家中に満ちています。」
「同族の降伏をお認めになることについては家中も大方は得心しておりまする。しかし不倶戴天の敵である伊東までお許しになられたのは、三州統一を目指す当家にとっては足枷にしかならぬと思いまする。」
忠公も続けた。
「血で血を洗うような争いは、何も生まぬ。」
苦渋の表情で久逸は2人を見た。
「伊東や相良の首を取ることはたやすい。しかしその後の領国経営を考えれば、生かして利用する方がよいことは間違いあるまい。」
「それはわかります。しかし気心の知れた国衆などであればまだしも、伊東や相良などは面従腹背するばかりで当家に信服するとも思えません。成久殿が人吉城攻めに失敗したと見るや直ぐに背いたことが、それを裏付けています。」
今春に島津忠朝の攻撃に降伏したばかりの伊東尹祐は、島津成久の人吉城攻めの失敗が伝わった翌日に独立の旗を揚げていた。
「仕方あるまい。」
久逸が立ちあがった。
「できうれば伊東殿、相良殿も麾下に取り込んで力を蓄えたかったが、このままでは忠昌殿も含めて同じ事の繰り返しになろう。」
「では」
「うむ、善久に留守居役を命ずる。此度はこの久逸が自ら相良を攻めてくれよう。」
この久逸の決断が伊作島津家を大きく飛躍することのきっかけになったことを、この時点では誰も気がついていなかった。


文亀3年(1503年)春  島津忠朝を大将とした軍を県城の攻略に向かわせる。
文亀3年(1503年)夏  島津成久を大将とした軍を人吉城の攻略に向かわせる。
文亀3年(1503年)秋  樺山長久が清水城を出奔してくる。
文亀4年(1504年)春  朝廷より正五位下・大蔵大輔に叙任される。
永正1年(1504年)夏  種子島忠時が清水城を出奔してくる。
永正2年(1505年)春  島津本宗家が朝敵となる。島津運久を大将とした軍を清水城の攻略に向かわせる。
永正2年(1505年)夏  朝廷より正五位上・左中弁に叙任される。島津運久が清水城を下し、島津家が従属する。
永正2年(1505年)秋  清水城の島津忠昌が独立する。
永正2年(1505年)冬  樺山信久が清水城を出奔してくる。
永正3年(1506年)春  島津忠朝が県城を下し、伊東家が従属する。島津成久が人吉城の攻略に失敗する。
永正3年(1506年)夏  県城の伊東尹祐が独立する。島津久逸が大将となり人吉城の攻略に向かう。島津久逸が人吉城を下し、相良家を滅ぼす。