オリオン村(跡地)

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ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 総社、高梁の巻

2013-11-10 19:17:28 | 日本史

 

6日目は総社、そして高梁です。
目的は日本100名城の鬼ノ城と備中松山城で、これまで訪れた日本100名城は複数回目というところが少なくはなかったのですが、この両城ともに初めての城攻めとなります。
それだけにわくわくどきどき、またしても始発での活動開始でヘビーな一日のスタートとなりました。

そうは言いながらも朝イチで訪れた鬼ノ城は完全に専門外で、根室のチャシ跡群や八戸の根城、そして福岡の大野城や佐賀の吉野ヶ里遺跡と同じく日本100名城に指定をされていなければ訪れることはなかったでしょうし、申し訳ないながらも実際に足を運んでもぐっとくるものはありませんでした。
最寄りの駅からは5キロほどですので和意谷を考えれば歩けない距離ではなかったものの、歩くことが趣味ではないので今回は総社駅からタクシーに乗っての城攻めは標高397メートルですから正解だったと思いますし、さすがに時間が早かったことで拠点となる鬼城山ビジターセンターは開館をしていませんでしたしまた人っ子一人見かけず、それでも一通りは巡ってみるのは城攻めの礼儀とばかりに鬼ノ城コース約4キロを2時間ほどかけての散策です。

鬼ノ城は飛鳥時代に唐、新羅の襲来に備えて築かれたものと言われていますが、しかし大野城などとは違って史書には全くと言っていいほどに記されていない謎の城です。
大陸からの守備を考えればこの位置というのは違和感がありますし、それでも発掘調査で城壁の基礎が見つかるなど砦のようなものが築かれていたのは間違いないようです。
また温羅と呼ばれる一族が朝鮮から渡来して居住をした場所とも言われており、岡山の桃太郎伝説のゆかりの地でもあるとは例によっての資料の受け売りでした。
ちなみにこちらの西門が唯一の再建をされた建物で、展望台からのショットを考えれば午後がよいとは事前知識ではありましたが、日程の都合から朝もや&逆光で惨敗です。

この時代に石垣の城壁があったとも思えないのですが、7メートルほどの高さで約3キロ弱ほどをぐるっと囲んでいたようです。
また通路、あるいは雨水で城壁が壊れないようにするためと想像されている敷石がここそこにあり、これだけの石を見てしまえば石垣があっても不思議ではないような気もします。
この鬼城山は岩山なのか巨岩があちらこちらにありましたので、建築材には事欠かなかったのでしょう。

場外に水を逃がすための門も複数あり、そのいくつかは今も水が流れていました。
どこまでが遺構でどこまでが復元なのかは分かりませんが、もし石で囲われた水路が整備をされていたのであれば凄すぎます。
そういった技術がこの時代に日本にあったのか、やはり渡来人の手によるものと考えた方が正解に近いのかもしれません。

ごつごつとした岩場を、それなりのアップダウンを乗り越えながら一回りをしたのですが、やたらと目についたのが石積みです。
人、もしかしたら仏を模したかのように積み上げられており、暗がりでしたらかなり不気味だったでしょう。
おそらくは観光客の誰かが始めたものを真似て増えていったのではないかと思いますが、それにしても数が半端ではありません。
崩れるのが怖くて触りはしなかったのですがおそらくはただ積んでいるだけでしょうから、地震がきたときにどうなるかがちょっと気になります。

西門から反時計回りに歩んでいったので、南門跡、東門跡、北門跡と都合4つの門にぶち当たりました。
防備を考えれば四方八方に門があることは得策とは思えませんし、この標高であれば人の往来が多かったとも考えられませんから、どうももやもやとしたものがあります。
再建はされていませんが規模は違えど西門と同じく掘立柱の堅固な城門であったことが調査から分かっており、どれだけ権力者だよと突っ込んでおきました。
写真は左から南門跡、東門跡、北門跡です。

途中には温羅の碑があったのですが、何の碑かはよく分かりませんでした。
今の岡山と広島の東部を合わせたあたりが吉備と呼ばれていましたが、そこで勢力を誇っていた温羅を吉備津彦命が征伐をし、そのときの部下が犬飼健、楽々森彦、留玉臣の三人で、それが桃太郎伝説になったとは岡山県の主張らしく、きび団子も吉備団子が引っ掛けられたりもしています。

次に向かった高梁では備中松山城への乗り合いタクシーの時間までかなりあったので、先にその周辺を巡ることにしました。
まずは山中鹿介幸盛の胴墓で、さすがに有名な武将の墓はあちらこちらにあります。
ここからほど近いところにある阿井の渡しで殺害をされた幸盛の首は毛利輝元の本陣に送られて、遺骸は別の場所に葬られたものを埋葬しなおしたのがここだそうです。
それを信ずればこの墓の下に幸盛の遺骨があるはずなのですが、実際のところは定かではありません。

源樹寺は三村氏の菩提寺で、三村家親とその子の元親の墓があります。
三村氏は戦国期には毛利氏と結んで備中をほぼ制圧するなど勢力を大きく伸ばしましたが、その後は宇喜多直家との抗争で家親が斃れ、また元親の代には直家が毛利氏と結んだことで両者に挟まれる形となり、織田氏に誼を通じて毛利氏から離反をしますが居城であった備中松山城を落とされて戦国大名としての三村氏は滅びました。

家親は在地勢力の上野氏、石川氏、庄氏らと姻戚関係を結んだり養子を送り込んだりと足場を固めましたが、しかし宇喜多氏との合戦の際に陣屋とした興善寺で直家の放った刺客に火縄銃で撃たれて暗殺をされてしまい、ここから三村氏の落陽が始まります。
跡を継いだ元親も奮戦をしますが明禅寺合戦で直家に大敗し、また父の仇の直家と結んだ毛利氏を許せずに一族や家臣の反対を押し切って断交して織田氏に内通をしたものの、じわじわと領土を侵食されて最後は小早川隆景を総大将とする大軍に押し潰される形で三村氏の命運は断たれました。
写真は左が家親、右が元親です。

こちらも山中鹿介幸盛の墓です。
このあたりが幸盛の最期の地である阿井の渡しの近くらしく、そうなれば墓と言うよりは供養塔なのでしょう。
コンビニの隣の公園のような広場の奥まったところにありますので行きには見落としていたのですが、帰りに場所を聞いてちょっと迷いながらも辛うじて見つけました。

さて備中松山城です。
城攻めの前に一通りを巡ってしまおうかとも思っていたのですが、源樹寺が10キロほど西にあったことや途中でやや道に迷ったりでタイムアウトとなってしまい、レンタサイクルを駅前の観光案内所に置かせていただいて乗り合いタクシーでふいご峠なる臥牛山の中腹あたりまでひとっ走りです。
片道420円のリーズナブルな観光タクシーで予約が必要ですが、やはり標高400メートルほどの山城ですので利用をするにしくはありません。
この備中松山城は岐阜の岩村城、奈良の高取城とともに日本三大山城と呼ばれているらしく、この両城には行ったことがないのでまずはその制覇への第一歩目となります。
一部は復元ですが天守閣、櫓、城門、そして見事な石垣が遺されており、一見の価値があると思います。
ふいご峠から本丸までは700メートルほどで約20分が標準とのことでしたが、帰りの時間が気になって足元はしっかりとしているもののそれなりに急峻な階段を息を切らせて15分弱で登りきりましたので、着いたときには汗だくながらもこれぞ城攻めと一人悦に入っていました。

場所が場所だけに、ということもあるのでしょうが、城域としてはさほど広くはありません。
三の丸、二の丸ともにそれこそ小学校のグラウンドの方が広いぐらいで、こぢんまりとまとまった感じがあります。
戦国期の城主は上野氏、庄氏、そして三村氏と変遷し、江戸期に入ってからは小堀氏、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、そして板倉氏のときに幕末を迎えました。
写真は左が三の丸跡、右が二の丸跡です。

二の丸に足を踏み入れたところですぐに天守閣のある本丸が見えてしまう、それぐらいの規模です。
周りを木々に囲まれているために外周からは城郭を見渡すことができず、この二の丸からの風景がベストショットのようです。
五の平櫓、六の平櫓は1994年の再建で、右の写真の左側が五の平櫓で事務所のようになっており、左側の六の平櫓の脇には冷たいほうじ茶のサービスがあり助かりました。
五の平櫓と六の平櫓の間にあるのが本丸南御門で、やはり1994年の再建です。

天守閣は国の重要文化財に指定をされています。
戦国期にもそれに近いものがあったようですが、現在の形となったのは水谷氏の2代の勝宗のときとされています。
木造本瓦葺き二階建ての複合式望楼型天守で、内部はありがちな展示がされていましたが、窓がやや大きいかなという印象が残りました。
高さもさほどはない小ぶりな感じで、しかしそれが逆に天守閣、櫓、城門、城壁などが一望にできることで独特の雰囲気を醸し出しています。

天守閣の背後にあるのは二重櫓で、こちらも国の重要文化財です。
やはり二重二階となっていますが、残念ながらこちらは特別公開の時期を除いて内部に入ることはできません。
昨年の秋口にその特別公開があったようなのですが、個人的には人混みは嫌いなのでこういった閑散とした城跡が好みではあります。

地味ではあるのですが、三の平櫓東土塀も国の重要文化財です。
ヒビが入っているなど痛みも散見されますし、それなりの補修もされているのでしょうが、こういったものが当時のままで遺されているのは素晴らしいことだと思います。
一部は復元で重要文化財の指定を外れているとのことですが、その違いはよく分かりませんでした。

また乗り合いタクシーで駅前に戻り、レンタサイクルでの散策を再開です。
定林寺は備中松山藩の初代藩主である水谷勝隆が、水谷氏の菩提寺であった常陸下館の定林寺を遷したものです。
水谷氏は下総結城氏に仕えた正村、蟠龍斎の名の方が知られているかもしれませんが、勝隆はその正村の甥で常陸下館から備中成羽を経て備中松山に入りました。
ここに備中松山藩を治めた水谷氏の墓所があります。

正村は豊臣政権下で独立を果たして常陸下館で大名となり、しかし跡を継ぐ子がいなかったためか次弟の、とは言いながらも18歳も年齢が離れた勝俊が継嗣となります。
その勝俊の嫡男が勝隆で、父の戒名である後定林寺靠山全虎大居士から寺名をつけたとのことですから、常陸下館の定林寺もそう歴史の長いものではなかったのでしょう。
かなり有能な人物で藩政の基礎を固めるとともに、徳川四天王の一人であった酒井忠次の嫡男の家次の娘を正室に迎えるなど幕府の覚えもめでたかったようです。
勝隆の跡は嫡男の勝宗が継いで外様大名から譜代大名扱いになるなど引き続き幕府の信頼を得たものの、その嫡男の勝美が31歳で病死をして末期養子とした従兄弟の子の勝晴も家督を相続する前に13歳で早世をしたことで、備中松山藩の水谷氏は3代で無嗣断絶となってしまいました。
写真は左が勝隆、右が勝美で、江戸で没した勝宗は港区高輪の泉岳寺に浅野長矩や大石内蔵助ら赤穂義士らとともに眠っているとのことです。

駅からほど近いところにある頼久寺には、上野頼久と三村氏の墓所があります。
元は安国寺でしたが備中松山城主だった頼久が大檀越となり大きく手を入れたことで、安国頼久寺となりました。
関ヶ原の戦いの後に備中松山に入った小堀正一がこの頼久寺を居館としただけのことはある、かなりな威容を誇っています。

頼久寺の中興の祖とも言える頼久は足利将軍家の一門である上野信孝の弟で、兄に備中の支配を任されて勢力を伸ばしました。
しかしその子の頼氏のときに大内氏の傘下となり、その大内氏と対立をする尼子氏の後押しを受けた庄為資に備中松山城を攻められて討ち死にをします。
頼久、頼氏の一族である隆徳は三村家親の娘を正室にするなどして常山城に拠りますが、しかしその三村氏とともに毛利氏に攻め滅ぼされました。

三村氏の墓所は先の源樹寺にもありますが、一般的には頼久寺のそれの方が有名なようです。
観光案内所に置いてあった資料にも頼久寺はありましたが源樹寺はなく、その場所も含めて担当者の方にこちらが説明をするぐらいに頼久寺>源樹寺な立ち位置です。
見た目からすれば源樹寺の五輪塔があまりに立派すぎるために供養塔ではないかという気がするものの、どちらが正しいというものでもないのでしょう。
元親が備中松山城で討ち死にをしたときに嫡男の勝法師丸は元服前の幼児で、しかし後顧の憂いを断つために毛利氏によって処刑をされました。
写真は左から家親、元親、勝法師丸です。

安正寺は幕末を迎えたときの備中松山藩主であった板倉氏の菩提寺です。
京都所司代だった勝重の嫡流で、勝重の次男で島原の乱で討ち死にをした重昌などいくつかの分家を束ねる宗家がこの備中松山藩の板倉氏となります。
その代々の位牌はあるものの墓所は愛知西尾の長円寺にあるとのことですので、境内を軽く見て回っただけで次に向かいました。

まだ時間が早かったので移動時間がかかるもののギリギリで間に合うかなと、翌日の予定を前倒しにしたのが常山の友林堂です。
宇喜多直家の重臣であった戸川秀安の廟所で、常山城主であった上野隆徳が毛利氏に滅ぼされた後に秀安がその城主となりました。
この友林堂は戸川氏の子孫が整備をしているとのことで、そういった話を聞くと嬉しくなります。

友林堂から少し登ったところには、秀安の墓があります。
秀安の出自は直家の祖父である能家の庶子で家臣の富川氏に養子に出された定安の子とも言われていますが、実際のところは門田氏の出で遠縁にあたる富川氏に身を寄せて宇喜多氏に仕えたといったところのようで、定安、ないしは秀安のころまでは戸川ではなく富川と称していたとのことです。
その秀安は岡家利、長船貞親とともに宇喜多三老の一人で、2万5千石を領した筆頭家老とも言うべき存在でした。
秀安のみならず家利、貞親が健在であれば宇喜多騒動などは起きなかったのではないかとは夢想でしかありませんが、それぞれの二代目である宇喜多秀家、戸川達安、岡利勝、長船綱直らが結果的に滅ぼした宇喜多氏と考えればありがちな話ではあります。


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3 コメント

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こんばんは! (kaorin)
2013-11-11 00:55:11
いつも思っていますが、本当にすごいですね。オリオン様の博識ぶりに感動してます。私なんて、高校時代、どんなに頑張ったって日本史66点以上取れませんでした(泣)

この史跡めぐりをまとめたら、教科書以上のものになりそう。世の社会の先生にオリオン様のブログ、教えてあげたいわ。

個人的に次の、次の次、楽しみにしていま~す♪
以下・・・ (けんぴん)
2013-11-11 18:25:44
以下、阿呆が無理してますんで読み流してやってくださいまし。。。

んー、村長さんの城跡リポートをいくつか拝見しての感想ですが。
当たり前ですが、基本、残されているのは石垣やらで、後は想像するという事のようですね。

調べれば石垣の組み方も色々とやり方があるのでしょうが、やはり大昔の建築資材として「石」というものの存在は大きかった訳ですね。お墓もそうですし。
欧米でも同時期は同じような状況だったのでしょうか。

すいません、適当に質問してます(笑)
お返事 (オリオン)
2013-11-11 23:38:27
>kaorinさん
高校のときに、文系理系で唯一の日本史10を取ったことがあります。
ちなみにバリバリの理系です(笑)
さすがに江戸期以降の知識はないので、復習と勉強を兼ねていろいろと調べています。
どうしても週に一回程度の記事になりますので、お楽しみはもう少し先で♪

>けんぴんさん
その多くは古写真や絵図、想像図や模型などが説明板や史料館にあったりします。
石垣はただ石を積み上げただけの野面積みや、整形をしたものを積み上げる切り込み接ぎ、など時代によっていろいろとあります。
西洋は・・・えっと、カタカナが苦手なのでよく分かりません(笑)