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オリオン村(跡地)

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笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 白石、名取の巻

2015-08-18 00:06:47 | 日本史

 

二日目の午前中に白石に入り、伊達政宗の股肱の臣である片倉小十郎景綱、そして片倉氏がらみの史跡巡りです。
白石は6年前に発作的に北国に旅立ったときに訪れているのですが、そのときは下調べも時間も足りていませんでしたし、冬場とはまた違った顔を見せてくれました。
同じところを巡るのも思い出深いものがあり、これはこれでまたいいものです。

白石駅前のポストの上には、白石城の模型があります。
かなりちゃちいので逆効果ではないかとも思いますが、白石の象徴として親しまれているのでしょう。
wikipediaによれば天守閣、正しくは三階櫓ですが1997年に再建がされたとあり、こちらの一周年記念とは微妙に時期がずれています。

さっそくにその白石城に向かいたいところではあったのですが、夜にkoboスタ宮城でのナイターがあるので効率的に、最短経路で巡るべくまずは延命寺です。
この山門はかつて白石城の厩曲輪にあったもので、厩口門と呼ばれていました。
二階建て瓦葺きで、明治維新後に延命寺に移設をされて今に至ります。

次なるは伊達政宗の陣馬跡です。
関ヶ原の合戦のときの白石城は上杉氏の支配下にあり、それを攻めた政宗が陣を構えたのがこの地となります。
何があるわけでもなく、ちょっと登ればやや開けた場所があるだけでした。

そこにあるのが、世良修蔵の墓です。
福島で慰霊碑を訪れたので、通り道でもあったことで足を運んでみました。
仙台藩士に暗殺をされた修蔵はその首が白石市の月心院に葬られて、明治三年にこちらに改葬をされ、明治八年に墓碑が建てられたとは説明板の受け売りです。

次に片倉氏の廟所に向かったのですが、どうやら入口を見落としたようで先に見つけたのが田村氏の墓所です。
陸奥三春を本拠としていた田村氏は清顕の娘である愛姫が政宗に嫁ぎ、清顕に跡継ぎがないままに没した後の家督争いで伊達氏の後押しで甥の宗顕が跡を継いだことで伊達氏に組み込まれましたが、しかし豊臣秀吉には独立大名とみなされて小田原への不参を理由に改易をされてしまいました。
そのため宗顕は小十郎景綱の嫡男で白石城主となっていた重長を頼って白石に隠棲し、よって田村氏の墓所も白石にあります。

中央に位置するのが清顕の墓で、白石に落ちてきたのは宗顕ですから、こちらは供養墓のようなものなのでしょう。
清顕は父の隆顕が伊達稙宗の娘を娶ることで蘆名氏、佐竹氏、相馬氏らの圧力から家を保ったのと同じく、自らは相馬顕胤の娘を正室に迎えるとともに愛姫を政宗に嫁がせることで小なりとも存在感を見せて、ときには各氏の間を取り持つなどの役割を担いました。
改易をされた宗顕は結果的に家を潰してしまい、子の定広が片倉氏を称したことで坂上田村麻呂を祖と称する田村氏もここで途絶えます。
しかしその後に愛姫の願いで政宗の嫡男である忠宗の三男、宗良が田村氏を再興し、伊達氏内3万石の領主として岩沼藩、後に一関藩を治めて幕末を迎えました。
写真は左から清顕、宗顕、定広で、実際の位置関係は清顕の右隣が宗顕、左隣が定広です。

定広の左隣には阿菖蒲、さらにその左に真田幸村の墓があります。
阿菖蒲は幸村、自分としては信繁の方がしっくりとするのですが、その信繁の五女で定広の正室です。
姉の阿梅が片倉重長に嫁いでいますので重長と定広は相婿であり、また小十郎景綱の姉である喜多の名跡を継いだことで定広は片倉氏を名乗ることとなりました。
写真は左が阿菖蒲、右が幸村こと信繁です。

喜多は小十郎景綱の姉ではありますが、父は鬼庭左月良直です。
嫡男が得られないことで母が離縁をされて片倉景重に再嫁をしましたので、政宗の重臣である小十郎景綱は異父弟、鬼庭改め茂庭綱元は異母弟ですから伊達氏にとっては重鎮とも言える存在だったのではないかと、しかも政宗の養育係でもありましたのでなおさらです。
だからこそ、これほどの墓所が構えられているのでしょう。
ちなみに喜多と言えば竹下景子、そのイメージは今でも変わりません。

来た道をやや戻っての、片倉氏廟所です。
かなり大きな看板が登り口にありましたのでなぜに見落としたのか、暑さでボーッとしていたとしか思えません。
初代景綱から十代宗景までの墓が整然と並んでおり、宗景を除いての仏像の墓石は初めて見ました。

小十郎景綱は言わずと知れた政宗の側近中の側近で、これまた西郷輝彦のイメージがこびりついています。
伊達輝宗の小姓から政宗の近侍に転じたのは姉の喜多が政宗の養育係だったことも理由でしょうし、それだけ若いうちから家中でも将来を嘱望されていたものと思われます。
その期待に違わず知勇兼備の将として政宗を支え、一国一城令の例外としての白石城を預かり1万8000石の家祖となりました。
跡を継いだ重綱、改め重長はその嫡男で、父に劣らぬ「鬼の小十郎」として伊達氏の次代を担った中心的な武将の一人です。
真田信繁の遺族を引き取り、その娘を継室にするなど、気骨のある人物だったのでしょう。
写真は左が景綱、右が重長です。

重長には男子が無かったことで娘が嫁いだ仙台松前氏の安広の嫡男である景長を養子に迎えて、3代当主とします。
よって小十郎景綱の男系としての血は、残念ながら途絶えることとなりました。
景長は伊達騒動に際して国元の混乱を抑えるなどして伊達氏の改易を免れましたので、片倉氏の名に恥じない器量の持ち主だったのでしょう。
4代は嫡男の村長が継ぎますが26歳で若死にをし、その子の村休が5代となるものの子が無いままに37歳で没したことで、宮床伊達氏の村信が養子に入り6代となりました。
当時の本宗家は宮床伊達氏から入った吉村が5代藩主で村信はその甥にあたることから、伊達氏の片倉氏に対する思いが見て取れます。
しかし村信は実兄が急死をしたことで実家を継ぐこととなり、村休の叔父、村長の弟である村定が7代となりました。
これまた村定にも継ぐべき子が無かったことで再びに仙台松前氏から養子を迎えての8代村廉となり、その三男の村典が9代、その嫡男が10代景貞、その子が11代宗景、その嫡男である12代邦憲のときに戊辰戦争の敗北により白石城を取り上げられましたが、その後は青葉神社の宮司として片倉氏は続いています。
ちなみに先に初代景綱から10代宗景までと書きましたが、片倉氏廟所では実家に戻った6代村信は代に数えられていないようです。
写真は上段左から景長、村長、村休、村定、村廉、村典、景貞、宗景です。

そしていよいよ白石城です。
登り口にあるのが東口門跡で、この東口門は正式には二ノ丸大手二ノ門となります。
そこに連なるのが本丸跡外郭石垣で、やや分かりづらいかもしれませんが中央の右側と左側とでは石垣の積み方に差異があり、左側が野面積み、右側が切込み接ぎとなっており、大雨により崩れた石垣を野面積みよりも新しい技法である切込み接ぎにより修復をしたことでこうなっている、とは例によっての説明板の受け売りでした。

そこを直進すると休憩所や白石城歴史探訪ミュージアムがありますが、それを横目に井戸屋形です。
復元をされたものですが形だけなのか、覗いて見ましたが実際の井戸にはなっていないようでした。
それでもこういった細かなところまで復元をしてくれているのは好印象で、自治体のやる気が感じられて嬉しくなります。

その左手には大手一ノ門、1997年の再建です。
木造一重本瓦葺きで高さは約4メートル、幅は約5メートル、やや小ぶりな門となっています。
本丸に向かうに際しての最初の関門、道に曲がりがあるのは攻め手の勢いを殺すためとは独り合点ですが、写真を撮るには格好の曲がり具合でした。

こちらは大手二ノ門で、やはり1997年の再建となります。
木造二重本瓦葺きで高さは10メートル弱、門扉を備えていますから本丸を守る最後の砦といったところでしょう。
渡り型の櫓門であり、小領主の居城のそれとしては相当な規模を誇っていることに、大大名である伊達氏の重臣、片倉氏の誇りのようなものを感じさせます。

それは天守閣も同様です。
幕府に慮っての三階櫓と称していたようですが、どこをどう見てもこれは天守閣でしょう。
こぢんまりとしていますがやはり陪臣である片倉氏の居城としては立派なもので、そして何より木造での復元が喜ばしいです。
「白石城は出来る限り旧白石城と同じ規模、同じ建築方法による復元を目指し、三階櫓(天守閣)は旧跡地に建てる。文献資料収集、発掘調査などによって、出来るだけ原型に忠実に復元する」との方針の下、相当なコストがかかったでしょうが名古屋城の木造による復元計画でも400億円ですから新国立競技場に税金を投入するぐらいであれば、地方自治体のこういった動きに対しての援助金として欲しいとは城フリークの独り言です。

天守閣の脇には本丸井戸と鐘堂で、籠城戦に水の手の確保は欠かせません。
鐘堂の鐘は1466年に鋳造をされて元は東昌寺にあったもので、何度か再鋳をされて今は傳来寺にあるとのこと、もぬけの殻のようで寂しくもあります。
ちなみに東昌寺は今は仙台に移り、伊達氏にかかる墓が遺されています。

前回、6年前もそうでしたが、天守閣に登ればどうしてもこのカットで写真を撮りたくなります。
大手一ノ門、大手二ノ門がきれいに映り込む構図で、いくら眺めていても飽きません。
平日ではありながらも人影はまばらで、もし船橋にこういった城跡があれば自分であれば事ある毎に足を運ぶことでしょう。

傑山寺は、片倉氏の菩提寺です。
小十郎景綱が開山として建立がされましたので、その戒名である傑山常英大禅定門から名付けられたのでしょう。
片倉氏廟所ではなく傑山寺に小十郎景綱の本墓があり、しかし敵にあばかれないよう墓石を造らずに一本の杉を墓標としたとされています。

その墓標に、の前に、片倉小十郎景綱の像です。
実際にかなり男前だったらしいのですが、この像は老齢にさしかかったときの姿のようですので渋みが優先です。
昨今のゲームキャラの影響でイケメンになっていたらどうしよう、と要らぬ心配をしていただけに、ホッと一息といったところでした。

本堂の裏手にあるのが小十郎景綱の、一本杉の墓標です。
没したのは1615年、大坂の役も終わり徳川の世が確実になっていましたので大袈裟な感じはあるのですが、まだ戦国の気風が残っているからこそのものなのでしょう。
南朝の名臣である菊池武光も墓石はなく、菊池の正観寺にある楠がその墓標とされていますので、相通ずるものがあります。
脇にあるのは後世に造られた供養塔なのかもしれず、しかし説明板にも何も書かれていなかったので実際のところは分かりません。

左手の道を進んでいけば、片倉氏の墓所があります。
菩提寺ですのであっておかしくはないのですが、当主の墓は先の廟所にありますので、おそらくは妻女や子弟などの墓所なのでしょう。
やはり仏像を模した墓石もありましたが、どれが誰のものかは分かりませんでした。

さらに左手には、仙台松前氏の墓所があります。
松前藩初代藩主の慶広は戦国期を生き抜いた武将ですが、その七男の安広は政宗に請われて伊達氏に仕え、準一家の家格で2000石を食みました。
安広はたまたま白石を通ったときに片倉重長と出会い意気投合、白石の地を気に入り、また重長の娘を娶ったことが縁で伊達氏に仕えることとなった、との話も伝えられていますが、どちらかと言えばこちらの方が夢とロマンがあってよいかなと思います。
将棋の駒のような型の墓石が整然と並んでいますが説明板もないのでどれが誰だかが分からず、戒名を控えて帰ってきてから調べた結果が以下となります。

初代の安広は先に書いたとおり慶広の七男で、重長の娘婿となったことで片倉氏との繋がりが生じます。
重長に男子が無かったことで嫡男、重長からすれば外孫にあたる景長が重長の跡を継ぎ、よって片倉氏を乗っ取った形になったと言えなくもありません。
その後も片倉氏とは養子縁組、通婚を重ねており、片倉氏と仙台松前氏は同族と言ってもよいように思います。
兄が片倉氏を継いだことで次男の広国が2代となり、娘が景長の子である片倉氏4代の村長に嫁いでいますので、その関係は盤石といったところでしょう。
また伊達騒動をモチーフとした伽羅先代萩に登場をする松前鉄之助は、この広国がモデルとのことです。
写真は左が安広、右が広国です。

広国には跡を継ぐ子に恵まれなかったことで五弟の為広が3代となり、嫡男の広雄が4代、次男の広高が5代、広高の嫡男である脩広が6代を継ぎ、しかしここで男系が途絶えてしまい、3代為広の女婿である佐々定條の孫である広義が入って7代、その後は無難に8代広文、9代広憲、10代広胖と嫡男が継いでいきました。
それだけに佐々氏から養子を取ったのが残念でもあり、片倉氏に入った広高の次男の村廉の系譜から何とかならなかったのかと思ったりもしています。
この佐々氏が織田氏の重臣であった佐々成政と関係があるのかどうか、どうやらこちらは定、もしくは元を通字としているようですので、別の流れなのでしょう。
写真は上段左から為広、広雄、広高、脩広、広義、広文、広憲、広胖です。

この片倉氏と仙台松前氏、着坐の家柄で3036石の佐々氏との関係は、上記のとおりです。
養子関係を矢印で示せればもっと分かりやすくなるのですが、線がこんがらがりますので割愛をしています。
こう見てみると片倉氏は仙台松前氏の、仙台松前氏は佐々氏の男系に入れ替わっているわけで、いろいろと事情はあったのでしょうが、個人的な嗜好からすれば残念でなりません。
判例は赤字が片倉氏、青字が仙台松前氏、緑字が佐々氏の当主、下線が写真でご紹介をしているものとなります。

白石の最後は当信寺です。
こちらの山門は白石城の東口門を移設したもので、白石城の登り口が東口門跡でしたから、あそこにこれが建っていたのでしょう。
二階建瓦葺きで、見た目は延命寺の厩口門に似通っていますのでなるほど、しっくりときます。
ここには片倉氏に保護をされた、真田信繁の次男の大八、娘の阿梅の墓があります。

片倉重長は真田信繁の次男の大八、娘の阿梅、阿昌蒲、おかねを保護し、大八を片倉守信と名乗らせて江戸幕府から匿い、阿梅を自らの継室に、阿昌蒲は田村定広の正室に、おかねは石川貞清に嫁がせて、定広も片倉氏を称しましたので全面的に信繁の遺児を抱え込んだことになります。
なぜにそこまで思い入れたのかは分かりませんが、守信の嫡男である辰信が真田氏に復して仙台真田氏として幕末あたりまでは信繁の血が続いていたようです。
阿梅の墓石は不思議な形をしていますが、「その形が歯痛のため頬を抑えているように見えるところから、虫歯に苦しむ人たちは、この墓石を削り、飲むと良く効くとの迷信が生まれました」とは白石市の公式サイトからの引用で、有名人の墓石はそうやって削られることがありますので似たようなものだったのでしょう。
写真は左が阿梅、右が大八です。

次に向かったのが名取にある、耕龍寺です。
名取駅を背に1キロほどを直進すれば大きな看板がありますので、迷うことはないでしょう。
耕龍寺の山門は白石城の城門を移設したものですが、元はどこにあったものかは不明とのことです。
先の延命寺や当信寺のそれとはかなり違った雰囲気の四脚門で、好き嫌いがあるでしょうが、個人的にはこちらの方が迫力が感じられます。

耕龍寺には、伊達氏11代の持宗夫妻の墓があります。
開山が持宗の五男である蘂源和尚であることから、この五輪塔は父母を弔うための供養墓とのことです。
かなり小さなものではありますが、こういったものが遺されていることが嬉しく、電車の時間を気にしながら小走りで訪れた甲斐がありました。
伊達氏における持宗は、福島の巻を参照いただければ幸いです。


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コメント (9)

笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 福島の巻

2015-08-11 00:01:20 | 日本史

 

初日の昼過ぎに福島に戻って、そして伊達巡りです。
遠くから攻めよ、の鉄則どおりに北上をして12キロの桑折町、18キロの国見町ですが、自治体の対応は対照的でした。
ともに廃寺などのために詳細な番地までが分からずにホームページから問い合わせをしたのですが、その番地までは分からずともランドマークで行き方を教えてくれた桑折町に対して、国見町は複数回の問い合わせに全くの無回答、もしどちらかに住むことになれば間違いなく桑折町でしょう。
こういった細やかな対応からして、行政サービスへの本気度が見て取れます。

その桑折町では、満勝寺跡にある伊達氏の初代である朝宗の墓です。
藤原氏魚名流の出身とされる朝宗は源頼朝の奥州攻めに従い勲功を挙げて、陸奥伊達郡を賜ります。
このことで伊達氏を称したとも言われていますが、実際に伊達氏を名乗ったのは次男の宗村とも、あるいは朝宗と宗村を同一人物とする説もあり、そのあたりは判然としません。
こちらの五輪塔は江戸期の仙台藩伊達氏によるもので、今は仙台にある満勝寺は当時は桑折にあった朝宗の菩提寺です。
トップの写真のとおり、大切にされていることがよく分かります。

その背後には、自然石の墓があります。
こちらが本来の朝宗の墓とも言われていますが、一方で源頼朝の、あるいは伊達氏の先祖の墓との説もあるようで、これまたよく分かりません。
いずれにせよ伊達氏が参勤交代の折りに墓参をしたと伝えられる、とは桑折町のホームページの説明です。

桑折寺山門は伊達晴宗が桑折西山城を破却して米沢城に移るに際して、城門を桑折寺が拝領して移築したものと伝えられています。
晴宗は朝宗から数えて15代、輝宗の父、政宗の祖父です。
桑折西山城は朝宗が居を構えたところで、また桑折寺は伊達氏の庶流である桑折氏の菩提寺であり、いずれも由緒あるものです。

次なるは国見町の伊達成宗の墓ですが、これが苦労をしました。
前述のとおり詳細な場所が分からず、googleマップを印刷して近くの建物を目印にしたのですがそれでも1キロ近くは離れており、方角と勘を頼りの心細さ爆発です。
幸いなことに一本道が多かったことで思っていたよりは簡単に案内板を見つけたのですがそこからが一苦労、舗装もされていない道を進めば突き当たりに貯水池のようなものがあったのですが右は野っぱら、左は山道でどちらに行けばいいかが分からず、とりあえず自転車を置き去りに山道を進んだものの数分で行き詰まってしまい、今度は右に行けば暫くして山肌に石垣を見つけて一安心、アップダウンのあるそれなりの道程だっただけに空振りに終わらずに助かりました。
願わくば貯水池のところに案内板を、たいしたコストにもならないはずです。

成宗は伊達氏12代、室町期の人物です。
おそらくは室町幕府8代将軍の義政、銀閣寺を創建したことで有名ですが、その義政の初名である義成から偏諱を受けたものと思われます。
つまりはどっぷりと応仁の乱の時期に被っていますが奥州まではその戦禍は広がらず、国分氏や大崎氏らとの抗争に明け暮れました。
このあたりは隠居後の館があったとのことで、しかし遺されているのは五輪塔の風輪の部分のみです。

ここから一気に南下をしての陽林寺は福島駅から7キロちょっとですので、25キロほどを二時間近くかけての移動となりました。
伊達氏14代の稙宗を開基とし、よってその稙宗と、稙宗の三男である実元の墓があります。
実元は政宗の重臣である成実の父、と言った方が分かりやすいかもしれません。

山門をくぐって左手に、その実元の墓があります。
父の稙宗は積極的な勢力拡大を目論んだ人物で、その一環として実元を越後守護の上杉定実の養子に送り込もうとしました。
稙宗の母は定実の姉であり、よって稙宗は定実の甥にあたりますので、その血筋を利用しようとしたのでしょう。
しかしそれに稙宗の嫡男、実元の兄である晴宗が反発をして両者が対立、陸奥の諸氏を巻き込んだ天文の乱が起きます。
最終的には稙宗の隠居で乱は終結をしますが、行きがかりから稙宗方だった実元は兄の晴宗の娘、つまりは姪を娶ることで和睦をすることとなりました。
そのため晴宗の嫡男である輝宗からすれば実元は叔父であり、かつ義兄でもあり、輝宗の嫡男である政宗からすれば実元は大叔父であり、かつ義叔父でもあるという複雑な関係は血を血で洗う戦国期ならではで、独眼竜政宗でもこの関係は冒頭で北大路欣也の輝宗、竜雷太の実元、そして大滝秀治の虎哉宗乙との会話がされたと記憶をしています。
その後の実元は一門の重鎮として輝宗、そして政宗を支え、亘理伊達氏の家祖とされています。

さらに左手、小道のようなものが繋がっている先に、稙宗の墓があります。
山門の脇に案内図がありますがちょっと離れていますので、分かりづらいかもしれません。
稙宗は幕府との結びつきで家格を上げるとともに、次男の義宣を大崎氏に、失敗はしましたが三男の実元を上杉氏に、また晴清を葛西氏に送り込むとともに、娘を蘆名盛氏、相馬顕胤、田村隆顕、二階堂照行、相馬義胤に入嫁させるなどして絶大な影響力を誇りました。
相馬氏などは顕胤の孫が義胤ですから祖父と孫が相婿になるわけで、しかし皮肉なことに嫡男の晴宗と対立をした天文の乱で一族だけではなく大崎氏、葛西氏、相馬氏らが両陣営に分かれて争うこととなり、また晴宗も父と同じく婚姻政策を推し進めるのですから似た者父子だったことによる嫌悪感だったのかもしれません。

そしてこの日の最後が慈徳寺、伊達氏16代、政宗の父である輝宗の首塚があります。
躊躇をするだけの距離がありましたし日も暮れかかっていたので迷ったのですが、翌日に残せばそれはそれで面倒なことになりますので強行をしました。
その途中のダラダラとした長い上り坂で両足に起こした痙攣、それはまた別の稿に譲ることとします。

首塚と呼ばれてはいますが、大きな岩の上に五輪塔の上部の二輪が載っています。
粟之巣の変事で二本松義継に拉致をされて横死をした輝宗は、政宗の手によりここ慈徳寺で荼毘に付されました。
よってこの五輪塔は供養塔なのでしょうし、輝宗の墓は輝宗が招いた政宗の学問の師である虎哉宗乙が住持だった出羽資福寺にあります。
おそらくは政宗が父の菩提を、信頼する虎哉宗乙に託したのでしょう。

分かりづらいかもしれませんが、伊達氏の家紋の一つである「笹に雀」が刻まれています。
この家紋は元は上杉氏のもので、先の実元が上杉氏と養子縁組をした際に贈られたものとのこと、破談となっても使っているのですからちゃっかりしています。
雀の形態や周りを囲む竹や笹の違いにより、実元流の亘理伊達氏から仙台笹と呼ばれる伊達本宗家、政宗の庶長子である秀宗の宇和島笹などに派生をしました。

二日目は夜明けとともに動き出し、当たり前ですがこの時間からレンタサイクルを借りられるわけもなく、よって徒歩での徘徊です。
概ね2キロ内外をてくてくと、前日にどうしても慈徳寺を回っておきたかったのはこれが理由でした。
まず最初は福島稲荷神社ですが、しかし目的は世良修蔵の墓です。
幕末の人物である修蔵は興味の範囲外ではあるのですが、しかし新政府軍と奥羽列藩同盟との間で戦いが始まるきっかけとなったのが仙台藩士による修蔵の暗殺ですので見逃すわけにはいかず、新政府による慰霊碑、官修墳墓ではあるのですが眠い目をこすりながらも探し回りました。
しかしこれがなかなかに見当たらず、諦めて他に向かう途中で発見は単なる偶然で、神社の敷地内ではなく外側の一角にありますのでぐるっと回れば見つかります。

宝積寺には伊達氏15代、晴宗の墓があります。
晴宗の正室である久保姫が建立をしましたので、おそらくは菩提寺なのでしょう。
岩城重隆の長女である久保姫は奥州一の美少女と名高く、結城氏に嫁ぐ行列を晴宗が軍勢を持って襲って強奪をしたとも伝えられています。
そのため伊達氏と岩城氏とは対立をしますが後に和睦をし、跡継ぎのいない重隆に晴宗と久保姫との子を養子に迎えることを約定、よって長男の親隆が岩城氏の跡を継ぎました。
この親隆は輝宗の同腹の兄であり、あるいは実家を継げなかった親隆は弟のことを面白く思っていなかったかもしれません。

天文の乱で父の稙宗を隠居に追い込んだ晴宗は、しかし結局はその父と同じく婚姻政策による勢力拡大を図ります。
長男の重隆の岩城氏も結果的にはその一環となり、三男の政景を留守氏に、四男の昭光を石川氏に、五男の盛重を国分氏に送り込み、また娘を蘆名盛興、二階堂盛義の正室とし、盛義に至っては母と妻が晴宗の娘、つまりは姉妹ですからいくら何でも血が濃すぎでしょう。
これらの婚姻政策も結果的に上手くいったとも言い難く、政宗の代になってから石川昭光、国分盛重は一時期に離反をしましたし、蘆名氏や二階堂氏は滅ぼされした。
この何重もの血の繋がりが相手にとどめを刺すことを躊躇させている、と判断をしての政宗の方針によるところが大なのでしょうが、やはり稙宗と晴宗は似た者親子だったのでしょう。

ここまでの関係は上記のとおりで、赤字が当主、下線が写真でご紹介をしているものとなります。
蘆名氏や相馬氏、二階堂氏や岩城氏らとの姻戚も書きたかったのですが、さすがに複雑になりすぎて割愛をさせていただきました。
こう見てみるとやはり晴宗と実元の関係が異様で、血が濃すぎるといろいろと問題が出る可能性が高くなるとも言われていますから、よくぞ成実といったところでしょう。

長楽寺は本庄氏の菩提寺です。
上杉謙信、景勝の重臣として名高い繁長が福島城の城代となったときに、本願地である越後本庄からこの地に移ってきました。
繁長、および本庄一族の墓があります。

本堂の左手にある八幡神社に繁長の木像が安置をされており、これを以って繁長の墓とされています。
あるいはその下に埋葬をされているのかもしれませんが、そもそも説明板などもありませんので詳しいことは分かりません。
扉は閉ざされていますが見てください、と言わんばかりに一角が空いており、遠目ですが見ることができます。
ただフラッシュはまずいだろうと炊かなかったため、写真ではよく分からないのが残念です。

その裏手には、本庄氏の墓所があります。
ネットなどでいろいろと調べたところ分かっているのは繁長の次男である充長、六男の重長、重長の次男の政長だけのようです。
上杉謙信に忠実だった本庄実乃の系統とは違い、繁長はある時期に武田氏と通じて謀反を起こしました。
武運つたなく嫡男の顕長を人質に出すことで降伏をしますが、その顕長も謙信没後の御館の乱で景勝についた父に対して景虎に与して敗北し、廃嫡をされてしまいました。

そのため大宝寺氏の跡を継いでいた義勝が、本庄氏に復して充長となりました。
充長に嗣子が無いままに没したことで弟の重長が後継となりましたが、30歳以上も離れた兄弟ですので充長からすれば子どもみたいなものだったのでしょう。
重長の跡は政長が継ぎ、米沢藩の重臣として続いていきますが途中で養子を迎えていますので、男系としての繁長の血は絶えている可能性が高そうです。
写真は左から充長、重長、政長ですが、実際の位置関係は左から政長、重長、充長となります。

繁長が城代を務めた福島城は、今は福島県庁となっています。
土塁や碑があるとのことでしたが、自転車であればまだしも徒歩でしたので、あてどもなく探すのは困難と諦めました。
またたまたま見つけた旧米沢藩米蔵は2010年の復原事業によるものとのことですが時間が早かったこともあり敷地内に入れず、横目に通り過ぎた次第です。

それに近しい空振りは、宝林寺に常光寺です。
宝林寺には二本松義継の墓があるかも、との未確認情報に踊らされてみましたが、それらしきものは見当たらず、さすがに時間が早すぎてお寺の方に聞くこともできませんでした。
また常光寺は江戸後期に福島藩主だった板倉氏の菩提寺ですが、墓所ではなく位牌が安置をされているとの説明板でしたので、時間も差し迫ってきたので軽くスルーです。
次なる地である白石に向けて、いそいそと出発をしました。
写真は左が宝林寺、右が常光寺です。


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笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 二本松の巻

2015-08-04 00:48:12 | 日本史

 

今回の史跡巡りは二本松からスタートです。
まずは福島に入りましたのでそこからとも思ったのですが、巡るときは遠くから、の鉄則で来た道をやや戻っての桜の城下町です。
二本松は室町幕府の三管領の一である畠山氏の庶流、とは言いながらも本来は嫡流だったものが南北朝の動乱の中で畠山高国、国氏親子が自害に追い込まれたことで国氏の子である国詮が奥州に土着をした二本松氏の本拠であり、居城である二本松城は国詮の嫡男の満泰が築きました。
その二本松氏は義継のときに伊達輝宗が横死をした粟之巣の変事をきかっけに政宗に滅ぼされ、その後は上杉氏、蒲生氏、加藤氏らを経て丹羽氏が治めて幕末を迎え、戊辰戦争に際しては白虎隊ほどの知名度はありませんが、二本松少年隊の悲劇も今に語り伝えられています。

二本松は江戸期に丹羽氏が11代、200年以上にも渡って治めた地ですが、二本松少年隊のネームバリューには敵いません。
もっとも当時は隊に名前はなく、戊辰戦争戦没者の50回忌法要に際して名付けられたとのことです。
二本松駅、そして二本松城の正面に、その勇姿が訪れる者を迎えてくれます。

そして二本松城は、日本100名城に名を連ねています。
遺構は石垣ぐらいですが、1982年に箕輪門と櫓が復元をされました。
箕輪門は二本松城の正門であり、丹羽氏としての初代城主である光重、織田信長の重臣だった丹羽長秀の孫にあたりますが、この光重のときに造られたものです。

本丸に向かう途中にある日影の井戸は、千葉県印西市の月影の井戸、神奈川県鎌倉市の星影の井戸と合わせて、日本の三井と称されているとのことです。
蓋はされていますが、約20メートルの深さに豊富な湧き水を溜めています。
また本丸下南面大石垣は二本松城に築かれたもので最も古い石垣の一つで、いわゆる「穴太衆」の手によるものとは説明板による説明でした。

本丸はかなりな高さの石垣を誇り、10万石の大名にしては過ぎたる規模のように感じられます。
蒲生氏郷、加藤嘉明の時代にもそれなりの拡張はされましたが、大規模な改修は丹羽氏の代になってからですので名門の意地、それに配慮をする幕府の意向もあったのでしょう。
建造物は遺されていませんが、きちんと整備がされているのが好印象です。

本丸には天守台跡、東櫓台跡、西櫓台跡があります。
いずれも本丸の石垣と同じ時期、1993年から1995年にかけて復元、整備がされました。
広さとしてはかなり狭いものですから大きな建物があったとは思えず、江戸期は山麓の居館が政治の中心になっていたとのことですから、象徴的なものだったのかもしれません。

本丸から逆方向に下っていくと、天守台下西面二段石垣にとっくり井戸、そして搦手門跡です。
天守台下西面二段石垣は一部が露出をしていたものが本丸の整備工事の際の発掘調査で全容が確認できたとのことで、やはり穴太積みとなっています。
とっくり井戸は下にいくに従って間口が広がっていることからその名が付けられており、一時は場所が不明になったものが2000年の発掘調査で発見されました。
いわゆる大手に対する裏手、にあたる搦手には搦手門で、蒲生氏時代の掘立柱であった門を加藤氏のときに石垣を用いて整備をしたとはこれまた説明板の受け売りです。

丹羽神社には丹羽氏が祀られており、周りの草刈りをされているお爺ちゃんが休憩中でしたが、撮影のために場所を空けていただきご迷惑をおかけしました。
そして三の丸跡は桜祭りの会場となっており、言うほどに桜が満開といった雰囲気はありませんでしたが、夜桜見物が楽しめるとのことです。
平日でもあり、また時間が早かったことで閑散としていましたが、しっかりと出店はずらりと並んでいました。

次に向かったのは大隣寺、丹羽氏の菩提寺です。
そもそもは当時に白河藩主だった丹羽長重が父の長秀の菩提を弔うためにその白河に建立をしましたが、子の光重がここ二本松に移封となったことで同じく移ってきました。
その後は二本松藩主丹羽氏の菩提寺として、何度か場所を変わりながら今に至っています。
ちなみに寺名は長秀の戒名である総光寺大隣宗徳によるものです。

本堂の左手には御霊屋あり、おそらくは位牌が安置をされているのでしょう。
その奥には丹羽氏の墓所があり、二本松藩主の初代である光重から理由は分かりませんが2代長次を除いた9代までの墓があります。
10代以降は明治維新で藩が無くなったこともあり、墓所は東京にあるようです。

二本松藩としての初代藩主になる光重は、丹羽長秀の孫にあたります。
長秀は織田信長の重臣で本能寺の変の後の清須会議で羽柴秀吉の側に立ったことで若狭、越前、加賀の123万石を領しましたが、その長秀の病死で跡を継いだ長重は秀吉にいろいろと難癖をつけられて越前、加賀を取り上げられてしまい、最後には若狭をも失って加賀の一郡にも満たないところまで落ちぶれてしまいました。
その長重は隣接をする前田氏との確執から関ヶ原の戦いでは西軍に与して改易の憂き目に遭い、しかし名門だったからなのか常陸古渡で大名に復帰、その後は常陸江戸崎、陸奥棚倉を経て陸奥白河10万7千石までになったのですからそれなりの人物だったのでしょう。
そして三男の光重が陸奥白河から同じく陸奥二本松に移封となり、幕末まで11代を数えて明治の世を迎えました。

2代藩主は長次、光重の嫡男です。
子が無かったために弟の長之が3代藩主となりますが当時としては老齢にさしかかる既に42歳であり、僅か2年後に死去しましたのでこれといった事績はありません。
4代藩主は長之の長男である秀延ですがこれまた子が無いままに39歳で没したことで、長秀の六男である長紹の後裔にあたる高寛に長之の娘を娶せて5代藩主とします。
その後は6代藩主に高庸、7代藩主に長貴、8代藩主に長祥、9代藩主に長富、10代藩主に長国と無難に血を繋いでいき、長国は奥羽列藩同盟に加盟をして明治新政府に抗い、破れたことで隠居、石高も5万石まで減らされて跡を養子の長裕に明け渡すこととなりました。
そして長裕が、二本松藩としての最後の藩主、11代です。
写真は上段左から長之、秀延、高寛、高庸、長貴、長祥、長富になります。

長秀からの血の繋がりは上記のとおりで、赤字が藩主、下線が写真でご紹介をしているものとなります。
10代藩主の長国までは長秀の血を繋いでいますが、その長国に男子が無かったことで奥羽列藩同盟でともに戦った出羽米沢の上杉氏から養子を迎えましたので、11代藩主の長裕、その跡を継いだ弟の長保ともに長国の娘を配して女系として長秀の血は保たれているのかもしれませんが、男系としては上杉氏、つまりは吉良上野介のそれとなります。

やはり本堂の左手、やや手前には、二本松少年隊の墓所があります。
見た感じそれなりに新しそうですし形も整っていますので、さほど昔ではない時期に作られた供養塔なのかなと思いますが、実際のところはよく分かりません。
説明板によれば隊長、副隊長と14名の少年隊士の魂が眠る、とのことです。

香泉寺は二本松義国の墓があるとのwikipediaの記載に釣られて足を運びましたが、しかしそれらしきものは見当たりませんでした。
説明板によれば当寺に葬られたとのこと、滅んだ氏族ですので時代の流れの中で埋没をしてしまったのでしょう。
商工会議所のサイトにも「畠山氏10代義国の墓と位牌があるとされる」と、あまり歯切れはよくありません。

こちらは二本松駅の近くにある、二本松城の大手門跡です。
いわゆる二本松城からそれなりに離れた場所ですので、城域はかなりの規模を誇っていたのでしょう。
本格的な櫓門だったようですが初代藩主の光重のときから建造を望みながらも財政事情からそれも叶わず、ようやくに9代藩主の長富のときに完成、しかし僅か30数年後の戊辰戦争の戦火で焼失をしてしまったのですから哀しい歴史の証人とも言えます。

称念寺は二本松氏の菩提寺です。
ただ現在の地に移ってきたのは丹羽光重の時代とのことですから、本堂も昭和に入ってからのものですし、代々に崇拝をされたといった感じではないのかもしれません。
それでもここに奥羽探題としての畠山氏(二本松氏)の累代墓所があります。

こちらは二本松義継の墓、と紹介をされることもあるようですが、実際は先に書いたとおり累代の墓所です。
二本松氏22代当主が昭和8年に改葬をしたもので、両脇に並んでいるのは粟之巣の変事で義継と運命をともにした家臣の霊を祀った供養墓になります。
かなり前に来たときにはここに至る道は草が生い茂っていて蛇が出て駆け下りた記憶があるのですが、まだ春先だったということもあってか、きれいに整備がされていました。

顕法寺には二本松義継の墓がある、とのあやふやな情報で足を運びましたが、残念ながら空振りでした。
ただ瓢箪から駒ではありませんが、代わりに加藤明利の墓所に巡り会いましたので無駄足にならずにラッキーだったと思います。
明利は丹羽氏の前の二本松藩主で、賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる加藤嘉明の三男です。

墓所は背後のやや小高い場所にあり、夏場にもし手入れがされなければ蚊に注意です。
明利は当初は三春に入りましたがその後に嘉明の跡を継いだ兄の明成から二本松を預けられて、二本松城を拡張、改修しました。
しかし明成が家臣と対立をした会津騒動に連座し、直後に病死をしたことを幕府に疑われて改易をされてしまい、しかし家名は旗本として存続をしています。
その後に二本松に入ったのが、丹羽光重です。

二本松の最後は、二本松市歴史資料館です。
先の大手門跡の向かいにあるのですが、日本100名城スタンプは駅内の観光案内所で既に押していましたので、時間があればと後回しにした次第です。
個人的に惹かれるような展示もなく、申し訳ないのですが「ふーん」といった感じでした。
入口の左脇には上屋敷の石垣なるものが展示をされており、しかし説明板を読んでみれば上屋敷、つまりは江戸藩邸のものですから、この場所に元からあったものではありません。


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是非そうあって欲しい

2015-06-27 11:22:44 | 日本史

梅雨さえ明ければ来月にも夏休み、史跡巡りの予定です。
その中心は城、そして武将の墓ですので、こういったニュースは喜ばしく、是非ともそうあってもらいたいです。
財政面などいろいろな問題はあるのでしょうが、長い目で見れば木造が正解という機運が盛り上がることを願っています。

天守閣:木造復元に脚光 コンクリ耐用年数近づき (6/15 毎日新聞)

全国各地の城下町で、「天守閣の木造復元」構想が進んでいる。
戦災復興のシンボルとして高度成長期の「昭和の再建ブーム」に建てられた天守閣の多くはコンクリート製で、50~80年とされる耐用年数が近づいているためだ。
巨額の復元費用や大量の木材調達など課題が山積する中、再びブーム到来なるか。
金のシャチホコで有名な名古屋城(名古屋市)の天守閣は1945年の空襲で焼失したが、59年に江戸時代初期の外観そのままに復元された。
鉄筋コンクリートは「二度と燃えないように」との市民の願いがこもる。
だが「時代は移ろい、本物志向が高まっている」と市の担当者。
内部のエレベーターに落胆する観光客も多いという。
市は2006年度、コンクリートの耐震改修計画をまとめたが、09年に初当選した河村たかし市長が木造復元構想を打ち出し、計画を凍結。
昨年9月には、耐震改修と木造復元の課題を比較検討する調査を始めた。
木造復元の要となる国産ヒノキは流通量が年々減少し、将来的に確保できる保証はないが、徐々に劣化するコンクリートの建造物は耐用年数が50~80年程度とされ、専門家からは「耐震改修は延命措置に過ぎない」(三浦正幸・広島大教授)との指摘も。
市は17日にも「早めの木造復元が望ましい」とする調査結果を市議会に報告する予定だ。
悩みは270億~400億円と試算された工事費だ。
耐震改修なら29億円で済むため、木造復元構想を疑問視する市民も少なくない。
市の担当者は「多額の税金を使う以上、市民の理解は不可欠。長期的に見てどちらが税金の有効活用か、丁寧に説明したい」。
賛同者の寄付も視野に入れるが、実現するかはこれからの議論だ。
防火対策など厳しい法規制をクリアする必要もある。
江戸時代の天守閣が残るのは犬山城(愛知県犬山市)や姫路城(兵庫県姫路市)など12城。
その他は1950~60年代に建築されたコンクリート製が大半で、木造復元の議論は各地で熱を帯びる。
60年に再建された小田原城(神奈川県小田原市)。
市民らが木造復元を目指すNPO法人を2年前に設立、木造復元に必要と試算する49億円のうち寄付で20億円集める目標だ。
同城は来月から耐震改修が始まるが、市は将来的な木造復元を見据えて小規模な改修にとどめ、費用を3分の2に抑えた。
同市観光課は「名古屋がうまくいけば、我々にも追い風になる」と注目する。
崩壊の危険性が指摘された松前城(北海道松前町)では、町が今春、町内11カ所で復元計画の住民説明会を開いた。
年間の一般会計予算が50億円規模の町にとって、木造復元の20億円は重く、町の担当者は「もっと町民の機運が盛り上がらないと」とこぼす。
一方、1931年に再建された大阪城(大阪市)はコンクリート製のおかげで戦火を免れたとされる歴史があり、最新の技術を駆使し、耐震改修主義を貫く。
文化庁は「それぞれの城の歴史や文化を尊重し、議論してほしい」としている。

松前城に崩壊の危険性があるとは知りませんでした。
コンクリートの寿命が50~80年ともなると城に限らずビル群も大丈夫かよ、なんて思ってしまいます。
一方で江戸期の天守閣が長命なのはもちろん大がかりな補修をしたからこそでしょうし、100年の単位でどちらがコスト的に有利かも判断基準になるでしょう。
学校のような階段、あるいはエレベーターにガッカリは自分もよく経験をしますが、城フリークの我が儘だけでは無い袖は振れません。
また戦火を気にする必要はないと思いますが失火や放火などへの対策、必要とされる木材などクリアをしなければならない問題も多いのでしょう。
せめて根幹は鉄筋コンクリートであっても見えるところは木材や漆喰などで、といった折り合いがつけばと思います。
そして設計図などが残っていないケースも少なくないでしょうが、できうる限りは外観だけではなく内観も忠実な再現として欲しいです。
こんなにも天井が低いのか、階段は急だったのか、を体感できるのも城を訪れたときの醍醐味でしょう。
単なる博物館にしてしまえば箱物行政でしかありませんので、どういった結論になるにせよ文化事業であることを忘れずにお願いします。


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白い姫路城

2015-03-27 21:41:58 | 日本史

 

2009年から6年弱のお色直し、平成の大修理を終えた姫路城の大天守の一般公開が今日に再開をされました。
開門前から1200人が並び、平日ながらも1万人が見学に訪れたとのことです。
松本城、犬山城、彦根城とともに現存天守として国宝に指定をされている姫路城ですので、当然といえば当然の注目度なのでしょう。
大天守登閣整理券を配って一日に1万5千人に限定をする日があるぐらいですから、休日には早い時間からかなりな混雑になると思われます。

両親の実家が兵庫県ですので社会人になる前は夏に家族で帰省をした際に訪れるなど、姫路城に行った回数は片手では足りないぐらいです。
広大な城内はそれだけの魅力がありますし、入城料が600円から1000円に一気に値上がりをしましたが、たっぷりと一日を楽しめるでしょう。
そうなれば最後に行ってからかなり経ちますのですぐにでも行きたいのですが、暫くはブームが続くでしょうからタイミングが難しいです。
天空の城、で話題の竹田城跡も大変なことになっているようですし、落ち着くまでは待ちたいのが本音ではあります。
ただ白鷺城、の名に相応しい、これが本来の姿らしいのですが白すぎるとも言われている白化粧も三年もすれば黒ずんでくるとのこと、悠長なことも言ってはいられません。
史跡巡りと構えることなく姫路城だけを目的に、早めにこそっと見に行こうと思います。


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本能寺の変に新発見

2014-06-24 22:53:48 | 日本史

本能寺の変の動機、明智光秀がなぜ織田信長に謀反をしたかは諸説あり未だに判然としていません。
その説の一つとして「四国説」、四国の雄である長宗我部氏を攻めるにあたってそれまでの慣例であれば取り次ぎ役だった光秀が大将となるところを、しかし信長が三男の信孝に丹羽長秀を副将としたことで面子を潰されたと恨みに思って、というものがあります。
ただそんなことで主君に反逆をするものなのかは個人的には疑問で、一般的には有力とされる信長が皇室をないがしろにしたことによる知識人、常識人であった光秀の反発、怖れに公家や足利義昭が付け入った、というものの方が説得力があるのではと考えています。
しかし今回に「四国説」を補強する新資料が発見をされたとのことで、何はともあれ長宗我部フリークとしては元親が話題になるだけで嬉しくてなりません。

本能寺の変:直前の新資料…「四国攻め反対」が動機? (6/24 毎日新聞)

林原美術館(岡山市)と岡山県立博物館(同市)は23日、明智光秀の謀反で織田信長が自害した「本能寺の変」の動機について、土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が関わっていた可能性を示す手紙が見つかったと発表した。
四国支配を巡り、信長と元親が対立、譲歩するなどした内容を伝える書状。
光秀は重臣が長宗我部家と婚姻関係にあったこともあり、専門家からは「信長の四国討伐から元親を守る狙いがあったのでは」という見方が出ている。
手紙は、林原美術館が所蔵する、足利十三代将軍・足利義輝の側近「石谷(いしがい)家」の文書全3巻47点の中から見つかった。
信長は1581年、元親に「土佐と阿波半国しか領有を認めない」と通達したが、翌年1月11日付で、明智の重臣・斎藤利三が実兄の義父で、元親の義父にもあたる石谷光政(空然)に宛てた手紙では、反発する元親をいさめるために使者を派遣することや、空然にも元親が御朱印(信長の指示)に従うように依頼する内容が記されていた。
また、本能寺の変の直前に、元親が利三に宛てた5月21日付の手紙は「阿波国の一部から撤退した。(信長が甲州征伐から)帰陣したら指示に従いたい」と伝え、元親が信長に対して態度を軟化させたことを示していた。
元親が信長に「従う」と示した史料が見つかったのは初めてという。
ただ、5月7日には、信長は三男の神戸信孝を総大将に任命し、四国討伐に備えていたことが既に分かっている。
本能寺の変は、信長と元親の仲介役だった光秀が、四国討伐の方針に納得していなかったのが原因の一つという「四国説」がある。
内池英樹・県立博物館学芸課主幹は「光秀は態度を軟化させた元親をはじめ、重臣の利三らと婚姻関係があった長宗我部家を守るために、信長の四国討伐を止めようとしたのでは」と話している。
見つかった史料の一部は林原美術館で7月19日から公開される。

記事には光秀が元親を守るために、とありますが、これは面子を潰されたから、よりも動機としては希薄な感じがします。
縁戚関係とは言いながらも光秀とのそれではなく、重臣の斎藤利三の異父妹が元親の正室という繋がりですから、光秀からすれば家を賭けてまで元親を守る義理はありません。
ただ光秀が利三に引きずられた、という説もあるようで、山崎の合戦で敗れた後に利三は磔にされたとも言われていますから、当時から首謀者の一人とされていたのでしょう。
意外だったのは信長の四国攻めに元親が従う意向を示していたとのことで、これまでの通説では四国切り取り勝手としていたものを土佐と阿波半国以外を返すよう求めた信長に対して激しい拒絶をしたとされていただけに、これは大発見ではないかと思います。
さっそくにwikipediaの記載が更新をされているのにも驚かされました。
関係者の方には申し訳ないながらも「四国説」が補強されるとは思えないのが正直なところですが、久しぶりに信長の野望でもやろうかなと、そんな今日この頃です。

 

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ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 津山の巻

2013-11-17 16:38:40 | 日本史

 

最終日は津山です。
残念ながら曇天、と言うよりはもやがかかったような空模様で、それでも破滅をしかけていた肌にはちょうどよかったといった感じです。
そこいらにNARUTOが氾濫をしていたとは旅情篇に書いたとおりで、やや気が滅入りながらの散策です。

まずは日本100名城の一つである津山城ですが、登城口の脇には森忠政の像があります。
忠政は織田信長の重臣であった可成の六男で、美作一国18万5千石の津山藩の初代藩主です。
津山城は山名氏の城があったところに忠政が新たに築いたもので、4重5階の天守閣を誇り77もの櫓を持つ城でした。
まるで居眠りでもしているかのような表情の忠政は、ちょっと狸な感じです。

例によって明治維新後の廃城令により天守閣や櫓の全てが破却をされてしまい、遺されているのは石垣のみです。
関ヶ原の戦いの後に築かれたものですので平城、正確にはやや小高いところにありますから平山城と言った方がよいのかもしれません。
その石垣はきれいに整備をされていてのんびりと過ごすのによい風景ですが、そのほとんどが有料地域ですので市民の憩いの場にはなっていないようです。

城内で唯一の櫓は、2005年に復元をされた備中櫓です。
池田輝政の甥にあたる因幡鳥取藩の2代藩主だった長幸は忠政の女婿で、その長幸が備中守だったことからそう名付けられたと言われています。
発掘調査で池田氏の家紋である揚羽蝶紋の瓦が見つかっており、長幸が津山城を訪れた際に宿泊をするために築かれたものではないかとは説明板の受け売りでした。

この天守台跡には1/2スケールの模擬天守閣が美作国建国1300年記念事業として復元をされましたが、8月2日~18日の公開でしたので残念ながら僅かに間に合いませんでした。
実際のところ間に合わなかったと言うよりはその存在すら知らなかったわけで、お盆の時期ですからどのみち人混みが嫌いな自分には縁がなかったのでしょう。
それにしてもそれなりの費用はかかったと思われますので、あまりな短期間にちょっとビックリしています。
まだ解体工事が完全に終わっていないことで天守台に登ることすらできず、恨めしげに周りをぐるっとうろついてからの撤収です。

次に向かったのは本源寺で、森氏の菩提寺です。
元は安国寺という名でしたが、忠政の戒名である本源院殿前作州太守先翁宗進大居士から本源寺と改められました。
その墓所の門は閉まっており後で調べてみれば予約が必要だったとのことで、またお寺の方もご不在のようで目の前が真っ暗になりかけたのですが、幸いにもお留守番の方のご厚意で脇の入口から入れていただき感謝感激です。

墓所の中央には御霊屋がありますが、さすがにこちらは鍵の場所が分からないとのことで中を見ることはできませんでした。
その背後には忠政らの森一族の五輪塔が、一列に整然と並んでいます。
津山藩の森氏は初代の忠政、2代の長継、3代の長武、4代の長成、5代の衆利と続きましたが、こちらに墓があるのは忠政のみです。

森氏は元は美濃土岐氏の家臣でしたが、その土岐氏が斎藤道三に滅ぼされた後に可成が織田信長に仕えました。
可成の嫡男の可隆は朝倉氏を攻めたときに手筒山城で、また可成もその4ヶ月後に宇佐山城を朝倉、浅井氏に攻められて討ち死にをしたことで、跡を継いだのは次男の長可です。
その長可は鬼武蔵と呼ばれるほどに豪勇な武将でしたが、小牧・長久手の戦いに際しての三河中入りで舅の池田恒興とともに討ち取られてしまい、また可成の三男、四男、五男の蘭丸、坊丸、力丸は既に本能寺の変で信長に殉じていたため、六男の忠政が森氏の棟梁となります。
忠政には重政、忠広の子がありましたが早世をしたことで、甥にあたる関成次に三女を娶せて産まれた家継を迎えて後継とします。
その家継改め長継の嫡男の忠継が早死にをしたことで三男の長武が、長武の跡は忠継の三男の長成が、長成の跡は長継の十二男の衆利が継ぎました。
凡例は赤字が藩主、太字が写真でご紹介ができる武将です。

父の可成が48歳で、長兄の可隆が19歳で、次兄の長可が27歳で、三兄の蘭丸成利が18歳で、四兄の坊丸長隆が17歳で、五兄の力丸長氏が16歳で討ち死にをするという悲劇な一族の中で、忠政は65歳という長命を保ちました。
しかし後継者には恵まれず、三人の男子に先立たれたことで外孫の長継を迎え入れたのは森氏の血筋としては残念至極で、できれば可成の弟の可政には多くの子がいたのですから、その系統から養子を取ってくれればとは個人的な嗜好です。
それなりに優秀な人物だったようですが、意見の対立をした重臣を一族もろとも滅ぼすなど暴君的な側面もあったようです。

こちらは長可の墓ですが、墓と言うよりは供養塔なのでしょう。
忠政にとっては次兄であり、また先代の当主ですから津山藩の藩祖と言えなくもありません。
ただそれであれば父の可成の供養塔があってもいいと思うのですが、残念なことにそれはありませんでした。
長可は信長にその武勇を愛でられるほどに数々の合戦でその豪勇ぶりを発揮し、また本能寺で次弟の蘭丸を討ち取った安田国継を「武功は武功」と召し抱えたり、一方で領地経営にも長けるなど文武に秀でた武将でしたので、生き長らえていればもっと多くの所領を手にすることができたのではないかと思います。

忠継は長継の嫡男ですので、忠政の曾孫になります。
母は先の池田備中守長幸の娘ですので、遠いようでかなり近い血筋が混じり合っています。
父の長継が長命だったこともあり、跡を継ぐことなく38歳の若さで早世をしました。

関成次は可成の次女を母に持ち、忠政の三女を娶ったことで森氏一門に名を連ねました。
嫡男の家継が忠政の跡を継いだことで藩主の父となり、よってこの森氏墓所に墓があるのでしょう。
娘を三信、正方といった森氏の男系一族に嫁がせる一方で、関氏の跡を次男の長政に継がせてその兄の長継から1万8000石を分知させて津山藩の支藩である宮川藩を立藩するなどやりたい放題のようにも見えますが、権力を振りかざしてといった振る舞いは無かったようです。

長継の墓は本源寺ではなく、6キロほど離れた千年寺にあります。
長継山千年禅寺の名のとおり長継が自らの発案で造営をしたものでしたが、何度かの焼失で今はすっかりと廃寺状態です。
なかなかに素敵な荒れ具合で、ヘビかヤモリかは分からなかったのですがその手の生き物や、ヤブ蚊の大群が迎えてくれました。

墓とは言いながらも逆修墓で、その生前に建てられたものです。
逆修墓とは戒名を授かるといった「徳」を積むことで、死後の自身の弔いとなるという意味で建てられた墓のことです。
長継は忠政の跡を継いで2代藩主となり三男の長武に跡を継がせましたが、その後の長成、衆利の代まで生き延びたことが幸せだったかどうか、衆利が幕政を批判する発狂扱いで津山藩が改易となるところまでを見届けての死ですので、かなりの苦痛を伴っての89歳の生涯だったかもしれません。


【2013年8月 鳥取、岡山の旅】
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ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 総社、高梁の巻

2013-11-10 19:17:28 | 日本史

 

6日目は総社、そして高梁です。
目的は日本100名城の鬼ノ城と備中松山城で、これまで訪れた日本100名城は複数回目というところが少なくはなかったのですが、この両城ともに初めての城攻めとなります。
それだけにわくわくどきどき、またしても始発での活動開始でヘビーな一日のスタートとなりました。

そうは言いながらも朝イチで訪れた鬼ノ城は完全に専門外で、根室のチャシ跡群や八戸の根城、そして福岡の大野城や佐賀の吉野ヶ里遺跡と同じく日本100名城に指定をされていなければ訪れることはなかったでしょうし、申し訳ないながらも実際に足を運んでもぐっとくるものはありませんでした。
最寄りの駅からは5キロほどですので和意谷を考えれば歩けない距離ではなかったものの、歩くことが趣味ではないので今回は総社駅からタクシーに乗っての城攻めは標高397メートルですから正解だったと思いますし、さすがに時間が早かったことで拠点となる鬼城山ビジターセンターは開館をしていませんでしたしまた人っ子一人見かけず、それでも一通りは巡ってみるのは城攻めの礼儀とばかりに鬼ノ城コース約4キロを2時間ほどかけての散策です。

鬼ノ城は飛鳥時代に唐、新羅の襲来に備えて築かれたものと言われていますが、しかし大野城などとは違って史書には全くと言っていいほどに記されていない謎の城です。
大陸からの守備を考えればこの位置というのは違和感がありますし、それでも発掘調査で城壁の基礎が見つかるなど砦のようなものが築かれていたのは間違いないようです。
また温羅と呼ばれる一族が朝鮮から渡来して居住をした場所とも言われており、岡山の桃太郎伝説のゆかりの地でもあるとは例によっての資料の受け売りでした。
ちなみにこちらの西門が唯一の再建をされた建物で、展望台からのショットを考えれば午後がよいとは事前知識ではありましたが、日程の都合から朝もや&逆光で惨敗です。

この時代に石垣の城壁があったとも思えないのですが、7メートルほどの高さで約3キロ弱ほどをぐるっと囲んでいたようです。
また通路、あるいは雨水で城壁が壊れないようにするためと想像されている敷石がここそこにあり、これだけの石を見てしまえば石垣があっても不思議ではないような気もします。
この鬼城山は岩山なのか巨岩があちらこちらにありましたので、建築材には事欠かなかったのでしょう。

場外に水を逃がすための門も複数あり、そのいくつかは今も水が流れていました。
どこまでが遺構でどこまでが復元なのかは分かりませんが、もし石で囲われた水路が整備をされていたのであれば凄すぎます。
そういった技術がこの時代に日本にあったのか、やはり渡来人の手によるものと考えた方が正解に近いのかもしれません。

ごつごつとした岩場を、それなりのアップダウンを乗り越えながら一回りをしたのですが、やたらと目についたのが石積みです。
人、もしかしたら仏を模したかのように積み上げられており、暗がりでしたらかなり不気味だったでしょう。
おそらくは観光客の誰かが始めたものを真似て増えていったのではないかと思いますが、それにしても数が半端ではありません。
崩れるのが怖くて触りはしなかったのですがおそらくはただ積んでいるだけでしょうから、地震がきたときにどうなるかがちょっと気になります。

西門から反時計回りに歩んでいったので、南門跡、東門跡、北門跡と都合4つの門にぶち当たりました。
防備を考えれば四方八方に門があることは得策とは思えませんし、この標高であれば人の往来が多かったとも考えられませんから、どうももやもやとしたものがあります。
再建はされていませんが規模は違えど西門と同じく掘立柱の堅固な城門であったことが調査から分かっており、どれだけ権力者だよと突っ込んでおきました。
写真は左から南門跡、東門跡、北門跡です。

途中には温羅の碑があったのですが、何の碑かはよく分かりませんでした。
今の岡山と広島の東部を合わせたあたりが吉備と呼ばれていましたが、そこで勢力を誇っていた温羅を吉備津彦命が征伐をし、そのときの部下が犬飼健、楽々森彦、留玉臣の三人で、それが桃太郎伝説になったとは岡山県の主張らしく、きび団子も吉備団子が引っ掛けられたりもしています。

次に向かった高梁では備中松山城への乗り合いタクシーの時間までかなりあったので、先にその周辺を巡ることにしました。
まずは山中鹿介幸盛の胴墓で、さすがに有名な武将の墓はあちらこちらにあります。
ここからほど近いところにある阿井の渡しで殺害をされた幸盛の首は毛利輝元の本陣に送られて、遺骸は別の場所に葬られたものを埋葬しなおしたのがここだそうです。
それを信ずればこの墓の下に幸盛の遺骨があるはずなのですが、実際のところは定かではありません。

源樹寺は三村氏の菩提寺で、三村家親とその子の元親の墓があります。
三村氏は戦国期には毛利氏と結んで備中をほぼ制圧するなど勢力を大きく伸ばしましたが、その後は宇喜多直家との抗争で家親が斃れ、また元親の代には直家が毛利氏と結んだことで両者に挟まれる形となり、織田氏に誼を通じて毛利氏から離反をしますが居城であった備中松山城を落とされて戦国大名としての三村氏は滅びました。

家親は在地勢力の上野氏、石川氏、庄氏らと姻戚関係を結んだり養子を送り込んだりと足場を固めましたが、しかし宇喜多氏との合戦の際に陣屋とした興善寺で直家の放った刺客に火縄銃で撃たれて暗殺をされてしまい、ここから三村氏の落陽が始まります。
跡を継いだ元親も奮戦をしますが明禅寺合戦で直家に大敗し、また父の仇の直家と結んだ毛利氏を許せずに一族や家臣の反対を押し切って断交して織田氏に内通をしたものの、じわじわと領土を侵食されて最後は小早川隆景を総大将とする大軍に押し潰される形で三村氏の命運は断たれました。
写真は左が家親、右が元親です。

こちらも山中鹿介幸盛の墓です。
このあたりが幸盛の最期の地である阿井の渡しの近くらしく、そうなれば墓と言うよりは供養塔なのでしょう。
コンビニの隣の公園のような広場の奥まったところにありますので行きには見落としていたのですが、帰りに場所を聞いてちょっと迷いながらも辛うじて見つけました。

さて備中松山城です。
城攻めの前に一通りを巡ってしまおうかとも思っていたのですが、源樹寺が10キロほど西にあったことや途中でやや道に迷ったりでタイムアウトとなってしまい、レンタサイクルを駅前の観光案内所に置かせていただいて乗り合いタクシーでふいご峠なる臥牛山の中腹あたりまでひとっ走りです。
片道420円のリーズナブルな観光タクシーで予約が必要ですが、やはり標高400メートルほどの山城ですので利用をするにしくはありません。
この備中松山城は岐阜の岩村城、奈良の高取城とともに日本三大山城と呼ばれているらしく、この両城には行ったことがないのでまずはその制覇への第一歩目となります。
一部は復元ですが天守閣、櫓、城門、そして見事な石垣が遺されており、一見の価値があると思います。
ふいご峠から本丸までは700メートルほどで約20分が標準とのことでしたが、帰りの時間が気になって足元はしっかりとしているもののそれなりに急峻な階段を息を切らせて15分弱で登りきりましたので、着いたときには汗だくながらもこれぞ城攻めと一人悦に入っていました。

場所が場所だけに、ということもあるのでしょうが、城域としてはさほど広くはありません。
三の丸、二の丸ともにそれこそ小学校のグラウンドの方が広いぐらいで、こぢんまりとまとまった感じがあります。
戦国期の城主は上野氏、庄氏、そして三村氏と変遷し、江戸期に入ってからは小堀氏、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、そして板倉氏のときに幕末を迎えました。
写真は左が三の丸跡、右が二の丸跡です。

二の丸に足を踏み入れたところですぐに天守閣のある本丸が見えてしまう、それぐらいの規模です。
周りを木々に囲まれているために外周からは城郭を見渡すことができず、この二の丸からの風景がベストショットのようです。
五の平櫓、六の平櫓は1994年の再建で、右の写真の左側が五の平櫓で事務所のようになっており、左側の六の平櫓の脇には冷たいほうじ茶のサービスがあり助かりました。
五の平櫓と六の平櫓の間にあるのが本丸南御門で、やはり1994年の再建です。

天守閣は国の重要文化財に指定をされています。
戦国期にもそれに近いものがあったようですが、現在の形となったのは水谷氏の2代の勝宗のときとされています。
木造本瓦葺き二階建ての複合式望楼型天守で、内部はありがちな展示がされていましたが、窓がやや大きいかなという印象が残りました。
高さもさほどはない小ぶりな感じで、しかしそれが逆に天守閣、櫓、城門、城壁などが一望にできることで独特の雰囲気を醸し出しています。

天守閣の背後にあるのは二重櫓で、こちらも国の重要文化財です。
やはり二重二階となっていますが、残念ながらこちらは特別公開の時期を除いて内部に入ることはできません。
昨年の秋口にその特別公開があったようなのですが、個人的には人混みは嫌いなのでこういった閑散とした城跡が好みではあります。

地味ではあるのですが、三の平櫓東土塀も国の重要文化財です。
ヒビが入っているなど痛みも散見されますし、それなりの補修もされているのでしょうが、こういったものが当時のままで遺されているのは素晴らしいことだと思います。
一部は復元で重要文化財の指定を外れているとのことですが、その違いはよく分かりませんでした。

また乗り合いタクシーで駅前に戻り、レンタサイクルでの散策を再開です。
定林寺は備中松山藩の初代藩主である水谷勝隆が、水谷氏の菩提寺であった常陸下館の定林寺を遷したものです。
水谷氏は下総結城氏に仕えた正村、蟠龍斎の名の方が知られているかもしれませんが、勝隆はその正村の甥で常陸下館から備中成羽を経て備中松山に入りました。
ここに備中松山藩を治めた水谷氏の墓所があります。

正村は豊臣政権下で独立を果たして常陸下館で大名となり、しかし跡を継ぐ子がいなかったためか次弟の、とは言いながらも18歳も年齢が離れた勝俊が継嗣となります。
その勝俊の嫡男が勝隆で、父の戒名である後定林寺靠山全虎大居士から寺名をつけたとのことですから、常陸下館の定林寺もそう歴史の長いものではなかったのでしょう。
かなり有能な人物で藩政の基礎を固めるとともに、徳川四天王の一人であった酒井忠次の嫡男の家次の娘を正室に迎えるなど幕府の覚えもめでたかったようです。
勝隆の跡は嫡男の勝宗が継いで外様大名から譜代大名扱いになるなど引き続き幕府の信頼を得たものの、その嫡男の勝美が31歳で病死をして末期養子とした従兄弟の子の勝晴も家督を相続する前に13歳で早世をしたことで、備中松山藩の水谷氏は3代で無嗣断絶となってしまいました。
写真は左が勝隆、右が勝美で、江戸で没した勝宗は港区高輪の泉岳寺に浅野長矩や大石内蔵助ら赤穂義士らとともに眠っているとのことです。

駅からほど近いところにある頼久寺には、上野頼久と三村氏の墓所があります。
元は安国寺でしたが備中松山城主だった頼久が大檀越となり大きく手を入れたことで、安国頼久寺となりました。
関ヶ原の戦いの後に備中松山に入った小堀正一がこの頼久寺を居館としただけのことはある、かなりな威容を誇っています。

頼久寺の中興の祖とも言える頼久は足利将軍家の一門である上野信孝の弟で、兄に備中の支配を任されて勢力を伸ばしました。
しかしその子の頼氏のときに大内氏の傘下となり、その大内氏と対立をする尼子氏の後押しを受けた庄為資に備中松山城を攻められて討ち死にをします。
頼久、頼氏の一族である隆徳は三村家親の娘を正室にするなどして常山城に拠りますが、しかしその三村氏とともに毛利氏に攻め滅ぼされました。

三村氏の墓所は先の源樹寺にもありますが、一般的には頼久寺のそれの方が有名なようです。
観光案内所に置いてあった資料にも頼久寺はありましたが源樹寺はなく、その場所も含めて担当者の方にこちらが説明をするぐらいに頼久寺>源樹寺な立ち位置です。
見た目からすれば源樹寺の五輪塔があまりに立派すぎるために供養塔ではないかという気がするものの、どちらが正しいというものでもないのでしょう。
元親が備中松山城で討ち死にをしたときに嫡男の勝法師丸は元服前の幼児で、しかし後顧の憂いを断つために毛利氏によって処刑をされました。
写真は左から家親、元親、勝法師丸です。

安正寺は幕末を迎えたときの備中松山藩主であった板倉氏の菩提寺です。
京都所司代だった勝重の嫡流で、勝重の次男で島原の乱で討ち死にをした重昌などいくつかの分家を束ねる宗家がこの備中松山藩の板倉氏となります。
その代々の位牌はあるものの墓所は愛知西尾の長円寺にあるとのことですので、境内を軽く見て回っただけで次に向かいました。

まだ時間が早かったので移動時間がかかるもののギリギリで間に合うかなと、翌日の予定を前倒しにしたのが常山の友林堂です。
宇喜多直家の重臣であった戸川秀安の廟所で、常山城主であった上野隆徳が毛利氏に滅ぼされた後に秀安がその城主となりました。
この友林堂は戸川氏の子孫が整備をしているとのことで、そういった話を聞くと嬉しくなります。

友林堂から少し登ったところには、秀安の墓があります。
秀安の出自は直家の祖父である能家の庶子で家臣の富川氏に養子に出された定安の子とも言われていますが、実際のところは門田氏の出で遠縁にあたる富川氏に身を寄せて宇喜多氏に仕えたといったところのようで、定安、ないしは秀安のころまでは戸川ではなく富川と称していたとのことです。
その秀安は岡家利、長船貞親とともに宇喜多三老の一人で、2万5千石を領した筆頭家老とも言うべき存在でした。
秀安のみならず家利、貞親が健在であれば宇喜多騒動などは起きなかったのではないかとは夢想でしかありませんが、それぞれの二代目である宇喜多秀家、戸川達安、岡利勝、長船綱直らが結果的に滅ぼした宇喜多氏と考えればありがちな話ではあります。


【2013年8月 鳥取、岡山の旅】
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ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 岡山の巻 岡山城の章

2013-11-03 16:51:01 | 日本史

 

翌日は岡山市街を中心とした散策です。
アップダウンもさほど無かったことで気持ちのいいサイクリングとなったのですが、あまりな好天による日焼けで腕や手首が腫れてしまって夜には熱さまシートのお世話になりました。
経験則のアベンヌウォーターを持参していなければ、もっと大変なことになったかもしれません。

岡山市街とは言いながらも、遠くから攻めていくのはいつものとおりです。
まずは10キロ弱ほど南にある成隆寺で、ここには宇喜多氏の重臣であった戸川氏の墓所があります。
ブロック塀に囲まれた墓所は非公開との話も聞いていたのですが、お寺の方のご厚意で中に入れていただきました。

戸川達安、あるいは逵安の名の方が有名かもしれませんが、宇喜多直家に仕えた秀安の子です。
達安も父の跡を継いで直家、そして秀家の重臣として活躍をしましたが、しかし宇喜多騒動にて宇喜多詮家、岡利勝、花房正成、職秀らとともに宇喜多家を去ります。
関ヶ原の戦いでは東軍に属して元の主家と戦い、備中庭瀬3万石の大名となりました。

その他にも多くの墓石があったのですが、戒名などから名前が分かったのは正安、安宣、壽之のみです。
達安の次男の正安は備中庭瀬藩の2代藩主ですが、これといった事績はないようです。
正安の跡は次男の安宣が継ぎ3代藩主となりますが27歳の若さで没し、跡を継いだ嫡男の安風も9歳で病死をしたことで無嗣断絶で改易となりました。
壽之はその墓石の横に系譜が書いてあったことから名前が分かったのですが、うっかりしてそのメモを無くしてしまったので今は不明です。
写真は左から正安、安宣、壽之です。

さらに9キロほど南下をしての海禅寺は、天城池田氏の菩提寺です。
天城池田氏は輝政の兄の元助の系譜で、その子の由之が初代となります。
元助が小牧長久手の戦いで討ち死にをしたことで輝政が池田氏の家督を継ぎ、由之は家老として池田氏を支えました。
その天城池田氏の墓所も近くにあるはずなのですが場所が分からず、お寺の方も不在なのか聞くこともできず、それならばカーナビに案内をしてもらおうと住所を入力しようとしたときに倉敷市の文字を見てビックリとしてしまい、例えば池田氏の菩提寺である国清寺も池田氏が移る度に新しい土地に創られたりもしていましたのでそれと同じではないかと、この海禅寺は間違いなく天城池田氏の菩提寺ながらも墓所は別の海禅寺の近くにあるのだろうと、その独り合点がこの旅の最大のミスをもたらすことになります。
岡山市と倉敷市の位置関係が頭にあれば思いついたのかもしれませんが、まさか自分が既に倉敷市にいるとの発想がゼロで、この墓所を目的に早起きをして20キロ近くを走破した労苦が報われることなく、後になって調べてみればほんの数百メートルほどしか離れていないところにあったことに気か付かなかった自分が情けなくもあります。

また来た道を黙々とペダルを踏んで戻って目指したのは、日本100名城の一つの岡山城です。
登り口はいくつかあるのですが、何となく行き着いた鉄門跡からのスタートです。
この鉄門は藩庁のあった表書院に通ずる櫓門で、木部の全体を鉄で覆っていたことからそう呼ばれていました。

鉄門跡を抜けて右に折れると、そこには不明門があります。
表書院から城主居館のある本段への入口にあたる渡櫓門で、1966年に鉄筋コンクリートで再建をされました。
普段はほとんど閉じられていたことから、その名で呼ばれています。

不明門を抜けると、天守閣が迎えてくれます。
岡山城の築城は宇喜多直家の手によるものですが、大幅に改修をしてほぼ現在の形にしたのは子の秀家となります。
この天守閣も秀家が築いたものですが戦災で焼失をしてしまい、不明門と同じく1966年に鉄筋コンクリートで再建をされました。
烏城とも呼ばれており、その黒塗りの下見板が特徴です。

天守閣の東寄りには六十一雁木上門があり、その名のとおり61段の石段があったことでそう呼ばれていました。
扉は閉ざされていましたので本段から出てぐるっと回り込んでみたのですが、しかしどう見てもその石段は半分もありません。
こちらも1966年の再建ですので往時とは違った形での復元となっているのかもしれず、ちょっと名前倒れなところがあり残念ではありました。

こちらは中の段にある月見櫓で、国の重要文化財に指定をされている遺構です。
ただ宇喜多氏の時代のものではなく、岡山池田氏の2代である忠雄が築いたものと言われています。
本瓦葺き二階建てで、貯蔵庫があったり石落としがあったりと本段を守る隅櫓としての機能を有する一方で、平時には月見などの眺望に適した構造になっているとのことでした。

月見櫓の脇には、穴蔵がありました。
言われなければただの凹みにしか見えないのですが、非常用の食料の貯蔵に用いられていたとのことです。
どうやって調べたのかは分かりませんが、香川県豊島産の凝灰岩の切石で造られているとは説明板からの受け売りです。

現在は一続きになっている本段と中の段を繋いでいたのが、この廊下門です。
搦め手にあたる城門で、門扉の上に敵を迎え撃つための部屋を備えていました。
これまた1966年の再建ですが、残念ながらその廊下は閉ざされていて渡ることができなかったのが残念と言えば残念です。

岡山城は宇喜多氏、小早川氏、岡山池田氏と城主が変遷をしましたので、石垣にもその特徴が顕れています。
こちらの石垣は宇喜多氏のときのもので、自然石をそのまま積んだ野面積みとなっています。
前回に岡山城に訪れたときにまさにこの石垣が発掘中で、珍しいものを見られたと喜んでいたのですが、埋め戻されるものと思っていましたのでちょっと意外ではありました。

本段南東の高石垣も宇喜多秀家が築いたもので、やはり野面積みになっています。
高さは15.6メートルもあり、関ヶ原の戦い以前の石垣としては屈指の高さとはこれまた説明板の受け売りです。
よくぞ形も整えずに積み上げてこれだけの高さにしたものだと、日本人の技術の高さに毎度のことながら驚かされます。

西の段南西の石垣は小早川秀秋によるものとのことです。
同じく野面積みですが宇喜多氏のそれに比べると隙間など雑な印象があり、その秀秋の性格から適当さが見られるなどの指摘もあるようです。
そんなところまでを城主が指図をするとは思えず、関ヶ原での裏切り、頓死などもあって評判の悪い秀秋が哀れにもなりますが、日本人の気質からすれば仕方がありません。

小納戸櫓下の石垣は池田忠雄が築いたもので、石材をあらかじめしっかりと加工をして隙間なく積み上げられています。
同じ城の城壁とは思えないぐらいの差があり、場所によっては野面積みと連なったりもしていますので不思議な感じがあります。
その加工にしても積み上げた際の姿を想定しての作業になったでしょうから、やはり日本人は凄いとしか言いようがありません。

いわゆる岡山城跡からやや離れたところにある小学校の跡地には、当時の遺構の西の丸西手櫓があります。
二の丸の西の郭西端を守る隅櫓で、池田忠雄が幼少のときに後見をしていた兄の利隆が建てたものと言われています。
入母屋造りの本瓦葺きで、時代背景もあったのでしょうが鉄砲狭間や石落としのある実戦向きで堅牢な造りとなっていますが、二階の広間などがその実戦性にそぐわないのは利隆の子の光政が西の郭を隠居所にしたときに手を加えたのではないかと言われており、既に太平の世になったのだなといった感じがしました。

岡山城を出て次に向かったのが徳与寺で、於福の供養塔があります。
於福は宇喜多直家の継室となり秀家を産み、また直家の死後に豊臣秀吉の側室となったことでも有名です。
ただ近年の研究ではこの供養塔は於福のそれではなく、宇喜多詮家の室のものではないかとも言われているようです。

瑞雲寺は小早川秀秋の菩提寺です。
その本堂に秀秋の墓があるとのことで、基本的には非公開ながらも見せてもらうことができたとの情報もあったので二日間で三度訪れたのですが、願いは叶いませんでした。
チャイムを鳴らしても無反応で、ラジオの音が聞こえていましたのでおそらくは誰かはいたと思うのですが、観光客は相手にしないということであれば仕方がありません。

光珍寺は宇喜多氏の菩提寺です。
しかしこういったビルな寺は初めて見ましたし、申し訳ないながらも風情が足りない感じがします。
戦災で焼失をした際に宇喜多直家の木像や宇喜多氏の位牌も失われてしまい、明治維新後の廃城と第二次世界大戦の空襲は歴史ファンにとっての敵としか言いようがありません。

その光珍寺と元は一つの寺だったのが、岡山寺です。
池田氏のときに理由は分かりませんが、分割をされて今に至っています。
そういう意味ではこちらも宇喜多氏の菩提寺だと、無理矢理に言えなくもありません。

そして意味深な五輪塔です。
覆屋までありますので寺にとっては大切なものであることは明らかで、そうなれば宇喜多直家のそれではないかと夢が広がります。
ネットで調べてみれば岡山寺としてこれを直家の墓としているわけではないようですし当然のように説明板などもありませんでしたが、そうではないかとの意見と言いますか希望と言いますか、そういった記載もチラホラと見かけますので、思い切ってこれを「(仮)宇喜多直家の墓」としても罰は当たらないでしょう。

岡山市街の中心地はほぼ巡ったので、次はまたえっちらおっちらと西に13キロほどの高松城跡です。
羽柴秀吉の「高松城水攻め」で有名な城ですが、しかし遺構としてはほとんど何も残っていません。
この高松城の城主だったのが毛利氏に仕えていた清水宗治で、城兵を助命することを条件に切腹をしました。
ここがその自刃の地とのことで、船上での切腹ではなかったかのかとは思いつつも、それだけ地元の人に愛されているということなのでしょう。

その城跡は公園になっていますが、これといって何があるわけでもありません。
そもそもがかなり広大な範囲で堤防を築いての水攻めでしたので、僅かに残された遺構はもっと外周にあるのでしょう。
ここで唯一のそれらしきものは宗治の首塚で、つまりはここが高松城の本丸跡になります。

こちらがその首塚です。
こんもりとした盛り土のようなものの上に供養塔があり、しかし実際にその首がここに埋まっているかどうかは分かりません。
宗治の子の景治が毛利氏に従って萩に移り、そこに父の菩提寺として清鏡寺を構えて宗治の墓もそこにありますので、あるいは改葬をされているといったこともありそうです。

強烈な逆光だったので補正をしても左が精一杯で、仕方がないので正面は諦めての右になります。
宗治はその最期から忠義の士として讃えられていますが、元は毛利氏と備中を争う三村氏に荷担をしていた石川久智の女婿で、三村氏から叛して毛利氏に降っています。
久智の子の久式も一時的に毛利氏に属していましたので宗治のみが裏切ったということでもないでしょうし、当時からすればこういった強大勢力に挟まれた国人衆の右往左往は珍しいことでもなく、それだけになぜに宗治が毛利氏、実際のところは小早川隆景に操を立て通したのかはよく分かりません。
それだけ隆景に人を惹きつける魅力があったのか、それとも他の理由があったのか、何にせよ宗治は武士の鑑として現在に伝えられています。

城跡公園の一角には、高松城跡公園史料館があります。
8畳ほどの狭い空間ではありますが水攻めや宗治にかかる資料が多く展示をされていて、また自分しかいなかったこともあってか係の方がいろいろと説明をしてくださいました。
帰り際に自転車で100メートルも走ったところまで追いかけてきてマスカットまでいただき、これだから旅は止められません。

首があれば胴もある、宗治の胴塚です。
首のない胴体を家臣が持ち帰って埋葬をしたとのことで、しかしやはりここにその胴体が眠っているかどうかはよく分かりません。
ちなみにここは妙玄寺という宇喜多氏の重臣だった花房氏の菩提寺だったところで、やはり宇喜多騒動で宇喜多氏から離れた花房職秀の墓もあるとのことでしたが、かなり以前に当時の住職が夜逃げをしてしまい近くの寺が檀家さんを引き取ったとのことですので、そのあたりはもう誰も分からないとは地元の方のお話でした。

またしても岡山市街に舞い戻っての少林寺です。
少林寺とは言ってもリー・リンチェイがいるわけでもなく、池田輝政の子の輝興の菩提寺です。
輝興の墓は和意谷にありますが、兄の政綱の墓がこちらにあるとの情報がありましたので足を運んでみたものの、お寺の方が不在で見つけることはできませんでした。

最後は国清寺です。
池田輝政、利隆の菩提寺で、また岡山藩の支藩である鴨方藩は光政の次男の政言が2万5千石で、生坂藩は三男の輝録が1万5千石で、つまりは利隆の孫、輝政の曾孫がそれぞれ立藩をして、その代々の当主の墓所があるとのことでしたが、もう肌が熱を持ってしまって余裕が無かったために次回の楽しみにと先送りにしました。
一部は戦後に別の場所に移されたとのことで、そのあたりの情報収集が足りていなかったということもあります。
いろいろと他にも見落としを現地に入ってから気がつかされましたし、まだまだ準備不足を痛感したのも今回の旅の収穫だったりもします。


【2013年8月 鳥取、岡山の旅】
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ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 岡山の巻 岡山藩主池田家墓所の章

2013-10-27 22:31:38 | 日本史

 

三日目の夕方に岡山に入り、四日目からは岡山での史跡巡りです。
その最初は岡山藩主池田家墓所で、池田輝政などの藩主の墓があります。
まずは復習がてらに池田氏の系図を岡山池田氏バージョンで作り直してみましたので、クリックで別ウィンドウで横に置いていただけると人間関係が分かりやすくなります。

岡山池田氏とは書きましたが、輝政、利隆までは播磨姫路藩52万石の大名で、備前岡山藩の初代は輝政の次男、利隆の次弟の忠継です。
その忠継が17歳で病没し、跡を継いだ弟の忠雄も31歳で若死にをして嫡男の光仲が3歳と幼かったことで、同じく父の利隆の早世で8歳で家督を継いだ光政が幼少を理由に因幡鳥取藩に転封をされていたものと入れ替わりとなり、よって利隆の系統が岡山池田氏となりました。
凡例は色付きが藩主、太字がそのうちで写真でご紹介ができるものとなります。

墓所は和意谷という、岡山駅から45分ほどの吉永駅から7キロ、なだらかではありますが標高390メートルの山中にあります。
バスは一日に二便しかなく、また始発で向かったために駅前にはタクシーの影も形もなかったことで、仕方なくカーナビを片手にのハイキングです。
基本的には舗装をされているために足場を気にする必要はなかったのですが、それでも片道で2時間近くは歩きましたので朝っぱらからいい運動となりました。
騙されたのが専用駐車場の案内板で、それであれば目的地は直進だろうと歩き続けてもそれらしきものは見当たらず、10分以上も歩いた挙げ句に民家で場所を聞いてみれば、この専用駐車場の奥にその登り口があるとのことで、何でここまで来たのと言われる始末です。
勝手な勘違いではあったのですが、ちょっと不親切だと愚痴ってみました。

こちらがようやくの登り口です。
登ってから暫くは石段があったり平坦な道だったりはしましたが、登って行くに従って段々とただの山道になっていきます。
場所が場所だけに一概に比較はできませんが鳥取藩主池田家墓所に比べればお世辞にも整備が行き届いているとは言い難く、倒木を乗り越えてなんてところもままありました。

その登り口に、ざっくりとした墓所配置図がありました。
さらに奥まで行くには2キロ近くを歩かなければならず、文字どおりに点在をしているといった感じです。
もちろんその全てを制覇するつもりだったのですが、配置図にすら載っていない七のお山を断念したのはまた後の話です。

まず最初にぶつかるのが、お茶水井戸です。
この和意谷を岡山藩主の墓所としたのは忠継から数えて3代、利隆系では初代の光政ですが、墓参の際には必ずこの井戸の水で茶を点てたとのことです。
説明板には頭の良くなる水として入学就職時には他府県より多くの人が訪れて愛飲をしているとありましたが、とても現役の井戸とは見えない荒れ方でした。

そのまま登り続けての最初が三のお山で、利隆系の初代藩主の光政です。
面倒なので以降は、全て利隆系の代数で数えていきます。
菩提寺だった京都の妙心寺護国院が炎上をしたのを機に、光政はこの地に父の利隆、祖父の輝政の墓所を改葬しました。
父の跡を継いで姫路藩の3代藩主となった光政は幼少を理由に鳥取藩に転封となり、その後に従兄弟の光仲との入れ替わりで岡山藩主となったのは先に書いたとおりです。
姫路藩52万石から鳥取藩32万石、そして岡山藩31万5千石と、抱える家臣は同じままに石高が減ったことでかなり財政的に厳しかったことから倹約令を奨励し、また学問の普及に努めた光政は徳川光圀、保科正之と並んで江戸初期の三名君と呼ばれました。
ちなみに他もそうですが、墓石の背後にある墳墓のようなものの下に遺骨が納められているとのことです。

三のお山から少し登って、左に折れたところにあるのが二のお山、光政の父の利隆です。
長男ながらも輝政の先妻の子であった利隆は、しかし後妻で徳川家康の次女である督姫の子である忠継、忠雄らが幼かったこともあり、輝政の家督を継ぎました。
それでも輝政からすればかなりな決断だったでしょうし、またそれを後押しするだけの力量が利隆にはあったようです。
しかし33歳で病死をしてしまい、嫡男の光政はめまぐるしく転封をすることになります。

そこからやや下り坂を進んでいくと四のお山で、8代藩主の慶政です。
先代の斉敏は島津氏からの養子でしたが、その斉敏の父の島津斉興の従兄弟にあたるのがこの慶政です。
ただ年齢的には慶政の方が12歳の年少で、池田氏一門の娘を正室にすることで斉敏の跡を継ぎました。
幕末の激動の時代にいろいろな改革を試みながらも成就はせず、志を半ばにして隠居をすることになります。

さらに下ったところの五のお山には、慶政の跡を継いだ9代藩主の茂政です。
水戸徳川氏の出で、徳川15代将軍の慶喜の実弟となります。
ここにきての徳川氏からの養子の迎え入れは幕府の顔色を窺ったことが理由なのか、しかしこれといった事績も残さないままに養子に家督を譲りました。

元の道を戻ってさらに登っていったところにあるのが一のお山、藩祖とも言うべき輝政です。
池田氏の隆盛を築いたのがこの輝政で、一族一門で100万石弱もの大領を得たのは徳川家康の女婿となったこともあったでしょうが、本人の資質が一番の理由でしょう。
武勇のみならず知略でも才を発揮し、当然のように別格の亀趺円頭な墓となっています。
その時代であってもまだ壮年とも言える50歳で急死し、嫡男の利隆もその三年後に病死をしていますので、もし輝政がもう少しでも長生きをしていたら嫡孫の光政を後見することで転封をされることなく池田氏宗家は姫路藩主であり続けたかもしれず、池田氏からすれば無念なことだったと思います。

さらに進んでいくと六のお山で、一族の墓が並んでいます。
輝興は輝政の六男で忠継、忠雄らの同母弟となり、同母兄にあたる政綱の跡を継いで播磨赤穂藩の2代藩主となりました。
しかし発狂をしたことで改易となり、その後は鳥取池田氏から養子を迎えるなどしましたが、結局は無嗣断絶で輝興系池田氏は4代で終わりとなります。
利隆の次男で光政の次弟である恒元は、播磨山崎藩の初代藩主です。
その跡を嫡男の政元が継ぎますが子が無かったために従兄弟で岡山藩2代の綱政の子を養子としましたが、早世をしたことでやはり政元系池田氏は3代で終わりました。
輝尹、政實はいろいろと調べては見たのですが系譜が今ひとつ分からず、輝尹は1679年に活動の記録がありますので光政の、政實は没年が1869年ですので慶政、もしくは茂政の、そのあたりの代の一族、あるいは一門ではないかと思うのですが、これ以上のことは調べ切れていません。
写真は上段左から輝興、政元、恒元、輝尹、政實です。

七のお山には輝政の七男の政虎、九男の利政、利隆の三男の政貞の墓があるのですが、その道筋すら定かではなく、ここを700メートルも歩くのはちょっと無理な相談です。
これが輝政の墓がそこにあるのでしたら万難を排してでも特攻をしたのですが、申し訳ないながらもこの顔ぶれではその気にはなれず、後で地元の方に聞いてみれば和意谷に行くなら春か秋、春は桜がきれいだと、草木の生い茂る夏に訪れる人はほとんどいないとのことでした。
実際のところ平日ではあったもののその往復で自分以外の観光客らしき人を見かけることはなく、まずまず正しい判断だったと自分に言い聞かせています。

午前中を和意谷で過ごし、午後に岡山に戻っての自転車での散策です。
最初に向かったのは備前長船で、岡山の東に20キロほどのところにある黒田氏の発祥の地です。
岡山と和意谷のある吉永の中間点の位置にありますので無駄な移動にも思えますが、電車での移動となると意外に交通の便が悪いので仕方がありません。
来年の大河ドラマが「軍師官兵衛」であることから盛り上がっているだろうなとは思っていましたが、あちらこちらにその幟が立ち並んでいました。
ちなみに長船には福岡という地名があり、黒田長政が筑前に入国をしたときに父祖の地にちなんで福岡と命名をしたと言われています。

この長船の目的は妙興寺で、宇喜多興家と黒田氏の墓所があります。
どちらかと言えば黒田氏よりも興家の墓が目当て、と言ってしまうと流行に逆らっているようですが、自分の嗜好などはそんなものです。
前回に来たときには無かったはずの、真新しい案内板が大河ドラマの威力を感じさせてくれました。

興家は備前や播磨で勢力を誇った浦上氏の重臣だった能家の子で、梟雄と言われた直家の父です。
能家が浦上家中の勢力争いに敗れて居城の砥石城を落とされた際には直家を連れて備前長船に逃れて、その数年後にこの地で没しました。
一般的には凡将とされており、これといった武将としての事績は残されていません。

こちらが今後に訪れる人が多くなるであろう、黒田氏の墓所です。
官兵衛孝高の祖父である重隆、曾祖父の高政の墓があるとのことでしたが、お寺の方に聞いたところどれがそれかは分からないとのことでした。
黒田氏は赤松氏の一族で播磨に根を張った小寺氏に仕えて姫路城代となり、また縁戚関係を結んで小寺の名を与えられて台頭していきます。
孝高の母は小寺政職の養女であり、また正室は政職の姪であることから小寺孝隆と名乗っていた時期もありました。

また岡山市街、とは言っても岡山駅から南に7キロちょっとのところではありますが、そこまで戻っての曹源寺です。
岡山藩の2代藩主である綱政から和意谷にある8代の慶政、9代の茂政を除いた代々の当主の墓があり、岡山池田氏の菩提寺となっています。
その墓所は本堂の裏手に三ヶ所に分かれており、お寺の方に案内をしていただきました。

2代の綱政は光政の嫡男で、多くの子に恵まれながらも成長をした跡継ぎに苦労をします。
そのため天城池田氏に養子に出していた保教を呼び戻して、3代の継政としました。
継政は善政を敷いて名君と言われましたが正室の伊達吉村の娘を離縁したために伊達氏とは絶縁状態となり、あらぬ噂が流れたために隠居をして嫡男の宗政に家督を譲ります。
4代の宗政は38歳で病死をしますが5代を継いだ治政は長命で、また剛毅な大名として知られましたが45歳で隠居をしたのは幕閣との確執とも言われています。
その治政の長男の政恭は庶子であったために次男の斉政が6代となり、その嫡男の斉輝、甥の斉成が病死をしたことで幕府から11代将軍の家斉の子を養子にとの話を断った勇気は素晴らしく、血脈にこだわる自分からすれば池田氏の血を守った斉政には拍手を惜しみません。
そして7代を継いだのは島津斉興の次男の久寧で、斉彬の次弟になります。
鳥取池田氏の5代の治道の娘が斉興の正室で久寧の母になりますので、女系ながらも輝政の血が保たれた養子縁組です。
しかしその養父の気持ちを知ってか知らずか久寧から改名をした斉敏が子がないことで養子としたのが同じ島津氏の出の8代の慶政、とは先に書いたとおりで、この慶政に天城池田氏の流れである政善の娘を娶せて池田氏の血は繋いだものの、輝政の血脈はここで途絶えてしまいました。
9代の茂政も慶政の娘を正室に迎えましたが、がっかり感は否めません。
ところが茂政が隠居をして跡に据えたのが肥後人吉藩の相良頼之の次男の政詮で、この頼之の祖父は4代宗政の次男ですのでここで輝政の血が復活をしたことになります。
実子がありながらも茂政には成長をした継嗣となるべき子がいなかっただけかもしれませんが、ナイスな判断だったと思います。
その政詮を改め10代の章政が最後の岡山藩主で、明治に入ってから暫くは岡山藩知事を勤めました。
11代は章政の次男の詮政、12代がその嫡男の禎政、禎政が26歳で病死をしたことで次弟の宣政が13代を継ぎ、その子で14代の隆政は昭和天皇の第四皇女の順宮厚子内親王と結婚をしたものの継ぐべき男子に恵まれずにお家断絶となってしまったのは残念至極です。
写真は上段左から綱政、継政、宗政、治政、斉政、斉敏、章政、詮政、禎政、宣政、隆政です。

この墓所には藩主、当主の一族の墓が多くありましたが、ご紹介をするのは元服が済んでいるなどして諱が分かっている人物のみとは鳥取藩主池田家墓所と同様です。
6代の斉政の嫡男である斉輝は世子となり将来を嘱望されましたが、23歳で早世をしました。
その他はおそらくは明治以降、それも昭和に入ってからの一族ではないかと思われますが、その系譜は全く分かりません。
写真は左から斉輝、勝定、政尚、政智です。

この日の最後は清泰院です。
忠継系の岡山池田氏の初代である忠継、その弟で2代の忠雄の菩提寺です。
そもそもは長兄の利隆が法源寺の名で建立をしたものを、忠雄が忠継の菩提を弔うために改称をして現在に至っています。
もっとも現在の地にあるのは昭和に入ってからで、区画整理の影響で移転をしたとのことでした。
ここには忠継の廟所、忠雄の墓塔があります。

忠継は輝政の次男ですが、実際には利隆、政虎、輝高、利政に次ぐ五男というのが本当のところです。
利隆とは違って政虎らは庶子のために、督姫の子である忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興は公式にはこの三人を除いた順番での出生とされています。
徳川家康の外孫であるため15歳年長の利隆に輝政の家督は譲ったものの、僅か5歳にして備前岡山28万石の大名となりました。
しかし17歳で病死をしたことで、その跡は弟の忠雄が継ぐことになります。
その廟所は単層入母屋造りで、内部には坐像と位牌が安置をされていますが非公開なのは残念でした。
廟の直下に円形の木棺内に胡座をした忠継の遺骨が、移転の際の発掘調査で確認をされています。

すぐ隣には、忠雄の巨大な墓塔があります。
忠雄はやはり輝政の三男とされていますが実際は六男で、兄の早世により忠継系の岡山藩2代藩主となりました。
荒木又右衛門の鍵屋の辻の決闘のときの岡山藩主が、この忠雄です。
31歳で病没をしたことで嫡男の光仲が幼少を理由に因幡鳥取藩に転封となり、鳥取池田氏となったのは先にご紹介をしたとおりです。
その墓塔の高さは5.6メートルもあり、かなりの迫力がありました。
左にあるのが忠雄の近習頭で、その死に際して殉死をした加藤主膳正の墓です。
名のある重臣というわけでもない主膳正の墓がこれだけのものであるということは、それだけ忠雄に愛されていたのでしょう。
写真は左が忠雄、右が主膳正です。


【2013年8月 鳥取、岡山の旅】
ついてる鳥取、のってる岡山
ついてる鳥取、のってる岡山 旅程篇
ついてる鳥取、のってる岡山 旅情篇
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 鳥取の巻 鳥取城の章
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 鳥取の巻 鳥取藩主池田家墓所の章
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 米子、八橋、倉吉の巻
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 岡山の巻 岡山城の章
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ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 米子、八橋、倉吉の巻

2013-10-12 23:07:59 | 日本史

 

鳥取での二日目は米子、八橋、そして倉吉です。
朝からかなりの雨でしたので始発で向かった米子は散々なことになるかと思ったのですが、途中で雨は上がったのでラッキーでした。
その後も時折に降られはしましたが大したことはなく、まさについてる鳥取です。

まず米子で最初に向かったのが、中村一忠の菩提寺である感応寺です。
一忠は米子城に拠った米子藩の初代藩主で、感応寺は一忠が関ヶ原の戦いの後に旧城下の駿府から移ってきた際に一緒に移転がされました。
寺の背後に、その一忠の墓があります。

一忠は生駒親正、堀尾吉晴とともに豊臣氏の三中老、そもそもそういった役職があったかどうかは疑問視をされているようですが、その一人であった一氏の子です。
早くから秀吉に仕えた一氏は豊臣氏の譜代と言ってもいい家柄で、駿河駿府14万石を与えられたことからも信頼をされていたのでしょう。
しかし関ヶ原の戦いでは病床の一氏は東軍への参加を決め、戦後に一忠は伯耆米子17万5千石の国持大名となりました。
ところが一忠は20歳で病死をしてしまい、中村氏は二代で断絶となります。

そしてその一忠が大きく改築をして入ったのが米子城です。
標高は90メートルほどですのでさして高くはありませんし、おそらくは当時のものであろう石段がありますので登るのに苦労はないはずなのですが、直前まで降っていた雨のせいで足元が滑ったのには難渋をしましたし、登るよりも降りる方が大変だったのはいつものことです。
残念ながら明治に入ってから破却をされてしまい建物は何も遺っていませんが、なかなかに石垣は見事でした。
写真は左から内膳丸に至る石垣、内膳丸跡、鉄御門跡です。

近世の米子城は吉川広家が築き始めたもので、天守にはその広家の建てた四重の天守閣と、一忠の建てた五重の天守閣がありました。
説明には天守閣と四重の櫓とありましたので、あるいは広家のそれは櫓の扱いとされたのかもしれません。
登り口から見て奥の方に天守閣のものと思しき礎石がありましたが、広家と一忠のどちらのものかはよく分かりませんでした。

こちらは清洞寺跡です。
元は一忠の後に米子城主となった加藤貞泰が父の菩提を弔うために建立をした本源寺で、貞泰が伊予大洲に移った後に入った池田由之が海禅寺を、その後に入った荒尾氏のときに禅源寺、泰蔵寺、了春寺と寺号が変わり、そして別の場所に移されました。
その跡地に荒尾氏の家臣の村河氏の菩提寺として清洞寺が建てられ、今に至っています。
そういった変遷がありつつも、貞泰が建てた五輪塔、由之の子の由成が建てた五輪塔はそのままとなっています。

加藤貞泰の父の光泰は美濃の出身で、斎藤氏に仕えましたが織田氏に滅ぼされた後は木下秀吉の家臣となりました。
秀吉の出世とともに甲斐甲府で24万石を与えられるまでになりましたが、朝鮮の役で病死をします。
また池田由成の父の由之は元助の子で、輝政の甥にあたります。
輝政が大身となるにあたって引き立てられて家老となり、天城池田氏の初代がこの由之です。
写真は左が光泰、右が由之です。

妙興寺には横田村詮の墓があります。
村詮は中村一氏の妹を娶って家老となり、一氏が没した後は甥にあたる一忠を支えて米子藩の基礎固めに力を発揮しました。
しかしそれを妬む一忠の側近の讒言で謀殺をされてしまい、その騒動の際に柳生宗矩の兄の五郎右衛門宗章が横田氏に付いて奮戦の後に討ち死にをしたのは有名な話です。
ちなみに村詮の出自は阿波三好氏で康長の甥とも言われていますので長慶の従兄弟になりますが、はっきりとしたことは分かっていません。
その墓は破損をしたことでレプリカと置き換えられていますが、それにしてもこの色はないだろうとの理由は本堂の前にありました。

誰がどう見てもレプリカと分かるようにすることで「本物はどこ?」の注意喚起をすることが目的ではないかと、そう勝手に想像をしています。
そうでなければこの色はありえません。
墓石の縁の部分がかなり劣化をしているようで、讒言をした一忠の側近が幕府に何の申し開きもさせてもらえずに切腹に処せられるなどしたことからして有能かつ忠義の士として評されていたのでしょうから、それにあやかって墓石を削って持って帰る人もいたのでしょう。

米子の次は八橋です。
八橋には鳥取池田氏の家老で、伯耆八橋で8000石を領した津田氏の菩提寺の体玄寺があります。
その初代の元綱は平姓津田氏、つまりは織田氏の一族と名乗っていますが、詳しい出自は分かっていません。

もっともそんな体玄寺の目的は津田氏ではなく、中村一栄の墓です。
一栄は一氏の弟で一忠の叔父にあたり、一忠が米子城主だったときに後見役として八橋城にありましたが横田村詮が誅された翌年に病死をしています。
その墓は本堂の脇の扉を抜けた先にありますので、お寺の方に案内をしていただきました。

もちろん体玄寺は津田氏の菩提寺ですので、その墓所もあります。
池田氏とともに鳥取に移ってきたときの当主は三代の元匡ですが、その子の元茂のときに菩提寺に定められましたので以降の代々の墓があります。
家老とは言えども陪臣ですので事績などはよく分からず、その血脈を辿るのが精一杯でした。
右の写真が元茂です。

元茂の跡は元長、元善と続きましたが、そこで血が絶えたために同じ家老の荒尾氏から元知が入ります。
元知から元武、元義と続くものの再び荒尾氏から元謨が入り、その後は元謨の子の元貞、元統、元亮が立て続けに継ぎましたのですっかりと荒尾氏に乗っ取られた形ではあります。
あるいは女系として続いていたのかもしれませんが、上位の家老職である荒尾氏からの介入から逃れられなかったのかもしれません。
写真は上段左から元長、元善、元知、元武、元義、元謨、元貞、元統、元亮です。

電車待ちの時間があったので、駅前にある八橋城跡に足を運びました。
そうは言いながらも登るのに数分もかからないぐらいで、JRの開通でがっつりと分断をされてしまったことで遺構も何もありません。
それこそ時間があれば言ってみてもいいのでは、程度のものです。

この日の最後は倉吉で、まずは定光寺です。
目的は南条氏の墓所だったのですが、そこに至る道が工事中でしたのでお寺の方に聞いたところ、かなり遠回りをする必要があるとのことでした。
うーん、と唸ってしまったところ「あなたなら大丈夫かな、気をつけてくださいね」と許可をいただき、足元を確かめながらの墓参りです。

南条氏は伯耆の国人で、戦国期には尼子氏、そして毛利氏に属しました。
宗勝、その子の元続と羽衣石城に拠って乱世を生き抜きましたが、元続の子の元忠は関ヶ原の戦いで西軍についたことで改易となってしまい、大坂の役では大坂城に入城をしたものの裏切りが発覚をして切腹となり、ここで南条氏の嫡流は途絶えることになります。
写真は左から元続、元忠、そして元続の弟で元忠の叔父にあたる元秋です。

大蓮寺には脇屋義助の墓があります。
義助は新田義貞の弟で鎌倉末期から南北朝争乱にて活躍をした武将ですからやや守備範囲から外れるのですが、さして遠くないところにあるので寄ってみたといった感じです。
その義助は伊予で没しましたので墓がなぜに伯耆にあるのか、そのあたりの説明はありませんでした。

南朝を支えた義貞が討ち死にをした後も義助は新田一族をまとめてよく戦いましたが、四国に渡って暫くして38歳で病死をしました。
その後は子の義治、孫の義則も北朝と戦い抜いたものの力尽きて、脇屋氏のその後は不明です。
義貞の子である義顕、義興、義宗、義宗の子である貞方も南朝の忠臣として北朝に抗い続けましたが、その奮戦が報われることはありませんでした。

そして倉吉の一番の目的である大岳院です。
中村一栄の菩提寺ですので墓所もこちらにあってもよいのでは、とは余談で、ここには里見忠義の墓があります。
安房館山の2代藩主だった忠義は正室に大久保忠隣の孫娘を迎えていましたが、その忠隣が失脚をした余波で改易をされて倉吉に流されてしまい、この地で没しました。

忠義が没した際に側近の8人が殉死をしましたが、その戒名にいずれも「賢」が入っていることから八賢士と称されており、これが滝沢馬琴の南総里見八犬伝のモデルになったのではないかとの説もあるようで、当然のようにここ大岳院はその説を採っています。
里見氏墓所の両側の八基がその八賢士の墓と言われているとは、倉吉観光マイス協会に問い合わせをした際に教えてもらいました。

その他は里見忠義、正木時堯、堀江頼忠のものだとの情報は事前に掴んでいたのですが、どれがどれにあたるかはWEBで見ても諸説紛々のようで、それでも中央の一番に大きい墓の左が里見忠義、右が堀江頼忠というのはほぼ一致をしていましたし、右のそれは能登守の文字が読み取れましたので堀江頼忠で間違いはないでしょう。
そうなれば左が里見忠義でよいのか、正木時堯のものが中央のそれなのかになりますが、やはり倉吉観光マイス協会の回答では「大岳院さんに確認しました結果、専門家の最新の見解としては、中心にある最も高いのが正木大膳、正木大膳のすぐ右隣りが能登守、正木大膳のすぐ左隣りが里見忠義」でしたので、これが公式な見解になります。
写真は左から里見忠義、正木時堯、堀江頼忠です。

そして墓所を見守るかのように、八匹の犬が周りに配されています。
もちろん大岳院の方の遊び心と言いますか、南総里見八犬伝を意識した演出なのですが、ちょっと微笑ましくもなります。
それでいて「南総里見八犬伝の里」みたいな大々的なアピールをしているわけでもなく、このバランス感覚が何とも言えません。

こちらは山名寺です。
山名時氏の菩提寺で、山名氏の隆盛を築いた時氏の墓があります。
山陰地方で長きに渡って勢力を誇った山名氏は、この時氏から始まりました。

墓所は境内のやや奥を登っていったところにあり、お寺の方に場所を教えていただいて向かいました。
登り口には山名氏の一族の墓碑がまとめてあり、五輪塔や宝篋印塔の一部しか無いものもありましたので、当然のように誰のものかは分かっていないのでしょう。
また山名寺は三明寺古墳の方が有名なようで、山陰最大級の横穴式石室とのことですが興味外なのでスルーです。

山名氏は初代の義範が新田義重の子ですので新田一族ですが、しかし時氏は足利氏の縁戚である上杉重房の娘が母であることから南北朝の争いに際しては北朝に与して、伯耆・出雲・隠岐・因幡・若狭・丹波・丹後の守護になるなど山陰地方に根を張っていきます。
時氏の嫡男の師義は一門で全国の66ヶ国のうちで11ヶ国を領したことから「六分ノ一殿」と呼ばれましたが、師義の死後にそれを危険視した足利義満に手を突っ込まれて一門で跡継ぎにかかる内紛が勃発し、そして最後は明徳の乱でとどめを刺されました。
しかし再び持豊、宗全の名の方が有名ですが、じわじわと勢力を盛り返して応仁の乱の一方となり、その後は徐々に衰えて鳥取城の豊国が最後の輝きになります。
その時氏の墓は中央がえぐれたかのような不思議な風化の仕方で、まるでリンゴの芯を見るかのようです。

まだ暗くなるには少し時間があったので、打吹城跡に寄ってみました。
延々と続く整備をされた道を15分弱も歩けば、櫓を模した展望台まで行き着きます。
打吹城は山名師義が守護所とした城で、戦国期には南条氏が領しました。
その展望台は中に何かの展示がされているわけでもなく、かなり荒れ放題で、何を期待していたわけでもないのですが、ちょっとガッカリとしたのが正直なところです。


【2013年8月 鳥取、岡山の旅】
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ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 鳥取の巻 鳥取藩主池田家墓所の章

2013-10-02 23:17:19 | 日本史

 

突然に復活をしたgooの文字数制限のために、不細工にも鳥取の巻を分ける羽目となりました。
公的には全角2万字ですが最近は4万字を超えても1つの記事にできていたことで重宝をしていましたので、かなり残念です。
旅の記録はどうしても写真が多くなるので文字数が増えてしまいますから、今後の面倒を考えると頭が痛いです。

そんなこんなで時系列的に前後をしてしまいますが、三日目の最初に訪れたのが鳥取藩主池田家墓所です。
初日の鳥取は大義寺からの帰りにゲリラ雷雨に見舞われるなど散々な帰路となってしまいましたが、この日の鳥取の朝もそれなりの雨でその鳥取藩主池田家墓所に向かう途中で民家のガレージをお借りして雨宿りをさせてもらう憂き目に遭い、しかしその後は急速に天気は回復をしましたので言うなれば線香花火の最後の輝きのようなものでした
ここには鳥取藩主の墓が整然と並んでおり、手入れも行き届いていてかなり壮観です。
地元の方の言葉を借りれば珍しくもここは墓碑ではなく正真正銘の墓所で、歴代藩主の納骨がされているとのことでした。

池田氏は藩祖である輝政が秀でた武将であったこともありますが徳川家康の次女の督姫を継室に迎えたために、西国将軍と呼ばれるほどに栄えました。
輝政は播磨姫路に52万石、督姫の子である次男の忠継は備前岡山に28万石、三男の忠雄は淡路洲本に6万石、弟の長吉も因幡鳥取に6万石と、合わせて92万石にもなります。
それもあって一族が広がっていますのでかなり分かりづらく、折角ですので系図をまとめてみました。
クリックをしていただくと別ウィンドウが開きますので、横に置いていただけると分かりやすいのではないかと思います。
ちなみに凡例は色付きが藩主、太字がそのうちで写真でご紹介ができるものとなります。

輝政の父の恒興は織田信長の乳兄弟で織田家で力をつけていきますが、本能寺の変の後の羽柴陣営と徳川・織田陣営との対立に際して羽柴側に立ち、そして小牧長久手の戦いで三河への中入り部隊の第一陣として攻め入りますが嫡男の元助とともに討ち死にをしてしまいます。
そのため次男の輝政が家督を継ぎ、秀吉の死とともに豊臣政権から徳川政権に華麗に転身をしました。
その跡は嫡男で前妻の子である利隆が継ぎ、督姫の子である忠継らに継がせなかったところに輝政の男を感じますが、その利隆が33歳で没したことで姫路藩3代となった光政は8歳と幼少で、要衝の姫路は任せられないと因幡鳥取に転封となります。
しかし叔父で備前岡山藩主の忠雄がやはり31歳で早世をして子の光仲が3歳だったことで光政との領地入れ替えとなり、光政が岡山池田氏、光仲が鳥取池田氏となりました。

そんなこんなで光仲は父から備前岡山藩の31万5千石を受け継ぐことはできませんでしたが、石高からすれば32万5千石の因幡鳥取藩ですし、岡山池田氏と同じく従四位下が通例でしたのでそのあたりは幕府も配慮をしたのかもしれず、しかし池田氏宗家という意味では利隆の系統である岡山池田氏なのでしょう。
幼少であったことから叔父の輝澄や従兄弟の光政が後見人となり、また米子荒尾氏らの家臣団が領国経営にあたりました。
その後は親政を始めて藩主の権力強化を徹底し、また厳正寡黙な性格で政治に熱心な名君として伝えられています。

その光仲の墓石の背面には、びっしりと文字が刻まれていました。
これまた地元の方の言葉を借りれば光仲の事績が刻み込まれているとのことで、かなりの細かさで没後320年のものとは思えない見事さです。
石がいいんだ、と自慢げに語るその顔が輝いていました。

鳥取池田氏としての初代藩主である光仲の跡は嫡男の綱清が継ぎ、次弟の仲澄は父から2万5千石、後に3万石を分知されて鹿奴藩を、四弟の清定は兄から1万5千石、後に2万石を与えられて若桜藩を興しますが、しかし実態は鳥取藩から蔵米を支給されて藩政も鳥取藩の役人が行っており、徳川御三家のように本藩の血の保存が主な目的だったようです。
現実問題として幕末にかけて前田氏、徳川氏の血が入ってしまいますが、それまでは鹿奴藩の初代藩主の仲澄の血が席巻をしたといった感じです。
また鳥取藩の歴代藩主の墓碑は高さ4.6メートルにも及ぶ壮大な「亀趺円頭」で三段に重ねた亀腹台石の上に「亀趺」と呼ばれる神獣を象った台石を据えていますが、この綱清だけは生類憐みの令に配慮をして「亀趺円頭」の形式とはなっていません。
綱清には継ぐべき子が無かったため次弟の仲澄の長男で甥の吉泰を迎えて3代藩主とし、その嫡男の宗泰が4代藩主となりますが31歳で早世をしたために嫡男の重寛はまだ2歳で、そのため宗泰の従兄弟にあたる若桜藩の3代藩主である定就を藩主として重寛をその養子にしたいと幕府に願い出ましたが、重寛の生母が紀州徳川家の久姫であったことからその後押しで異例とも言える重寛の相続が認められました。
その久姫は賢夫人だったようで幼い重寛を後見して倹約令を押し進めて藩財政を立て直し、その余韻が重寛の次男で6代藩主の治道のときにまで続くことになります。
治道の跡は国許で生まれた嫡男の斉邦、江戸屋敷で生まれた次男の斉稷のそれぞれを推す声で家臣団が割れて、また治道も斉稷を可愛がっていたものの諌死をする家臣も出たことで結局は7代藩主を斉邦が継ぎ、その斉邦が21歳で若死にをしたことで8代藩主を斉稷が襲いました。
斉稷はこれまでの継嗣原則を破って将軍家から斉衆を養子に迎えて鳥取藩では前例のない従四位上が与えられたり葵の御紋を用いることを許されるなど幕府から多くの恩典を与えられましたが、しかし斉衆は15歳で早世をしたことで斉稷の次男の斉訓が9代藩主となります。
その斉訓も嗣子が無いままに22歳で若死にをして跡は鹿奴藩の8代藩主の仲律の長男である慶行が継ぎ、この慶行は重寛の曾孫になりますので血は保たれたことになります。
しかしここまで頑張って受け継いできた輝政の血も慶行が17歳で没した後に加賀前田氏より慶栄を11代藩主としたことで絶えてしまい、慶栄も早世をしたことで12代藩主は水戸徳川家から入った慶徳、そしてその次男の13代藩主である輝知のときに幕末を迎えました。
もっとも慶徳の正室は若桜藩の7代藩主の定保の娘であることから、輝知がこの定保の孫であれば女系として輝政の血は続いていることになります。
ただ鳥取池田氏の当代は女性とのことで、旧鳥取藩主家としての役目終焉を表明しているとのことですので血脈フリークとしては残念でなりません。
写真は上段左から綱清、吉泰、宗泰、重寛、治道、斉邦、斉稷、斉訓、慶行、慶栄です。

鹿奴藩の初代は先に書いたとおり鳥取藩の初代藩主である光仲の次男の仲澄で、その血筋から鳥取藩の3代藩主の吉泰から11代藩主の慶行までを、また若桜藩の2代藩主の定賢、3代藩主の定就、4代藩主の定得、8代藩主の清直、9代藩主の清緝、そして10代藩主の徳定を輩出しましたので鳥取池田氏の血の保存に大きく貢献をしました。
仲澄の長男の吉泰が鳥取藩を継いだために2代藩主となったのは次男の仲央で、3代藩主はその嫡男の仲庸、4代藩主はその嫡男の澄延、しかし澄延に継ぐべき子が無いままに20歳で没したことで跡を次弟の延俊が襲って5代藩主になるものの、その延俊も18歳で没したことで後継者がいなくなります。
そこで鳥取藩から5代藩主の重寛の三男の澄時を、その澄時も17歳で早世をしたことで同じく重寛の四男の仲雅を迎えてそれぞれ6代藩主、7代藩主としましたが、この兄弟は吉泰の曾孫ですから仲澄の血が戻ってきたことになりますので鹿奴藩としては願ったり叶ったりだったのではないかと思います。
8代藩主は仲雅の三男の仲律、その仲律の長男の慶行が鳥取藩を継いだことで9代藩主は三男の仲建が継ぎ、しかし仲建が藩財政が厳しいことを理由に鳥取藩の京都出兵に反対をして諌死をしたことで10代藩主は従兄弟の徳澄が継いで幕末を迎えました。
写真は上段左から仲澄、仲央、仲庸、澄延、延俊、澄時、仲雅、仲律、仲建です。

若桜藩も鹿奴藩と同じく、藩主の墓が時期が同じな鳥取藩主の側にあります。
初代藩主は鳥取藩の初代藩主である光仲の四男の清定で、東館と呼ばれていた鹿奴藩に対して西館と呼ばれました。
清定には子が無かったために、兄で鹿奴藩の初代藩主である仲澄の四男の知至をもらいうけて定賢として2代藩主とします。
そして3代藩主は定賢の嫡男の定就、4代藩主は定就の嫡男の定得が継ぎましたが、定得にやはり子が無いままに没したことで旗本の池田家から定常を迎えて5代藩主としました。
本来であれば鳥取藩、あるいは鹿奴藩から養子を取るべきだったと思うのですが、しかしこの時期は鹿奴藩は同じく跡継ぎに恵まれずに鳥取藩から澄時、仲雅と相次いで迎えれている状態だったことで、おそらくは適切な候補がいなかったのでしょう。
この定常は輝政の四男の輝澄の玄孫ですからかなり遠いものの池田氏の血ですので、まずまずな判断だったと思います。
定常は池田冠山とも呼ばれて文学者として高く評価をされているとのことで、鳥取藩池田家墓所のパンフレットにも支藩では唯一に取り上げられていました。
定常の跡は嫡男の定興が継いで6代藩主となり、その定興が夭折をしたことで六弟の定保が7代藩主に、定保の子が早世をしたことで鹿奴藩の7代藩主の仲雅の八男である清直を迎えて、その清直にも跡を継ぐ子が無かったために同じく鹿奴藩から甥にあたる清緝を迎え入れて9代藩主としたものの20歳で早世をしたために、その次弟の徳定を10代藩主としましたので、幕末の鹿奴藩と若桜藩の藩主は兄弟だったことになります。
写真は上段左から清定、定賢、定就、定得、定常、定興、定保、清直、清緝です。

その他にも藩主の一族の墓が多くありましたが、ご紹介をするのは元服が済んで諱が分かっている人物のみです。
鳥取藩の5代藩主の重寛の長男の治恕は将軍に拝謁をするも17歳で早世をしたことで、次弟の治道が6代藩主となりました。
8代藩主の斉稷は将軍家から斉衆を養子に迎えましたがやはり15歳で没したため、斉稷の実子の斉訓が9代藩主となってこの時点では池田氏の血を守ることになります。
治恕、斉衆は世子でしたので、その墓は藩主と同じく「亀趺円頭」の形式となっています。
初代藩主の光仲の六男である清弥は豊後森藩の久留島通政の養子となって久留島通孝と名乗りましたが、その後に廃嫡をされてしまいました。
また鹿奴藩の初代藩主の仲澄の三男の澄古は長兄が鳥取藩を継いだ吉泰、次兄が鹿奴藩を継いだ仲央、そして弟に若桜藩を継いだ定賢と藩主がずらっと居並ぶ中で不遇を託った立場のようにも見えますが、吉泰の子が少なかったことでの養弟でもありましたので世子の予備軍という扱いだったのかもしれません。
写真は左から治恕、斉衆、清弥、澄古です。


【2013年8月 鳥取、岡山の旅】
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ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 鳥取の巻 鳥取城の章

2013-09-28 23:07:48 | 日本史

 

旅を重ねる毎にその目的が城跡、墓所に純化をしつつあり、今回もほぼそれが全てと言っていいぐらいです。
特に墓所巡りは世に同好の志が多いこともあって事前にネットで情報を仕入れるなどして、これまでとは雲泥の差ぐらいに行動範囲が広がりました。
墓所とは言っても供養塔が含まれたりと実際に武将がそこで眠っているかどうかはまた別の話ではありますが、その生を感じさせる足跡ですので今後も追っていきたいです。

鳥取の初日ではまず鹿野城跡です。
鳥取駅から海岸線に出てひたすら西に20キロ弱を走っての鹿野町にあり、戦国期に亀井氏の居城となり、亀井氏が石見津和野に加増転封された後は池田氏の支城となりました。
現在は石垣や堀が遺されていますが、本丸跡は城跡に立つ鹿野中学校のグラウンドになっています。

鹿野城跡からほど近いところにあるのが幸盛寺です。
亀井茲矩が義理の舅である山中幸盛の菩提を弔うために開基したもので、その名を取って幸盛寺と名付けられました。
茲矩の出自は湯氏で元は湯国綱と名乗っていましたが、尼子氏の家老であった亀井秀綱の娘を娶って亀井茲矩となります。
幸盛の正室も秀綱の娘ですので茲矩と相婿になりますが、その正室の妹をいったん自らの養女として茲矩と娶せたことで義理の親子関係となりました。

こちらが山中幸盛の墓です。
山中鹿介の方が通りがよいであろう幸盛は品川大膳との一騎打ちや「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったなどの逸話も多く、講談などで名高い尼子十勇士の筆頭として尼子氏再興の戦いに一生を賭けた忠義の士として今なお人気の高い武将です。
ちなみにこの手前に大きな五輪塔があり、茲矩の姉の墓なのですが、テレビなどが取材に来たときにそれを幸盛の墓と間違えるとは、お寺の方の苦笑いなお話でした。

譲伝寺は亀井茲矩の菩提寺です。
亀井氏が石見津和野に移った後も茲矩の菩提寺として栄えたらしく、藩祖のそれがそのままというのはあるいは珍しいかもしれません。
因幡の曹洞宗の本山、と呼ばれるほどだっただけのことはあり、かなりの威容を誇っています。

右手奥のこんもりした丘のようなところを登っていくと、茲矩の実父である湯永綱の供養塔があります。
湯氏は宇多源氏佐々木氏の一族ですので、遠いところでは六角氏、京極氏、そして尼子氏と血が繋がっていることになります。
永綱はその尼子氏の家臣ではありましたがこれといった活躍は伝えられておらず、茲矩の父であることが唯一と言ってもいいぐらいの存在なのでしょう。

亀井茲矩の墓所は、鬱蒼とした山中にあります。
民家の向かいにある一見するとただの雑木林ですので、説明板を見落とすと迷ってしまうかもしれません。
ちょっとした山城を登る感じですので、足元のしっかりとした靴で攻められることをお奨めします。

茲矩はなかなかに有能な武将だったようで、豊臣秀吉に取り立てられて因幡鹿野城主となり1万3500石の大名となりました。
秀吉の死後は徳川家康に接近をして、そして関ヶ原の戦いでも東軍に与して戦後に3万8千石に加増をされています。
また秀吉から「亀井琉球守殿」と書いた扇を賜るなど海外に目を向けた武将でもあり、戒名の光武院殿中山道月大居士の中山とは琉球のことだそうです。

鹿野町から次の目的地である河原町は南東にあたるので斜めに向かえると思いきや、どうやら山などがあるために自転車では無理だとカーナビが訴えるので、仕方がないのでいったん東に向かって鳥取市街に戻り、そこから南下をするという35キロほどの長距離移動となりました。
まず目指すは河原城ですが、なかなかの高台にあり苦労をさせられたものの、かなり雲は厚くなりましたが雨が降るまでには至らなかったのでラッキーといった感じです。

城壁や城門があるなど、なかなかな造りの河原城、愛称は若鮎城です。
もっとも鉄筋コンクリート造りの三層四階建てで実在の城を復元したものではなく、単なる展望台でしかありません。
犬山城を模した模擬天守は1994年に建てられたもので、それに先立つ発掘調査で堀切、柱穴、廓など多くの遺構が発見をされたことから中世の山城跡ではあったようです。
説明板を信ずれば町民のシンボルとなっているそうで、ただ空模様もあってか人影は見られませんでした。

河原城を出て暫くしてから雨が降り出して、レインスーツにレインパンツの出番です。
それでも次なる目的地の大義寺に着いたときには雨は上がっていましたので、ラッキーは続いています。
その大義寺には武田高信の墓があり、ここで高信は謀殺をされて波乱の一生を終えました。

高信は若狭武田氏の傍流で因幡山名氏の家臣でしたが次第に力をつけて、鳥取城を奪うなどして主君である山名豊数を追い落とします。
そして毛利氏に通ずるとともに傀儡の守護として豊数の叔父にあたる豊弘を立てて一時は因幡を支配しますが、豊数の弟の豊国との抗争の中でその豊国も毛利氏に降ったために微妙な立場となり、毛利氏に見捨てられる形で豊国に大義寺におびき出されて殺されたというのが通説です。
ただ最近の研究では高信の死はもっと早かったのではないかとも言われており、因幡の梟雄の最期は未だ明らかではありません。
これで初日の史跡巡りは終了をしましたが、鳥取市街に戻る途中でゲリラ雷雨に見舞われたのは旅情篇でも書いたとおりです。

三日目にはまず鳥取藩主池田家墓所に向かったのですが、いつの間にやらgooブログの文字数制限が復活をしたようなので別章とします。
次なるは吉川経家の墓所で、新興住宅地の中の公園にあります。
これがなかなかに場所が分からず駅前の観光案内所に電話をして、ようやくにたどり着きました。
中央に走る広い坂道を登り切ったところにありますが、登り口からそれなりに距離がありますので不安にならずに突き進むことが大切です。

吉川経家は毛利の臣で、吉川元春の同族になります。
石見吉川氏の当主で、織田氏の攻勢に毛利氏から寝返った山名豊国が家臣に鳥取城を追放されたことで城主として迎えられました。
しかし羽柴秀吉の鳥取城渇え殺しと呼ばれる兵糧攻めで鳥取城は落城し、経家は潔く自害をします。
墓碑は2つありますが観光案内所の方の説明によれば右が墓、左が供養塔とのことで、城内にあったものを鳥取城の改修の際に現在の場所に移されたとのことです。
この経家の奮戦は毛利氏にとって死地に赴かせたという後ろめたさもあったでしょうし、岩国に吉川経家弔魂碑があったとは岩国の巻でご紹介をさせていただきました。

鳥取城に向かう途中の丸山町に、奈佐日本助と塩谷高清の供養塔があります。
秀吉の鳥取城攻めの際に日本助は丸山城に、高清は雁金城に拠って鳥取城への兵糧を運ぶ役割を担いましたが、その兵站線を断たれたことが落城に繋がりました。
両将ともに責任を負って自害をし、この供養塔は丸山城のあった丸山の山裾にあります。

そして日本100名城の一つである、鳥取城跡です。
久松山に築かれた山城で、山名氏の居城でしたがイメージとしては吉川経家、そして池田氏が前面に出てきます。
ご多分に漏れず明治になってから建物は払い下げられてしまい残念な状態ではありますが、しかし遺された石垣の偉容さは見事でした。

正面入口には吉川経家の像があります。
やはり鳥取城と言えば経家、とは地元からすればそうなのでしょう。
1993年の建立で20年前ですから意外に新しいかなとは思いますが、その凛々しい姿はミニチュアが欲しいぐらいです。

唯一の建物である城門は、しかし復元をされたものです。
太鼓御門石垣は櫓門であった太鼓御門を支えた石垣で、この太鼓御門には時を告げる太鼓が据えられていたことからそう呼ばれました。
この辺りは工事中なのか柵などがあり、調べてみれば鳥取市は史跡鳥取城跡附太閤ヶ平保存整備基本計画なるものを策定して30年計画で幕末のときの姿を取り戻すための施策をとるとのことで、こういった自治体の動きはとても嬉しいのですが最後まで見切るには寿命が足りそうにもありません。

鳥取城跡はとにかく石垣、石垣、石垣、なのですが、その中でも珍しいのが「お左近」の手水鉢です。
池田輝政の次弟である長吉が池田氏として初めて鳥取城に入り、子の長幸が備中松山に加増転封をされた後に輝政の孫の光政、次いで光政の従兄弟の光仲が城主となりましたのでややこしいのですが、このあたりは次の章をご参照いただければ人間関係が分かりやすいと思います。
その長幸の正室の次女の「お左近」が城の改修の際に難工事であった三階櫓の石垣にその手水鉢を築き込んだところ無事に完成をした、との逸話が残されているとは説明板からの受け売りですが、こう見てみるとなかなかに見栄えがよく花でも活けたくなります。

その三階櫓は江戸期に天守閣が落雷で焼失をした後は、鳥取城を象徴する建物とされました。
三層三階の隅櫓ながらも宇和島城や丸亀城の天守閣を凌ぐ規模を誇り、高さは犬山城と同じぐらいとはwikipediaの説明です。
菱櫓は二層二階で文字どおりに菱形だったらしく、なぜにそんな形だったのかはよく分かりません。
写真は左が三階櫓跡、右が菱櫓跡です。

天球丸は長吉の姉、天球院の名にちなんだ曲輪です。
山崎家盛の室であった天球院が山崎氏を去ってから住んだ居館があったことからそう名付けられました。
その南東には櫓がありましたが焼失をして、その跡に武具蔵が建てられたことで、右の写真のように左側の櫓跡、右側の蔵跡が遺されています。

その天球丸の城壁にあるのが、巻石垣です。
亀の甲羅のようになっているので登りづらいだろうなと思ったのですが、どうやらそれが目的ではなく石垣が崩れそうになったときにそれを防ぐために築かれたものとのことでした。
これがあるから天球丸と呼ばれている、と言われても信じてしまいそうなぐらいに珍しく、こういったものを見たのは初めてではないかと思います。

ここから天守台のあった天守跡に登ることができるのですが、今回はパスをしました。
上り下りだけで往復で1時間ぐらいかかるらしく当日中に岡山に出る予定だったこと、鳥取砂丘でらくだに乗りたかったのでそれでは時間が足りなさそうだったのがその理由ですが、登り口を見たところかなり鬱蒼とした山林になっていて「マジで熊が出そう」に思えてしまったのも大きかったです。
ご丁寧にも登り口に熊に注意の看板がありましたし、どうやら2ヶ月ちょっと前の6月に発見情報があったらしいので脅しには充分でしょう。
もっとも鳥取砂丘は断念となりましたし、後で調べてみればかなり急峻なものの足場は石段があってしっかりとしていたらしいので、ちょっと後悔をしています。
次回に来たときには熊笛でも持って挑もうかと思いますが、鳥取城の名前の入ったものをおみやげに売り出せばとは逆効果かもしれません。

延々と続く上り坂に鳥取砂丘を諦めて、向かったのは景福寺です。
池田氏の家老の荒尾氏の菩提寺で、こちらに後藤氏の墓所があります。
大坂の陣で戦没をした後藤又兵衛基次の室は三浦氏の出で、その子である為勝を連れて岡山の実家に戻りました。
どうやら為勝はそのまま荒尾氏に仕えたようで、荒尾氏は主君に従って鳥取に移りましたので、よってこの景福寺に墓所があるのでしょう。

基次は生存説があるなど片手に余るほどの墓がありますが、こちらにはその遺髪が埋められているとのことです。
また為勝は幕府を憚ったのか後藤ではなく母の実家である三浦氏を名乗り、三浦為勝となります。
三浦氏となると宇喜多直家の継室で秀家の母である於福が最初に嫁いだ美作三浦氏が距離的にも近いので関係があるのかとも思ってしまいますが、今ひとつ分かりませんでした。
写真は左が基次、右が為勝です。

荒尾氏の菩提寺ですので当然のように墓所もあり、かなり巨大な墓石が立ち並んでいました。
説明板には倉吉荒尾氏の初代である嵩就、二代の宣就、そして三代の秀就の説明がありましたが、しかし戒名から探し当てられたのは秀就だけです。
その秀就は池田氏の家老として光仲、綱清、吉泰の3代に仕えて、吉泰の擁立に尽力をしたこともあって家中に威を張りました。

鳥取の最後は玄忠寺です。
ここには荒木又右衛門の墓があり、ちょっとした遺品館もあります。
又右衛門は鍵屋の辻の決闘で名高い、柳生新陰流で大和郡山藩の剣術師範役を務めた剣豪です。

備中岡山藩の池田忠雄の小姓の渡辺源大夫に懸想して断られた河合又五郎が源大夫を斬り殺して出奔し、旗本の安藤氏に匿われたことから話は始まります。
当然のように忠雄は又五郎の引き渡しを要求しますが安藤正珍は旗本仲間と結集してこれを拒否し、忠雄は遺言で又五郎を討つように言い残しました。
そのため源大夫の兄である数馬が仇討ちをするために脱藩をし、その義兄にあたる又右衛門が助太刀をして又五郎を討ち果たしたのが鍵屋の辻の決闘の経緯です。
戦いの場のあった伊賀上野の藤堂氏に預けられた後に忠雄の子である光仲に引き取られたことで又右衛門は鳥取に移り、この地で没しました。
その墓は右側のひび割れの対策なのか、墓石の一部を所持すると勝負に勝つといい伝えられることで削っていく不届き者対策なのか、金網で囲われていました。


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やったぜ大多喜

2013-07-15 01:24:42 | 日本史

 

三連休の初日を利用して、大多喜城に行ってきました。
5年ぐらい前から目標に掲げながらもいろいろと理由をつけて先延ばしにしていたものを、ようやくに思い切っての達成です。
もちろん自転車での旅ですから体力的な問題をクリアできるのが心配だったのですが、想像をしていたよりはアップダウンはきつくなく広島での福王寺に比べればママチャリと電動アシスト付きクロスバイクとの違いはあれ楽勝で、ふくらはぎや太ももが何度か痙攣をしかけましたが我慢をしているうちに慣れてくれました。
それよりもクロスバイクだけにやや前傾姿勢であったことで腕にかかる負担は相当なもので手首が痛くなりましたし、下り坂はちょっと油断をするとスピードが50キロ近くなってしまうことによるブレーキングでの握力低下が著しかったです。
また今回はジェルパッドなインナーのサイクルパンツをはいたのですが効果は長続きせず、帰り道では信号で止まる度に両足で立って尻を休ませるほどなヒリヒリぶりでした。
それでも全体的には順調な旅で、今日になって二の腕や膝の裏あたりの心地よい筋肉痛を楽しんでいます。

まずは旅程篇です。
東京湾沿いに東に進んで市原のあたりから房総半島の内陸部に進むといった行程で、もちろん頼りはカーナビです。
ただ基本的には一本道ですから迷うことなく、65キロちょっとを4時間弱ですから両手両足では足りないぐらいの信号停止や朝マックの時間を考えればいいペースではありました。
30キロぐらいのところから10キロ程度のダラダラとした上り坂があったのが気になった程度で、拍子抜けをするぐらいの大多喜城です。
ところが大多喜から久留里に向かう道がかなりの難関で、それなりの傾斜が3キロほど続いたりせっかく上ったのに一気に下るといったアップダウンが激しく、地元の方であればご存じかと思いますが25キロ弱ながらも疲労度からすればこちらの方が断然に上でした。
帰り道は農道のような細道を誘導するカーナビを無視してひたすら千葉を目指したのは、サスペンションの無い自転車ですので尻に優しい道を優先したかったのがその理由です。
そんなこんなで160キロ強の道のりで交通標識で拾っただけでも市原市、茂原市、長生郡長南町、夷隅郡大多喜町、君津市、木更津市、袖ヶ浦市、千葉市美浜区、千葉市花見川区、習志野市、船橋市を踏破したわけですから、改めて見てみればかなりの長旅を痛感しています。

そして走行距離は162.97キロで、自己最多記録を更新です。
電動アシスト付きながらもQVCマリンの往復の約22キロで青息吐息なバッテリーは大多喜から久留里に向かう途中で力尽きてしまい、その大半は独力での走行ですから自信に繋がりますし、これであれば江戸城はもちろんのこと関宿城や川越城を狙うのも無謀な挑戦ではないでしょう。
また走行時間が7時間55分で平均時速が約20.6キロですから、信号の多さを考えればいいところではないかと思います。

次は旅情篇です。
やはり気になったのは天気で、前日夜の予報は晴れ時々曇りの最高気温が34度でしたので曇り時々晴れの翌日に順延するかを迷ったのですが、結果的には決行が正解でした。
暑さを避けるために4時過ぎに家を出たのですが7時頃までは曇天で、大多喜に着く直前ぐらいから晴れ始めて久留里を出て暫くしてからまた曇るという移動時は曇り、史跡巡りでは晴れという天気予報とは裏腹な、文句のつけようのない展開が怖かったぐらいです。
家に着いてから程なくパラパラと雨が降り出しましたし、今日は一日中の曇天だったようで夕方には雨量は少なかったものの雷雨となりましたから、やはり思い立ったが吉日です。
驚いたのはその7時頃までは100メートル先も視界が危ういぐらいのもやが立ちこめていたことで、都会暮らしですとあまり見られる光景ではありません。

こちらは大多喜城のトカゲと、円覚寺のヘビです。
トカゲは何かの卵のようなものをくわえていたのですが、ビックリしたのか取りこぼしてしまいました。
暫くすると拾い直して岩陰に消えていきましたが、久しぶりにトカゲを見たような気がします。
ヘビは胴体の後ろの方が潰れているような感じで動きもありませんでしたので、もしかしたら死体だったのかもしれませんが未確認です。

大多喜駅のホームには、本多忠勝の人形がありました。
脇に控える忍者の意味が今ひとつ分からなかったのですが、やはり大多喜は本多忠勝なのでしょう。
徳川氏の関東入りの際に大多喜10万石を与えられた忠勝は関ヶ原の合戦の後に伊勢桑名に移封となったことで僅か10年余りの治世ではありましたが、徳川四天王という知名度からして地元からすれば讃えるべき英雄なのだと思います。

そんなこともあってか、昨年あたりから本多忠勝、忠朝の親子を主人公とした大河ドラマにするための運動が始まっているようです。
忠勝はともかくとしても次男の忠朝をセットにしての大河ドラマはさすがに地味すぎるような気がしますが、大河ドラマこそが究極の公共事業でしょうからその気持ちは分かります。
もし実現をしたとしても大多喜がその中心になることはないでしょうから微妙さは漂いますが、千葉県民とすれば応援をするにしくはありません。

そんな町おこしの一つなのでしょうが、ゆるキャラのおたっきーです。
大多喜なのでおたっきーは分かりやすいながらもちょっとあれなネーミングで、何とも言えない感じがあります。
大多喜城と本多忠勝、町の名産のたけのこなどをモチーフにしているらしく、やや詰め込みすぎという気がしないでもありません。
また橋の欄干に城と武将が描かれるなど大多喜町の目指すところが分かりやすい、そんな街並みとなっています。

大多喜駅から大多喜城に至る途中の、大多喜高校の前あたりの道がメキシコ通りと名付けられています。
1609年にフィリピンから本国に帰る途中のスペイン船が沖合で座礁をした際に、当時は既に外国人は処刑という掟であったところで本多忠朝が遭難者を手厚くもてなしたことからスペイン、メキシコとの友好関係が結ばれて、1978年にメキシコの大統領が来日をしたときに大多喜町を公式訪問をしたことを記念して命名がされました。
何があるわけでもありませんが、一国の大統領が訪れるとは凄いことだと思います。

そして史跡巡り篇です。
時間的にまだ開いていなかったので大多喜城は後回しにして、まずは本多氏の墓所のある良玄寺に足を運びました。
本多忠勝が開基で本多氏の菩提寺となっており、忠勝、忠朝の墓があります。
墓所の掃除をしていた住職さんらしき方といろいろとお話をさせていただき、その後にわざわざお寺のパンフレットを持ってきてくださったことに感謝感激です。

忠勝は言わずとしれた稀代の勇将で、「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と評されました。
参加をした57度の戦でかすり傷一つ負ったことがないとも言われており、伊勢桑名で没した際に忠朝が分骨をしてここ良玄寺に埋葬をしたとのことです。
その忠朝は忠勝の次男で、勇壮たること伊勢桑名を継いだ兄の忠政に勝ると家康に言わしめるほどの武将だったようです。
しかし残念なことに大坂の役の際の失態を取り戻すために無謀に近い戦いを挑んで討ち死にをしてしまい、嫡男が幼少だったために大多喜藩は甥の政朝が継ぎました。
写真は左が忠勝、右が忠朝です。

良玄寺にほど近い行徳橋の両側に、本多忠勝の像があります。
あまり大きいものではありませんが、シンボルでもある鹿角脇立兜が際立った素晴らしい出来だと思います。
年齢的にも大多喜を治めていた頃のものに近いでしょうし、遺されている肖像画に似ていないこともありません。

そして大多喜城です。
上総武田氏の真里谷信清が築いたのがその最初で、その後は里見氏の重臣である正木氏が入り、そして本多忠勝の手に渡りました。
天守閣の存在については江戸期に焼失、そもそも無かったと議論が分かれているようで、1975年に鉄筋コンクリートで再建をされた天守閣は当時の一般的なものを模倣しています。

大多喜高校の敷地内にある薬医門は、千葉県の有形文化財に指定をされています。
二の丸御殿の門で明治維新後に民間に払い下げられましたが、大正期にその曾孫により出身校である同校の校門として寄贈をされました。
その後に一旦は解体保存をされたものが、昭和に入ってから復元をされて今に至ります。

同じく敷地内には、大井戸があります。
忠勝が入城をした際に掘った井戸の一つで、周囲が約17メートルで深さも20メートルと日本一の大井戸です。
往時は16個の井戸車で汲み上げられており、「底知らずの井戸」と呼ばれていました。
まだ水が張っていて魚が泳いでいましたので、水源は生きているのかもしれません。

久留里では久留里城です。
やはり上総武田氏が築いたもので、その後は里見氏の本拠となりました。
天守閣は1979年に再建をされたものですが、遺された資料とはまた違った形になっています。
大多喜城とは違って内部に展示物などは無く、ただの展望台です。

天守閣の隣にあるのが天守台跡で、黒田直純が築いた天守閣はこの場所にあったとされています。
規模としては復興天守と同じぐらいでさほど大きなものではなく、黒田氏が城主のときには3万石ですから相応と言えば相応です。
さすがに史跡保護の観点からも、この跡地に展望台を築くことははばかられたのでしょう。

その他にはいくつかの曲輪がありましたが、説明板などもなく今ひとつパッとしません。
曲輪とは兵が詰めたりする場所で必ずしも建物を必要としませんが、せめて何か説明が欲しかったです。
その曲輪の大きなものが本丸、二の丸、三の丸だったりもしますので、意味のあるものであることは間違いありません。
写真は左から波多野曲輪、天神曲輪、久留里曲輪です。

こちらは波多野曲輪から見た城下で、左が三の丸御殿跡ですが今はすっかりと田んぼになっています。
右は里見氏と北条氏が数十日間の戦いを繰り広げた古戦場跡で、里見義堯、義弘の親子が北条綱成の軍を打ち破りました。
さすがに説明にある数万の軍がぶつかるには狭すぎる場所ですが、それなりに激しい戦いが繰り広げられたのでしょう。

本丸跡から少し下がったところの二の丸跡には、久留里城址史料館があります。
さほど多くの展示がされているわけではありませんが、自分にとって大きな収穫があったのはまた後の話です。
また長屋塀跡もありましたがどこが跡なのかが分からず、あるいは再建をされたものの下に眠っているのかもしれません。

史料館の裏手には、新井白石の像があります。
正徳の治で名高い白石はしかし甲府藩の徳川綱豊、後の徳川家宣に仕える以前は父の代から久留里藩の土屋氏の家臣であり、その縁によるものなのでしょう。
徳川吉宗が将軍職に就いてからは不遇な晩年を過ごした白石でしたが、諸大名の系譜を整理するなどその名は今もメジャーに残っています。

史料館の収穫のその一が円覚寺で、土屋氏の墓所があります。
展示物にその写真があったことで存在を知り、史料館の方に住所を教えていただいて訪れました。
あまり知られた大名ではありませんが初代の忠直は武田勝頼の忠臣で、「片手千人斬り」で有名な土屋昌恒の子ですから逃す手はありません。

忠直は武田氏の遺臣を積極的に受け入れた家康により召し出されて、徳川秀忠の小姓として仕えたことから偏諱を受けて忠直と名乗ります。
父と同じく惣蔵を名乗った忠直の人となりは多くは伝えられていませんが、大名に取り立てられたのですから有能だったのでしょう。
跡を継いだのは嫡男の利直で、白石が仕えたのはこの利直です。
また次男の数直は後に幕府の若年寄、老中となっており、異例な出世を遂げた一族とも言えます。
かなり大きな五輪塔で、説明板によれば県内では最大級のものとのことでした。
写真は左が忠直、右が利直です。

同じく展示物で知ったのが瑞龍院で、里見義弘の墓があります。
瑞龍院の成り立ちはよく分かりませんが、義弘の戒名である瑞龍院殿在天高存居士が寺名となっていますので菩提寺と考えるべきなのでしょう。
その墓所はやや小高いところにあり、足場はありながらも踏み込むにはそれなりの気合いが必要な荒れ具合ではありました。

義弘は父の義堯とともに上総、安房で里見氏の全盛を築いた武将で、北条氏との激戦が知られています。
文武に優れた武将として信長の野望などでも高い数値が与えられていますが、一方で弟とも庶長子とも言われる義頼との仲が悪かったことで久留里城にて中風で急死をした後の里見氏の内訌の原因を作るなどした負の側面も伝えられています。
義弘の墓所は父とともに南房総市の延命寺にもあり、安房里見氏初代の義実、2代の成義、3代の義通、4代の義豊の墓所も同じく南房総市にありますから不思議ではなく、延命寺は義弘の祖父である実堯の戒名の延命寺殿一翁正源居士からきていますからそちらの方が本筋かもしれません。
ちなみに何の関係もないのかもしれませんが、瑞龍院のすぐ近くに延命寺というお寺がありました。

グルメ篇は残念ながらお休みです。
そもそも食事ができるところがほとんど見当たらず、大多喜城の売店で本多忠勝にちなんだのであろう鹿南蛮そばなるメニューに勇んだものの店が開いておらず、また久留里城でも別称である雨城からきた雨城そばに気を取られつつも苦手なとろろに山菜という組み合わせでパスとなりました。
スイーツ篇も実のところは期待薄だったのですが、たまたま通った道すがらにあった店で最中十万石をゲットです。
本多忠勝のときの10万石から命名をしたのでしょうが本多氏の家紋の入った外皮は申し訳程度で、凄まじいばかりのあんこに狂喜乱舞です。
サッパリとした甘さが舌で踊り、このボリュームで130円ですのでかなりのサービス価格でしょう。

最後はおみやげ篇です。
残念なことに大多喜城ではどこでも買えるような一般的なものや、あるいは今っぽい画風で描かれた絵はがきのようなものしかありませんでした。
そのため手を出したのは久留里での黒文字楊枝と、お約束の小冊子です。
黒文字楊枝は久留里の伝統工芸とのことで、黒文字というクスノキ科の木の枝が材料となっています。
また小冊子と呼ぶには圧倒的な255ページもの久留里城誌には上総武田氏、里見氏の戦国期から江戸期の大須賀氏、土屋氏、酒井氏、黒田氏までの領主の系譜、略歴が載っており、白黒で写真も少ない構成にはなっていますがなかなかの読み応えがありました。

記念スタンプは大多喜城、久留里城とも用意がされており、いい感じで押すことができました。
こうなるとこの色紙は千葉県に限定をすればよかったとは後の祭りで、また佐倉城にはスタンプが無かったのでこだわっても仕方がありません。
何にせよこういった観光客向けのサービスは全国の自治体には充実をしてもらいたく、さしてコストのかかる話でもありませんので是非ともお願いをします。

 

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三本の矢を探して 史跡巡り篇 岩国の巻

2013-06-23 23:00:09 | 日本史

 

史跡巡りの最後は岩国です。
正直なところ当初の計画には入れてはいなかったのですが、拠点とした広島市街からすればむしろ福山よりも近いと気がついたことで発作的にねじ込んでしまいました。
小早川氏を沼田、竹原と巡ったことで、吉川氏ももう少し踏み込んでおこうと思ったのもその理由だったりします。

吉川氏の史跡が集中をしている吉香公園は岩国駅から6キロちょっとの場所にありますので、例によって自転車での散策です。
最終日で帰りの飛行機の出発時刻が気になったことで夜明け直後にホテルを出たためにちょっと早すぎで、朝マックをしても時間を持て余してしまいました。
この錦帯橋は錦川にかかる5連のアーチ橋で、名勝に指定をされています。
吉川広家が岩国に入ってから何度か橋を架けましたが200メートルもの川幅があるために強靱なものを造ることができず、洪水の度に流されてしまったものをアーチ橋にすることで昭和に入ってからの台風の際に崩れるまでの276年間に耐えた錦帯橋は、3代藩主の広嘉の執念によるものと伝えられています。
渡るには入橋料が必要ですが時間が早かったために夜間料金箱に入れる仕組みで、しかし自転車を降りてのアップダウンはきつそうだったので遠回りをして錦川を渡りました。

岩国城などの施設が開くまでには時間がかなりあったので、それらは後回しにして他の場所をまずはうろつきました。
洞泉寺は吉川氏9代の経信が開基の洞仙寺がルーツで岩国に移ったときに洞泉の字をあてたと言われおり、やや離れたところに岩国藩主の吉川氏の墓所があります。
厳密に言えば岩国藩が正式に認められたのは大政奉還後であり、関ヶ原の戦いの際のいざこざから本宗家である毛利氏から大名として認められなかったために江戸幕府からは外様大名扱いとされながらも実質的には陪臣の立場であったことで藩主とは言えないのですが、便宜的にこちらでは藩主として紹介をしていきます。

墓所は門をくぐったところと、その奥の小高いところの2箇所に分かれています。
初代藩主である広家の墓はやはり別格なのか門構えのある敷地にあり、当然のように高いところから見下ろしています。
広家は元春の三男で長兄の元長が豊臣氏の九州征伐に従軍をした際に病死をしたために家督を継ぎ、毛利の両川の片翼として本宗家を支えました。
しかし外交僧であった安国寺恵瓊と仲が悪く、また自らが徳川家康と近かったこともあり関ヶ原の戦いでは西軍の総帥である毛利輝元の身内でありながらも東軍に内通をしたことで結果的に毛利氏は大幅な減封となり、先祖代々の安芸を追われる原因を作った裏切り行為として糾弾をされてしまいます。
家康は毛利氏を取り潰して所領を広家に与えようとしたものを広家の懇願で本宗家の改易を免れたとも言われており、そうなれば広家は忠臣と讃えられるべき存在であるはずなのですが、その内通の動機がやや不純であったこともあってか毛利氏内部では受け入れられずに陪臣の立場から抜け出せないままに幕末を迎えました。
そういった経緯から本宗家との関係は微妙だったらしく、何度か独立運動が表面化をしています。

2代を継いだのは広家の嫡男の広正で、岩国藩の経済的基礎を築くとともに輝元の娘を正室に迎えて本宗家の執政を務めるなど重きをなしました。
その嫡男で3代の広嘉が錦帯橋を架けたとは先に紹介をしたとおりで、しかしこのあたりから本宗家との距離が広がり始めます。
4代の広紀は広嘉の嫡男ですが家格に絡んで本宗家と揉め始めて、その嫡男の5代の広逵のときに大名への昇格運動が本格化をしますが実現には至りませんでした。
代々の藩主の墓は洞泉寺にありますが広逵の嫡男の6代の経永のみは実相寺を崇拝したためにそこに葬られ、しかし廃寺の後に山崩れで墓が行方不明になったために後に再建をされたことで洞泉寺の墓地からほど近い山肌が開けたところに、かなり探すのが大変だったのですが五輪塔ではない墓がありました。
この経永が継ぐ子が無いままに没したために、徳山藩から入った経倫が7代となります。
徳山藩は輝元の次男の就隆が初代でその孫の広豊の子である経倫を迎えることで、家格を上げることへの期待感があったのでしょう。
その後は元春の血が絶えたままに8代の経忠、9代の経賢と嫡男が続きましたが経賢が早世をしたために10代は次弟の経礼が、その経礼にも跡継ぎが無かったために三弟の経章が11代を継ぎ、そしてその嫡男で12代の経幹のときに念願の諸侯に昇格をしての本当の意味での岩国藩の初代藩主となりました。
もっともそのときには既に経幹は病死をしていたとのことで、それを秘匿しての藩主就任だったそうです。
13代、新生岩国藩の2代であり最後の藩主である経健は経幹の嫡男で、甥の元光が跡を継いで子爵となりました。
写真は上段左から広正、広嘉、広紀、広逵、経永、経倫、経忠、経賢、経礼、経章、経幹、経健、元光です。

こちらは元春の正室で、元長や元氏、広家らの母である新庄局の墓です。
毛利氏の重臣で猛将の熊谷信直の娘で、元春の姉で宍戸隆家の正室の五龍局と仲が悪かったと伝えられており、元就の「三子教訓状」でもその仲の悪さをたしなめられています。
その仲を取り持とうとした隆景を無視したことで吉川氏と小早川氏との関係が悪化をした時期もあったようで、なかなかに人間関係は難しいとしか言いようがありません。

こちらは手水鉢で、仏前で身を清めるための水を入れる器です。
みみずくの手水鉢は茶人の上田宗固から広家に桜の返礼として贈られたもので、しかし届いたときには既に広家は亡くなっていました。
その後は浄念寺に置かれていましたが、明治に入ってから広家の墓の側に移されています。
誰が袖の手水鉢は着物の袖に形が似ていることから名付けられたもので、やはり茶人として名高い小堀遠州の手によるものと伝えられています。
小堀遠州の子孫である小堀勝太郎が経幹の姉の夫であったことから、小堀家から贈られて今は経幹の墓の脇にあります。
写真は左がみみずくの手水鉢、右が誰が袖の手水鉢です。

三原には小早川隆景の像があったのですから岩国には吉川元春でなくとも広家の像があるのではと思ったのですが、あったのは広嘉の像でした。
やはり錦帯橋の貢献が、地元にとっては大きいのでしょう。
もっともこの像を作るに際しては2代の広正から11代の経章までの肖像画が残されていないために、広家の肖像画と子孫の写真を合成したものが用いられたそうです。
そういう意味では無理矢理ではありますが、広家の像と言えないこともありません。

なぜか佐々木小次郎の像もありました。
吉川英治の「宮本武蔵」で岩国の出身とされていることから、それにちなんでここに建てられたのかもしれません。
小次郎と言えば武蔵との巌流島の決闘があまりに有名ですが、その当時の資料には単に岩流としか書かれておらず佐々木小次郎の名が出るのはかなり時代が下ってからであり、その決闘の時期も戦いの内容も講談の域からあまり出ていないようです。
その出自をそのまま信ずれば決闘のときの小次郎は70代後半となりますので、夢のためにはあまり真相は掘らない方がよいのかもしれません。

吉川経家弔魂碑は羽柴秀吉の鳥取城攻めに城督として入城をした吉川経家の英魂を弔うために昭和に入ってから建てられたもので、その礎石には鳥取城の石が使われています。
刻まれた文字は当時の吉川氏の当主であった元光の手によるものです。
経家は石見吉川氏の出で、その子孫に五代目の三遊亭圓楽がいます。

吉香公園は吉川氏の居館があった場所を公園としたものですが、旧藩時代に三階建ての南櫓があったところにその櫓に似せて建てられた絵馬堂が錦雲閣です。
吉香神社は吉川氏歴代の神霊を祀っており、明治になってからこの地に移設をされました。
岩国徴古館は第二次世界大戦中に「郷土に博物館を」との目的で、物資が少ない中で旧藩主である吉川氏が私財を投じて建てたものです。
写真は左から錦雲閣、吉香神社、岩国徴古館です。

旧吉川邸厩門は明治に入ってから岩国藩知事となった吉川経健の邸宅に附属する長屋で、今は岩国市の所有となっています。
香川家長屋門は山口県の指定文化財で、岩国藩の家老の香川氏の表門です。
香川氏は讃岐香川氏の系統の方が馴染み深いのは長宗我部元親の次男の親和が養子に入ったからですが、こちらの香川氏は安芸香川氏で客将から吉川氏の家老となりました。
写真は左が旧吉川邸厩門、右が香川家長屋門です。

そしてようやくの岩国城です。
日本100名城の一つで、関ヶ原の戦いの後に吉川広家が8年の歳月をかけて築城をしました。
しかし一国一城令にて僅か7年後に廃城の憂き目となり、現在の天守閣は1962年に鉄筋コンクリートで再建をされたものです。
登城口は整備をされているようですがさすがにこの標高を自転車で登る勇気はなく、大人しくロープウェイに揺られての岩国城です。

時代背景からすれば山城を築いた広家の思惑が分からないのですが、豊臣秀頼が健在だっただけにもう一波乱でもあると考えたのかもしれません。
これらの石垣が当時のものかどうかは分かりませんが、領主の権力の大きさ、強さを感じさせてくれます。
城の築かれている横山から切り出されたものももちろんあったでしょうが、領民の苦労が偲ばれます。

麓からの見栄えを重視して再建をされただけのことはあり、下から見上げる天守閣は木々に隠れることなくその偉容を誇っています。
トップの写真のように、錦帯橋とセットで眺めるのが一番なのでしょう。
夜に訪れることがなかったのでそういった盛り上げがあるかどうかは分かりませんが、錦帯橋とともにライトアップをすれば幻想的な雰囲気になるものと思われます。

岩国城は横山の尾根沿いに長さ180メートル、横に最大で108メートル、石垣の高さは5.4メートルほどあり、天守閣は桃山風の南蛮造りで四層五階で本丸の北隅にそびえていました。
その他にも櫓が五棟、折り回し大門が二門、埋門が一門と、その三万石とも六万石とも言われる領地からすれば立派な規模です。
再建をされた天守閣はその場所も造りも当時のものとは違いますので、観光施設と割り切るのがよいのでしょう。

こちらが本来の天守台跡です。
古式穴太積みと呼ばれる石積みを基本として大きな石と隙間に詰めた小さな石からなり、その隅は反ることなく直線であるため構造力学上の安全性を重視したものとなっています。
この天守台に再建をしなかったのは史跡を保護するというよりは、この位置ですと麓から見えないのが理由ではないかとは個人的な想像でしかありません。

山城ともなるとその生命線は水で、この大釣井はその水を汲むための井戸かと思いきや説明板によれば非常時の武器弾薬等の収納を図るとともに、敵に包囲をされたり落城の危機にさらされた場合の脱出口を備えたものとのことで、しかし覗いてみた感じではただの井戸にしか見えません。
もっともこれだけの標高で水が出るのかどうかは定かではなく、また深さがどのぐらいかは柵が邪魔でよく分かりませんでした。

岩国の最後は吉川史料館で、旧岩国藩主吉川氏に伝わる資料などが展示をされています。
6代藩主の吉川経永の墓についての経緯は、こちらの担当の方から伺いました。
正門として使用をされている昌明館付属屋長屋門は7代藩主の隠居所として建てられたもので、岩国市の指定文化財となっています。


【2013年4月 広島、山口の旅】
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